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年を重ね、経験を積むにつれ、その時々の思いも変わっていく。その足跡を残しておくために

続 ・靖国神社

2015年04月13日 | 政治 経済 社会 憲法
仕事帰りに靖国神社に立ち寄り、葉桜の小雨の中を参道から一番奥の神池庭園に足を延ばし、遊就館に向かう。
観光客は少ないが、中国人の若い男女が目立つ。
戦地・同郷・幼年学校など同期や遺族の慰霊祭の案内板に、神風特別攻撃隊○○隊とかマーシャル○○・・というものもある。
「大東亜戦争 終戦70年」の看板がいくつも目立つ場所にかかっている。
遊就館の左奥に、休憩所(偕行文庫)があり、1Fにはちょっとした閲覧室、2Fにも自由に入れる。
  
閲覧室を覗くと、靖国関連の書籍:真珠湾・南方戦線などの戦記シリーズ、陸軍士官学校名簿、神風特別攻撃隊などが並んでいる。
最近の刊行物も置いてある。
ちょうど近くの席で、若い男女が係の方と何かの資料で話している。
感じでは、二人は兄妹で、祖父が幼年学校とか陸軍関係の学校を出て、戦地から帰国、最近その遺品について、調べたいということらしい。
卒業写真を見ながら、「名簿には、成績順に氏名がのり・・・」という説明を興味深く聞いている。

置いてある冊子を、帰りの電車で興味深く読んだ。
「続・大東亜戦争」
S20.8.15~S27.4.28 大東亜戦争は昭和20年8月15日に終わったのではない。むしろこの日からその続きが始まったのである。
はて、どういう意味だろうか?
・日本の戦争の目的は、開戦の詔勅S16.12.8にはっきりと示されている。一、経済封鎖を解き自由貿易を取り戻す 二、欧米のアジア地域植民地支配を終わらせ、各国を独立させてアジアを開放する。(大東亜戦争という呼び方の根拠でもある) と、強調してある。
原文と口語訳つきで、なるほどそう読めないこともない?

・ポツダム宣言S20.7.26、これを受けた「ポツダム宣言受諾の詔勅S20.8.14」の原文と口語訳も載せてあり、開戦の目的と同じく「日本帝国の自存と東亜の安定とを願ってのことであり、他国の主権を排除し、領土を侵犯するようなことは朕の意志ではない」と明言し、「戦局が我に利あらず、新爆弾(原爆)を使用し、何ら罪ない人々を殺傷し、我が民族の滅亡を招くのみならず、人類の文明をも破壊することも・・・」
広島、長崎の原爆で、ついに降伏に至った旨が記してある。とくに「朕は 時運の赴くところ、堪えがたきを堪え、忍び難きを忍び、もって将来のために平和への道を開くよう望む」という件は、よく記憶に残っている。
翌日、S20.8.25玉音放送で天皇陛下自ら、全国民に知らされる。
戦時の統帥権を持った天皇と戦後の平和時の昭和天皇は、当然その思いと言動が大きく異なるだろう。
S20.9.2東京湾上での「降伏文書」も原文があり、重光全権大使が署名。(連合国側にはソ連はなく、「中華民国」は蒋介石の国民党で、現在の中華人民共和国ではない。

このS20.8月のポツダム宣言受諾からS27.4.28サンフランシスコ講和条約までは、むしろ停戦協定の性格を持つ、と主張してある。
したがって、この間のGHQの占領統治には、連合国側の攻撃ともいえる内容が含まれており、そのことを「続・大東亜戦争」として、
問題提起しているのだと分かる。
その主な主張は、下記の通りと理解した
1.この戦争は真珠湾攻撃から始まったのではなく、それ以前に英米など連合国側が日本と交戦中のシナの蒋介石や毛沢東を援助した時から始まっている。
2. 占領統治の内容
S20.8.30司令長官マッカーサー日本に到着
・9.1「連合国側に不利になる報道を禁ず」GHQ司令。
・9.19GHQ報道の厳禁30項目を発表:連合国への批判、東京裁判への批判など言論統制
・12.3GHQ A級戦犯容疑者59人に逮捕命令
・12.8全新聞にGHQ作成の「太平洋戦争史」連載開始、真珠湾攻撃(開戦)の日を狙って宣伝・・・「大東亜戦争」の呼称を禁じ「太平洋戦争」を強要
S21.2.8政府が憲法改正要綱(松本案)を提出→ 2.13マッカーサー憲法草案、日本政府に渡さる。(占領憲法と言われる所以)
・4.29A級戦犯28人を起訴 ⇒講和条約締結S27.4.27までは戦争状態の継続であり、続・大東亜戦争の軍事行動の一つとして国際軍事裁判(東京裁判)と いう手続きをとった。
 *判事はすべて戦勝国、偽証罪がないためうその証言も多かった。戦争自体を犯罪として、個人による戦争行為を犯罪として裁いた。
  インドのパール判事が、ただ一人無罪を主張し、東京裁判の違法性を明言した。
S23.12.23A級戦犯7人が処刑さる。
S24.10.1中華人民共和国(中共)政権が成立
S25.6.25朝鮮戦争 勃発
・10.15マッカーサーがトルーマン大統領に「東京裁判は間違いだった」と告白(ウエーキ島にて)
  ・・・S26.4.11トルーマン、司令長官マッカーサーを 罷免。
・5.3マッカーサー、米上院の軍事委員会で「日本が第二次大戦に赴いたのは、そのほとんどが自存自衛のためであった」と証言
S27.4.27 サンフランシスコ講和条約発効⇒ 大東亜戦争の終結!
S30.7.19 衆議院「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」を全会一致で可決
 ⇒ 「戦犯刑死者」を戦死者と同じ扱いにする遺族援護法の改正も全会一致で可決し、翌年 恩給法が改正される。
 さらにいわゆる「A級戦犯」をS31、「BC級戦犯」をS33に赦免し釈放した。
 したがって、「東京裁判」はなかったと主張している。

