治水の土木工事が全島一円にまたがってすすめ
られた記録があり、そのおりに漲水石畳道路も
2間という広大な巾で拡張、補修をかねて構築
されたものであろうと伝えられている。
この工事は、その年の土木工事で得られた
良質の石を加工して、平坦にして固い地盤の
上に、安定した道路(石畳)をつくった
ものである。
こうして切り石をしきつめて道路とした
通りには、旧藩時代の政庁である
「蔵元」があり、祥雲寺北東の辻まで続いていた。
この石畳道の南西に位置する蔵元は、
廃藩置県後もほぼ完全な姿で残っていたが、
平良港築港1921年、宮古神社移転1942年、
にともなって破損がはじまり、第二次大戦、ついで
戦後の道路改修工事等によって、その石畳道の
一部は姿を消し、損傷されてしまった。
周辺の遺跡や蔵元も跡をとどめない程に
改変され、昔の面影すらしのべなくなっている
現状である。
今日漲水石畳道は、元の姿の三分の一のみを
残すまでとなっているが、重要な石工技術と
景観を考察する資料として大切に保存されている。
この石畳道を眺めていると、琉装をした先人達の
姿が見えてきそうだ。
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