世界一周の記録

2006年8月から2008年9月まで2年1ヶ月の世界一周放浪の旅をしていました。その旅の記録です。

憂鬱さと清清しさと。ラワールピンディー(イスラマバード)

2008年05月17日 03時02分39秒 | アジア

ここラワールピンディー(以下ピンディー)には、重要な二つの仕事を片付けるために来ました。日本から送ってもらうキャッシュカードの受取(インドで財布を紛失したため)と中国ビザの取得です。

しかし、ピンディーに来てから毎日ずっと憂鬱でした。重要な二つの仕事が思ったように進まないし、ラホールで体調を崩してからずっと体調が思わしくないし、暑いし、相変わらず停電は多いし。特に体調の方は、喉の痛みがなかなか無くなりません。特に夜寝ている間に悪化することが多く、そのせいで、毎朝起きるたびに少しずつ疲れが溜まっていっている気がします。なぜかたまにゲリになるし。今も唾を飲み込むたびに喉が少し痛みます。こんな状態が、もうかれこれ15日以上続いています。原因は、今いるラワールピンディーの空気の悪さだと思います。なので、こんなところはとっとと出てしまって空気のきれいな別の町に行ってしまえばすぐに治ると思うのです。幸い、ここパキスタンは北部の山岳地帯が風光明媚なことで知られており、旅行者はこんな暑くて空気が汚い町はとっとと出てしまって、空気がきれいで涼しいそちらへ向かい、そこでのんびりするのです。以前、エジプトでも同様の事がありました。カイロ(空気が超汚い)でずっと治らなかった風邪が、バスで9時間かけてダハブ(空気がきれいなビーチリゾート。)へ向かっている途中にすっかり治ってしまったことがありました。

ピンディーは首都イスラマバードと15kmしか離れていないので、ビザ申請の旅行者は宿泊施設の少ないイスラマバードには泊まらずにピンディーに泊まって、そこからイスラマバードに通うことが多いらしく、僕もそうすることしました。日本からのキャッシュカードの送付先として日本大使館に電話でお願いしたところ”テロの危険があるため”あっさりと断られ、仕方なくイスラマバードの中央郵便局宛に送ることにしました。日本大使館いわく「単なる手紙といってもそこには炭素菌が入っているかもしれませんからね。」

まず手始めに、中国ビザの申請と、中央郵便局に局止めの送り方を確認するために、イスラマバードに朝から出かけていきました。ピンディーに着いたのが金曜の夕方だったため土日の二日間は何もできずに待った末にです。ちなみにピンディーには見所と呼べるような場所は全くないです。ただ暑くて空気が汚い町です。ひたすら部屋で1人で本を読んで過ごしました。体調が悪化しました。

ピンディー名物・果物屋台。これはメロンです。


そんな体調が優れない中、バスを3回も乗り継いで1時間半かけて中国大使館に着くと、大使館の建物の外にはすでに中国ビザ申請に来ているパキスタン人たちが行列を作っていました。僕も渋々並んで待っていたのですが、なぜか列はなかなか進みません。ディズニーランドのように待ち行列用の鉄柵が作られているのですが、ディズニーランドのような楽しいアトラクションが行列の先に待っている訳ではありません。残念ながら、待っているのは冷酷な中国大使館員です。

結局、大使館の中に入るだけで1時間半も待たされました。そして、ようやく入れた大使館でビザを申請すると、冷酷中国大使館員が冷たい口調で「何しに中国へ行くの?どのくらい中国にいたいの?3ヶ月?何でそんなに長いの?」などと聞かれ、「もしビザが欲しいなら、中国へ行く飛行機のチケットと中国滞在中のホテルの予約が必要だ。それを持ってもう一度来なさい。」と言われてしまいました。

これは、かなり予想外の反応でした。ここイスラマバードは中国ビザが取りやすい場所と聞いていたし、必要なものはパスポートコピーと写真一枚だけだと聞いていたし、珍しく3ヶ月滞在でダブルエントリーのビザ(一つのビザで2回入出国できる)を発給してくれる優良大使館のと聞いていたのに・・・。僕は、中国入国後にキルギスやウズベキスタンを少し周ってから中国に再入国する予定だったので、最低でもダブルエントリーのビザが欲しかったし、チベットへも行きたいのでビザの期間も3ヶ月は欲しいのです。飛行機のチケットに関しては、陸路で中国へ行くことを説明してバスのチケットでもいいことになりましたが、いったいその二つをどうやって揃えたらよいのか。それに、もしそれらをきちんと揃えて提出しても、すんなりビザを発給してくれるのかどうか・・・。その日、ラホールで同じ宿だったスペイン人と偶然会ったのですが、彼も冷酷中国大使館員から色々と難題をふっかけられて困っている様子でした。この日、僕には中国大使館員が鬼に見えました。

