ご隠居さん:自我や世間の枠にとらわれず、社会の潤滑油となりたいものです。 AI時代は 人間らしい自由な発想がカッコいい

年を重ね、経験を積むにつれ、その時々の思いも変わっていく。その足跡を残しておくために

公的年金制度

2007年10月01日 | 私生活 雑感
父の葬式の後で、年金記録もれが気になり、熊本県庁に調べてもらった。
戦前から戦中にかけて、県庁に4,5年間勤務し、その後家業の旅館を継いだので
一番もれやすいパターンでは?と思ったからだ。

先週の49日法要の少し前に、熊本県知事名で調査結果が届いた。
これは、今話題の社会保険庁の管轄ではなく、地方公務員共済が担当している。
結論から言うと、一時恩給や退職一時金を受けており、受給資格は消滅していた。
しかし、身内としてはとても貴重な調査記録で、
父の20代から30代前半(S12~S26)の壮々期の様子が伺われる。
S14~S18の県庁勤務では、文官一時恩給受給済みのほか、その前の戦前S12~S14までは、町立青年学校/尋常高等小学校の教諭・訓導兼として、恩給法の一時恩給要件(3~17年)不足。(ということは、恩給は17年以上)
その後終戦から戦後も、S19~S26にかけて、県保険所に3回に分かれて勤務しているが、退職一時金を受給済み。

何よりも、当時の社会のめまぐるしさが伝わってくるようだ。
先日のTV「独裁者で何が悪い」で、中曽根元首相は”愛国心”石原知事は”太平洋戦争前後の歴史を知らないことが問題”と言ってたが、自分の親のことをもっとよく知ることがこのことに通じる。今更ながら反省。

戦前までは、軍人・公務員の恩給しかなかった。軍人恩給は明治8年にできており、第2次大戦の戦死者に対してもとても手厚いようだ。
民間は、戦時中のS17労働者保険、S19厚生年金保険がはじまりだ。当時は、自営業が8割(今はサラリマンが8割?)くらいで、定年がないから年金は要らない、という考えだったらしい。農業や商店などの自営業は、家族の相続を含め「死ぬまで働け・働ける」ということだったんだろう。
S36年にやっと国民年金制度ができ、国民皆年金の体制ができた。(翌年、社会保険庁発足)でも、最初は任意の拠出制で、国民すべての強制保険になるのはS61になってからだ。年金制度は、はじめは積み立て方式だったはずだが、いつの間にか世代間扶養にスリ替えられてしまった。受給者が少なく、被用者(サラリーマン)が急増する中で、積み立てるべきものを湯水のごとく使い果たす感覚は、まさにバブルなみの異常さだったのかも知れない。
今でも、厚生年金の積み立て額は5年間の支給分はあるのだから、大切に運用してもらいたいものだ。

今回、県庁や町の職員の対応が丁寧で速かった。社会保険庁への世論の圧力が共済年組合にも緊張感を与えているのだろう。
それにしても、ツギハギだらけの年金制度は早く一元化してほしいものだ。
国家/地方公務員共済、私学共済事業団、それに国民・厚生年金(社会保険庁)と別管理している現状は、マチガイと不正の元凶かもしれない。







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