カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

洗礼後のあゆみ ―下巻『信仰の神秘』―

2020-06-19 11:26:26 | 教会

 今まで見てきた『キリスト教信仰のエッセンスを学ぶーより善く生きるための希望の道しるべ』は、入門講座の「基礎コース」用で、
このあとの「発展コース」用の本が『信仰の神秘』である。下巻とも銘打たれている。師のカテキスタ養成講座ではもうすでに
用いられているようだが、まだ刊行されてはいないようだ。発展コースではどういうテーマが取り上げられるのだろうか。

 この本の目次は以下のようになっているようだ。

第1部 キリスト教の人間観
 第1章 人間であることーその特徴
 第2章 人格的存在である人間
 第3章 聖書の人間観
第2部 キリスト教信仰を生きる
 第1章 信仰の恵みに答える生き方
 第2章 自己の成長ー過ぎ越しの神秘を生きる
 第3章 教会と共なる歩み
 第4章 カトリック信者のライフスタイル
 第5章 世の塩・世の光であれ
第3部 付録:カトリック信者の心得

 つまり、基本的には二部構成で、第一部は人間論、第二部はあえていえば秘跡論のようだ。序論に一部と二部は順番に読む必要なないと
書かれているので、この二つは独立していると考えて良さそうだ。

 師は教義学が専門とのことなので、師の神学院での講義を垣間見ることができそうだ。
ところで、教義学とは何なのだろうか。教義とはドグマのことで、教会によって正式に承認された教えのことだ。
カトリック神学は大きく見て教義学と実践神学にわかれるようだ(1)。
「教義学」は ①秘跡論 ②教会論 ③キリスト論 ④神学的人間論 から構成されているようだ(2)。
「実践神学」は ①典礼 ②倫理 ③教会法 ④霊性 ⑤司牧宣教 からなるという。
教義学と実践神学以外に神学院で講義される「その他」科目は ①聖書学 ②教会史 ③哲学的人間論 だという。

 本書の特徴は人間論にあるようだ。人間論と言っても興味深いのは、神学的人間論と哲学的人間論が区別されていることだ。区別の基準が
なにかはわたしにはわからないが、神学的人間論は神論・創造論・罪論・恩恵論からなるという。師は『信仰の神秘』ではV・フランクルや
ハイデッガーを取り上げているが、それらは哲学的人間論の範疇に入るのであろう。

 『信仰の神秘』は実は第2部が大半を占める。秘跡論と言ってよいかどうかわからないが、祈りや典礼の説明(3)が中心となっている
ようだ。つまり、入門講座といっても、すでに洗礼を受けた人向けの講義のようである。

 本書が刊行されたらきちんと読んでみたいものである。



1 阿倍仲麻呂『使徒信条を詠む』教友社 2014

(神学の相関図)

 

2 プロテスタントの教義学は ①キリスト論 ②信仰義認論 が中心で、カトリックとは組み立て方が異なるようだ
(『キリスト教組織神学事典』)。
3 師に論じてほしかったのは、「御子」の読み方だ。教会ではこれは伝統的に「おんこ」と読んできたが、新共同訳聖書では「みこ」と
読ませている。協会共同訳でも同じである(例えば、ヨハネ3:17 「神が御子を世に遣わされたのは・・・ 」は、「みこ」とルビが
ふってある フランシスコ会訳は「おんこ」とルビがふってある)。これはミサの中で長らく混乱を生んでいた。教会は今度日本聖書協会の
了解のもとで、ミサでの聖書朗読において「おんこ」と読み替えることを決定したようだ。この読み替えがミサの福音朗読に限定されるのか、
他の場所(例えば入門講座)にも当てはまるのかはわからない。現実には教会の中では両方の読みが混用されている印象がある。教会が
福音朗読を新共同訳から協会共同訳に切り替えられない理由の一つに思える。森司教によれば教皇の自発教令によって典礼式文の翻訳は
各国の司教(団)に委ねられるようになったという。「主の祈り」の変更案(わたしたちの罪をお許し下さい→わたしたちの負い目を
ゆるしてください)とならんで、検討してほしいものだ。

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