伊良部島の佐良浜小学校の東にある御嶽
「大和神屋御嶽」(やまとじんや)
大和(やまと)とは本土のこと。
大和の人が関わる御嶽は学問の神様とされることが多く、
大和神屋御嶽も学問の神様として敬われている。
大和神屋御嶽の由来は、漂流記が残っている。
1744年11月5日、秋田県能代の門田与次衛門(かどたよじえもん)ら
8人が乗った船が金華山沖(宮城県)で嵐にあった。
帆柱を失い沈没しかけながら、大海原を漂うこと80日。
翌年の1月24日に下地島ナガピダ(現在の下地島空港付近)の
砂浜に流れ着いた。
このときの漂着時のやり取りが残されている。
待望の島が見え、麦畑の見える浅瀬に船をよせて錨をおろすと、
大勢の人やってきた。やがてくり船が近づいてきて与次衛門たちの
船に男たちが乗り込み「ここは琉球の伊良部島である。」と言った。
与次衛門は「我々を殺すか?」と聞くと「殺さぬ。」
と男はいい、さらに「船を修理して大和に帰してやる。」と答えた。
与次衛門たちは食事や着るものを与えられて、1週間ほど佐和田で
静養するが、島に辿り着く前に二人の乗組員が餓死しており、
与次衛門は島民の人たちに埋葬を頼む。
遺体はせめてもの慰みにと、郷里、能代の方角が見渡せる場所に
丁重に埋葬された。その後、蔵元のある平良へと移り、
船の修理に2ヶ月ほどかかったが、1745年4月に
宮古島を出発して13ヶ月ぶりに能代に戻った。
与次衛門らが島を去った後も、墓は島の人々に守られ、やがて
大和神屋御嶽として祀られるようになったと伝えられている。
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