寺島実郎さんが
福沢諭吉の脱亜入欧と湛山の小国日本主義の問題を解説していた。
昭和初期の日本の分岐点として
貴重な視点だと思う
ロシアのウクライナ侵略で抗戦中のゼレンスキー大統領が、昨日onlineで国会演説を行った。
先に行った米英独に対しては、飛行禁止区域や兵器の提供を要求しているが、日本に対しては平和への貢献を中心に訴えた印象が強い。
先に行った米英独に対しては、飛行禁止区域や兵器の提供を要求しているが、日本に対しては平和への貢献を中心に訴えた印象が強い。
ウクライナだけでなく、世界の大半の国の日本へのイメージは、軍事ではなく文化国家としての役割だと改めて感じた。
福沢諭吉の脱亜論と小日本主義は対照的な主張である
とくに、アジアのリーダーとして国連改革への取組みを促している。
とくに、アジアのリーダーとして国連改革への取組みを促している。
ロシアの核使用の可能性や今回の国連決議でのロシアの拒否権行使など、国際機関が機能していない現状に対する不満が世界的に高まっていることの表れではないか?
第二次大戦での戦勝国とくに米英仏中露の5常任理事国の特権がその根本にある。
大国の横暴に耐えている普通の国(軍事、経済などで弱小国)の声が、今回のゼレンスキー大統領のメッセージに表れていると思う。
日本こそ、不戦の憲法9条を掲げるだけでなく、核禁止や国連改革に向けて先頭に立って世界に働きかける絶好の機会といえる。
小日本主義の立場で、米中の覇権争い、貧困格差や東西冷戦の再燃の危機を、健全な方向へ向かわせる動きに期待したい。
**以下、2016年8月22日記**
Rioオリンピックから2020東京へと、華々しい話題で盛り上がっている。
原発、財政、年金、貧困格差など、深刻な問題から目をそらすように、バラ色の夢を求める風潮!!
まるで、戦前の大日本帝国主義のように感じるのは気のせいか?
そんな中、戦前から戦後にかけて、一貫して小日本主義を唱え、行動した人物がいた事に救いを得た思いがする。
★戦後71年、中国との尖閣問題、韓国との竹島、慰安婦問題、ロシアとの北方領土問題では、集団的自衛権容認をはじめ、日本の対米従属を強化せざるを得ないという窮地に陥っているとも言えるのではないだろうか。
戦後の日本の選択は、果たして「この道しかなかった」のだろうか?
そういう意味で、石橋内閣⇒岸政権に依る日米安保条約へと急加速する1960年前後が、昭和の大きな転換点になったとする見方に共感を覚える。NHK TV「その時 世界は動いた」でも、3回に亘り、石橋湛山を特集している。今この時期も、2016.8.25NHK BSプレミアムで「英雄たちの選択」で識者による討論が放映予定されている。
石橋湛山というジャーナリスト/政治家とは、一体どんな人物だったのだろう。
1)甲府一高時代:「石田三成論」
『軽薄なる一個の小人ではなく、豊臣氏のために、家康と争うの胆気と識見を有せる。低い評価は、従来の史伝が、「好悪によりて、事実を矯め、勝を正とし、敗を邪とするの偏見に出づる者が多かったため」とし、是非をはっきり区別すべき。勝敗は、当時の形勢によりて別れ、是非は後人の公説によりて定まる。
「消夏随筆」現今、勢力を有する大宗教と言えば、仏教とキリスト教である。キリスト教は、4,50年前の渡った新米者ゆえ、暫く置いて。
一千年以上我が国に同化したと言わる仏教、サテモその勢力は現今日本社会の何処にある。墓場にか、果た葬式にか、良く言って、加持祈祷。
彼ら僧侶と称する者、ヤレ、仏教は国教とすべしだとか、日本は仏教国だとか、さわぎおる。何処をさがして、国教に公認する値がある。何処を押せば、日本は仏教国だ、という音が出る。
如何にも、仏教は世界の大宗教、高遠至大なる教理を有するに相違ない。
然し、どんな精巧な機械でも、これを運転する技士が熟練でなければ駄目だ。それと同様、宗教其のものは如何に立派でも、これを運転さする僧侶または信徒というものが悪ければ高尚なる教理も只空理に過ぎなくなる。
昔は、随分偉大なる人物が沢山あった。
その中でも、吾は日蓮上人を崇める。上人は、実に血と涙とで出来た様な人であった。四個の大難、数々の小難に挫けず、遂に日蓮法華宗を打ち立てた。実に、我々意思弱行の士の教訓になる。』
★高校生17,18歳の時にこれだけの社会的な視野で、ちゃんとした自分の意見を持っていることは驚き!!
