神戸大学メディア研ウェブログ

ニュースネット委員会のニュースサイトはhttps://kobe-u-newsnet.comに移転しました。

「#知らなかった震災25年」展 学生青年センターで1月18日まで

2020-01-15 10:45:45 | ニュース
 阪神・淡路大震災発生直後の様子を伝える写真パネル展「 #知らなかった震災25年 」(主催=神戸大学メディア研)が1月12日(日)から18日(土)まで、阪急六甲駅北側の神戸学生青年センターで開催されている。

 11月の六甲祭、12月16日、17日と1月9日に学内で行われた展示が、今回は、阪急六甲で一般市民に開かれた形で開催される。
 震災当時の大学の様子や、六甲、深江などキャンパス周辺の被災の様子を写した記録写真のほか、震災で亡くなった学生の遺族のコメントがさらに追加されて展示されている。

 初日の1月12日は親子連れや中高年の市民が訪れ、震災当時の記憶を振り返っていた。
 神戸市在住の田中博雄さん(70)は、「当時のことは記憶として忘れてしまうこともある。だから写真で伝えるのは大事やな」とコメント。宝塚市から来たという50代女性は当時灘区に住んでいて被災したという。倒壊したJR六甲道駅の写真を見ながら、「25年経つと震災のことを断片的にしか知らない人も多いのかな。(自分の)子どもにも見せたい」と話していた。

《震災写真パネル展 「#知らなかった震災25年」》
《震災写真パネル展 「#知らなかった震災25年」》
●日時=
1月12日(月)~18日(土) 9:00~22:00。
(初日12:00から、最終日18:00まで)
●場所=
神戸学生青年センター ロビー(神戸市灘区山田町3丁目1−1、電話:078−851−2760、サイト:http://ksyc.jp
●アクセス=
阪急電車「六甲」駅下車、北へ徒歩3分。
[地図]  
●入場料=無料。
●主催・問合せ=神戸大学メディア研
 ツイッター:https://mobile.twitter.com/kobe_u_media
 ウェブログ :https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media




【慰霊碑の向こうに】番外 亡くなった学生の家族からのメッセージ 

2020-01-15 10:43:21 | 阪神・淡路大震災
 8月から始めた、震災で亡くなった学生のご家族へのインタビューのなかから、いまの学生へのメッセージをまとめて掲載します。
 そこには、一貫して、知ってほしい、伝えてほしいという思いがにじんでいます。(メディア研 震災取材チーム)






灘区友田町の盛華園アパート2階で亡くなった
高見秀樹さん(当時・済3年、鳥取県立米子東高出身/応援団)の
父・俊雄さん、母・初子さん


母・初子さん:今でも秀樹の話をすると涙が出るんですけどね。(中略)もう幸せになるというようなことことを考えずに、精いっぱいその日その日を生きていけばいいと思って頑張ってるんですけども。

父・俊雄さん:せっかく正門の所に慰霊碑を作ってるわけだけん、その建てとる意味合いというものを教えるっていう事が、大震災の後から生まれた人たちに対する、学校としてのつとめだかしらんなあ。

///////////////////////////





灘区住吉南町のサニーハイム2階で亡くなった
高橋幹弥さん(当時・理2年、大阪府立高津高出身/イベント同好会ラ・プレーリー)の
父・昭憲さん


(隣の銭湯の)煉瓦造りの煙突が崩れて、ちょうどうちの子が住んどる部屋だけがぶすんと切れるように…。煙突が折れへんかったら助かってたわけですわ。
(中略)うちの子が亡くなったんと隣の子が助かっとるんとの差がね、差があるわけよ。

///////////////////////////





灘区六甲町の西尾荘1階で亡くなった
坂本竜一さん(当時・工3年応用化学科、兵庫県立八鹿高出身)の
父・秀夫さん


生きたまま焼かれたんやなぁ、はっきり言うたら。だから今でこそ俺もそんなん言えるけど、なかなかやっぱ、言葉にならんわ。(中略)火さえ来なかったら助かっとったわな。
(中略)まぁここの学校でこんだけ亡くなった、こんだけ若い人が亡くなったんやってことだけは知ってほしいなと、それは思いますね。

///////////////////////////





灘区本山中町のイーストハイム1階で亡くなった
森 渉さん(当時・法4年、大阪府立泉陽高出身/軽音楽部)の
母・尚江さん


葬儀にはゼミとか、軽音楽部の人達とか、500人以上来られました。震災があったということに関心持って欲しいなと思います。
災害はだれにでも突然襲ってくるんですよ。何かの形でね、また語り継いでいってくださいね。

こわれた家から 持ち帰りきた Tシャツパンツ
       洗ってたたみおり もう着ない子に

///////////////////////////





灘区六甲町の西尾荘1階で亡くなった
中村公治さん(当時・営3年、名古屋市立向陽高出身/映画研究部)の
母・房江さん、妹・和美さん


母・房江さん:商店街から(火が)来たのが。瞬く間に燃えたんでしょう。(中略)遺体じゃなくて、遺骨。顔がないっていうのは、亡くなったというのを受け止められない…。
そういうことがあったということは、やっぱり心に留めてて欲しいし、事実は知ってて欲しいですね。慰霊碑がある限り覚えていて欲しいと思います。

妹・和美さん:そうですね、今の学生たちにとっては生まれる前の出来事だから、自分には関係ないことと思いますよね。だけど、自分の入った大学の先輩が、短い命で終わってしまったということを、できたら後の世代にも伝えていって欲しいなと思います。

///////////////////////////





灘区記田町の岩木文化1階で亡くなった
戸梶道夫さん(当時・営2年、大阪府立三国ヶ丘高出身/バドミントン部)の
父・幸夫さん、母・栄子さん


父・幸夫さん:バドミントン部の仲間が遺体を確認してくれました。
母・栄子さん:梁が首に当たって、即死だったみたいで…。遺体安置所の王子スポーツセンターでは、隣が応援団の高見君だったんです。
父・幸夫さん:忘れ去られるのは、切ないですよね。
母・栄子さん:やっぱり1月17日に、(慰霊碑に)学生さんが来てくれたらうれしいですもん。

///////////////////////////





灘区六甲町の杉本文化で亡くなった竸基弘さん
(当時・自然科学研究科修士1年、名古屋市立向陽高出身/ユースサイクリング同好会)の
母・恵美子さん、妹・朗子さん


妹・朗子さん:兄が23歳で、自分でも思いもよらず突然命を失っているんです。若い人たちには、「その命っていつなくなるかわからんよ」っていうものでもあるから、命のある時間を大切にしてほしいなと思います。

母・恵美子さん:あの震災で6434人が亡くなったんです。歴史の中の出来事と感じていらっしゃるかもしれませんが、同じ神戸大学の学び舎で青春を過ごしていた先輩39人が、ある日突然命を絶たれてしまったんだよってことは、風化させないでほしいなぁ、って思います。

///////////////////////////





東灘区御影町郡家大倉の自宅で亡くなった白木健介さん
(当時・経済II課程3年、兵庫県立神戸高出身/硬式テニス部)の
父・利周さん


震災があって多くの方が亡くなったことを、記憶に残していただいたらいいと思うんです。その中から自分のできることは何だろうかと考える。大学の慰霊碑も、「これなんだろうかな?」という形で知る。伝わっていく。みなさんで(震災の)話をしていただきたいですね。

///////////////////////////





東灘区田中町4丁目の下宿で亡くなった工藤純さん
(当時・法修士1年、愛媛県立三島高出身)の
母・延子さん


毎年、1月17日の震災の日の正午に、神戸港の船が一斉に汽笛を鳴らしますね。だから大学の慰霊碑にいるとその音も聞こえるんですね。今は12時半とか、学生が参加できるようになっていますよね。
「人は2度死ぬ」っていいますよね。1回目は生物としての死、2回目は記憶から消え去る時。だから、2度目の死は絶対、迎えさせたくない。



《連載記事》
【慰霊碑の向こうに】① 一枚の写真から
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/b81d5f93f24d4db312586b32da0838da

【慰霊碑の向こうに】② 故・戸梶道夫さん(当時経営学部2年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/023b839a782ed062de6f26d1d5f0919b

【慰霊碑の向こうに】③ 故・高橋幹弥さん(当時理学部2年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/7165089761eef41f45c9d3eae84c1870

【慰霊碑の向こうに】④ 故・高見秀樹さん(当時経済学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/eb2e066042bfb01d561385907b64f44a

【慰霊碑の向こうに】⑤ 故・坂本竜一さん(当時工学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5c9a8898fafde156a8091d6fac45d615

【慰霊碑の向こうに】⑥ 故・中村公治さん(当時経営学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/a65c964c3ba5baa556ab126cf22dc1f1

【慰霊碑の向こうに】⑦ 故・森 渉さん(当時法学部4年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/51f49f1abe823bdfa978ca6c6addd922

【慰霊碑の向こうに】⑧ 故・竸基弘さん(当時自然科学研究科博士前期課程1年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/bbbdb927d2917cdde7834b73e8dfd2b4

【慰霊碑の向こうに】⑨ 故・白木健介さん(当時経済学部Ⅱ課程3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5cf5033cc4e75acb06952295dad255aa

【慰霊碑の向こうに】⑩ 故・工藤純さん(当時法学部修士課程1年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3f0215cb9c0ff23b43149a3076ccb645

【慰霊碑の向こうに】番外 亡くなった学生の家族からのメッセージ
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/c6a974c72827bb82f3339b2381077f8b






【慰霊碑の向こうに】⑩ 故・工藤純さん(当時法学部修士課程1年) =母・延子さんの証言=

2020-01-15 02:55:50 | 阪神・淡路大震災
 工藤純さん(当時23歳、愛媛県立三島高卒、犬童ゼミ/応援団総部吹奏楽部)は、神戸市東灘区田中町4丁目の下宿アパートで被災した。
 当初、遺体が隣人と取り違えられそうになった。四国から駆けつけた家族は、自衛隊員に下宿の間取り図を渡して救出を頼んだところ、ベッドの上で遺体で発見され、2日後の昼ごろ、ようやく瓦礫の下から救出された。
 告別式には友人ら800人近くが参列した。神戸大学吹奏楽部の部員が、貸切バスであの(被災して混乱していた)神戸から駆けつけ、純さんが好きだった『威風堂々第1番』を演奏して送った。

 母・延子さん(72)に、愛媛県四国中央市のご自宅でお話をうかがった。


(写真:関西学生吹奏楽連盟の仲間に囲まれ、笑顔の純さん。手にはビデオカメラを持っている。)


母:お墓まいりとかはね、ふつうお盆やお彼岸とかに行きますけど、こっち(四国中央市)だと、お正月明けに行くんです。村上水軍の支配下にあった辺りでは、負け戦が分かって、お正月(旧暦の正月は今の一月中旬から2月上旬)まで絶対持ちこたえられないから、お正月に食べようと思ってとってあったごちそうを全部食べてということで。この辺ではその名残で、1月の16日に、お墓参りするんです。
[注:当時は1月15日が成人の日で祝日だったため15日に墓参りをすることが多かったという]
きき手:そうなんですね、初めて知りました。

母:うちは、1月17日が命日なんで、元気だった時は毎年神戸に行ってたんです。NPO法人「阪神淡路大1.17希望の灯り」ってご存じですか。略称がHANDS(ハンズ)っていうんですけれど、それの会員になっているんで…。今は、ずっと行けてないんですけど。

きき手:以前、神戸に行くことができていた時は、神戸でどうされていたんですか?
母:16日の仕事が終わってから、高速バスで三宮に着くんです。それで、東遊園地(神戸市中央区)に行って。夜だからテントで朝の4時ぐらいまで、もう1年ぶりに会う方ばかりなんで、ずっとしゃべって。
きき手:早朝、竹灯篭に点灯しますよね。
母:竹筒で「1.17」って並べますよね。水を入れてそこにロウソクを浮かべて、一本一本火をつけていかなくちゃいけない。それをボランティアでやるんです。
きき手:手作業なんですね。
母:6400個以上あるんで、1個1個つけていっても、なんかなぜかお天気悪い日が多くて、雨降ってたらまた消えてしまうんで、ずっとつけていかなくちゃいけなくて。で、そうしているうちに、(発災時刻の5時46分の)5分前ぐらいになったら、やめて…。
きき手:そして、黙祷ですね。
母:そのあと、午前10時ぐらいまで東遊園地にいて、それから、大学の追悼献花式。以前は12時開始だったんで、お昼までには大学のある六甲台に行ってました。


(写真:母・延子さん。四国中央市の自宅で。2019年9月27日)


「東灘文化センターにいる」との連絡で覚悟しました

きき手:地震当日のことを教えてください。純さんに何かあったかもしれないということは、いつ感じられましたか?
母:愛媛でも揺れを感じましたが(松山で震度3)、テレビで最初は神戸の震度は出なくて…。昼過ぎに東京に住んでる高校の同級生から電話があったんです。「朝、家から電話かけたら話中で、昼休みにかけたら着信音は鳴るけど出なかった」ということでした。「工藤くんのことだから人助けでもしてるんですよ」と言ってくださいました。その言葉にすがって電話をかけ続けましたが、夜になっても連絡がつかないんです。あの子にしてはおかしい、と思い始めました。

母:たしかNTTの安否情報に登録したんです。そうしたら大家さんから地震の翌日の1月18日の朝に、「バイクがあるし、呼びかけても返事がないので帰省されているんではないですか」と電話がかかってきたんです。それで、8割方だめだと思いました。

きき手:四国のご自宅(当時は伊予三島市)を出発されたのはいつだったんですか?
母:18日のお昼ぐらいに、夫が徳島県から大阪経由で(西方向に)向かい、私は午後JRで出発し、岡山で大学に通っていた次男と合流して、新幹線で(東方向の)姫路に向かいました。さらに在来線で西明石駅だったか…まで。そして、そこからタクシーを並んで乗って、「須磨までしか行けません」といわれ、須磨で降りてから徒歩で東灘区に向かいました。
きき手:純さんについての情報は入ってきましたか?
母:その途中で夫から携帯電話に連絡があって、「東灘文化センターに移動した」といわれて覚悟しました。


最初の遺体は純ではなかった

きき手:神戸に到着した時の様子は?
母:着いたとき、もう暗くなっていましたから、夕方6時ごろだったでしょうか。夫の両側にはクラブ(神戸大吹奏楽部)の友人で元副部長さんと同じクラリネットパートの学生さんたちがいました。ところが、見つかった遺体は純ではないというのです。体を拭いているうちに、胸毛がないのでおかしいということになって、お友達も「これは工藤くんじゃない」ということになって。隣室の方だとわかったというんです。免許証がそばに落ちていたので、最初は純ではないかと思われていたようです。

きき手:では、純さんはどこに?
母:入学の時に援助してくれた母(純さんにとっては祖母)に見せるために書いた家の間取り図と、家具の配置図のコピーを持参していたので、1月19日の午前中に、それを自衛隊の方にお渡ししました。
きき手:どこで見つかったんですか?
母:結局、2DKの真ん中の部屋のベッドの上で見つかったと、19日のお昼前には連絡がありました。ただ、文化センターに遺体が到着したのは午後だったと思います。一定の数の遺体が集まってから運ぶことになっていたんです。トラックに6体ほど載せられていました。
きき手:遺体の発見の場にはいなかったんですね。
母:現場は立ち入り禁止になっていたんです。私たちは立ち会えませんでしたが、路面に直に寝かされていたそうです。かわいそうだと、ご近所の方が、花柄のきれいな毛布をかけてくださっていました。
きき手:検視はすぐにできたんですか。
母:いいえ。私が、遺体安置所の管理責任者を探し出し、連れて帰りたいと申し出たんですけど…。自衛隊の「遺体搬出証明書」ももらっているので、四国に帰ってから検視を受けるからいいでしょうと言ったんですが、受け入れてもらえませんでした。1人で検視をしていました。結局検視を受けたのが、20日の午前3時ごろだったでしょうか。こんどは「棺がないとダメ」と言われたのですが、なんとか融通してもらって、夫の会社の人がレンタカーで運んでくれることになりました。


吹奏楽部の部員が、あの子の好きだった『威風堂々第1番』で送ってくれた

母:アパートは、2階建ての木造で、1階には4世帯入居していました。純は西から2番目の部屋でした。純の両隣の方も亡くなっています。一番東端の部屋は、2段ベッドを置いていて、それが支えになって空間ができて助かったそうです。

きき手:純さんはどのように四国に帰ってこられたんでしょうか?
母:1月20日の朝、神戸を出発し、車で山手幹線、山陽自動車道、瀬戸大橋経由、松山道で、夕方4時ごろ家に着きました。山陽道のゲートが開放されていた風景が、なぜか心に残っています。
途中、山陽自動車道に乗る前に、夫の高校の同級生がドライアイスを手配してくれました。

きき手:そのあとご葬儀だったんですね。
母:1月21日に通夜でした。22日の告別式には地元の純の友人や、クラブ(吹奏楽部)の友人など800人近くが参列してくださいました。神戸大学吹奏楽部の方々が、貸切バスであの(被災して混乱していた)神戸から来てくださって、あの子の好きだった『威風堂々第1番』で送ってくださいました。
きき手:演奏で純さんを送ったんですか。
母:中学がすぐ近くで、当時の顧問の先生が体育館を控え室に貸してくださいました。楽器のない人には楽器も貸してくださいました。音楽を愛する仲間に囲まれて、短くて不本意な死ではあっても、一方では幸せな一生だったと思います。


慰霊碑ではメディアの取材を受けるより遺族同士の話をしたい

母:私、今度行くと5年ぶりになるんで、この前(震災20年)のときなんか、記者の方の取材をお受けしていて。急いで帰らなくちゃいけないとかっていう遺族の方とあまりお話ができなくて。もし1月17日に、行けたとしたら、その場では、遺族同士の話を優先させて頂きたいですね(苦笑い)。
きき手:大学の慰霊碑は大切な場所ですね。
母:メディアの方とか来られるので、そういうのが嫌だって言って。朝の、5時46分に来られて、そのまま帰られたりする方もいます。

延子さんは原因不明の体調不良で、2006年以降、大学の献花式に参列することができなかった。震災20年の2015年、9年ぶりに杖と車椅子を使って神戸を訪ねることができた。

きき手:前回行かれたのは?
母:震災20年の時ですね。あの時もすでに杖は使っていたので、皆さんと同じ速さでは歩けないから。夫の大学時代のクラブの先輩の方が、車いすをちゃんと自動車の後ろのトランクにつめるようにしてあるからって、大学まで送って下さって。
きき手:今度行くと5年ぶりですね。
母:ただ夫は、いろいろ病気抱えてるんで。行けるかどうか分からないけど、神戸まではとにかく行くって言ってるんで…。
きき手:5年前の震災の日は、どのように過ごされたんですか?
母:あの時は、(大学正門横のアカデミア館1階生協の)食堂で残ってお話ししました。私を入れて藤原さんと、戸梶さんら5人でした。お父さんたちは遠く離れていた感じ。藤原さんと戸梶さんはご夫婦で来られてましたけど、お父さんはお父さん同士で話していました。
ご家族とか、お友達と一緒に来られている方は献花式のあと、下宿跡に行かれたりするんで、加藤さんとか競さんとかは慰霊碑の前で、ちょっとだけお話ししました。

きき手:体調はいかがですか。
母:あの一応いろいろ検査したんですけれど、どこも異常がない、
もう本当に前はかろうじて杖で歩けていたんですけれど、102日間入院してたら、やっぱり、衰えるのって早いんですね、筋肉が。


(写真:震災25年には神戸を訪れることができた。夫の優さんと。2020年1月17日昼)


中学校から吹奏楽を始めた

きき手:純さんは音楽が好きだっておっしゃってましたけど、中学、高校からやってらしたんですか。
母:私が、クラシックが好きで、小学校1年生の時から、ピアノを。私がちっちゃい時やってたので、もう1回やろうと思って、一緒に、音楽ピアノ教室に通ってて。
で、3年生の時、ふたりで発表会に出ました。グノーのアベマリアを、私が低音部(バッハの平均律ピアノ曲集第1巻)弾いて、息子が高音部。弾いている時に、私は真っ白になってしまって弾けなくなってしまって、あの子は最後まで弾ききって。で、もうこの子に負けたーと思いました。

きき手:純さんはどのくらいピアノを続けていらしたんですか。
母:小学校4年生からスポーツ少年団に。ソフトボールを始めたんで、そっちを優先するって言ってそれで。(ピアノは)レッスンの時間に遅れたら、その日の最後に回されるんですね。大体女の子がほとんどで、いっぱい待っているところに男の子一人で待ってなくちゃいけない。それが何か気詰まりだったらしくて、何か近所の、同級生の家に入ってずっとサボってたみたいなんですね。
レッスンの終わる時間までそこで時間潰して帰ってきて…。何ていうか私に悪いなぁと言うか、言いだしにくかったんでしょうね。
きき手:中学からはまた音楽やってたんですか。
母:1年ぐらいおサボりしてたんで、5年生、5年生の終わりで、白状して(笑)。
やめて、で、6年生の1年間はソフトボールをして。で中学校で吹奏楽。そしたら楽譜読めるし、絶対音感が備わってたから。いろんな楽器ができるんで、一番最初はチューバ。パレードするときはスーザフォンという大きな管楽器で。
あれは女の子にはできないからって言って。高校では、ユーフォニウム…。


阪大よりも神大を受けた理由

きき手:高校は県立三島高校でしたよね。
母:そうでした。センター試験の時に、730何点あったんですね。8つぐらいの予備校から、「1浪して東大狙いませんか」って。九州のどこかの予備校は、学費免除で、寮費もタダで、1か月に3万円奨学金つきとか。
きき手:すごい待遇ですね。
母:でも、東京には地震があるから行きたくないって。
きき手:地震があるから、ですか。
母:その時、神戸大学も大阪大学もA判定だったんですね。
でそれは、大阪大学のほうが定員が多いから。何か800点満点で、あの年、大阪大学を受験した人がふたり800点。
きき手:なぜ阪大よりも神大の方を?
母:神戸大学の法学部は、教官1人当たりの学生数が、大阪大学より少ないって。向こうは、先生も多いけど学生の方も多い。神戸大学が、何か主要な大学のなかで教官1人当たりの学生数はいちばん少ないって言ってました。


あの子なりの正義

母:学校の先生は実績が欲しいから、行かなくても(進学しなくても)受かったほうがいいので、受けろと言われて。1回は大勢が受ける試験を体験しとかないとだめだって言われて、関西の私大を受験したんですね。
きき手:何年になりますか。
母:1990年ですね。その私大はA判定でていたのに、なぜか不合格だったんです。それで、どうしたのって言ったら、「英語は白紙で出した」って。本当に受けに来た人に悪いからって。
きき手:心優しい方だったんですね。
母:まああの子なりの正義だったんでしょうね。

母:大学院の入学発表があった時に、発表の掲示板を見たいからって言って行ったんですね。ちょうどその日、阪神・巨人戦の最終戦だったので、生協でチケット売っているから買っといってって言ったら、「買えんかったって」と言って。
でも、夫は阪神ファンなんで、どうしても見たいって言って。で、行ってダフ屋さんで買ったんですよ。阪神側はもうすでに売り切れていて、巨人側の応援席しかなくって。でも、「阪神ファンはマナーが悪い」とかブツクサブツクサ言うものだから、夫が「そんなに文句言うなら帰れ」って言って。そしたら、「帰ります」ってホントに帰っちゃったんです。どうしてって言ったら、ダフ屋さんで買うのは違法行為だとかって言って(苦笑い)。
あのー絶対に、その、不法行為、違法行為、どちらも、いやだから。
きき手:正義感が強かったんですね。
母:もう本当に、ちっちゃい時からそうでした。そのくせ自分はおサボりしてね(笑)。


遺品のワープロで作成した遺族同士の紙面

きき手:そうですか。
母:愛媛県では、神戸大学の方が5人亡くなってて。そのうち、廣瀬さんって、宇和島の方と…お手紙してた。最初、15人ぐらいの神戸大の遺族の方と一対一の文通をしてたんですねでも、どなたに書くのも同じ事なので、それだったらもう、一度にと、『THE 17TH(ザ・セブンティーンス)』を出しました。1997年の1月の発行が最初。夫には1年でやめるって約束しました。純のワープロを生かしたいと思って、発行を始めたんです。

『THE 17TH』は、当初毎月17日に発行。ワープロで作成された。そのシャープ製のワープロ「書院」は、純さんの下宿から取り出してきた遺品だった。

母:たしか(震災翌年の)1996年の1月17日、たまたま大学の慰霊碑にNHKアナウンサーの住田さんがいらしてて、で、あれこの声どっかで聞いた事があるなって(笑)。
きき手:と思ったら住田さんだった(笑)。
母:「もしかして」って言ったら、ああいう方なので、「そうですその住田です」って(笑)。
きき手:住田さんは神戸大学の卒業生(1983年経営学部卒)ですね。1995年から、朝の情報番組『生活ほっとモーニング』のキャスターを、月曜から金曜の帯で担当していました。
母:ワープロが故障して使えなくなって、その住田さんがたまたま同じメーカーのを持ってたのを譲って下さって。そして、それも故障してしまって。もう部品の補償年数も過ぎてたんです。で、「人と防災未来センター」に…。
きき手:寄贈されたんですね。
母:はい。

純さんの下宿から取り出したワープロは、2014年12月に「人と防災未来センター」に延子さんの手で寄贈された。


(写真:純さんの遺品のワープロ。シャープ社製の「書院」。2015年1月12日、神戸市中央区の人と防災未来センターで)

母:もう一人下の息子がいるんで、夫が、「その子がいるのにいつまでも、純の事ばっかし一番にしていたら、生きてる子がかわいそうだろう」、「忘れてしまえ」っていうんですけど、それは絶対に、できない。しようと努力したらそれがストレスになりますよね。
「人は2度死ぬ」っていいますよね。1回目は生物としての死、2回目は記憶から消え去る時。だから、2度目の死は絶対、迎えさせたくない。

母:「人は2度死ぬ」という言葉は、松田優作さんの言葉だという説がある。映画『リメンバー・ミー』のリー・アンクリッチ監督が、メキシコでのリサーチで「1度目は心臓が止まった時、2度目は埋葬や火葬をされた時、3度目は人々がその人のことを忘れてしまった時。人間には“3つの死”がある」と聞いたとも発言している。

母:だから、それだけは絶対、やだーと思って。


母には純が死んだとは言えませんでした

母:私の母には純が死んだとは言えませんでした。「ロンドン大学に交換留学に行った」というと、「純ちゃんなら電話ぐらいしてくれるはず」というんです。一緒に住んでいた弟夫婦が、「神戸で地震があったから、電話が繋がりにくかったんだろう」と説明すると、「飛行場からかけられるだろうに」と食い下がったらしいんです。「向こうからコレクトコールでかけるように言って」とまで言うんです。
きき手:……。
母:『クローズアップ現代』という番組で、純のことが放送されたんです。夜遅いから見ないだろう思っていたんですが、新聞予告で「神戸」とあるので見たらしくて…。母は、「純が死んだって言ってるー」と叫んだそうです。「ロンドンに行ったっていうのは嘘じゃない」と、弟夫婦は責められたそうです。そのあと、弟とは、これからは隠しだてはしないでおこうと決めました。今度の2月には、母の13回忌を迎えます。


大きな視野で法制度や公助のあり方考えて

きき手:いまの大学生に伝えたいメッセージはありますか?
母:個々の死は、私たちが生きている限り忘れることはありません。大きな視野で、遺体を引き取る時に私たちが感じた法制上の不備や、その後の公助のあり方を考えていただければな、と思います。

母:毎年、1月17日の震災の日の正午に、神戸港の船が一斉に汽笛を鳴らしますね。だから大学の慰霊碑にいるとその音も聞こえるんですね。今は12時半とか、学生が参加できるようになっていますよね。
きき手:今は、12時半開始です。
母:もう震災から25年だし、大学がいつまで(慰霊献花式を)やってくださるか…。もしかしたら、今回限りになるんじゃないかなと、いつもそれを心配しています。
(2019年9月27日インタビュー きき手:玉井晃平)


(写真:神戸市中央区三宮にある「慰霊と復興のモニュメント」で、純さんの銘板を指で触れる。2020年1月17日午後)

連載おわり

<2020年1月17日 アップロード>
※ブログの編集上、アップロードの日付より早い時間に掲載しています。


《連載記事》
【慰霊碑の向こうに】① 一枚の写真から
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/b81d5f93f24d4db312586b32da0838da

【慰霊碑の向こうに】② 故・戸梶道夫さん(当時経営学部2年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/023b839a782ed062de6f26d1d5f0919b

【慰霊碑の向こうに】③ 故・高橋幹弥さん(当時理学部2年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/7165089761eef41f45c9d3eae84c1870

【慰霊碑の向こうに】④ 故・高見秀樹さん(当時経済学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/eb2e066042bfb01d561385907b64f44a

【慰霊碑の向こうに】⑤ 故・坂本竜一さん(当時工学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5c9a8898fafde156a8091d6fac45d615

【慰霊碑の向こうに】⑥ 故・中村公治さん(当時経営学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/a65c964c3ba5baa556ab126cf22dc1f1

【慰霊碑の向こうに】⑦ 故・森 渉さん(当時法学部4年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/51f49f1abe823bdfa978ca6c6addd922

【慰霊碑の向こうに】⑧ 故・竸基弘さん(当時自然科学研究科博士前期課程1年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/bbbdb927d2917cdde7834b73e8dfd2b4

【慰霊碑の向こうに】⑨ 故・白木健介さん(当時経済学部Ⅱ課程3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5cf5033cc4e75acb06952295dad255aa

【慰霊碑の向こうに】⑩ 故・工藤純さん(当時法学部修士課程1年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3f0215cb9c0ff23b43149a3076ccb645

【慰霊碑の向こうに】番外 亡くなった学生の家族からのメッセージ
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/c6a974c72827bb82f3339b2381077f8b






【慰霊碑の向こうに】⑨ 故・白木健介さん(当時経済学部Ⅱ課程3年) =父・利周さんの証言=

2020-01-15 02:53:53 | 阪神・淡路大震災
 白木健介さん(当時21歳、兵庫県立神戸高卒/硬式テニス部)は、神戸市東灘区御影町郡家大蔵の自宅のプレハブの離れで就寝中だったと思われる。母屋で激震を感じた両親は、揺れが収まってから窓の外を見た。そこには、隣家のコンクリートブロックでできた倉庫が健介さんのプレハブにのしかかっている光景があった。
 何時間もかけてようやく上半身だけ瓦礫から引っ張り出したが、巡回して来た医師の判断は、「ほとんど即死だったろう」という言葉だった。
 
 父・利周さん(77)と母・朋子さん(故人、2001年没)は、慰霊碑を巡る「モニュメント交流ウォーク」で他の被災者と巡り合ったことで、閉ざしていた心が少しずつ開けたという。
 
 病気療養中の利周さんに、神戸市北区のご自宅でお話をうかがった。


(写真:愛猫キコを抱く健介さん)

きき手)地震で揺れた時、白木さんはどこにいらしたんですか?
父)東灘区御影町大倉の自宅でした。揺れで目が覚めました。頭の上にあったテレビが飛んできたってことぐらいしか記憶にないですね。
きき手)飛ぶとは?
父)飛んできて、お腹の上にボーンと落ちてそれで目が覚めた。
きき手)奥様は?
父)女房は台所で準備をしていました。その時、「火は大丈夫かぁ!火を消せ」って叫んだ。でも、動けなかった。すごい揺れで。妻は食卓にしがみついてました。
きき手)何度かドーンドーンと来たそうですね。
父)だから、最初のどーんでテレビが飛んできて、目が覚めて。すぐ柱にしがみついて。動けないですからね。テレビはちっちゃなのでした。

きき手)で、息子の健介さんは?
父)北側の庭にプレハブを建ててまして、そこにいました。自分の部屋で、12畳ぐらいですか。勉強部屋兼、寝室として使ってました。



(写真:自宅で健介さんのことを語る父・利周さん 2019年12月30日)


外を見た時、真っ白だったんですよ 砂ぼこりみたいな感じで

父)ぱっと外を見た時、真っ白だったんですよ。
きき手)真っ白?
父)砂ぼこりみたいな感じでね。で、ぜんぜん見えなかった。かすんでた。しばらく揺れが収まるのを見てて。だんだん晴れて来てれ、見たら、ぺっちゃんこになってるわけですよ。あらーっ、えらいことになっているって感じで。
きき手)プレハブが?ぺっちゃんことは?
父)お隣の倉庫が、ちょうど1.5メーターほど、上の段にありました。
きき手)敷地が高いんですね。
父)(倉庫が)そのままどーんと、横揺れで、ずってきて。プレハブの上にどんと乗っかってたんですよ。
きき手)倒れこんで来たんですね。
父)ええ、塀をぶち抜いて。ブロック塀を。
きき手)塀もろとも?
父)どーんと落ちて来たわけです。
きき手)倉庫とはどんな?
父)コンクリートブロックで作った倉庫でした、平屋の。5メーターぐらい(離れた)うちの母屋の方まで倒れてきました。トイレ兼洗面所が潰れました。母屋は元々古い家で、戦後すぐに建てたものだったんです。一時、社員寮なんかに使ってた。
きき手)戦後すぐということは、築50年ほど経ってたんですね。倒れて来たブロックづくりの倉庫はどんな大きさでしたか?
父)車2台が入るぐらいの大きさでした。うちのプレハブも、同じぐらいの広さでした。プレハブは、横揺れ、縦揺れにそんなに弱くはないんですよ。でも、上から乗っかられると、潰れてしまいますよね。


ずーっと声をかけてましたね。「元気かー!いるかーっ!」って

きき手)もやが晴れて、健介さんのいるプレハブが潰れているのを見て、どうされたんですか?
父)ずーっと声をかけてましたね。「元気かー!いるかーっ!」って。でも返事ありませんから。私も声かけるし、女房も声かけるし。
きき手)奥さんの様子は?
父)もう必死でしたね。「お兄ちゃーん!お兄ちゃーん!」って呼んでました。もう一つ、南側にもプレハブがあったんですが、そっちのほうはね、声かけたらすぐ返事が返ってきたんですよ。かおりが。
きき手)妹さんの方が。かおりさんは無事だった?
父)無事だった。中は、蛍光灯が落ちてきた、ぐらいのことでした。
きき手)隣が倒れてきさえしなければ、健介さんはそんな大ごとにはならなかった?
父)いやーあの状況ではね、何が起こるかあわからないような状況ですね。まあ、たしかに、蔵さえなければ、あれはならなかったかもしれませんね。
きき手)蔵とおっしゃったので、土蔵かと思いましたが、コンクリートブロック造りの倉庫だったんですね。
父)(ブロックの)中に芯が入ってませんでしたから。
きき手)鉄筋の芯が入ってなかったんですね。
父)隣とは懇意にさせていただいていたので、責任がどうのこうのというのはありませんしね。

布団の中に手を突っ込んで、あっ、あったかいな、って

きき手)そのあとどう行動されました?
父)探しに行きました。壊れた中に入っていくんですけど、すぐに余震で、出てこなくちゃいけない。その繰り返しをしながらね…。それでも見つけたのが、その日ですから、4時間ぐらいあと。布団があって、布団の中に手を突っ込んではじめて、あっ、あったかい、っていう感触があったんですよ。
きき手)体に触れたんですか。
父)ええ、腕に。
きき手)…。
父)あったかいとはいうものの、我々のあたたかさではない。



即死。右のこめかみのところを打っていた

父)ちょうど4時間ぐらいして、巡回のお医者さんが回ってこられて、警察、消防も回ってきて…。
きき手)巡回があったんですね。
父)被害があるところを回ってこられて。そのときに、先生(医師)がずっと(プレハブに)入っていって。で、診てもらったところ、せいぜい命があっても15秒ぐらいでしょうねと。本当に即死。右のこめかみのところを打ってるというぐらいで、それ以外はなんにも外傷なしで。
きき手)健介さんは、救出されての確認だったんですか?
父)いえ、引っ張り出せなかった。
きき手)瓦礫の下での判断?
父)はい。お医者さんが手を突っ込まれて、

父)かなり引っ張り出せてはいたんですが、下半身は完全に挟まれたままでしたので。皆さんにお手伝いいただいて、なんとか上半身だけ出してきたんですけども、それ以上動かすことができなくて。
きき手)お医者様が脈をとったりして?
父)してもらった結果ね。ほとんど即死ですよ、といわれて。引っ張り出したんだから助けたいという気持ちもあったんだけど。消防署員や警察の方も、「我々の仕事は生きてる方を最優先しますので」っていうことで、すぐ次の場所へ行かれました。昼の11時ぐらいです。

父)結局、(瓦礫の下から)助け出したのは翌日、午前10時ぐらい。お昼前に、救急車が来てくれて、灘高校の体育館に運んでくれることになったんですけどね。(運んでくれたのは)京都の田辺の救急車でした。
きき手)京田辺の消防の。
父)はい。場所がわかってましたんで、すぐ追っかけます…というところから、行き先がわからなくなって。
きき手)灘高校に運ばれたんじゃなかったんですか。
父)いったん行ったらしいんですが、あまりにも(遺体が)多くて、置けないということで。あっち行ったり、こっち行ったりして。


崩れて来たブロック塀をくりぬいて引っ張り出した

父)で、水道局の体育館にも行ってみたりとか。
きき手)住吉川沿いの阪神水道企業団の?
父)ええ。で、最終的には、区役所の地下に保健所があったんですけど、そこに安置されてました。それが、お昼の2時ごろですかね。

きき手)どういうように、健介さんはどういうかたちで引っ張り出されたんですか?
父)レスキュー隊が来て、崩れて来たお隣のブロック塀をくりぬいて。
きき手)削岩機のようなもので?
父)ええ。穴を大きくあけて、動けるようにして。
きき手)それがないと、救出できなかった?
父)ええ。とてもじゃないけど、バールとかああいったものでは、動かすことができなかった。「もう、切ります」ということで。

父)切りますといっても、2次災害が起きるかもしれないし、ということで、慎重にね、やっていただいて。(目処がついたら)じゃあ次行きます、とすぐ次に。
きき手)転戦されていったんですね。



保健所からお棺に入れて引き上げてきた

父)うちも(母屋が)潰れてましたから、じゃあ、どこで寝るのと。たまたま道路挟んで北側のお家の方が、大阪のほうで会社やっておられて、従業員が心配だということでそっちに行きますので庭は使っていただいて結構です、ということで。そのお宅の庭先に毛布とか引っ張りでしてきて、そこで寝泊まりすることになったんですけども。翌日の1月20日には、一部屋ちょうど和室も使っていただいていいですよということになって、そこをお借りして、保健所からお棺に入れて引き上げてきて、その部屋でまた1日寝させていただいて。

父)1月23日でしたかね、車の手配をしていただいて、池田の会社の寮に連れて行って、1週間ほど。その間にどこで荼毘にふすかということになって。
きき手)あのとき神戸ではとても、すぐに火葬できるできる状況ではなかったですね。
父)つてがあって川西市で荼毘にふすことになって。でも住所が違うから、ということですぐに住民票を移して、その翌日23日荼毘にふしました。
きき手)火葬される場所でみなさん手をあわせて、これがご葬儀ということだったんですね。
父)そういう段取りや手配はとても個人ではできなかったので、すべて会社(自動車メーカー)の組合の方がやってくれました。会社というのはありがたいなあ、と思いましたね。

きき手)ご自宅の被害は大きかったんですね。
父)玄関つぶれてますね、屋根瓦は全部落ちてますし、8畳の間の床は全部抜けてるし、生活できる状態じゃなかったですね。

父)荼毘にふす日の前の日から、尼崎の会社の研修センターに3部屋を借りて生活させていただいてました。そこは、今の「つかしん」のすぐ北側にある、私の職場でした。そこで、さあ家を探さなければということになりました。


母・朋子さんの死はストレスからくる膠原病だった

きき手)奥様の朋子さんは息子さんのことで必死だったんですね。
父)もう必死でした。一応、全部(葬儀などが)終わってからも、子どものことが頭から離れない。何かあるごとに、お兄ちゃん、お兄ちゃんと…。でもなんとか1年目は過ごせたんですが…。生きる目的ができて。
きき手)生きる目的とは?
父)自分でお金を貯めて白木健介基金をつくって、経済学部生の優秀な卒論を表彰することにとりくみました。

きき手)その後、奥様が体調を崩されましたね。
父)2000年に「希望の灯り」ができまして…。
きき手)神戸市中央区の東遊園地の慰霊と復興のモニュメントですね。
父)病院に入ったのは、その翌年の2001年の6月でしたから。
きき手)亡くなったのが?
父)2001年11月でした。結局原因はわからなかった、結果的には、ストレスからくる膠原病ということで。ときどき、ぼーっとしていました。


(写真: NPO理事長を経験した白木さん=右端=は、遺族として多くのメディアにコメントを求められた。2012年1月17日朝、神戸市中央区の東遊園地で)

NPOの理事長に就任

きき手)NPO法人阪神淡路大震災1.17希望の灯り、略称HANDS(ハンズ)にかかわられたのは、何がきっかけだったんですか?
父)震災3年の1998年に、吾妻小学校(中央区吾妻通、現・コミスタこうべ)で「1.17のつどい」がスタートしました。そして、1999年には東遊園地(中央区加納町)でやるようになったんです。中島正義さんが中心になってやっておられたんですが、私も声をかけられて「お手伝いはできないかもしれないけど参加するわ」といって、99年から参加させていただいたんです。

毎年、1月17日の震災の日の早朝に行われる「1.17のつどい」は、1998年に被災者を中心に結成された「神戸・市民交流会」が中心になって、震災当時避難所のあった吾妻小学校で行われたのが始まり。竹筒にロウソクの火をともす「竹灯籠」を並べる追悼の行事も、このときに行われ、現在も恒例となっている。代表の中島正義さん(故人)が京都府長岡京市の行事を避難所のテレビで見たのがきっかけだったといわれている。(神戸市『協働と参画のプラットホーム通信』2008年2月15日 https://www.city.kobe.lg.jp/ward/activate/participate/platform/vol33.pdf  より)

父)1999年に市民交流会というのができて、神戸市も入ってきて東遊園地でやるようになったんです。
きき手)そのときは、まだNPOの形ではありませんでしたね。
父)実際にNPOを立ち上げようという形になったのは、まだあとですわ。2002年の1月17日の震災の日のあとに、市民交流会を支える組織をつくろうという動きがありました。

NPO法人「阪神淡路大震災1.17希望の灯り」(略称HANDS)は、神戸市中央区の東遊園地内に建立されているモニュメント「1.17希望の灯り」を通じて、震災のことを忘れず伝えていくための活動をしている震災遺族や市民らでつくる団体。2002年3月10日に、法人化へ向けての設立総会が行われ、理事長に白木さんを選出。中島さんは副理事長についている。7月1日に設立が認証された。2010年に認定NPO法人になっている。(内閣府 https://www.npo-homepage.go.jp/npoportal/detail/115010097 /「HANDS灯り通信」 http://www1.plala.or.jp/monument/hands_0101.htm ほか)

きき手)そこで、初代の理事長になられたんですね。
父)定年になったんだからやれよと、周囲からいわれたのと、なんかやらなきゃ、子どものためにならないという思いとで…。理事長は2年なんですが、その後も理事としてサポートしてましたね。私の後は松浦潔さん、そのあと2006年には堀内正美さんがついて。堀内さんが1年足らずで降りられたんです。やむをえず残りの任期を私がやるということになりました。そのかわり、(2012年に)亡くなられた大下さんがバックについてくれましたからね。あのころみんな助けてくれましたからね。


運営を若い人たちに譲って NPO法人を離れる

きき手)完全に活動からおりられたのは?
父)2012年。東日本大震災があった翌年の10月ぐらいだったと思いますよね。ちょうど世代交代っていう時期ですよね。若い人たちが中心になってやろうかというので、「いいよ」って。それはかまわない。というか、わたしがそこにいると、足を引っ張ることになるんで。
きき手)どうしてですか?
父)私が全部わかってるじゃないですか?その考え方おかしいよって、反対の立場になるんじゃないかなっていうのが自分の中にあったので。それだったら居ない方がいいよね、って。いうかたちで、降りる、HANDSも辞めますって。全ての役職やめるし、HANDSも離れますって。
きき手)はー…。
父)その時みなさんから言われました。「なんでそこまでしなきゃいけないのか」って。もう、若い人たちがいろんな発想で動けるようにするためにはね、いわゆる古風なね、昔かたぎの人間はいいでしょ、と。(笑)ということで、抜けました。


(写真:2009年1月17日、神戸大慰霊碑で1年ぶりに出会ったほかの学生の遺族らと写真におさまる白木さん。)

泣きたい時に泣きましょう、みんなで共有しましょう

きき手)奥様と「モニュメントウォーク」をされたことも、こうした活動に入られるきっかけになったとうかがいました。
父)第2回の二葉小学校(神戸市長田区)に行こうということになって。そこに、女房が住田さんの本を持ってきていて。それを、堀内正美さんに見つかって、「それ何?」って。子どものことを書いていただいてた…。それを読んでるのも私、知らなかったんですよ。それを読めって言われて。
きき手)誰に?
父)堀内さんから。で、それをぽっと渡されて。(息子についての)最初の二文字ぐらいを読み始めたら、もうだめでしたね。息子のことがばーっと頭に浮かんできて。で、涙が止まらなかって。それでそのときに、「ちょっと泣かせてください」って。
きき手)ウォークの行事の最中に?
父)二葉小学校の慰霊碑の前で。その時に周りの人たちが、「このウォークは泣いていいんだよ」って。泣きたい時に泣きましょう、みんなで共有しましょう、って声をかけていただいて、それからですね。あれがなかったら、それっきりで終わったかもわかりません。
きき手)自分たちだけではなくて、同じように苦しみ悲しみをもった人たちがいるんだと。
父)遺族も含まれますし、被災者もそこに入ってきて話をして。それからずっとしばらく参加しましてね。その次はたしか、東灘を歩くということで、住吉川あたりを歩いきました。
 
記録や当時の新聞報道によると、「モニュメント交流ウォーク」はボランティア団体や企業などでつくる「震災モニュメントマップ作成委員会」の主催で始まり、
▽第1回 1999年4月17日 須磨区鷹取駅前出発、長田区満福寺、二葉小学校「やさしさわすれないで」の碑ほか。
▽第2回 1999年6月27日 芦屋市津知町から東灘区阪神魚崎駅。
▽第3回 1999年7月17日 東灘区の弓弦羽(ゆづるは)神社周辺と灘区。
とある。

