唯物論者

唯物論の再構築

量的弁証法

2013-09-02 23:34:30 | 弁証法

 自然が示す弁証法的運動は、例えば孤島の岩肌を削る波において現れる。波が一回あたりに削り取る岩肌の量は、わずかなものである。しかし長い年月をかけて波は、岩肌を浸食し孤島の海岸を断崖に変え、ときに孤島を消滅させる。量化した波は、孤島にとって単なる波ではなく、巨大な固形物の衝突に等しい。このような量化における質の変化は、波の側だけで起きているものではない。それは孤島の存在も変形し、ときに消滅させるからである。もしこの量化した波と孤島の消滅の間に、目的論的因果を見出そうとするなら、波が目指していたのは、孤島の消滅であるという説明が生まれる。この場合に波に与えられた理念は、海岸線の破壊者である。このような擬人化は、波の怒りを静めるために、人身御供を捧げるという見当はずれな対処法を生むかもしれない。実際に似たような迷信は、諸葛孔明の饅頭伝説やアステカの心臓奉納儀式のように、多方面の昔話において登場している。自然の摂理を理解できない古代人において、自然神崇拝は合理的な科学だとみなされていた。そのような波の擬人化は、波が持つ特定の性質を理解するのにそれなりに役立つかもしれない。しかし一方でそれは、波による海岸線の破壊を先験的なものに扱い、その原理的解明を放置する。実際のところ、波による孤島消滅を説明するために必要なのは、波の目的ではなく、波の現実存在である。目的論における観念的な把握では、それに収まりきれない現実存在は、どうしても漏れ出てしまう。例えばこの目的論では、逆に波が砂浜を造成し、陸地を拡張する場合を説明できない。観念的な波は孤島を消滅させるであろう。ところが、その観念から無視された具体的な波は、孤島を消滅させるどころか、新しい海岸を造成している。この場合の海岸を造成する物理的な波は、観念的な波に対し、一種の反逆者として現れる。目的論としてのヘーゲル弁証法と機械論としての唯物弁証法を切り分けるのは、このような波に対する理解の仕方において現れる。簡単に言うとそれは、世界を規定するのは理念なのか、それとも物質なのかという、事象把握の立脚点の差異である。言い方をかえるなら、それは目的が事象を規定するのか、原因が事象を規定するのかの差異でもある。このために、波の侵食が弁証法的に孤島を消滅させるように、今度は海岸の造成という具体的な事実が、弁証法的に波の目的論を消滅させることになる。しかもここでは、孤島の消滅が必然ではなかったのに対し、目的論の消滅は必然でなければならない。孤島の消滅を必然から除外するのも、目的論の消滅を必然にするのも、ともに波の現実存在だからである。