2)東洋経済新報時代、当時の国策「大日本主義(帝国主義)」を批判、“小日本主義(平和主義)”を主張した。
第一次世界大戦への参戦に反対、対華21ケ条要求にも、日清戦争で獲得した権益をも失うとして反対した。
1921年、ワシントン会議への提案、「一切を棄つる覚悟―太平洋会議に対する態度」及び「大日本主義」の幻想」を社説として主張した。日本が主導して、大戦に当たり軍縮会議を提唱すべきだった、その過ちを乗り越えて全てを棄てる覚悟を!!
例えば、満州を棄てる・山東を棄てる・その他シナへの一切の圧迫を棄てる、また、朝鮮に、台湾に、その自由を許す。 その結果、英米は非常な苦境に陥るだろう。なぜなら、日本にのみかくの如き自由主義を採られては世界における自分たちの道徳的地位を保つのが難しくなる。一方で、日本に対する信頼は高まるだろう。
棄てることに対する2つの反論「経済上、軍事上自立できず不利だ」「欧米列強の植民地に対して不公平だ」に対しても、具体的数字で主張を展開する。
★第二次大戦という愚挙、平成の反日の強まり、核・資源・領土で混迷を深める国際問題など、現実の政治にも当てはまる考え方ではないだろうか?
3)1924「行政改革の根本主義―中央集権から分権主義へ」では、役人は公僕に戻るべき・政治は必然に国民によって、として第二維新の第一歩を社説で主張している。
1925治安維持法にも反対、婦人参政権の台頭を歓迎、女性の自立・解放を促すなど、進歩的な考えで主張。
1937盧溝橋事件を契機に、日中戦争が本格化すると、日清・日露戦争と根本的に異なり、日本の耐戦力はその経済力により限定される以上、速やかな和平工作が必要だと主張した。
1940年日独伊三国同盟の成立、大政翼賛会の発足、日米開戦へと急変していく中で、「百年戦争の予想」で、対米戦争に耐えられないことを主張。
4) 敗戦後は、1945.8.25社論「更生日本の門出―前途は実に洋々たり」で、世界平和の戦士として全力を尽くすこと、ここにこそ更生日本の使命はあり、と平和日本の建設を強調した。
この自信に満ちた提言は、戦時下にも節を曲げなかったという誇りに支えられている。
湛山日記で、「考えてみるに、予はある意味において、日本の真の発展のために米英等と共に日本内部の逆悪と戦っていたのであった。今回の敗戦が何ら予に悲しみをもたらさざる所以である」とまで言い切る。
5)1956年12月、岸信介を破り、第2代自民党総裁そして首相に就任した。
全国遊説の第一声「わが五つの誓い」で言論人・政治家としての集大成ともいうべき名演説を行った。
① 国会運営の正常化 ②政官界の綱紀粛正 ③雇用の拡大・生産の増加 ④福祉国家の建設 ⑤世界平和の確立、を述べた後、民主政治が大衆迎合政治ポピュリズムにならない、とする覚悟で結んだ。
寒中の遊説などもあり、1月25日老人性急性肺炎で倒れ、1ケ月の闘病も空しく、2月22日「私の政治的良心に従います」と退陣表明。わずか2ケ月の政権に終わった。
退陣後も、1959年、周恩来首相との会談、冷戦構造を打ち破り、日本がその懸け橋になる「日中米平和同盟」を主張、世界的視野で日本の進むべき方向を主張した。後継の岸首相が強行しょうとする60年日米安保条約を批判するなど、自民党ハト派の重鎮として活躍するも、1963年の総選挙で落選、そのまま政界を引退した。
