舞踊家 木室陽一 きむろよういち おどるおどる

木室陽一の舞踊活動が、次第に明らかに。創作・舞台・即興。彼は何処に居て何処に向かうのか。現在、愛媛・中島にて島暮らし中!

せいぶつたようせい(前編)

2014-05-01 23:49:31 | みかんの畑
畑で生物多様性を思う。




てか、そもそも、
肥料、って必要なんやろかねぇ。
「窒素」
「リン酸」
「カリウム」
って言ってる時点で、すでに何かを見誤ってはしないか。
1800年代から肥料の研究は始まり、
1900年代に化学肥料生産が作られ始めました。

日本でも、同時期に化学肥料が使われ始めたので、
その歴史、およそ100年間。

ヒトの100年の知恵って、いったいどんなもんやろ。

もちろん、ながい歴史のバックグラウンドから発展してきたものにせよ、
100年程度の常識なんて、えらい危ういなぁ。

僕らのおじいちゃんか、そのまた両親の世代から始まったもの。
その途中には、戦争、もあったので、
大きく歪められて伝わったものもあるはずで。

「窒素」
「リン酸」
「カリウム」
を否定するわけではないけれど、
それがまだ、おじいちゃんの頃からの常識だとすれば、まだまだ僕らの手の届く範囲。近い距離。

つまり、これを、「鵜呑み」にしたり、盲目的に従って「思考停止」したままでいる事を危惧しています。
(-_-)
間違いだと判断したり、
捨て去って変化を求めているわけではなくて、
自分のおじいちゃんがやっていた事として、
それを引き継ぐのか、改めるのか。

手元に引き寄せて、いまの畑を考えると、
農作物を「生産物」としてとらえ、それを売買させることによって「しか」生活の糧が得られない状態になっていて、担い手がいない広げ過ぎた畑は次第に荒れてゆく。
(・_・;
それを生み出す祖父母の事情があったし、
それを続ける両親の事情もあったし、
それを当然と思い関心を払わなかった僕らの世代がある。
(そこには、戦争と戦後という、あり得ない緊急事態もある)
誰がいい悪いとか、そんな判断はどーでもよくって、まずは、その現状を認めること。

自分の着てる服が、裏っかえしだったら、
「裏返しに着てる!」て事を、まずは認める。
そして、
それを脱いで着直すか、
そのまま着続けて、新しい個性として通すか。

それくらい、手元に引き寄せての、いまの畑を考えると、
ひとつには、その服をよく眺める。
おじいちゃん達の話しを聴く。
のが、急務やなぁ。
祖父母の歴史・知恵は、このままだとどんどん失われてゆくばかりだからね。


おぉ、みかん畑のとなりの林に藤が咲く。

いまの僕の予想では、「戦争」がテーマになると思います。
戦争の産物としての原子力。それを持続させるための、原子力発電。
均一的な品質を求めてそれを管理するのは、まさに軍隊の思想だし、その延長上にある学校教育。
そうすると、余分なもの、は排除しなくてはならないので、「害」となるものを定義して、排除の矛先を向けるべき「害」を生み出してゆく。

そんな中で、もまれ生きてきた祖父母。そこで育ってきた両親。さらに、それを引き継いできた僕ら。
これらを、
きちんと、
記録に残しておかねば。

つまりは、
肥料を突き詰めてゆくと、
世代間のコミュニケーション問題になるわけですな。
(=゜ω゜)
すげぇ。

んじゃ、実際に畑でどうするか、は、
(後半に続く)


ちなみに、いまの畑は、こんなに草が茂ります。

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せいぶつたようせい(後半)

2014-05-01 23:48:41 | みかんの畑
ところで、野生の藤の花咲く畑の中で、
なんと!
もぎ残したみかんが、樹にのこってました!!

え~
(^◇^;)
しんじられん。



藤の花と温州みかんのツーショット!!

たまたまもぎ残したみかんの中で、
たまたま鳥たちにも、狙われず、
しかも、「腐らせる」細菌達の手を逃れて、
ここに実ったまんまで。

食べたら、
んまいっ~
( ´ ▽ ` )ノ
そんな条件が重なることもあるんですねぇ。



これは、この樹だけが特別だったからではなく、
ひとつの畑を眺めてみると。
よくよく普通に、眺めてみると、
一本一本のみかんの樹は、どれも違います。

枯れかかっているものも、
虫にやられて、根っこちかくに穴が空いてるせいだとか、
虫の形跡がないのに、やたら葉っぱが枯れてしまってるのとか、
一部の枝だけ、あとは元気そうだとか。
青々してる葉をつけてるものも、
葉の付き方が上向きなもの、
ややたれさがって元気なさげなもの、
新芽が、幹の途中からぽつぽつでてるもの、
ちゃんと茎から新葉となる芽がそろってるもの、
花芽がついてる!かと思えば、
ほとんど花芽がないもの、
同じ花芽でも、大きく膨らみかけて、これからまさに咲かんとするもの。

さらに、下地が様々で、

斜めだったり、
平らだったり、

カラスノエンドウに覆われているもの、
ほとんど砂地ばかりの場所、
これはナズナかな?
セイタカアワダチソウに囲まれつつも、
このおかげで土の流出が抑えられているのかも、
様々な草が、
様々な姿ではびこっていて。

当然ですが、一律ではないです。

同じ畑といえども、
風のあたり方、
日の照り方、
高低差による保湿の違い、
そばの樹との距離、
土の粒子の違い、
なんてのは、当然あるので、
300本のみかんの樹は、全く違う成育をしてるという。

もー、当然すぎる当たり前の事実。

そして、さらには、
そこに集まる
あんな虫や、
こんな虫や、
むしや、
虫や、
虫や、
虫や、
なんかの生き物やら、
虫やら、
むしやら、
虫達が、
とにかく智学がないばかりに、名前もわからない大量の虫達が、

好き勝手に!

いろんなとこでいろんなコトしてます。

草の生態の差とおんなじように、
場所によって居方がどれも違うんよね~

こんな状態の異なるひとつの園地を、
「いっこの畑」として見てしまうのは、おこがましいのかもなぁ。
いかがなものかなぁ。

この、草やら、虫やら、それを生んでいる園地の条件やらが、
先の「肥料って必要なんやろか」に、思いを馳せるきっかけとなりました。

あるべきもの、あるべき状態として、ここにある、のだから、
それらは、選ばれてここにあるのだろう。

畑の様々な条件の必然として、ここに集まった生き物達は、結果、多様性としてその姿を顕わしているように思えるのです。

そこで行われている、
みかんの樹と草と虫と、もろもろの生物たちの生きてゆく営みは、

なんとゆうか、

でかい。

たった100年ほどの肥料の歴史では太刀打ち出来ないほどの、
でかさと深さと、
そこにまだ秘められた知恵があるように思います。

戦争で歪んだ歴史とものの見方、しかまだ僕らは知らないので、
この目の前の、多様な生物、
その、でかさ、
がすでに顕しているモノのコトワリを学ぶには。


じっと、畑に座り込んでみて、
ひたすらに起きてくる事柄に全身を澄ます。

なんか、そんな振る舞い。
から、
始めてみます。

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