白木健介さん(当時21歳、兵庫県立神戸高卒/硬式テニス部)は、神戸市東灘区御影町郡家大蔵の自宅のプレハブの離れで就寝中だったと思われる。母屋で激震を感じた両親は、揺れが収まってから窓の外を見た。そこには、隣家のコンクリートブロックでできた倉庫が健介さんのプレハブにのしかかっている光景があった。
何時間もかけてようやく上半身だけ瓦礫から引っ張り出したが、巡回して来た医師の判断は、「ほとんど即死だったろう」という言葉だった。
父・利周さん(77)と母・朋子さん(故人、2001年没)は、慰霊碑を巡る「モニュメント交流ウォーク」で他の被災者と巡り合ったことで、閉ざしていた心が少しずつ開けたという。
病気療養中の利周さんに、神戸市北区のご自宅でお話をうかがった。
(写真:愛猫キコを抱く健介さん)
きき手)地震で揺れた時、白木さんはどこにいらしたんですか?
父)東灘区御影町大倉の自宅でした。揺れで目が覚めました。頭の上にあったテレビが飛んできたってことぐらいしか記憶にないですね。
きき手)飛ぶとは?
父)飛んできて、お腹の上にボーンと落ちてそれで目が覚めた。
きき手)奥様は?
父)女房は台所で準備をしていました。その時、「火は大丈夫かぁ!火を消せ」って叫んだ。でも、動けなかった。すごい揺れで。妻は食卓にしがみついてました。
きき手)何度かドーンドーンと来たそうですね。
父)だから、最初のどーんでテレビが飛んできて、目が覚めて。すぐ柱にしがみついて。動けないですからね。テレビはちっちゃなのでした。
きき手)で、息子の健介さんは?
父)北側の庭にプレハブを建ててまして、そこにいました。自分の部屋で、12畳ぐらいですか。勉強部屋兼、寝室として使ってました。
(写真:自宅で健介さんのことを語る父・利周さん 2019年12月30日)
外を見た時、真っ白だったんですよ 砂ぼこりみたいな感じで
父)ぱっと外を見た時、真っ白だったんですよ。
きき手)真っ白?
父)砂ぼこりみたいな感じでね。で、ぜんぜん見えなかった。かすんでた。しばらく揺れが収まるのを見てて。だんだん晴れて来てれ、見たら、ぺっちゃんこになってるわけですよ。あらーっ、えらいことになっているって感じで。
きき手)プレハブが?ぺっちゃんことは?
父)お隣の倉庫が、ちょうど1.5メーターほど、上の段にありました。
きき手)敷地が高いんですね。
父)(倉庫が)そのままどーんと、横揺れで、ずってきて。プレハブの上にどんと乗っかってたんですよ。
きき手)倒れこんで来たんですね。
父)ええ、塀をぶち抜いて。ブロック塀を。
きき手)塀もろとも?
父)どーんと落ちて来たわけです。
きき手)倉庫とはどんな?
父)コンクリートブロックで作った倉庫でした、平屋の。5メーターぐらい(離れた)うちの母屋の方まで倒れてきました。トイレ兼洗面所が潰れました。母屋は元々古い家で、戦後すぐに建てたものだったんです。一時、社員寮なんかに使ってた。
きき手)戦後すぐということは、築50年ほど経ってたんですね。倒れて来たブロックづくりの倉庫はどんな大きさでしたか?
父)車2台が入るぐらいの大きさでした。うちのプレハブも、同じぐらいの広さでした。プレハブは、横揺れ、縦揺れにそんなに弱くはないんですよ。でも、上から乗っかられると、潰れてしまいますよね。
ずーっと声をかけてましたね。「元気かー!いるかーっ!」って
きき手)もやが晴れて、健介さんのいるプレハブが潰れているのを見て、どうされたんですか?
父)ずーっと声をかけてましたね。「元気かー!いるかーっ!」って。でも返事ありませんから。私も声かけるし、女房も声かけるし。
きき手)奥さんの様子は?