第二次大戦での戦勝国とくに米英仏中露の5常任理事国の特権がその根本にある。
大国の横暴に耐えている普通の国(軍事、経済などで弱小国)の声が、今回のゼレンスキー大統領のメッセージに表れていると思う。
日本こそ、不戦の憲法9条を掲げるだけでなく、核禁止や国連改革に向けて先頭に立って世界に働きかける絶好の機会といえる。
小日本主義の立場で、米中の覇権争い、貧困格差や東西冷戦の再燃の危機を、健全な方向へ向かわせる動きに期待したい。
**以下、2016年8月22日記**
Rioオリンピックから2020東京へと、華々しい話題で盛り上がっている。
原発、財政、年金、貧困格差など、深刻な問題から目をそらすように、バラ色の夢を求める風潮!!
まるで、戦前の大日本帝国主義のように感じるのは気のせいか?
そんな中、戦前から戦後にかけて、一貫して小日本主義を唱え、行動した人物がいた事に救いを得た思いがする。
★戦後71年、中国との尖閣問題、韓国との竹島、慰安婦問題、ロシアとの北方領土問題では、集団的自衛権容認をはじめ、日本の対米従属を強化せざるを得ないという窮地に陥っているとも言えるのではないだろうか。
戦後の日本の選択は、果たして「この道しかなかった」のだろうか?
そういう意味で、石橋内閣⇒岸政権に依る日米安保条約へと急加速する1960年前後が、昭和の大きな転換点になったとする見方に共感を覚える。NHK TV「その時 世界は動いた」でも、3回に亘り、石橋湛山を特集している。今この時期も、2016.8.25NHK BSプレミアムで「英雄たちの選択」で識者による討論が放映予定されている。
石橋湛山というジャーナリスト/政治家とは、一体どんな人物だったのだろう。
1)甲府一高時代:「石田三成論」
『軽薄なる一個の小人ではなく、豊臣氏のために、家康と争うの胆気と識見を有せる。低い評価は、従来の史伝が、「好悪によりて、事実を矯め、勝を正とし、敗を邪とするの偏見に出づる者が多かったため」とし、是非をはっきり区別すべき。勝敗は、当時の形勢によりて別れ、是非は後人の公説によりて定まる。
「消夏随筆」現今、勢力を有する大宗教と言えば、仏教とキリスト教である。キリスト教は、4,50年前の渡った新米者ゆえ、暫く置いて。
一千年以上我が国に同化したと言わる仏教、サテモその勢力は現今日本社会の何処にある。墓場にか、果た葬式にか、良く言って、加持祈祷。
彼ら僧侶と称する者、ヤレ、仏教は国教とすべしだとか、日本は仏教国だとか、さわぎおる。何処をさがして、国教に公認する値がある。何処を押せば、日本は仏教国だ、という音が出る。
如何にも、仏教は世界の大宗教、高遠至大なる教理を有するに相違ない。
然し、どんな精巧な機械でも、これを運転する技士が熟練でなければ駄目だ。それと同様、宗教其のものは如何に立派でも、これを運転さする僧侶または信徒というものが悪ければ高尚なる教理も只空理に過ぎなくなる。
昔は、随分偉大なる人物が沢山あった。
その中でも、吾は日蓮上人を崇める。上人は、実に血と涙とで出来た様な人であった。四個の大難、数々の小難に挫けず、遂に日蓮法華宗を打ち立てた。実に、我々意思弱行の士の教訓になる。』
★高校生17,18歳の時にこれだけの社会的な視野で、ちゃんとした自分の意見を持っていることは驚き!!