その後、無駄に広々としすぎている灼熱のイスラマバードを歩きまわり、郵便局へ行って局留めの宛先の書き方を教えてもらい、また1時間かけて蒸し風呂のようなミニバスでピンディーの宿に戻ったら、さらに体調が悪化してしまい、翌日は宿のベッドから一日出れませんでした。なんてひ弱なんだ、俺は・・・。

蒸し風呂ミニバス


翌々日、ツーリスト・オフィスでバスのチケットを高額でゲットし、ネットカフェで安い中国のユースホステルを予約しそれをプリントアウトして、ビザ申請の準備は整いました。その翌朝、今度は早朝に出発したので、まだ空いている時間に大使館に着きました。大使館員は、また冷たい口調で(目も合わさずに)「何で90日も滞在するんだ?」と聞いてきました。「中国はとても大きいし見るべきものがたくさんあるので(お世辞)。」「ふーん。ビザは1ヶ月のシングルエントリーのみだよ。有効期間は今日から一ヶ月。」「え!?そんな。中国への入国が1ヶ月後なのに。それじゃあ入国したらすぐにビザ期限が切れるじゃないですか。」「じゃあ、一ヵ月後にもう一度来なさい。はい、次の人。」と言って僕は追い返されてしまいました。途方にくれて宿に帰ると、同じ日にビザを申請に行っていた別の旅行者がビザを取ってきていて、それを見ると1ヶ月の有効期限というのは、入国までの期限が一ヶ月で、入国した後その入国日からさらに1ヶ月の滞在が可能という内容なのでした。僕は誤解していただけなのですね。別に今日申請してもよかったのですね。一日を無駄にしたのですね。僕はなんだか頭まで痛くなってくるのを感じました。

宿の目の前の風景。肉塊と化した同胞の亡骸の目前で食事をする羊たち。


しかし、日本からのキャッシュカードの送付は実家の両親の手際の良い仕事の甲斐もあって順調に進んでいて、どうやら後4日後くらいには届きそうでした。どうせその時に再度イスラマバードには行かなければならないので、同時に中国ビザを申請することにして、それまではひたすら待つことにしました。幸いEMSというサービスで送るとインターネットでどこまで郵便物が届いているのかを追跡することができるので、イスラマバードに届いたことを確認してから取りに行けばよいのです。

そうして、僕はひたすら待ちました。暑いので外に出ることもなく、ひたすら部屋に篭ってパソコンでゲームをしながら(今回は聖剣伝説3)。そしてまたゲリなどで体調を崩しながら。数日後、インターネットで配達状況を確認すると郵便物は無事パキスタンに着いたみたいです。しかし、着いた先はカラチ。まずは首都に着くと思ってイスラマバード宛にしたのに、これは誤算でした。でも、カラチからなら2日もあれば十分イスラマバードに着くでしょう。

この待っている間に、懸案のチベット行きについてインターネットで色々と調べたりもしてみました。分かったことは、「今は外国人のチベット旅行はほぼ無理」ということでした。今年3月のチベット暴動以来、ずっと外国人のチベット入域は禁止されているみたいです。6月下旬の聖火リレーが終わった後、入域許可が出る可能性があるらしいですが、それも未確定です。それに1ヶ月しか滞在できないビザなら、もしチベット入域にチャレンジして成功できたとしてもビザの期限をオーバーする可能性が高そうです。もし期限をオーバーしてしまうと、一日につき7500円相当の罰金らしいです。憧れのチベット・・・。この2年間の旅の最後にして最大のハイライトになるはずだったカイラス巡礼が・・・。ああ、また憂鬱になってきました・・・。


近くのウィグル料理屋のラグメンという麺料理

腰のあるうどんのような食感で、かなりおいしかったです。毎日食べてました。


そして二日後、郵便局に電話して郵便物が届いているか聞いてみました。30分くらい探してくれましたが見つからなかったみたいで、どうやらまだ届いていないみたいです。随分と真剣に探してくれていたみたいなので、きっと本当にまだ届いていないのでしょう。その日は諦めて、部屋に引篭もってゲームをして過ごしました。目と肩と腰が痛くなりました。これはいかんとヨガをすると、体がとても硬くなっていました。


翌日、ドキドキしながら郵便局に電話をしました。
「日本からの郵便物?届いてないよ。」
「え!?でも、3日前にカラチに着いてたんですよ!?なぜなんですか!?」
「俺に聞かれても知らないよ。担当責任者は別の人だから、彼にいいなさい。電話番号は、XXX・・・。」
僕は唖然としながらも、その言われた番号にかけてみました。しかし、何度かけても誰も出ません。僕はまたその日の受取は諦めることにしました。それにしても、いったい何があったのだろう。カラチからイスラマバードまで3日もかかるはずはないのに・・・。(実際に郵便局員も二日で届くと言っていた)ひょっとして、誰かに盗まれたのだろうか。パキスタンなら十分ありうる。発展途上国だし、貧乏そうな人がたくさんいるし。そう思うと、道行くパキスタン人が全員犯罪者に見えてきました。みんなアホそうな顔に見えてきました。そして僕の心はどんどん荒んでいきました。何もかもが憂鬱になってきました。食堂で食事をしている時、僕をじろじろ見てニヤニヤしながら何かを言っている若いパキスタン人の店員がいました。普段ならそんなことは気にならないのですが、この時はそんなことがとても僕を不愉快にさせました。僕はそいつを睨みつけて、何か文句あるのか?と英語と日本語で言いました。そいつは、別に、と言って僕から離れていきました。もうパキスタンなんて嫌いだ。なんなんだこの国は。旅行者の大事な郵便物を盗むし。無礼だし。ご飯はあまり美味しくないし。インドの核ミサイルが誤射してパキスタンに落ちればいいのに。そして、この不愉快な国と僕の憂鬱を一緒くたに吹き飛ばしてくれればいいのに。インターネットで一応郵便物の状況を確認すると、相変わらず3日前にカラチを発送したところで止まっていました。この日、深夜まで部屋でゲームをして過ごしました。目が疲れて充血して真っ赤になりました。

”檜風呂の宿 つるや”

俺をつるやに連れて行ってくれ・・・


翌朝、半ば諦めつつも郵便局に電話をしました。やはり郵便物は届いていないみたいです。電話に出た人がいうには、「是非郵便局に来て責任者に直接訴えなさい。4日もカラチからの郵便物が届かないなんて、ありえない。パキスタンの郵便はベリー・グッド・サービスなんだ。信じられない。とにかくここに来なさい。」とのことでした。は!?何がベリー・グッド・サービスやねん。信じられない、とはこっちが言いたいわ。と思いながらも、直接郵便局へ行くことにしました。幸い、体調(のどの痛み)の方は、外出せずにずっと部屋に引篭もっていたせいか随分と良くなってきています。

すぐに宿を出て、郵便局へ行きました。その配達責任者のオフィスに行くと、そこには彼はいませんでした。同じく待っている人に聞くと会議か何かで30分くらい戻ってこないそうです。そして僕も一緒に待つことにしました。特に他に予定があるわけでもないし、いくらでも待ちますよ。そして、1時間くらい待ちました。さすがにイライラしかけて来た時に、僕の目の前で働いていた別の郵便局員(フレディ・マーキュリー似)が声をかけて来ました。僕が日本からの郵便物を受取りたいということを言うと、彼は僕をパソコンのある部屋に連れて行ってくれました。そこで、郵便物の追跡番号を入れると、僕の郵便物の配達状況が出ました。なんと、僕の郵便物は2日前にはイスラマバードに着いていて、その日のうちに”イスラマバードから発送済み”という全く予想だにしないステータスになっていたのです。驚きの余り僕の顔は埴輪のようになりました。実はイスラマバードには既に着いていて、そこからどこかに発送されていた!?本当にありえない状況です。”郵便局止め”としか宛先を書いていないはずなのに、一体それをさらにどこに送ると言うのか。呆然とする僕をそのフレディ郵便局員は「大丈夫。大丈夫。こっちに来て探そう。そんなに緊張しなくても大丈夫。きっと見つかる。」と言って別室に連れて行きました。その部屋には、たくさんのEMSで送られてきた郵便物が置いてあり、その内の一つは残念ながら僕宛ではなかったですが日本からのものでした。他に、中国や韓国などからの郵便もありました。フレディがそこの担当者と何やら話すと、担当者がロッカーの所へ行き、鍵を開けてその中から一つの封筒を出してきました。なんと、それは実家から送られてきた僕宛の封筒でした。まさか、今日郵便物を受取れるとは思っていなかった僕は、また埴輪のような顔になってしまいました。あまりの目まぐるしい状況の変化に何も考えられなくなりました。電話して届いているかどうか確認しても、誰もこのロッカーまでは調べていなかったということですか。さっきのコンピューターの表示はウソですか。でも、良かった。とにかく本当に良かった。フレディ似の郵便局員に何度もお礼を言って、郵便局を後にしました。

