気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

危ない ・・・ 2.波風立たない家庭

2010-08-30 17:22:42 | Weblog
家庭というもには 不動のものなどありません。

絶対の安定もありません。


何が家庭を形づくっているのでしょうか。

それは 家庭を構成している人間同士のあいだの

  ・・・ 新鮮な触れあいです。


そして 新鮮な触れあいとは

「こんなことを言ったらまずいんじゃないか」

  ・・・ という束縛があるところには生まれません。


自由自在 ・・・
 
  相手をほめるも けなすも したいようにします。


こんな家庭を外からのぞけば なんとすざましい と思うでしょうね。


反対に
 
波風立たない家庭は 外から見ると

  なんとうまく治まっていることか と感心します。


しかし

外からのぞいてみて見た家庭などは

  ほんとうの姿の家庭ではありません。

その家庭のメンバーであるひとりひとりが

  毎日の生活を送っていく

    けんかしたり 仲直りしたり 泣いたり笑ったりする

  ・・・ それが家庭の実体なのです。


そこで交わされる言葉やらまなざしやらに

  家の中の人間の気持をはっとさせるもの

  引きつけてやまないもの つまり新鮮さがあふれているとき

    ・・・ その家庭は 生き生きとしてきます。






危ない ・・・ 1.争いのない家庭

2010-08-30 13:01:32 | Weblog
親しい人ほどよく争うといいます。

自分に直接かかってくる問題 自分と密接な関係にある人間とは

  自分のすべてをさらけだしてぶつかっていけるのです。

そして それがより深い関係をつくる原因となります。

・・・ うまく循環していくのです。


家庭においても 職場においてもそうですね。



親子の断絶 とよく言われます。

これなどは

親が 子どもの考えを理解できないというので

  ・・・ 最初から 話し合うことさえも さけてしまうからです。


子どもの行動に不満を持ちながらも 黙って見ています。

子どもの方も 頭の古い親と争ってもなんにもならない

  ・・・ と あきらめています。


こうして おたがいが争いを避けているのです。

そして たがいの意思疎通はなくなり

  ・・・ だんだんとミゾは深まっていきます。



そのうち なにかの突発事故が起こってから

「ここにも親子の断絶があった」などと 大騒ぎします。

考えてみれば なんのことはない

  ・・・ それまで争いをしていないことの当然の帰結です。



 

人間に定年なし

2010-08-30 10:37:27 | Weblog
老人クラブの会長が自殺した という話を聞き がく然としました。

人々は 世間との断絶が老人を死に追いやった ・・・ 評しています。


私は そうは思いません。


若者と老人の考え方の違い

社会の仕組みの変化による行動形態の違い

  ・・・ そんなものは 断絶であろうはずがありません。

ヒマ人の考えた「方程式」です。

「妄想です」です。



ヒネって痛いこの体は 昔も今も変わりはしません。

老いも若きも みな痛いのです。


ところが この肝心要をみな忘れ 方程式だけで考えようとします。


「もうトシなのだから 静かに暮らしてください」と言って

  若者側は いたわるふりをして 無関心を示します。


それにこたえるかのように老人側は

「やっぱり わしは用のない人間だ。

  なにもやれんのなら 生きていても仕方がない」と考えます。


要するに 生身の体でぶつかっていない ・・・ のです。



会社に定年はあっても 人間に定年はありません。


「五十六十 花なら蕾(つぼみ)。 七十八十 働き盛り。

  九十になって迎えがきたら 百まで待てと追い返せ」


  ・・・ どちらも遠慮はいりません。



老人だって 仕事はできます。


どんどん頼んで 頼み倒せ ・・・ ですよ。





代役のきかない人生 ・・・ 5.自覚

2010-08-30 08:04:42 | Weblog
そのときその場で 精いっぱいの態度で臨んでいかねば ・・・

だれも親身になって 自分のことなど心配してくれる人はいません。


私がやらずにだれがやる ・・・ この気持があるからこそ

若者に手伝ってもらった年寄りの口から

  「すまんな。世話をかけるな」 ・・・ と

しおらしい 人を動かす人情味のある言葉も出てくるのです。



替え玉のきかない自分を自覚する。

  ・・・ すべては ここから出発するのです。




    (2010/5/28 撮影 エジプト)








代役のきかない人生 ・・・ 4.精いっぱいの態度

2010-08-30 07:01:35 | Weblog
人間 たしかに弱い存在かもしれません。

だれだって磐石の自信なんかありはしません。

  ・・・ 私だって そうです。


が 自信がないからといってダラダラしていたら

  ・・・ 世の中 生きていけません。


積極的に事を進めて行かなかったら

  世間はついに私たちを給料ドロボウに扱ってしまい

私たちは つねに世間の裏街道ばかり

  コソコソ逃げるように生活していかなければならないでしょうね。


自分の持っているものは中途半端でもよい ・・・

そのときその場で 精いっぱいの態度で臨んでいかねば

  ・・・ あいつは誠意がない とされるのです。




    (2010/5/28 撮影 エジプト)





代役のきかない人生 ・・・ 3.弱い存在

2010-08-30 06:11:50 | Weblog
中学生や高校生と話をしていて感じることは

  じつに彼らは「頭がいい」ことです。

いや 頭がよすぎます。


15や16で

「自分の力は 自分で知っています」

「限界というものがあるから」

「人間は 弱い存在だ」 ・・・ などと言ってきます。



なにが「限界」だ。 なにが「弱い存在」だ。

  そんな言葉は冥土に行ってから吐け。
 
         ・・・ と言ってやりたくなります。



こんなこと言うときの彼らは 生き生きしていません。

棺おけに片足を突っ込んだ 死にぞこないのような
 
  ・・・ 情けない顔をしています。



もちろん

彼らとて 悟りすましているわけではありません。

内心ウジウジしています。

あれもやりたい これもやりたいと考えています。

不平不満がもうずまいています。


その証拠に

「そんななまいきなことを言ったって

  なにもわかっとらんくせに・・・」と挑発すると

・・・ 気色ばんで食ってかかってきます。


そのときの彼らの目は ・・・ じつに生き生きとした いい目です。




    (2010/5/29 撮影 エジプト)





「がんばってます」 は ・・・ ただのオシャベリ

2010-08-30 05:37:56 | Weblog
私は 「意見」というものを信じません。

とくに

言葉で表現される意見は その内容について

  ほとんどひとかけらの価値もない ・・・ と思っています。


「こうしたらいいと思う」

「ああすべきではないでしょうか」

  ・・・ そう思ったら 自分でやる。



「思っています」というのは

政治家の「善処します」 「慎重に検討します」と同じで

  ・・・ じつはなにもしないに等しいのです。


あるいは また

「あなたの考え方はまちがっている」

「いや そっちこそ正しくない」

  などという議論も それ自体なんの意味も持ちません。


考え方が正しいか まちがっているかなどではなく

生き方として ・・・

  精いっぱいやっているか それとも

  だらっと暮らしているか ・・・ どっちかです。


それは

言葉の上でどんなに「がんばっています」と言ったところで

  じっさいの生活がそうでなければ

      ・・・ ただのオシャベリにすぎないのです。




    (2010/5/27 撮影 エジプト)