ご隠居さん:自我や世間の枠にとらわれず、社会の潤滑油となりたいものです。 AI時代は 人間らしい自由な発想がカッコいい

年を重ね、経験を積むにつれ、その時々の思いも変わっていく。その足跡を残しておくために

弘前ねぷたと洋風建築

2014年08月08日 | 旅 行事
8月上旬は 東北は祭り一色!
仙台七夕、青森ねぶた、秋田竿灯そして弘前のねぷた祭り。
大館市で仕事の前日、早めに出て前に手に入れていた観光案内を頼りに
新青森経由で、弘前市を観てきた。
はやぶさ号で新青森で乗り換え、ほとんどの客は奥羽本線の青森方面に向かう。
20分ちょっとで、こぎれいな駅舎の弘前に着く。
青森はリンゴ日本一、弘前市は津軽10万石の城下町で、江戸時代はこの地方の中心地だった。
明治廃藩置県で、弘前県になるも、わずか2ケ月後の1871年(M4)九月、青森市に県都を移し、青森県となる。
戦災にあっていないため、明治・大正の洋風建築も多く残されており、すっきりした街並みといったイメージがある。
駅から観光の中心地の弘前城公園まで2kmくらい、うだるような暑さの中、まずは洋風建築を見て回る。
ねぷた祭りの大通りからすぐに、弘前昇天教会、ここはイギリス国教会の流れプロテスタント系の教会で、
イギリス積みの赤レンガ造りで落ち着いた感じのゴシック様式だ。
夜暗くなってみると、ライトアップされて尖塔が鮮やかだった。
大通りから少し外れ、次は弘前カトリック教会:白亜の尖塔があるロマネクス様式で
内部にはアーチ型のステンドグラス、木造りの年代を感じさせる祭壇はオランダから譲り受けたものという。
左にヨセフの像、右にはマリアがキリストを抱いた像が立つ。
隣には付属の幼稚園、道の向かいには修道院があり、地域に長年 地域に名指した布教が感じられる。
そこからお城の方に2-300m行くと、日本キリスト教団弘前教会(東北最古のプロテスタント教会):
ノートルダム寺院を模した双塔ゴシック様式で、火災で消失した3度目の建物で、名棟梁 堀江佐吉の息子により施工。
      

ここからは、お城の玄関、大手門に向かう。
青森銀行記念館(旧五十九銀行)は内部を開放しており、M12築全国で59番目の国立銀行。
設計者は堀江佐吉氏。
ケヤキの柱、階段、廊下など、ぴかぴかに磨かれた木質の高級感はさすが。
明治の国立銀行は、それぞれが紙幣を発行していたようで、第五十九銀行発行と印刷されている。    
お城の入口、大手門広場は左に観光館、右に市立図書館の近代的ビル、それをつなぐしゃれた屋根。
真正面に旧市立図書館の八角形の双塔の赤いドーム屋根が見える。
設計施工とも例の堀江佐吉氏、M39築。
その裏の旧外人教師館は、レストランになっている。裏側の小道には、ミニチュアの洋風建築が当時そっくりに再現されている。
     

いよいよ弘前城、1611年築の三層の天守閣、3つの櫓、5つの城門、三重のお濠が残り、49haの平坦な広さがある。
1611年、津軽2代目藩主:津軽信枚により築城、当初は5層の天守閣だったが、落雷で消失(1627)したため、新たに3層の天守閣を再建した。現存する江戸時代の12城うちの一つとして価値があるという。(他には犬山城、松本城など)
推定樹齢115年のソメイヨシノは日本最古といわれ、2600余りのサクラが園内を埋め尽くす
「桜の古城」として全行的に有名だ。
園内には広い植物園があったが、pm5時過ぎは閉園。
天守閣の下の石垣が傷んでいるとかで、数十m奥に移築して石垣を修復する計画看板があった。   
いつしか夕暮れも迫り、いよいよねぷた祭りも7:00開宴
大手門沿いには今日の出ば番の山車が勢ぞろい。
表の武者絵は赤が基調、裏の見送り絵は妖艶な美女が描かれ、三国志か水滸伝がモチーフに使われているとか。
今年は全部で81台の山車、会長挨拶によると、表彰は、ストーリー性、お囃子など4つの視点で決められるとのこと。
笛や大太鼓で熱気が湧き上がってきた。 メイン通りの一部は有料のイス、ほとんどはシートの上に陣取って次々と繰り出してくる山車に歓声を上げる。これだけ、こども山車やお囃子が多いのは珍しいのでは?幼稚園もいくつか。
金魚ねぷたは幸福を招くといわれ、いくつか見られた。
(翌日のニュースで、昇降機に挟まれて亡くなった方がいたとのこと、他人事とは思えない)
      
大館駅に着くと忠犬ハチ公の像が迎えてくれた。   
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