やっぱりパキスタンの郵便はベリー・グッド・サービスでした。疑ってごめんなさい。核ミサイルが落ちればいいのにとか思ってすいません。パキスタン、良い国です。(でも、電話で問い合わせた時に届いている郵便物を届いていないと言った郵便局員は問題だけど)道行くパキスタン人が、みんな賢そうで、優しそうで、深い人生を送っていそうな人達に見えてきました。みんな大好きです。


宿の前の通り

いつも何やら賑わっています。


翌日、中国大使館にビザを取りに行きました。ミニバスの中で若いパキスタン人に話しかけられました。
「中国人?それとも韓国人?」
「いや、日本人だ。」
「日本はとても発展している。でも、パキスタンは発展していない。何が違うのだ。君はどう思う?」
「パキスタンのことは俺にはよくわからないよ。でも、一般的にいって発展途上国が発展する上で一番大事なことは教育なんじゃないの。」
「でもな、パキスタンでは良い教育を受けた人はみんな海外に行ってしまうんだ。ここには安全というものがないからな。」
「君はどうするんだ?」
「俺は今MBAの勉強をしている。これが終わったらもちろん海外へ行くよ。イギリスかマレーシアか日本か、とにかく、どこか海外だ。パキスタンで働いていたら、いったいどうやって家族を守ればいいんだ?誰が守るんだ?」

イスラマバードには各国の大使館が集まっているのですが、そこに入るには安全上の理由で専用のシャトルバスを使わなければいけません。そこの乗り場では荷物を預け、何度もボディチェックを受けてバスに乗ります。今更だけど、やっぱりこの国は安全じゃないんだな、と思いました。


中国大使館では、無事1ヶ月シングルのビザをもらえました。これで、ようやくここでするべき二つの仕事が片付きました。

その帰り道、ある中年のパキスタン人に日本語で話しかけられました。彼は、日本の茨城県に住んでいるらしく、仕事は重機を日本で仕入れてアジアに売っているらしく、奥さんが日本人で、今はパキスタンに一時的に帰省をしているとのことでした。子供は4歳で幼稚園に行っているのだそうです。しばらく話をして打ち解けてきて、バスの乗り場まで戻ってきたとき、彼に一緒にお茶でも飲もうと誘われました。そこには、彼の兄弟と二人の甥が待っていました。僕が、この後モスクの観光に行く予定だと言うと、彼(通称アリババさん)は車で送ってくれると言ってくれました。ありがたく、彼の新しいトヨタ・カローラに乗せてもらいました。彼らは本当に親切でフレンドリーでした。食べ物や飲み物などを僕が言う前に次々と買ってくれたりするし、甥の二人(多分20歳くらい)は片言の英語で必死に僕と話をして楽しませようとしてくれるし、アリババさんは日本語でイスラマバードやモスクについて話をしてくれました。いつの間にか、僕はパキスタンという国がとても好きになっていました。これまでの2週間の憂鬱は、どこかに消えていました。後には、ただ清清しい気分だけが残っていました。


アリババさんと

首から下げている花の輪は礼拝所で祈っていたら係りの人がなぜか僕だけにくれました。
男同士で手をつないでいますが、別に変な意味は無いですよ。無いはずですよ。パキスタンでは男同士で手をつなぐのは、全然普通のことらしいので。

甥っ子二人組

右の髪の毛の長い男前は彼女が4人いるそうです。「そんなの普通だよ。」だそうです。



ラワールピンディーには結局16日間も滞在してしまいました。初めは、この何もない町が嫌で嫌で仕方なかったけど、今はここを出て行くことが少し寂しいです。


この滞在の教訓は、”終わりよければ全てよし”ですね。


宿の屋上からの夕焼け