結びは「キリストを信じて生きる」と題されている。洗礼を受けた後の生き方の指針を語っているようだ(1)。師は以下の6項目を
順番に説明していく。
1 み言葉は人となった
2 再び「導入」に戻って
3 信じるものになりなさい
4 信仰を生きるということ
5 証しされていく信仰
6 洗礼を受ける
師は言う。「言葉(ロゴス)が時満ちて生身の人間(肉)になって、人間の歴史の中に入り込んできた。それがナザレのイエスである」。
神が人間の歴史に介入する。そんなことがあるのか。あるのです。師は、それを信じるのがキリスト教信仰の根本です、と断言する。
「み言葉は人となった」を信じなさいという(2)。
「そう言われても・・・」 受講者の声が聞こえるかのように、師はたたみかける。「あなたはわたしを見たから信じたのか。
見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:24-29)。「信じるものになりなさい」というトマスに向けたイエスの言葉を
師はくりかえす。
信じるとか、信仰を生きるとか、それはどういうことなのか。師はルーサー・キングやマザー・テレサ、キリシタン時代の多くの殉教者
の例をあげて、説き明かしていく。まるで師自身の信仰告白を聞いているような筆運びである(3)。
師は最後に、洗礼式における信仰宣言を紹介する。「洗礼信条」と呼ばれ、3世紀にはすでに広く定着していたようだ。「使徒信条」が
これをベースに作られたことはよく知られている。もう一度洗礼式を思い起こしてみよう。
司祭 「○○○○さん、あなたは天地の創造主、全能の神である父を信じますか」
答 「信じます」
司祭 「父の独り子、おとめマリアから生まれ、苦しみを受けて葬られ、死者のうちから復活して、父の右におられる主イエス・キリストを
信じますか」
答 「信じます」
司祭 「聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じますか」
答 「信じます」
このあと、司祭は、「○○さん、わたしは父と子と聖霊のみ名によってあなたに洗礼を授けます」と唱えながら、洗礼志願者の頭部に
3度水を注ぐ。そして聖香油の塗油(4)、白衣の授与(5)、ろうそくの授与とつづき、晴れて聖体拝領となる。
師は本書を次のマルコの言葉で締めくくっている。
「あなたの信仰があなたを救った」(マルコ5:34)
感想
今までキリスト教入門講座用の小笠原師のテキストを読んできた。いろいろ学んだ。同時に、いろいろな感想が思い浮かぶ。
一番強い印象は、入門講座とはこんなにも難しいものなのかということだ。洗礼を受ける準備とは大変なことだということがよくわかった。
でも、こういう講義は、哲学の素養があるか、少なくとも関心がないと、一年間は長すぎるのではないかと思う。内容も時間ももう少し
簡略化できないのだろうか。
カト研ではジョンストン師の話はもっと単純だったと思う。ジョンストン師が言っていたのは三点だった。①神は三位一体です
②イエスはキリストです ③いつも「聖霊来たり給え Come, Holy Spirit」と祈りなさい あとは聖霊が導いてくれます。
合宿でも、黙想会でも、部室でも、あまり上手ではない日本語で、いつも同じ話だったのでうんざりげんなりだったが、
話はよくわかった。やがてカト研は大学紛争の中で消えたが、師の講座はその後も続いた。遠い昔の話である。
同時に、入門講座の奉仕者(担当者)、カテキスタたちは、講座の準備が大変だろうと思った。教えることは学ぶことだとはいえ、最後の課題は
求道者を信仰に導き、信仰を共に歩んでいくことだからだ。入門講座からひとりでも多く洗礼にたどり着けるひとが生まれることを祈りたい。
注
1 念の為に「カトリック信者の心得ーカトリックの信仰生活とそのしきたり」を載せておきたい。これはこのブログで以前にも
紹介したことがある。『信仰の神秘』に付録として掲載されている。詳しくはカトリック菊名教会に問い合わせていただきたい。
(信者の心得)
目次は以下のとおりである(*は追加されたもの)
1 はじめに
2 典礼歴について
3 洗礼の秘跡について
4 子どもの信仰教育と初聖体について
5 堅信の秘跡について
6 ゆるしのひせきについて
7 結婚について
8 病者の塗油について
9 帰天をめぐって
10 * 種々の祝福と教会行事について
11 所属教会(籍)について
12 経済的な支援・寄与の責任について
13 * さまざまな教会活動について
2 「御言葉」は「みことば」と読む。「おことば」とは言わない。天皇の「御言葉」は「おことば」という。「みことば」とは言わない。
3 師は、本章でも、ヨハネ福音書における「ロゴス」、「真理」という言葉の使い方の特徴を詳しく説明している。「真理」の原語は
「アレテイヤ」でむしろ「真実」と訳すべきであり、仏教の「真実実相」という意味合いに近いと述べている。なぜここでこういう説明が
入るのか意図は不明だが、わたしの推測はこうだ。信仰が「ただ幻想や妄想の世界のことだとか、無価値なことだとして片付けてしまうのは、
果たして正当なことでしょうか。むしろ、わたしたちがより善く生きていくための呼びかけ、心の渇きへの答え」(249頁)であることを
強調したいからのように読める。また、カトリック入門講座では若者に絶大な人気を誇る晴佐久昌英師、英隆一郎師、片柳弘史師たちの
現代的な教えー今のまま、そのままでいいのですーと比べる時、小笠原師の入門講座は王道を行っていると自己主張しているようにも読める。
4 聖香油とは司教が聖別したオリーブ油。司教にのみに許された権限で聖別されたものだという。オリーブ油であって他の
動物性・植物性の油は使わないようだ。
この聖香油の塗油はつぎのような祈りとともになされる。
「わたしたちの主イエス・キリストの父、全能の神は、あなた方を罪から開放し、水と聖霊によって新しいいのちをあたえて下さいました。
神の民に加えられたあなたがたは、神ご自身から救いの香油を注がれて、大祭司、預言者、王であるキリストの結ばれ、その使命に生きる
ものとなります」。
大祭司・預言者・王とはいかにも古臭い表現だが、聖書的表現として現代にも生きており、感慨深いものがある。
5 白衣(びゃくえ)は、現在は実際には、女性にはベール、男性には小さな白い布(ネクタイみたいなもの)で、頭か肩にかける。