安倍政権は、ことあるごとに「日本による侵略」「東京裁判」を否定し、靖国参拝を正当化しょうとしている、としてマスコミ・知識人の批判を浴びている。ぼくも、その立場だ。
しかし、安倍政権の主張やこれを支援する人たち(渡部昇一、桜井よしこetc)が、上記のような事実を根拠に、戦後70年を「自虐的な日本の現状を、美しい国・誇りある国家(「日本会議」のスローガン)へと転換させたい」と願っていることも理解できる。 護憲や平和主義の知識人、マスコミの思想統制・洗脳というGHQ占領政策が今も根強い、としている。

一国民として考えてみると、戦前の満州国建設、国際連盟脱退、防共協定から日独伊三国同盟,そしてアメリカによる石油全面禁輸、真珠湾攻撃への経過は、陸軍と海軍の抗争、外務省・内閣のリーダーシップ欠如などが、その原因になっていることは間違いない。結果として、相手側には「侵略」と受け取られてもしょうがないのではないか。
そもそも「大東亜戦争」という言葉は、行き詰った満州事変を打開するためのアイディアともいわれる。”アジアのための開放”なら、中国、朝鮮は無理としても、東南アジア諸国を味方にするだけの一貫した戦略と行動があったとは思えない?
「東京裁判」の無効云々についても、「天皇戦争責任」を問わないとして、国体維持を第一とする大原則と照らし合わせることも大切だろう。
「原爆投下」と東京空襲など全国200ケ所(NKH千の証言のTV映像)にも及ぶ「都市・無差別爆撃」の問題は、たぶんこれからの歴史認識の中で問われ続けるはずだ。
戦後60年から70年は、同時代から歴史への転換点だという。(保坂正康氏:現代史研究家)
いろいろな思い込みを捨て、事実に基づいて、お互いの新しい考えを築いていく姿勢と度量が、国のリーダーには求められる。


*以下は 2014.11.05に記録*


先週、会合の前に靖国神社に立ち寄り、日本人の心の一端を再認識。
ちょうど今、伊勢神宮の式年遷宮、20年ぶりとかで話題になっています。

参道のどこそこに、戦没者の身内らしい年配者同志の挨拶が見られ、戦後が続いている一端を感じた。戦地、出身地、部隊など、いろんな軍人会があるようで、2つ以上に属していないと恩給が貰えないしくみ、と読んだことがある。
国会議員の集団参拝の背景にはこういう圧力団体が・・・
       
   (九段坂からの参道)  (ゼロ戦式典、大東亜戦争記念祭の案内板)font>

2-300mくらいの参道の中央には、大村益次郎の立像。日本陸軍の創設者でM2年:東京招魂社(長州下関に起源し、靖国の前身)創建に尽力した功績を讃えたもの。   ( 大村益次郎の像)
ここのご祭神は、明治維新以来、国家(天皇)のために亡くなられた”御神霊”という。
幕末、明治:戊辰戦争からの戦没者約250万人の”みたま”が祀られているということらしい。
坂本竜馬も、東京裁判で戦争犯罪者となった東条英機他も。
(西郷さんは、西南の役での反逆者とされ、含まず。ただし禁門の変で朝敵として戦死した久坂玄瑞、牢獄で死んだ吉田松陰ら長州人は合祀されている)

東京裁判で、ただ一人「全員無罪」の主張を押しとおした判事:
パール博士(インド代表)の胸像が、遊就館の脇に建てられている。
有力な応援団ということだろう。
遊就館には入ったことは無いが、1Fにゼロ戦の展示や野戦砲の実物がある。
パンフには、戦地から、妹や母に当てた手紙が大げさな表現で載せられている。
お国のために捧げた御霊!そうだろうか?
戦争を美化するのではと、批判されているのも、うなづける。
第二次世界大戦を「大東亜戦争」と呼び、特別展が開かれていた。
侵略戦争ではなく、欧米列強からのアジアの解放のための戦争、と言うことだろう。

        
   (遊就館正面)       (零式戦闘機)       (パール博士の顕彰碑)

神道政治連盟や神社本庁(全国8万社の神社の元締め)の組織も固いようだ。
明治から戦前まで、天皇制を支える国家神道(こっかしんとう)として、日本政府が全国の神社を束ねたが、敗戦と共にGHQ「神道指令」で政・教分離され、S21年神社本庁に引き継がれている。
戦前の政府は「神道は宗教ではない。憲法の信教の自由とは矛盾しない」として、戦争遂行の精神的支柱としていた。
九段坂を下りる途中、入口の奥に菊の御紋のある立派な黒御影(?)の建造物があった。(あとで実践倫理偕行會(通称朝起き会)と分かった)
大きな割に看板も無く、何となく不審な感じがした次第。


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