2)東洋経済新報時代、当時の国策「大日本主義(帝国主義)」を批判、“小日本主義(平和主義)”を主張した。
第一次世界大戦への参戦に反対、対華21ケ条要求にも、日清戦争で獲得した権益をも失うとして反対した。
1921年、ワシントン会議への提案、「一切を棄つる覚悟―太平洋会議に対する態度」及び「大日本主義」の幻想」を社説として主張した。日本が主導して、大戦に当たり軍縮会議を提唱すべきだった、その過ちを乗り越えて全てを棄てる覚悟を!!
例えば、満州を棄てる・山東を棄てる・その他シナへの一切の圧迫を棄てる、また、朝鮮に、台湾に、その自由を許す。 その結果、英米は非常な苦境に陥るだろう。なぜなら、日本にのみかくの如き自由主義を採られては世界における自分たちの道徳的地位を保つのが難しくなる。一方で、日本に対する信頼は高まるだろう。
棄てることに対する2つの反論「経済上、軍事上自立できず不利だ」「欧米列強の植民地に対して不公平だ」に対しても、具体的数字で主張を展開する。
★第二次大戦という愚挙、平成の反日の強まり、核・資源・領土で混迷を深める国際問題など、現実の政治にも当てはまる考え方ではないだろうか?
3)1924「行政改革の根本主義―中央集権から分権主義へ」では、役人は公僕に戻るべき・政治は必然に国民によって、として第二維新の第一歩を社説で主張している。
1925治安維持法にも反対、婦人参政権の台頭を歓迎、女性の自立・解放を促すなど、進歩的な考えで主張。
1937盧溝橋事件を契機に、日中戦争が本格化すると、日清・日露戦争と根本的に異なり、日本の耐戦力はその経済力により限定される以上、速やかな和平工作が必要だと主張した。
1940年日独伊三国同盟の成立、大政翼賛会の発足、日米開戦へと急変していく中で、「百年戦争の予想」で、対米戦争に耐えられないことを主張。
4) 敗戦後は、1945.8.25社論「更生日本の門出―前途は実に洋々たり」で、世界平和の戦士として全力を尽くすこと、ここにこそ更生日本の使命はあり、と平和日本の建設を強調した。
この自信に満ちた提言は、戦時下にも節を曲げなかったという誇りに支えられている。
湛山日記で、「考えてみるに、予はある意味において、日本の真の発展のために米英等と共に日本内部の逆悪と戦っていたのであった。今回の敗戦が何ら予に悲しみをもたらさざる所以である」とまで言い切る。
5)1956年12月、岸信介を破り、第2代自民党総裁そして首相に就任した。
全国遊説の第一声「わが五つの誓い」で言論人・政治家としての集大成ともいうべき名演説を行った。
① 国会運営の正常化 ②政官界の綱紀粛正 ③雇用の拡大・生産の増加 ④福祉国家の建設 ⑤世界平和の確立、を述べた後、民主政治が大衆迎合政治ポピュリズムにならない、とする覚悟で結んだ。
寒中の遊説などもあり、1月25日老人性急性肺炎で倒れ、1ケ月の闘病も空しく、2月22日「私の政治的良心に従います」と退陣表明。わずか2ケ月の政権に終わった。
退陣後も、1959年、周恩来首相との会談、冷戦構造を打ち破り、日本がその懸け橋になる「日中米平和同盟」を主張、世界的視野で日本の進むべき方向を主張した。後継の岸首相が強行しょうとする60年日米安保条約を批判するなど、自民党ハト派の重鎮として活躍するも、1963年の総選挙で落選、そのまま政界を引退した。
1972年9月、田中首相と周恩来首相により日中国交回復が実現した後、田中首相は石橋湛山翁に報告し謝辞を評したと言う。
1973年4月25日脳梗塞のため没、満88歳。
1973年4月25日脳梗塞のため没、満88歳。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます