最近の政治、企業、スポーツ界など、大きな事件が起きた時の責任の取り方は、どうも後味が悪い気がする。
それは、「粗にして野だが、卑に非ず」(故石田礼助国鉄総裁を評した作家:城山三郎の言)
という美学から遠いからではないか。
JALの再生でも、整理解雇の問題で経営者/社員/株主間の責任のなすり合いでもめている。
会社更生法適用の際の経営陣は、いつの間にか社長以下関連会社に天下りし、その経営責任は何も問われない。
多分、ローカル空港乱造・便の維持などの国の介入を口実にしたいのだろう。
わずかだが、持っていたJAL株も、ついに100%減資により「ただのカミクズになりました」との通知が昨日届いた。
(12/末、1兆円もの税金でJALを再生・救済しょうとする再生計画が裁判で認可された)
民主党の(前)鳩山首相は、”友愛””日米対等なパートナーシップ”と高邁な理想を掲げたが、甘い見通しと力不足で失速し、議員辞職まで約束、潔い退陣かに見えた。
今、重いはずのその決意も、彼の頼りない心の中でゆらいでいる様子だ。
管首相の演説でも、「石にかじりついても、責任を果たしていきたい」と悲壮な決意を伏し目がちに述べる。
でも、はっきりした信念で、自分のやりたい方向をめざしているとは言えない。俗にいう「to doでなく to beのみ」でずるずると流されているようだ。
多分、ニッチもさっちも行かなくなれば、首相職を退くという責任の取り方になろう。
責任とは何か?、誰が何に対してどういう行動をとることか?
一昔前の武士道でもあるまいし、ただ、辞めたりするだけではないだろう。
子が社会的な事件を起こした時の親の責任:
法的には無罪であっても、道徳的な責任を社会(マスコミ)・共同体が追及する。
親は、「世間」というもの対する責任に苦しむ。
欧米にはキリスト教的道徳があり個人主義の基盤が根強く、中国・韓国にも儒教的道徳基軸があり逆説的に一種の個人主義を可能にしている。
日本にはそのようなものがなく、代わりに「世間」という得体の知れないものが働いている。
本居宣長は、道徳という概念は中国からきたもので、古来日本にはその必要もなかった、と観る。
家父長制もそう古いものではなく、明治以降の近代国家・資本主義とともに形成されたと言える。
国家→地域社会→家庭という相互規制の中にある。
多分、個人の倫理感とか使命感から責任をとるというよりは、「世間(マスコミかも?)」に対して当面のカッコウがつけばいい、ということなんだろうか。
実際、当人たちは自分の自由意思で決断し行動したわけでもなく、システムの代表として責任をとらされた感じなんだろう。
大きなシステムに毒され、自分を見失い、卑しい生き方に汲々としているように思えてならない。
【参考】「倫理21」 柄谷行人(からたにこうじん)
責任とは何か? 倫理とは?
根本的に考えるとき、カントの「批判」が参考になる。
道徳=善悪の問題、それは共同体規範。・・・”世間”もこれに当たるのだろうか。
これに対し、善=幸福の実現、つまり幸福主義(功利主義)欧米で支配的なもの。・・・”民主主義”もそうかもしれない。
カントは、どちらも否定。
「普遍的な道徳性の問題は、自由であるか否かにある」
自由とは、他に原因がなく純粋に自発的・自律的であること。
共同体規範も功利主義的での行為も、身体的な欲求や他者の欲望に規定され、自由とは言えない。
カントは、自ら「自由であること」、さらに「他者を手段としてのみならず、同時に目的(自由な主体)として扱え」と言うことを、普遍的な道徳法則とした。(“のみならず“は”ではなく“と誤解される)
晩年の『恒久平和のために』は、国際連合を生み出した概念。
それは、「粗にして野だが、卑に非ず」(故石田礼助国鉄総裁を評した作家:城山三郎の言)
という美学から遠いからではないか。
JALの再生でも、整理解雇の問題で経営者/社員/株主間の責任のなすり合いでもめている。
会社更生法適用の際の経営陣は、いつの間にか社長以下関連会社に天下りし、その経営責任は何も問われない。
多分、ローカル空港乱造・便の維持などの国の介入を口実にしたいのだろう。
わずかだが、持っていたJAL株も、ついに100%減資により「ただのカミクズになりました」との通知が昨日届いた。
(12/末、1兆円もの税金でJALを再生・救済しょうとする再生計画が裁判で認可された)
民主党の(前)鳩山首相は、”友愛””日米対等なパートナーシップ”と高邁な理想を掲げたが、甘い見通しと力不足で失速し、議員辞職まで約束、潔い退陣かに見えた。
今、重いはずのその決意も、彼の頼りない心の中でゆらいでいる様子だ。
管首相の演説でも、「石にかじりついても、責任を果たしていきたい」と悲壮な決意を伏し目がちに述べる。
でも、はっきりした信念で、自分のやりたい方向をめざしているとは言えない。俗にいう「to doでなく to beのみ」でずるずると流されているようだ。
多分、ニッチもさっちも行かなくなれば、首相職を退くという責任の取り方になろう。
責任とは何か?、誰が何に対してどういう行動をとることか?
一昔前の武士道でもあるまいし、ただ、辞めたりするだけではないだろう。
子が社会的な事件を起こした時の親の責任:
法的には無罪であっても、道徳的な責任を社会(マスコミ)・共同体が追及する。
親は、「世間」というもの対する責任に苦しむ。
欧米にはキリスト教的道徳があり個人主義の基盤が根強く、中国・韓国にも儒教的道徳基軸があり逆説的に一種の個人主義を可能にしている。
日本にはそのようなものがなく、代わりに「世間」という得体の知れないものが働いている。
本居宣長は、道徳という概念は中国からきたもので、古来日本にはその必要もなかった、と観る。
家父長制もそう古いものではなく、明治以降の近代国家・資本主義とともに形成されたと言える。
国家→地域社会→家庭という相互規制の中にある。
多分、個人の倫理感とか使命感から責任をとるというよりは、「世間(マスコミかも?)」に対して当面のカッコウがつけばいい、ということなんだろうか。
実際、当人たちは自分の自由意思で決断し行動したわけでもなく、システムの代表として責任をとらされた感じなんだろう。
大きなシステムに毒され、自分を見失い、卑しい生き方に汲々としているように思えてならない。
【参考】「倫理21」 柄谷行人(からたにこうじん)
責任とは何か? 倫理とは?
根本的に考えるとき、カントの「批判」が参考になる。
道徳=善悪の問題、それは共同体規範。・・・”世間”もこれに当たるのだろうか。
これに対し、善=幸福の実現、つまり幸福主義(功利主義)欧米で支配的なもの。・・・”民主主義”もそうかもしれない。
カントは、どちらも否定。
「普遍的な道徳性の問題は、自由であるか否かにある」
自由とは、他に原因がなく純粋に自発的・自律的であること。
共同体規範も功利主義的での行為も、身体的な欲求や他者の欲望に規定され、自由とは言えない。
カントは、自ら「自由であること」、さらに「他者を手段としてのみならず、同時に目的(自由な主体)として扱え」と言うことを、普遍的な道徳法則とした。(“のみならず“は”ではなく“と誤解される)
晩年の『恒久平和のために』は、国際連合を生み出した概念。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます