気の広場

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徳を積む ・・・ 値うち

2010-07-26 12:09:11 | Weblog
  積(つ)めよつめ財をつむより徳をつめ

          まことの徳は崩るることなし


「徳を積む」などは 当節はやらない言葉のようです。

ましてや「陰徳をつむ」に至っては。


こういう教えは多くの人の眼に

  古くさい道徳というふうに映るらしい。

だが そう見えることこそが

  いまの日本の憂うべき世相なのでしょう。



  値うちをば身につけんとは努めずに

    金のみあさる人の多さよ


いつの時代につくられた歌かわかりませんが

いまの世をズバリお叱りあそばしているようで

  ・・・ なかなか耳の痛いことです。


「値うち」とは 人間的 人格的値うちということで

  つまり 徳の高さ 精神的深さなどを指します。

拝金主義 物質主義の世相に流されて

  人としての内面的な充実や向上をなおざりにしてしまいます。


そういう人がひじょうに多いことを この歌は指摘し 嘆いています。


「財をつむ」こと自体がわるいというのではありません。

力量があって自然にそうなるのなら 大いにけっこうなことです。

ただ 財をつむこと自体が目的になってしまうと

  本末の転倒 人の道からそれることになります。


そういう姿勢で生きると 一時的な成功はありえても

  ・・・ 長くは身につかないものですね。





宝の手 

2010-07-26 09:21:51 | Weblog
動物は「動く」だけですが 人間は「働く」ことをします。


その労働は 動物にはない「手」でなされます。

頭脳労働 肉体労働 どちらであれ

  「手」をつかわないでできる仕事はありません。


手をつかうことの量

  すなわち人の一生の労働量ということでしょう。



  なきものを仕出す宝の手をもちて

     ただおく人ぞ愚かなりける


「なきものを仕出す」とは

  「無から有を創りだす」といったような意味です。


それのできる手とは 神秘とも宝といえるものですが

その尊い手をもちながら「手をこまぬいて」何もしない人とは

  なんとバカな野郎ではないか。

  頭でなくて 心がバカなのである。

これ以上もったいない話はない。

人にたいして 神にたいして まことに相すまぬことである ・・・。


「宝の手」という表現をよく味わい
 
  自分の手をジッと眺めたい ・・・ と思います。








銭金(ゼニカネ) ・・・ 腕(ウデ)

