子 親を苦しめず 親 子に苦しむ。
妻 夫を苦しめず 夫 妻に苦しむ。
外側の事々が 自分を苦しめているのではない。
自分が 外側の事々を 見て 聞いて どう受けとって
どう対応していくか ・・・ 一切は自分にあり というわけです。
そうした心の問題を 古人は
心こそ 心迷わす 心なり 心に心 心ゆるすな
・・・ と教えています。
この歌の
「心こそ」の心は 自分との関わりによっておこる心です。
見て聞いて触れて どう見取り どう聞きとり どう感じとったか
そうした心が「俺が」する 「私が」とする心を迷わすのですから。
外側を見聞きし理解する心が 対応する自分の心を迷わすのです。
だから
迷わす心と迷う心の二つの心での生活にになるのです。
が ・・・ それではならぬぞ と
「心に心 心ゆるすな」 ・・・ と 自省自戒をうながすのです。
人間を自覚した心です。
開き直った心や すましこんだ心とは ・・・ 全く違った心です。
妻 夫を苦しめず 夫 妻に苦しむ。
外側の事々が 自分を苦しめているのではない。
自分が 外側の事々を 見て 聞いて どう受けとって
どう対応していくか ・・・ 一切は自分にあり というわけです。
そうした心の問題を 古人は
心こそ 心迷わす 心なり 心に心 心ゆるすな
・・・ と教えています。
この歌の
「心こそ」の心は 自分との関わりによっておこる心です。
見て聞いて触れて どう見取り どう聞きとり どう感じとったか
そうした心が「俺が」する 「私が」とする心を迷わすのですから。
外側を見聞きし理解する心が 対応する自分の心を迷わすのです。
だから
迷わす心と迷う心の二つの心での生活にになるのです。
が ・・・ それではならぬぞ と
「心に心 心ゆるすな」 ・・・ と 自省自戒をうながすのです。
人間を自覚した心です。
開き直った心や すましこんだ心とは ・・・ 全く違った心です。