父)もう必死でしたね。「お兄ちゃーん!お兄ちゃーん!」って呼んでました。もう一つ、南側にもプレハブがあったんですが、そっちのほうはね、声かけたらすぐ返事が返ってきたんですよ。かおりが。
きき手)妹さんの方が。かおりさんは無事だった?
父)無事だった。中は、蛍光灯が落ちてきた、ぐらいのことでした。
きき手)隣が倒れてきさえしなければ、健介さんはそんな大ごとにはならなかった?
父)いやーあの状況ではね、何が起こるかあわからないような状況ですね。まあ、たしかに、蔵さえなければ、あれはならなかったかもしれませんね。
きき手)蔵とおっしゃったので、土蔵かと思いましたが、コンクリートブロック造りの倉庫だったんですね。
父)(ブロックの)中に芯が入ってませんでしたから。
きき手)鉄筋の芯が入ってなかったんですね。
父)隣とは懇意にさせていただいていたので、責任がどうのこうのというのはありませんしね。
布団の中に手を突っ込んで、あっ、あったかいな、って
きき手)そのあとどう行動されました?
父)探しに行きました。壊れた中に入っていくんですけど、すぐに余震で、出てこなくちゃいけない。その繰り返しをしながらね…。それでも見つけたのが、その日ですから、4時間ぐらいあと。布団があって、布団の中に手を突っ込んではじめて、あっ、あったかい、っていう感触があったんですよ。
きき手)体に触れたんですか。
父)ええ、腕に。
きき手)…。
父)あったかいとはいうものの、我々のあたたかさではない。
即死。右のこめかみのところを打っていた
父)ちょうど4時間ぐらいして、巡回のお医者さんが回ってこられて、警察、消防も回ってきて…。
きき手)巡回があったんですね。
父)被害があるところを回ってこられて。そのときに、先生(医師)がずっと(プレハブに)入っていって。で、診てもらったところ、せいぜい命があっても15秒ぐらいでしょうねと。本当に即死。右のこめかみのところを打ってるというぐらいで、それ以外はなんにも外傷なしで。
きき手)健介さんは、救出されての確認だったんですか?
父)いえ、引っ張り出せなかった。
きき手)瓦礫の下での判断?
父)はい。お医者さんが手を突っ込まれて、
父)かなり引っ張り出せてはいたんですが、下半身は完全に挟まれたままでしたので。皆さんにお手伝いいただいて、なんとか上半身だけ出してきたんですけども、それ以上動かすことができなくて。
きき手)お医者様が脈をとったりして?
父)してもらった結果ね。ほとんど即死ですよ、といわれて。引っ張り出したんだから助けたいという気持ちもあったんだけど。消防署員や警察の方も、「我々の仕事は生きてる方を最優先しますので」っていうことで、すぐ次の場所へ行かれました。昼の11時ぐらいです。
父)結局、(瓦礫の下から)助け出したのは翌日、午前10時ぐらい。お昼前に、救急車が来てくれて、灘高校の体育館に運んでくれることになったんですけどね。(運んでくれたのは)京都の田辺の救急車でした。
きき手)京田辺の消防の。
父)はい。場所がわかってましたんで、すぐ追っかけます…というところから、行き先がわからなくなって。
きき手)灘高校に運ばれたんじゃなかったんですか。
父)いったん行ったらしいんですが、あまりにも(遺体が)多くて、置けないということで。あっち行ったり、こっち行ったりして。
崩れて来たブロック塀をくりぬいて引っ張り出した
父)で、水道局の体育館にも行ってみたりとか。
きき手)住吉川沿いの阪神水道企業団の?
父)ええ。で、最終的には、区役所の地下に保健所があったんですけど、そこに安置されてました。それが、お昼の2時ごろですかね。
きき手)どういうように、健介さんはどういうかたちで引っ張り出されたんですか?
父)レスキュー隊が来て、崩れて来たお隣のブロック塀をくりぬいて。
きき手)削岩機のようなもので?
父)ええ。穴を大きくあけて、動けるようにして。
きき手)それがないと、救出できなかった?
父)ええ。とてもじゃないけど、バールとかああいったものでは、動かすことができなかった。「もう、切ります」ということで。
父)切りますといっても、2次災害が起きるかもしれないし、ということで、慎重にね、やっていただいて。(目処がついたら)じゃあ次行きます、とすぐ次に。
きき手)転戦されていったんですね。
保健所からお棺に入れて引き上げてきた
父)うちも(母屋が)潰れてましたから、じゃあ、どこで寝るのと。たまたま道路挟んで北側のお家の方が、大阪のほうで会社やっておられて、従業員が心配だということでそっちに行きますので庭は使っていただいて結構です、ということで。そのお宅の庭先に毛布とか引っ張りでしてきて、そこで寝泊まりすることになったんですけども。翌日の1月20日には、一部屋ちょうど和室も使っていただいていいですよということになって、そこをお借りして、保健所からお棺に入れて引き上げてきて、その部屋でまた1日寝させていただいて。
父)1月23日でしたかね、車の手配をしていただいて、池田の会社の寮に連れて行って、1週間ほど。その間にどこで荼毘にふすかということになって。
きき手)あのとき神戸ではとても、すぐに火葬できるできる状況ではなかったですね。
父)つてがあって川西市で荼毘にふすことになって。でも住所が違うから、ということですぐに住民票を移して、その翌日23日荼毘にふしました。
きき手)火葬される場所でみなさん手をあわせて、これがご葬儀ということだったんですね。
父)そういう段取りや手配はとても個人ではできなかったので、すべて会社(自動車メーカー)の組合の方がやってくれました。会社というのはありがたいなあ、と思いましたね。
きき手)ご自宅の被害は大きかったんですね。
父)玄関つぶれてますね、屋根瓦は全部落ちてますし、8畳の間の床は全部抜けてるし、生活できる状態じゃなかったですね。
父)荼毘にふす日の前の日から、尼崎の会社の研修センターに3部屋を借りて生活させていただいてました。そこは、今の「つかしん」のすぐ北側にある、私の職場でした。そこで、さあ家を探さなければということになりました。
母・朋子さんの死はストレスからくる膠原病だった
きき手)奥様の朋子さんは息子さんのことで必死だったんですね。
父)もう必死でした。一応、全部(葬儀などが)終わってからも、子どものことが頭から離れない。何かあるごとに、お兄ちゃん、お兄ちゃんと…。でもなんとか1年目は過ごせたんですが…。生きる目的ができて。
きき手)生きる目的とは?
父)自分でお金を貯めて白木健介基金をつくって、経済学部生の優秀な卒論を表彰することにとりくみました。
きき手)その後、奥様が体調を崩されましたね。
父)2000年に「希望の灯り」ができまして…。
きき手)神戸市中央区の東遊園地の慰霊と復興のモニュメントですね。
父)病院に入ったのは、その翌年の2001年の6月でしたから。
きき手)亡くなったのが?
父)2001年11月でした。結局原因はわからなかった、結果的には、ストレスからくる膠原病ということで。ときどき、ぼーっとしていました。
(写真: NPO理事長を経験した白木さん=右端=は、遺族として多くのメディアにコメントを求められた。2012年1月17日朝、神戸市中央区の東遊園地で)
NPOの理事長に就任
きき手)NPO法人阪神淡路大震災1.17希望の灯り、略称HANDS(ハンズ)にかかわられたのは、何がきっかけだったんですか?