2010-07-26 08:18:20 | Weblog
  月雪も花も紅葉も銭金も

     わが身にあるぞ働いてとれ


落語などに描かれる江戸っ子の職人たちは

  「宵越しのゼニはもたねェ」などと言って

     金銭への執着がまったくありません。

人が心配すると 「ナーニ ゼニはここに入ってら」といって

  右腕の力コブのあたりをポンと叩きます。

職人としてのウデに自信があるのです。

  ・・・ そのウデを使えばゼニになる という意味ですね。


だが それとても

人のためにいい仕事をするから つまり生業に勉めるからこそ

  ゼニが入ってくるわけで ・・・

利己の心やなまけ心でやるのでは ゼニは入っても 少ないですよ。



江戸っ子の職人にはかぎらないのです。

人間みな 事情は同じことです。

「銭金わが身にある」から はたらきさえすれば生活はできます。


経済的に安定すれば 月雪花など 風流を楽しむ心の余裕もでき

  ・・・人間らしい生き方もできようといものです。



  それにつけても ウデですよ ウデ ・・・ 。




汚れに染まる ・・・ 気概

2010-07-26 07:18:04 | Weblog
エゴイズムの充満した まことに汚い世のなかです。


どんな仕事につこうと なんらかのムジュンや不潔はさけられません。

自分もまた多少なりと それらに染まらないわけにはゆきません。

ああ イヤだ と潔癖に考えつめたら

  遁世(とんせい)でもするしかテがなくなりそうですね。


遁世してみたとて 衣食住の資は要ります。

それらは 他人の労働によってつくられたものです。

ならば 遁世こそエゴの極というものです。


自分もまた汚れた世ではたらくことを 厭うことはゆるされません。

多少ぐらいその汚れに染まることを おそれてはならないのです。


・・・ 自分だけは汚れたくない というのは 小我の倫理です。



  世のために田に出てにごる清水かな


田んぼの水をみてください。

もとは清冽な岩清水でありました。

それがあえて田に流れでて 泥ににごっているのです。

世のために 米をつくるために

  みずから汚れることをいとわないのです。

むしろ よろこんで 田に出てにごっているのです。


・・・ 大我の倫理とは そういうものなのです。


「田に出てにごる」には

人のいやがる仕事を求めてする という含みもあると考えられます。


世のためになることなら 何だって よろこんでする

・・・ そういう気概をたたえた句であろう ・・・ と思います。






祈るヒマがあるなら ・・・

2010-07-26 06:18:49 | Weblog
生活の安定やら商売繁盛などを 神仏に祈る人がいます。


祈りはけっこうだけれど

それが欲心からのものであるなら

  ・・・ 汚いだけのものでしかありません。

神やホトケが聞いてくださるはずはありますまい。



  福の神祈る間(ま)あらばはたらいて

     貧乏神を追い出だせかし


祈るヒマがあるなら はたらけ

  そのほうが結果はよろしいゾ ・・・ と言っています。



  暁の社(やしろ)に欲を祈るより

     酒を楽しみそしてはたらけ


労働が本能であるなら

  欲心からの神社詣でなど 無用のことであるはず。

そういう人は

  酒を飲むというような本能をも 適当に発散させて楽しむ。

人生 要は楽しまなくてはならない。

労働こそは その楽しみの中核であるべし。


  ・・・ そう 教えているのでしょうね。





親心 ・・・ 人の道にそむく

2010-07-26 05:18:25 | Weblog
江戸時代に加藤枝直(えなお)という歌人があり

二人の子のために いろいろと教訓の歌をのこしています。

そのひとつ ・・・


  愚かさの親に似よとは思はねど

     教えおかるる子の行方かな


・・・ こんな至らぬ親に似てほしいと思うわけではないが

やはり親心として 子の将来を考えると

  自分なりに教えられることは教えておきたい。

そういう気持にかりたてられる ・・・
 

謙虚さと かつ 子を思う親の愛および責任感と

  ともにゆたかにあふれていて まことにいい歌ですね。

親たるもの みなこんな心で 子に対するべきではないでしょうか。


当節は親の自信喪失の時代だそうで ・・・

「愚かさの親に似よとは思わないから

  教えることはあまりしないでおく」という人が少なくないそうな。


こういうのは謙虚ではありません。

卑怯 怠慢というものです。

人の道にそむくことです。










恩着せがましい 

2010-07-25 19:48:59 | Weblog
イソップ物語に こういう話があります。


狼が ノドに骨を立てた。

鶴にたのんで その長いクチバシで抜きとってもらった。

「なぜ礼を言わんか」と鶴が要求すると

「かみ殺されなかったことをアリガタイと思え」


どちらも 「恩を着せ」ているわけですが

この寓話にことよせて 人間にもおなじような手合いがいるゾ

  ・・・ と警告したのでしょうね。


恩着せがましいことをよく言う人がいます。

自分が人にしてやったことを さかんに強調するのです。

こう人にかぎって

自分が人から受けている恩には まったく鈍感です。

不感症といいたいほどです。 ・・・ 自己中心の身勝手というものです。



助けあいの世のなかです。

