唯物論者

唯物論の再構築

ウエスタン

2012-04-17 11:21:45 | 映画・漫画

 「ウエスタン」1968年 製作イタリア/アメリカ
           監督 セルジオ・レオーネ
           主演 チャールズ・ブロンソン

 この作品は簡単に言えば失敗作である。登場人物の相関が消化不良であり、復讐一筋の主役も魅力が薄い。しかし映像の出来は、「荒野の用心棒」以来、セルジオ・レオーネ自らがマカロニ・ウェスタンで樹立した決闘美学の集大成になっている。ただし人造のハエやミニチュアのモニュメント・バレーは、大画面に耐えられない絵であり、劇場で見る場合に一番残念なところである。

 映画は悪人たちが無言のままひたすらチャールズ・ブロンソンの到着を待つ緊迫場面から始まり、観ている側も始めはこのレオーネの映像美を堪能できる。しかし最初の決闘シーンの後も、映画はほとんど同じ調子で緊迫場面を続ける。観ている側は次第に飽きてしまう。映画全般を通じても、無駄なエピソードが多すぎて散漫である。これらの失敗の原因は、ヘンリー・フォンダとクラウディア・カルディナーレ、さらにジェーソン・ロバーツを含めた四つ巴の関係とブロンソンの復讐劇が両立不能だったことにある。
 ブロンソンは、レオーネが「荒野の用心棒」の頃から主役にしようと狙っていた役者であった。したがってこの映画の主役は、レオーネにとってブロンソン以外あり得なかった。しかしこの映画にとってあるべき主役は、ロバーツ、もしくはカルディナーレだったはずである。一方でカルディナーレの役どころは、ブロンソンの復讐のための単なる餌である。したがってブロンソンを主役にすれば、映画のハッピーエンドはどうやっても困難を抱える。実際に映画はそのような話作りを諦めて終わっている。おかげでロバーツの役どころは、話の中で完全に浮いてしまっている。またブロンソンとフォンダの最終対決は、イーストウッド三部作と違い、椿三十郎流の意地の決着である。太刀筋を見せるのを嫌う時代劇と違い、いつでも発砲可能な西部劇でこのような決闘は不自然である。本来ならこの両者の対決にロバーツが絡むか、あるいはロバーツとフォンダの対決にブロンソンが絡む形で「夕陽のガンマン」または「続・夕陽のガンマン/地獄の決斗」と似た展開だったと思われる。ところが主役をブロンソンにした段階で、全ての歯車が整合不能になった。この映画のシナリオは、ダリオ・アルジェントとベルナルド・ベルトリッチとレオーネの三者で作成したものだが、ライターの顔ぶれを見ても不整合である。したがってこのような映画展開の不整合も、当然の結果だったのかもしれない。

 マカロニ・ウェスタンは、悪党の群れと無頼の一匹狼の対決の構図が基本である。しかしマカロニ・ウェスタン以前の一匹狼は、小林旭の渡り鳥が実は潜入警察官だったように、権力の後光を必要とした。旧時代の個人は自らの非力を自覚しており、常に自ら進んで組織に帰属したのである。しかし組織の加護のもとにいる一匹狼は一匹狼ではない。彼らは危険な任務を遂行する限りのヒーローにすぎない。組織の支援を期待できず、非力なだけの一匹狼の場合、彼らは「灰とダイヤモンド」の殺し屋のように、常に破滅する運命にあった。それでも映画における一匹狼の破滅は、弱者の抵抗の意思表示であり、ときには不当な権力の告発ともなった。そこでの一匹狼の破滅は、愛する人たちを守るための自己犠牲として、神々しい優しさを漂わせていた。しかし第二次大戦とスターリン批判がもたらした国家やイデオロギーの権威の失墜は、このような一匹狼の自立を促すことになる。今では一匹狼の自滅は、単なる個体の弱さとみなされるようになった。求められたのは、国家やイデオロギーに対して自律した個性であり、自ら求め行動する主体性となった。このような時代を背景にして登場したのが、マカロニ・ウェスタンである。それは戦後左翼運動の高揚、とくに国際共産主義運動の分裂と新左翼の登場を背景に生まれた特異な映画ジャンルだったのである。ちなみにマカロニ・ウェスタンの起源は黒澤明の「用心棒」に遡るが、黒澤映画における登場人物の個性は、どちらかと言えばドストエフスキーの影響下にある。つまり黒澤映画は、時代的普遍性が強く、あまり特殊な時代背景を背負っていない。ただし他の戦後日本映画と同様に、黒澤映画における登場人物の強烈な個性もまた、実は戦前の偽愛国主義への憤怒や国家への失望から生まれたものとして扱うのも不可能ではない。映画において「用心棒」から始まり、マカロニ・ウェスタンが跋扈させたアウトローの系譜は、最終的にサム・ペキンパーの「ワイルドバンチ」で語るべき正義を不要にし、国家と対決するまでに至る。

 セルジオ・レオーネは、眼をぎらつかせ、脂ぎった悪党の群れをマカロニ・ウェスタンに登場させた。そのリアリズムは、脂汗を流す悪党の顔に蝿をたからせるほど徹底したものである。決闘にのぞむウェスタンブーツの地表からのクローズアップ、画面一杯にクローズアップされた眼光といったレオーネによる緊迫描写の切り取りは、その後の映像表現を一変させた。それらは過去の映画の映像をまるで別世界の単なる夢にしてしまった。そして世界もまた、個々の人間の人生を生身の現実として理解する時代へと突入を開始した。人間は今では単なる意識ではなく、肉体をもつかけがえの無い存在だと理解されるようになった。国家やイデオロギーによって失われた正義もまた、単なる理念ではなく、現実の中から自らを復活させようともがいている。

 なおこの映画の楽しみ方として、実はこの映画が「ワーロック」の続編なのだという捉え方をするのも可である。いっそのこと映画のタイトルも「ウエスタン」などとせず、「続ワーロック」にすれば良かったように思う。
(2012/04/17)


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