父)震災3年の1998年に、吾妻小学校(中央区吾妻通、現・コミスタこうべ)で「1.17のつどい」がスタートしました。そして、1999年には東遊園地(中央区加納町)でやるようになったんです。中島正義さんが中心になってやっておられたんですが、私も声をかけられて「お手伝いはできないかもしれないけど参加するわ」といって、99年から参加させていただいたんです。
毎年、1月17日の震災の日の早朝に行われる「1.17のつどい」は、1998年に被災者を中心に結成された「神戸・市民交流会」が中心になって、震災当時避難所のあった吾妻小学校で行われたのが始まり。竹筒にロウソクの火をともす「竹灯籠」を並べる追悼の行事も、このときに行われ、現在も恒例となっている。代表の中島正義さん(故人)が京都府長岡京市の行事を避難所のテレビで見たのがきっかけだったといわれている。(神戸市『協働と参画のプラットホーム通信』2008年2月15日 https://www.city.kobe.lg.jp/ward/activate/participate/platform/vol33.pdf より)
父)1999年に市民交流会というのができて、神戸市も入ってきて東遊園地でやるようになったんです。
きき手)そのときは、まだNPOの形ではありませんでしたね。
父)実際にNPOを立ち上げようという形になったのは、まだあとですわ。2002年の1月17日の震災の日のあとに、市民交流会を支える組織をつくろうという動きがありました。
NPO法人「阪神淡路大震災1.17希望の灯り」(略称HANDS)は、神戸市中央区の東遊園地内に建立されているモニュメント「1.17希望の灯り」を通じて、震災のことを忘れず伝えていくための活動をしている震災遺族や市民らでつくる団体。2002年3月10日に、法人化へ向けての設立総会が行われ、理事長に白木さんを選出。中島さんは副理事長についている。7月1日に設立が認証された。2010年に認定NPO法人になっている。(内閣府 https://www.npo-homepage.go.jp/npoportal/detail/115010097 /「HANDS灯り通信」 http://www1.plala.or.jp/monument/hands_0101.htm ほか)
きき手)そこで、初代の理事長になられたんですね。
父)定年になったんだからやれよと、周囲からいわれたのと、なんかやらなきゃ、子どものためにならないという思いとで…。理事長は2年なんですが、その後も理事としてサポートしてましたね。私の後は松浦潔さん、そのあと2006年には堀内正美さんがついて。堀内さんが1年足らずで降りられたんです。やむをえず残りの任期を私がやるということになりました。そのかわり、(2012年に)亡くなられた大下さんがバックについてくれましたからね。あのころみんな助けてくれましたからね。
運営を若い人たちに譲って NPO法人を離れる
きき手)完全に活動からおりられたのは?
父)2012年。東日本大震災があった翌年の10月ぐらいだったと思いますよね。ちょうど世代交代っていう時期ですよね。若い人たちが中心になってやろうかというので、「いいよ」って。それはかまわない。というか、わたしがそこにいると、足を引っ張ることになるんで。
きき手)どうしてですか?
父)私が全部わかってるじゃないですか?その考え方おかしいよって、反対の立場になるんじゃないかなっていうのが自分の中にあったので。それだったら居ない方がいいよね、って。いうかたちで、降りる、HANDSも辞めますって。全ての役職やめるし、HANDSも離れますって。
きき手)はー…。
父)その時みなさんから言われました。「なんでそこまでしなきゃいけないのか」って。もう、若い人たちがいろんな発想で動けるようにするためにはね、いわゆる古風なね、昔かたぎの人間はいいでしょ、と。(笑)ということで、抜けました。
(写真:2009年1月17日、神戸大慰霊碑で1年ぶりに出会ったほかの学生の遺族らと写真におさまる白木さん。)
泣きたい時に泣きましょう、みんなで共有しましょう
きき手)奥様と「モニュメントウォーク」をされたことも、こうした活動に入られるきっかけになったとうかがいました。
父)第2回の二葉小学校(神戸市長田区)に行こうということになって。そこに、女房が住田さんの本を持ってきていて。それを、堀内正美さんに見つかって、「それ何?」って。子どものことを書いていただいてた…。それを読んでるのも私、知らなかったんですよ。それを読めって言われて。
きき手)誰に?
父)堀内さんから。で、それをぽっと渡されて。(息子についての)最初の二文字ぐらいを読み始めたら、もうだめでしたね。息子のことがばーっと頭に浮かんできて。で、涙が止まらなかって。それでそのときに、「ちょっと泣かせてください」って。
きき手)ウォークの行事の最中に?