人と人はたがいに恩をかけあう関係にあります。

ならば 自分がしていることはさておき

  人から受けている恩にまず感じる。

  その深さを知る。

・・・ これが 無私ということで

みながそうあってはじめて 人の世の和は保たれるはずです。


ゆえに 次のような歌が詠まれたのでしょうね。


  世のなかに人の恩をば恩として

       わがする恩を恩と思ふな



エゴイズムがまかり通る世では

  「献身」ということが 自己犠牲と錯覚されやすいです。


しかし

人の世の本質をよく把握するならば

  「献身」こそが 自己を生かすことであるはずです。


「よきように使ってください」と自分を世に放りだすから

  自分というものが生かされるのでしょう。



  人をのみ渡し渡しておのが身は

     岸に上がらぬ渡し守かな



自分のことより 人のことを考える。

そういう行いのできる人に 恩を着せる心はまったくなく

  ・・・ 事実においては 人に多くの恩を施しているのです。














テング ・・・ オレが オレが

2010-07-25 16:19:23 | Weblog
人間は とかく我のつよい生きもので

「オレが オレが」という気持にとりつかれやすいものです。


優越欲という妙な欲から 多くの人は脱しえていないものです。

その欲がすこしでも満たされると

  テングになって 自慢を口にしたがります。

このちっぽけなオレを誇るのです。


「井のなかのカワズ 大海を知らず」というとおり

こういう人は例外なく

せまい世界で自他をくらべ ちょっとばかり自分がまさっているというので

  ・・・ テングになっているにすぎません。


ほんとうに力量のある人は

  広大な世界を知っているので とても高慢にはなれません。

・・・ 謙虚たらざるをえないのです。


・・・・・ 。






いまの政・財界は小物ばかり ・・・

2010-07-25 14:47:04 | Weblog
「命もいらず 名もいらず 官位も金もいらぬ人は

    始末にこまるものなり。

  この始末にこまる人ならでは

    艱難をともにして 国家の大業はなしえられぬなり」とは

大西郷遺訓のなかの有名な一節ですが ・・・


西郷隆盛においては これは観念論ではなくて

かれ自身がほんとうに そのような始末こまる人であった

  ・・・ らしいのです。



こういう始末にこまる大物が たとえ数人でも

  いまの政・財界にいてくれたら ・・・ と思ってみることがあります。


だが 考えなおしてみると

そういう人が もしいたとしても ・・・

いまの世の時勢に合わず

  野(や)にかくれて黙っているしかないのかもしれません。


世の仕組みが
 
  そういう人物を表に押しだすようにはなっていないのでしょうね?

だとしたら
 
  時勢そのものが情けない ・・・ ということにもなりますよ ね。






恥を知れ ・・・ 4.ひとり

2010-07-25 12:47:24 | Weblog
  あめつちのなかに我あり一人あり  (吉川英治)


中江藤樹の語録には

  「天地の間 おのれひとり生きてあると思うべし」

という言葉があります。


さきにあげた句は

大衆作家として鳴らした(故)吉川英治氏の作ですが

期せずして 同一のことを言っているのがおもしろいですね。


「ひとり」とは どういう意味でしょうか。

重大な三文字であって あるいは人生問題のカナメが

  このへんのところにあるのかもしれませんね。


「人間はしょせん孤独なのだ」という悟りでしょうか。

それもないではあるまいが ・・・
 
しかし とてもそんな小さな意味ではなさそうです。


「独立自尊」をたたえる意味も むろんありましょうが ・・・

しかし

漢字のこの四文字 とても「ひとり」の深さ 大きさには及びません。


思いだされるのは 西郷隆盛の

  「人を相手にせず 天を相手にせよ」という遺訓です。

案外このへんが

  ・・・ この句のココロにいちばん近いのではないでしょうか。


自分一人と大天地とが 一対一で対面しあう。

そういう心で生きる。

  そのときはじめて 真の自己確立をなしうる。

・・・ そういう含みに受けとることができるような気がしますね。



ちなみに 吉川英治氏は じつに謙虚で 徳の高い人であったそうです。






恥を知れ ・・・ 3.天地に恥じぬ

2010-07-25 11:30:45 | Weblog
  世のなかの人は知らねど科(とが)あらば

     わが身を責むるわが心かな


良心にも大小 深浅のちがいがあります。

おそろしいのは 煩悩によってそれが曇ってしまうことです。

いわゆる「良心のマヒ」です。

これが普遍的になると

国も人類もアブナイ ・・・ ということになります。



平野国臣 獄中の作。


  とらわれの身となりながら天地(あめつち)に

     恥じぬ心ぞ頼みなりける


心の磨かれた人においては

「良心に恥じぬ」と「天地に恥じぬ」はひとつのことです。


投獄されるということは

  世間には(外にたいしては) 不名誉なこと。

だが 内に神性の月が輝き それへの信あるゆえに

  低次元の恥感覚にとらわれることがないのです。


  外に恥じ外につつしむ人はただ

          影をおそれて走るなりけり

                       (中江藤樹)

「影をおそれて走る」ことがなくてすむのですね。










恥を知れ ・・・ 2.良心

2010-07-25 10:21:43 | Weblog
  我(われ)と我(わ)が心に恥ずるものならば

          恥ずべきことのなき身とぞなる

                       (中江藤樹)


  外に恥じ外につつしむ人はただ

          影をおそれて走るなりけり

                       (中江藤樹)

藤樹の歌をかりれば

「内に恥じるか 外に恥じるか」ということです。


かれはむろん 「内に恥じよ 外に恥じるな」と教えています。

「外」は 他人 あるいは いわゆる世間のことです。

「内」は 自分自身の良心ということです。


良心とは 自分ひとりの所有物なのではなくて

自分の奥に内在する神性の声

  普遍的な宇宙の理性ともいうべきものです。


つまり 真我ということで それを相手に

  それに恥じることなきよう 心がけて生きよ。

それに恥じないなら 人の批評など どうでもよろしい。

対世間的な恥の意識など もつ必要はない。


  ・・・ 藤樹の教えるところは そういうことなのでしょうね。






恥を知れ ・・・ 1.恥の感覚

2010-07-25 09:23:40 | Weblog
  我(われ)と我(わ)が心に恥ずるものならば

          恥ずべきことのなき身とぞなる

                       (中江藤樹)


  外に恥じ外につつしむ人はただ

          影をおそれて走るなりけり

                       (中江藤樹)


 中江藤樹は 江戸時代前期の儒学者で、日本における陽明学の祖ともいわれる人です。
伊予(愛媛)の加藤候につかえたのち、郷里の近江(滋賀)にかえって私塾を開き、教育に専念しました。
世人からその徳を仰がれ、近江聖人と呼ばれたことは有名です。



この二つを並べてみると
 
かれの言わんとするところが おおよそわかると思います。


「ユダヤ人は罪の意識 日本人は恥の意識のもっとも敏感な民族である」

と ある本で読んだことがあります。


この判断の正否はさておき ・・・

日本人ならずとも

人間みな「恥」の感覚なくして生きることは 不可能といえます。


「恥を知れ」

「この恥知らずメが・・・」など よくつかわれる言葉ですね。



問題は 「誰(何)にたいして恥じるのか?」ということです。

恥の感覚にも次元の高低がある ・・・ と言えましょう。


さて ・・・ 。






身をまもる ・・・ 4.経済的破綻

2010-07-25 08:22:46 | Weblog
「身をまもる」の第二は
 
  経済的な破綻をきたさないことでしょう。


借金で首がまわらなくなるというようなことは

  ぜったいにあってはなりません。

誠の道をさえ歩んでいれば そういうことは生じえないはず

  ・・・ と思うのですが いかがでしょうか?



金もちになる必要はありません。


西郷サンがいったように 「児孫ニ美田ヲ残ス」必要もありません。


生きているあいだ 衣食が足りれば ・・・ それでよいのです。


要は 人に迷惑をかけぬことで ・・・ それさえ実行できるなら

「身をまもる」の最小限は果たしていることになりましょうね。








身をまもる ・・・ 3.長生き

2010-07-25 07:00:34 | Weblog
福沢諭吉翁は

「天寿を全うするは人の義務なり」と言っています。


「長生きしたい」ではなくて

「長生きしなくてはいけない

  それが 自分を創ったもの(神)への務めだ」と言うのです。


「誠の道ぞ人のゆく道」という その誠は

  まずわが体に向けられなくてはならないようです。


日ごろ不節制をして 病気になると医者に頼る クスリに頼る

  ・・・ とても「身をまもる」姿勢ではありえませんね。