 既成理念における誤謬は、その理念の批判者により、その誤謬の所在を論理的に指摘され得る。しかし既成理念の批判者が人の姿をして世界に存在している必要は無い。そのような批判は、もっぱら具体的事実として露呈するものだからである。ただし既成理念が世間的に確固たる地位を得ている場合、逆にこの具体的事実は、本質から外れ、信用のおけない現象として扱われる。あるいはそれは、社会規範に反した不道徳として扱われるかもしれない。とくに既成理念の優位が、既存の社会秩序の擁護と結びつく場合、この具体的事実には不都合な真実として無視される宿命が持っている。とはいえ、既成理念が誤謬を抱えたままであるなら、不都合な真実は不死鳥のごとく、世界に何度でも降臨する。既成理念に対立する形でその不都合な真実は、自ら生来の告発者として現われ続ける。したがって不都合な真実は、世間に誤謬の告発をするために、必ずしも人の姿をして現れ、人の声を通じて喧伝されるわけではない。むしろその一般的な姿は、人の姿をして現れることなく、人の声を通じることもなしに、物理的な所与の形をして出現する。人間による誤謬の告発とは、物理的所与として出現した不都合な真実が、意識に反映しただけのものである。すなわちそれは、物理現象の人的代理表現にすぎない。
 既成理念が支配する世界で、不都合な真実の露呈は、露呈として現れない。なにしろ既成理念にとって不都合な真実は、無だからである。そもそも誤謬を抱えた既成理念に取って代わるべき新しい理念は、まだ構築されていない。したがって「露呈」という形での真理の過去表現そのものが、成立しない。不都合な真実の出現は、既成理念が支配する世界から見れば、無から存在が生成するような出来事である。すなわちそれは、露呈ではなく、超出として理解される。真理は物理的な姿を携えながら、突如として世界に出現するわけである。なるほど超出が完了した後で振り返るなら、真理は隠れていただけであり、超出ではなく、露呈しただけのように見える。しかしそれは、意識が物理世界ないし自然世界、および現実社会が示す新たな事象を後追いし、それらを自らのうちに取り込んだことの無自覚に由来する。
 とくに現代社会においてこのような無自覚は、システムの障害回復技術の発展、とりわけ民主主義の充実により支えられている。それらは、システム障害の実在の有無に関わらず、その障害発生の可能性を想定する。その想定は、現象の確実性を信頼せず、常に現象の背後的実体を了解事項として前提にする。したがって現代社会における不都合な真実の露呈は、一見すると了解事項の範囲内の出来事であり、超出として現れない。民主主義の欠落に着目して言えば、逆に旧時代におけるシステム障害とは、常に想定外の事象であり、その障害想定そのものがタブーである。したがって旧時代における不都合な真実の露呈は、常に了解事項の範囲外の出来事であり、超出としてのみ現れる。両者の比較で言えば、民主主義により現代社会は、旧時代の社会が持っていたシステム保全性の欠陥に対処している。だからこそ現代社会では全てのシステム障害は、もっぱら隠れていた誤謬の露呈として現れる。このときの現代社会における真理の露呈は、その本来の姿、すなわち真理の超出ではない。しかし隠れていた誤謬は、常に物自体と同様の、のっぺらぼうとしてのみ存在する。したがってその露呈もまた、露呈の本来の姿を留めていない。まるでそれは、乗客を想定した座席だけがあり、座席に誰が座るのか、そもそも乗客が座るかどうかも不定な指定席のようである。実際には、ここでの真理の露呈は、真理の超出を前提にしている。それは理念の露呈としての真理の露呈ではない。それは、自らの存在と属性の全てを無から生み出しており、事実上の超出である。なお民主主義としての現代社会におけるシステム保全性は、公的利害ではなく、私的利害により支配されており、指定席への着席を資産の有無で決めている。このような民主主義は、正確には民主主義ではない。結果的に、支配的な私的利害により指定席への着席を拒否された乗客は、異なる場所で自らの着席を表現する。この場合では、民主主義は機能しておらず、不都合な真実の露呈の名において、本来の形の超出が復活する。

 童話「裸の王様」では、封建体制の私的利害を関知しない子供の口から、王様の裸という事実が語られた。しかし王様の裸という事実自体は、子供の口から出現したわけではない。それは、あらかじめ子供の眼球を通じた視覚映像において、物理的所与として現われている。つまり真の告発者は子供ではなく、視覚映像そのものである。子供の告発は、その人的代理表現にすぎない。しかし公然の事実を公然と語り得ない状況では、真理は無視され、虚偽とみなされる。それどころか、その社会が持つ具体的な力において、真理の抑圧およびその虚偽化を謀る弾圧までが誘発される。結果的にその社会では、事実の不可知が現実のものとなる。「裸の王様」では、告発者としての子供は弾圧されず、処刑もされていない。ただし支配体制が、子供に拷問を加え、その口を物理的に封じたとしても、第二、第三の告発者が、子供の屍を乗り越えて現れるのは、予想可能な事態である。告発者としての子供の物理的死滅は、王様の裸という事実を変えないからである。唯物弁証法では、原因が解決されないなら、結果事象は永久に繰り返される。同様に、支配体制による告発者狩りというモグラ叩きは、原因が解消されるまで無限に繰り返される。しかもその告発者の波は、次第に事象における原因と結果の因果を理解し、支配体制という孤島を侵食し、その完全消滅を目指すこととなる。そしてこの現実の告発者の波は、最終的に支配体制という孤島の消滅を実現するはずである。ただしその実現の形は、様々である。支配体制は、強力な防波堤を構築するであろうし、波の勢いを押さえるために、波に対する各種融和策を講じることもできる。もし革命の波が、支配体制の防波堤を破壊するなら、支配体制は暴力的に転覆されるかもしれない。しかし前者の防波堤による自己防衛と違い、後者の支配体制による各種融和策は、既存の支配秩序を損壊するものであり、支配体制自らを変質させる。このとき革命の波は、戦わずして勝利を手にする。もちろんその場合、拷問死した告発者たちの名誉は守られないかもしれない。しかし告発者たちの真の目的は、この支配秩序の変質において実現している。このときに告発者たちも、地の塩として地獄においてその無為な死を祝福される。この結末は、告発者たちにとって寂しい姿かもしれない。しかし彼らがこの結末を覚悟していたなら、それはそれで唯物論的には充分にハッピーエンドである。どのみち死者にとって勲章は、ゴミと同じである。死者の名誉回復は、生者の未来へと連繋する限りでのみ、有意である。
(2013/09/02)


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