父)二葉小学校の慰霊碑の前で。その時に周りの人たちが、「このウォークは泣いていいんだよ」って。泣きたい時に泣きましょう、みんなで共有しましょう、って声をかけていただいて、それからですね。あれがなかったら、それっきりで終わったかもわかりません。
きき手)自分たちだけではなくて、同じように苦しみ悲しみをもった人たちがいるんだと。
父)遺族も含まれますし、被災者もそこに入ってきて話をして。それからずっとしばらく参加しましてね。その次はたしか、東灘を歩くということで、住吉川あたりを歩いきました。
記録や当時の新聞報道によると、「モニュメント交流ウォーク」はボランティア団体や企業などでつくる「震災モニュメントマップ作成委員会」の主催で始まり、
▽第1回 1999年4月17日 須磨区鷹取駅前出発、長田区満福寺、二葉小学校「やさしさわすれないで」の碑ほか。
▽第2回 1999年6月27日 芦屋市津知町から東灘区阪神魚崎駅。
▽第3回 1999年7月17日 東灘区の弓弦羽(ゆづるは)神社周辺と灘区。
とある。
主催の「震災モニュメントマップ作成委員会」について、4月16日付の毎日新聞には、「阪神大震災の被災地に建つ慰霊碑などのモニュメントの所在地を示した『震災モニュメントマップ』が、大きな反響を呼んでいる。 作成委員会事務局のボランティア団体「がんばろう!!神戸」(神戸市北区、堀内正美代表)には、感想や新たなモニュメントに関する情報提供などが次々と寄せられている。今月17日には、マップを使い、神戸市東灘区の被災者が長田区の慰霊碑を訪れる、初の「震災モニュメント交流ウォーク」もある。」とある。
第1回モニュメント交流ウォークを取り上げた、共同通信配信の記事(1999年4月18日付京都新聞ほか)は、白木さんの妻・朋子さんについて、「震災で大学生の長男を亡くした兵庫県伊丹市の主婦(55)は『息子の死がつらくてずっと心を開けずにいたけど、これで他人にも目を向けられるようになった気がします』と話した。」と報じている。
第3回ウォークを取り上げた、毎日新聞の記事(1999年7月18日付朝刊)は、「長男を亡くした会社員、白木利周さん(57)=兵庫県伊丹市=は、震災当時暮らしていた東灘区御影町の自宅跡に参加者を案内し、『生き残った者が生を全うするよう励まされる気がする』と話した。」と伝えている。
きき手)このときは、白木さんは、奥さんの朋子さんとともに、一般の参加者だったんですね。
父)一介の参加者でした。それがだんだん組織化をしていかなきゃいけないということで動き始めたときから、もう完全にひっぱりこまれたというのか…。
きき手)引っ張り込んだのは誰なんですか?
父)堀内正美さん。人の心をつかむのがうまいからね(笑)。あの堀内さんが頑張ってるんやったら、我々もがんばろうやないかと。
多くの方が亡くなったことを記憶に残していただいたら
きき手)神戸大の慰霊献花式が毎年続いているんですが、ここに現役の学生が一人も来ない、慰霊碑があることすら知らない学生がいるということをどう思っていらっしゃいますか?
父)これは強制できるもんじゃないですし、心の問題でもあるんですよね。「感性」の豊かな学生がいるかいないか。てことは、他人の心を思いやる気持ちを持ってる学生がどのくらいいらっしゃるかな。そういった学生たちが集まってくるんじゃないですか。いまは、大学新聞関係の学生だけが来るけども…。
きき手)そういった学生たちがいるということは?
父)まだ途絶えてはいないということです。震災があったということは聞いているでしょう。それを伝えていきたいという気持ちを持ってる限りはね。
きき手)これから入って来る、未来の学生に伝えたいことは?
父)震災があって多くの方が亡くなったことを、記憶に残していただいたらいいと思うんです。その中から自分のできることは何だろうかと考えていただく。大学の慰霊碑も、「これなんだろうかな?」という形で知ることができる。伝わっていく。話をしていただきたい。
きき手)語る人を途絶えさせない、ということですかね。
父)いまはいる。神戸大学にはたくさんいますよ。
父)私は羽曳野市立羽曳野小学校の子ども達には、毎年、語ってきました。かれらもそろそろ大学生になる。
きき手)代々の児童たちには、種を撒いてこられたんですね。
父)みんなが思い出して話してくれたら、つながっていくじゃないですか。
きき手)白木さんはいろいろなところで講演されてきましたから、それぞれのタネが語ってくれれば安心ですね。
父)(追悼行事や語り部など)いつまでやってるんだという声もあるんです。でも、新たに災害で大きな被害を受けたり、心の傷を持った方たちが、「神戸がああいう形で頑張ってるんだよね」っていうことが、ずっと伝わっている。1.17のつどいは、神戸のものだけではないんですよね。(新たに)被災した人たちに、我々遺族が話をする機会がもっとあればいいなと思ってますね。
「ここまで生きてこられたのは、お前のおかげだよ」
きき手)当時21歳の大学生だった健介さんが生きていらしたら何歳?
父)46、47歳になる。
きき手)健介さんは、お父さんの活動をずっと見つめてこられたと思うんですが、25年の今、健介さんにどんな報告をしたいですか?
父)一つは、ここまで生きてこられたのは、お前のおかげだよということ。それから、震災を伝えることが、なんとか仕事としてできているかなということ。それに歳ですから、そろそろしんどくなってきたからそっちへ連れて行って欲しいな、っていう声がけはするんですけどね。でも返って来る言葉は、「親父、まだまだするべきことはあるよ」。でも、答えは出てこない。こっちで考えなきゃいけない。
きき手)今年(2019年)は体調を崩されましたが、お加減は大丈夫ですか?
父)(1月17日は)できるだけ、現地(東遊園地)へ行きたいと思ってるんです。そこから何か得ることがあるんじゃないかな。
(2019年12月20日インタビュー)
(写真:2020年1月17日12時58分、午前中東遊園地を訪れたあと、神戸大六甲台キャンパスを訪れ慰霊碑で献花する白木さん。)
了
<2020年1月15日 アップロード、2020年1月18日 追加アップロード>
《連載記事》
元震災NPO理事長の白木利周さん死去 78歳 (2020年4月27日)
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/f9ff9694726be1f0b226ea310b53b1a1
【慰霊碑の向こうに】① 一枚の写真から
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/b81d5f93f24d4db312586b32da0838da
【慰霊碑の向こうに】② 故・戸梶道夫さん(当時経営学部2年)
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/023b839a782ed062de6f26d1d5f0919b
【慰霊碑の向こうに】③ 故・高橋幹弥さん(当時理学部2年)
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/7165089761eef41f45c9d3eae84c1870
【慰霊碑の向こうに】④ 故・高見秀樹さん(当時経済学部3年)
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/eb2e066042bfb01d561385907b64f44a
【慰霊碑の向こうに】⑤ 故・坂本竜一さん(当時工学部3年)
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5c9a8898fafde156a8091d6fac45d615
【慰霊碑の向こうに】⑥ 故・中村公治さん(当時経営学部3年)
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/a65c964c3ba5baa556ab126cf22dc1f1
【慰霊碑の向こうに】⑦ 故・森 渉さん(当時法学部4年)
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/51f49f1abe823bdfa978ca6c6addd922
【慰霊碑の向こうに】⑧ 故・竸基弘さん(当時自然科学研究科博士前期課程1年)
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/bbbdb927d2917cdde7834b73e8dfd2b4
【慰霊碑の向こうに】⑨ 故・白木健介さん(当時経済学部Ⅱ課程3年)
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5cf5033cc4e75acb06952295dad255aa
【慰霊碑の向こうに】⑩ 故・工藤純さん(当時法学部修士課程1年)
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3f0215cb9c0ff23b43149a3076ccb645
【慰霊碑の向こうに】番外 亡くなった学生の家族からのメッセージ
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/c6a974c72827bb82f3339b2381077f8b