 主催の「震災モニュメントマップ作成委員会」について、4月16日付の毎日新聞には、「阪神大震災の被災地に建つ慰霊碑などのモニュメントの所在地を示した『震災モニュメントマップ』が、大きな反響を呼んでいる。 作成委員会事務局のボランティア団体「がんばろう!!神戸」(神戸市北区、堀内正美代表)には、感想や新たなモニュメントに関する情報提供などが次々と寄せられている。今月17日には、マップを使い、神戸市東灘区の被災者が長田区の慰霊碑を訪れる、初の「震災モニュメント交流ウォーク」もある。」とある。
 
 第1回モニュメント交流ウォークを取り上げた、共同通信配信の記事(1999年4月18日付京都新聞ほか)は、白木さんの妻・朋子さんについて、「震災で大学生の長男を亡くした兵庫県伊丹市の主婦(55)は『息子の死がつらくてずっと心を開けずにいたけど、これで他人にも目を向けられるようになった気がします』と話した。」と報じている。

第3回ウォークを取り上げた、毎日新聞の記事(1999年7月18日付朝刊)は、「長男を亡くした会社員、白木利周さん(57)=兵庫県伊丹市=は、震災当時暮らしていた東灘区御影町の自宅跡に参加者を案内し、『生き残った者が生を全うするよう励まされる気がする』と話した。」と伝えている。


きき手)このときは、白木さんは、奥さんの朋子さんとともに、一般の参加者だったんですね。
父)一介の参加者でした。それがだんだん組織化をしていかなきゃいけないということで動き始めたときから、もう完全にひっぱりこまれたというのか…。
きき手)引っ張り込んだのは誰なんですか?
父)堀内正美さん。人の心をつかむのがうまいからね(笑)。あの堀内さんが頑張ってるんやったら、我々もがんばろうやないかと。


多くの方が亡くなったことを記憶に残していただいたら

きき手)神戸大の慰霊献花式が毎年続いているんですが、ここに現役の学生が一人も来ない、慰霊碑があることすら知らない学生がいるということをどう思っていらっしゃいますか?
父)これは強制できるもんじゃないですし、心の問題でもあるんですよね。「感性」の豊かな学生がいるかいないか。てことは、他人の心を思いやる気持ちを持ってる学生がどのくらいいらっしゃるかな。そういった学生たちが集まってくるんじゃないですか。いまは、大学新聞関係の学生だけが来るけども…。
きき手)そういった学生たちがいるということは?
父)まだ途絶えてはいないということです。震災があったということは聞いているでしょう。それを伝えていきたいという気持ちを持ってる限りはね。

きき手)これから入って来る、未来の学生に伝えたいことは?
父)震災があって多くの方が亡くなったことを、記憶に残していただいたらいいと思うんです。その中から自分のできることは何だろうかと考えていただく。大学の慰霊碑も、「これなんだろうかな?」という形で知ることができる。伝わっていく。話をしていただきたい。
きき手)語る人を途絶えさせない、ということですかね。
父)いまはいる。神戸大学にはたくさんいますよ。

父)私は羽曳野市立羽曳野小学校の子ども達には、毎年、語ってきました。かれらもそろそろ大学生になる。
きき手)代々の児童たちには、種を撒いてこられたんですね。
父)みんなが思い出して話してくれたら、つながっていくじゃないですか。
きき手)白木さんはいろいろなところで講演されてきましたから、それぞれのタネが語ってくれれば安心ですね。

父)(追悼行事や語り部など)いつまでやってるんだという声もあるんです。でも、新たに災害で大きな被害を受けたり、心の傷を持った方たちが、「神戸がああいう形で頑張ってるんだよね」っていうことが、ずっと伝わっている。1.17のつどいは、神戸のものだけではないんですよね。(新たに)被災した人たちに、我々遺族が話をする機会がもっとあればいいなと思ってますね。



「ここまで生きてこられたのは、お前のおかげだよ」

きき手)当時21歳の大学生だった健介さんが生きていらしたら何歳?
父)46、47歳になる。
きき手)健介さんは、お父さんの活動をずっと見つめてこられたと思うんですが、25年の今、健介さんにどんな報告をしたいですか?
父)一つは、ここまで生きてこられたのは、お前のおかげだよということ。それから、震災を伝えることが、なんとか仕事としてできているかなということ。それに歳ですから、そろそろしんどくなってきたからそっちへ連れて行って欲しいな、っていう声がけはするんですけどね。でも返って来る言葉は、「親父、まだまだするべきことはあるよ」。でも、答えは出てこない。こっちで考えなきゃいけない。

きき手)今年(2019年)は体調を崩されましたが、お加減は大丈夫ですか?
父)(1月17日は)できるだけ、現地(東遊園地)へ行きたいと思ってるんです。そこから何か得ることがあるんじゃないかな。

(2019年12月20日インタビュー)


(写真:2020年1月17日12時58分、午前中東遊園地を訪れたあと、神戸大六甲台キャンパスを訪れ慰霊碑で献花する白木さん。)



<2020年1月15日 アップロード、2020年1月18日 追加アップロード>



《連載記事》

元震災NPO理事長の白木利周さん死去 78歳 (2020年4月27日) https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/f9ff9694726be1f0b226ea310b53b1a1

【慰霊碑の向こうに】① 一枚の写真から
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/b81d5f93f24d4db312586b32da0838da

【慰霊碑の向こうに】② 故・戸梶道夫さん(当時経営学部2年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/023b839a782ed062de6f26d1d5f0919b

【慰霊碑の向こうに】③ 故・高橋幹弥さん(当時理学部2年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/7165089761eef41f45c9d3eae84c1870

【慰霊碑の向こうに】④ 故・高見秀樹さん(当時経済学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/eb2e066042bfb01d561385907b64f44a

【慰霊碑の向こうに】⑤ 故・坂本竜一さん(当時工学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5c9a8898fafde156a8091d6fac45d615

【慰霊碑の向こうに】⑥ 故・中村公治さん(当時経営学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/a65c964c3ba5baa556ab126cf22dc1f1

【慰霊碑の向こうに】⑦ 故・森 渉さん(当時法学部4年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/51f49f1abe823bdfa978ca6c6addd922

【慰霊碑の向こうに】⑧ 故・竸基弘さん(当時自然科学研究科博士前期課程1年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/bbbdb927d2917cdde7834b73e8dfd2b4

【慰霊碑の向こうに】⑨ 故・白木健介さん(当時経済学部Ⅱ課程3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5cf5033cc4e75acb06952295dad255aa

【慰霊碑の向こうに】⑩ 故・工藤純さん(当時法学部修士課程1年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3f0215cb9c0ff23b43149a3076ccb645

【慰霊碑の向こうに】番外 亡くなった学生の家族からのメッセージ
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/c6a974c72827bb82f3339b2381077f8b