「猿が人間になるにあたっての労働の役割」は、エンゲルス没後に本人の承諾なしに発表された著作である。したがってこの著作は、記述不足の未完成論文だとも言える。とりあえずそのことを無視して言うと、この論文には問題がある。読んですぐにわかるのは、猿から人間への進化の記述が、遺伝の自然淘汰ではなく、獲得形質の遺伝に頼った進化論の誤認識をもつことである。そしてそれ以上に問題なのが、肝心の猿と人間の差異を表現するはずの人間の定義について記述が無いことである。
労働とは。媒介を通じた目的実現行動として、単なる生活行動と区別される特殊な行為である。しかしそれは人間に固有の行為ではない。例えばアリでさえ農業を営む。したがって労働は、ことさら猿を人間を変える決定的要素ではない。むしろ実際にはエンゲルスは猿と人間の差異を、両者の労働の質の差異で捉えている。低級動物に比べると人間の行う労働は、その種類も範囲も規模も複雑化し巨大化している。とくにその差異は、肉体的作業能力と情報処理能力の差異として現われる。エンゲルス見解にしても、猿と人間の差異を単なる肉体労働ではなく、知的行為の中に見ている。つまり彼は、頭脳労働に秀でた高等生物として人間を捉えている。ただしあくまでもエンゲルスは、知が労働を産んだのではなく、労働が知を産んだとみなしている。これは一見もっともな見解である。ところが情報処理能力の優秀さで言うなら、人間よりもコンピューターの方が処理情報の精度も高く、処理する情報量も圧倒的に多い。ではコンピューターは人間なのかと言えば、そうではない。なぜならコンピューターは自己、すなわち意識をもたないないためである。したがって猿と人間の問題は、エンゲルスが捉えたように知と労働との間の関係に留まらない。それは知と労働と意識との間の三角関係、さらに意識の存在を為す自由を加えた形の四角関係にまで拡がっている。
意識の有無は、人間とコンピューターの差異である。ただしコンピューターに限らず、そもそも意識の有無は、人間と物体の差異にみなされている。しかも実際には物体との関係に留まらずに、意識の有無は、人間と動物の差異、さらには人間と猿の差異にもなっている。一見すると、動物の行動は意識的能動に見える。しかしその内実は本能に支配されたものである。そして本能とは、環境世界に対する、肉体の直接ないし間接の反射である。それはせいぜい物体運動が複雑化したもの、または化学反応が高等化したものにすぎない。つまり、コンピューターが情報入力に対して定型の情報出力を行うのと同様に、動物は環境世界が与える所与に対して定型の生命維持行動を行っているだけなのである。このようなコンピューターや動物に比べて言えば、キェルケゴールの言うように、人間とは自己であり精神である。それを別の言い方をするなら、人間とは自己原因であり、その存在の本質は自由なのだと言い表わしても良い。
人間を単なる知的生物に扱うだけのエンゲルスの見解は、意識を唯物論としてどのように扱うかという肝心の点を無視している。それは、人間および人間の本質としての自由についての理解の欠けた見解だと言って良い。エンゲルスにおいて人間は、動物と同様に、環境世界が与える所与に対して定型の生命維持行動を行っているだけの存在にすぎない。違いと言えば、せいぜい定型の生命維持行動が知的だという程度の差異である。このような人間についての粗雑な扱いが、エンゲルスをして、猿から人間の進化を単なる知的形質の漸進的獲得の歴史に扱わしめている。したがってエンゲルスにおける猿から人間への進化の記述が、遺伝の自然淘汰ではなく、獲得形質の遺伝に頼った進化論の誤認識をもつのも偶然ではない。
エンゲルスは、労働が知的形質を育み、その結果として人間的意識が生まれたと考える。この見解は一種の機械的唯物論なのだが、この見解に対して宗教関係者は、知的形質としての人間的意識が労働を可能にしたと対抗している。前者の機械的唯物論が知的形質と人間的意識の間にある断絶を無視したのに対し、後者の観念論は知的形質と人間的意識の間に差異すら認めない。それは労働が世界に登場する以前に、知としての意識が世界の内に既に存在するのを前提している。言い換えれば後者の観念論は、有史以前に人間的意識が既に存在するのを前提にした見解である。ここでレーニン流にその馬鹿馬鹿しさを頭ごなしにこきおろすのも有りなのだが、肝心のエンゲルス見解に問題があるため、先に唯物論側の理論整合をはかる必要がある。というのは、このような機械的唯物論が、唯物論内部に行動主義という脳無し理論を惹起させたからである。
「哲学者たちはこれまで、世界をさまざまに解釈してきた。だが必要なことは、世界を変革することである」。このマルクスの言葉はもともと、観念の受動性に対して現実の能動性を強調した唯物論であった。そしてこの言葉は、行動主義的唯物論の合言葉になっている。しかしこの言葉は、物体の受動性に対して意識の能動性を強調するだけの観念論にも容易に転化する。なぜなら受動と能動は、作用の単なる裏表にすぎないからである。純粋な受動も能動もこの世界に存在しない。つまり実際には解釈であっても、それは世界変革の一環をなす。ハイデガーは、自らの哲学を解釈学と呼んだ。それは明らかにマルクスの言葉が示した行動主義への反発である。そしてこのハイデガーの反発は、正当なものである。なぜならこのマルクスの挑発的言辞は、行動主義的唯物論が自らに対する正当な批判を封じ込めるための邪悪な武器へと、常に自らを成り下げるためである。行動主義とは、自らの誤謬を暴露されては困るような自称唯物論者が、マルクスの権威を利用して自らの正体を隠蔽するだけの事実上の観念論なのである。唯物論において変革に必要なのは、行動する意識ではなく、それを基礎づける物理的基盤である。そもそもマルクス自身が、人生の大半を資本主義の解釈に費やしている。行動主義的唯物論を観念論たらしめるものは、この点の無理解にある。そしてこの無理解は、エンゲルスの猿人間の見解の中にも見出すことが出来る。
エンゲルスは、猿が労働と言う実践を通じて猿自らを知的に鍛えあげたとしている。この機械的唯物論の見解は、猿自身の目的意識が知的に自らを鍛えあげる観念論へと容易に転化する。しかし進化論は、このような目的論を基本的に許容しない。進化論とは、知的形質を持つ猿の一群が自然界の生存競争の中で生き残っただけと説明するものである。言い換えれば、猿は自己鍛錬をしないのである。しかしそれだと、先の宗教関係者の見解のように、あらかじめ知としての意識が猿の内に既に存在するように見える。そしておそらく意識は、あらかじめそこに登場すべきである。ただしここで登場すべき意識は、宗教関係者の見解に出てくるような神から授与された知的意識ではない。またエンゲルス見解に出てくるような知的自己鍛錬を行うような意識でもない。そのような意識は、意識と呼ばれるに値しないものである。ここで登場すべき意識は、神や環境世界のような客体に支配されたものではなく、それらから自由な存在でなければいけない。言い換えるとそれは、所与から完全に解放された遊びの意識でなければならない。つまり自由とは、猿の意思決定における無意味な冗長構造なのである。
唯物論において自由とは、実存主義的決意のような単なる思い込みではない。なぜなら自由は物理的な実在だからである。そして意識とは、この物理的な実在の反映である。つまり意識は、具体的に存在する自由の単なる上部構造なのである。自由が意識を産み、意識が労働を可能とし、労働が知を産む。したがって知は、常に自由を必要とする。自由こそが知を生み出す。知は、やむにやまれぬ自己鍛錬の結果ではなく、遊び心に溢れた探求の結果なのである。このことは、ロシア革命のもたらした偽共産主義の失敗が既に実証したことでもある。必要は発明の母である。それは不必要な冗長構造に対立し、同様に自由を常に排除しようとする。ところがその一方で、自由は必要な冗長構造でもある。自由は発明の父なのである。自由の無いところに人間は生まれない。自由の無い世界では、人間は永久に猿のままだったのである。
現代の生存維持ラインを彷徨う人生を送るだけの庶民にとって、生活不安を前にして自由にできる自らの時間も私的財産も無いに等しい。それは筆者も含めた庶民にとって、自由は常に自らと無縁な存在であるのを意味している。この世界はまだ人間を実現化する途中にあり、庶民は相変わらず人間以前の猿のままにされているわけである。マルクスは、人間社会が必然の王国から自由の王国へと進んでゆくと考えた。しかし昨今の政治情勢を見る限り、この自由の王国が実現するのは、かなり先の未来の話のようである。
(2012/04/05)
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