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【慰霊碑の向こうに】⑧ 故・竸基弘さん(当時自然科学研究科博士前期課程1年) =母・恵美子さんと妹・朗子さんの証言=

2020-01-12 20:13:32 | 阪神・淡路大震災
 竸基弘さん(きそい・もとひろ、当時23歳、名古屋市立向陽高卒、池田研究室/ユースサイクリング同好会)は、神戸市灘区六甲町2丁目の杉本文化1階に住んでいた。
 1995年1月17日午前5時46分の地震発生時、実家のある名古屋も震度3の揺れを観測した。午前7時前に母・恵美子さんは基弘さんの部屋に電話をかけたが、話中音がするのみだった。次にかけた時は無音で、電話は繋がらなくなった。
 昼ごろ、友人からの電話で安否不明との情報。夜になって、研究室の教授から「明朝一番で神戸へ来て欲しい」との電話があり、18日朝、父・和巳さんは、妹・朗子さんとともに神戸に向かう。恵美子さんに「覚悟をしておくように」と言い残して…。
 和巳さんの記したメモには、基弘さんの救出、遺体安置所での待機、嘆き悲しむガールフレンド…。被災地神戸での記録が克明に残されていた。

 母・恵美子さんの住む名古屋市緑区のマンションで、恵美子さんと妹・朗子さんにお話を聞いた。


(写真:学部の卒業式で、笑顔の基弘さん。1994年3月。当時の写真はいずれも恵美子さん提供)


「竸くんから電話ありましたか?」

きき手)1995年1月17日の朝は、こちらも揺れましたか。
母)揺れました。台所に立ってまして、すごく揺れたんです名古屋でも。えーっと思ったんですけど、よもや神戸に地震が起きるとは考えもしなかったんで、そのままもう一度寝床に入って。で、テレビをつけたら、関西でっていうので、びっくりして。息子のところへ電話かけたけど、もう通じなかったです。最初は「話し中」みたいな音だったんです、1回目かけた時は。で、次かけたらもう、音がしなかった。
きき手)何時頃かけましたか?
母)朝7時ごろでした。連休明けで主人も出勤の日でしたので、気にしながら家を出ました。娘も気にしながら学校に行きました。いつも7時ごろテレビをつけてましたから。テレビをつける前に1回電話したのかな、その辺よく覚えてないんですよ。

母)主人は名東区長だったので、その日、会議があって。2月1日が区制20周年だったんです。その前の一番忙しい時でした。大事な会議だから行かなきゃいけないし、娘も学校に行くって言うんで…。

母)そしたら12時半ぐらいに、息子の友達から電話もらったんですよ。菅(かん)君ってお友達なんですけど、「竸くんから電話ありましたか?」って言われたから、「いや連絡はないし、連絡取れないんですけど」って言ったら、「今、下宿のところへ来てる」って。でも下宿は潰れてる。でも「竸君がいつも乗っているバイクがないから、きっとどこかへ行ってるかもしれない」って最初の電話は切れたんですよ。
メ)菅さんはどういう関係のお友達ですか?
母)同じ工学部の研究室のお友達。

妹)私は、普通に大学に行って、授業を受けてて。当時は携帯もなかったので、母が大学に電話をくれて、職員から呼び出しがあったんです。大学の公衆電話から自宅にかけたら、「お兄ちゃんがまだ見つかってないから、急いで家に戻っておいで」と言われて、すぐに家に帰りました。帰ったら、親戚のおじさんが居間にいて。とにかく、電話待ちだったのを覚えています。
母)テレビつけっ放しでね。



(写真:インタビューに応じる、母・恵美子さんと妹の朗子さん。名古屋市緑区で。2019年12月29日)


「あすの朝一番でおいでください」

母)そのあと1時間か2時間ほどしたところで、もう1回菅君から電話受けたんですけど、「いまこの辺が燃えちゃってる」って。近くの宮前商店街から出火したみたいで。「火が来ちゃってるので、立ち入り禁止になってて(杉本文化まで)行けない」っていうお電話いただいて。

母)で、そのあと待ってたら、夜に池田先生って教授の先生からお電話いただいて、「なるべく明日の朝、一番で早くおいでください」ってお電話いただいたんですね。

母)でも教授先生の電話に至る時点では、友達が、立ち入り禁止が解けて、下宿の跡に行ってかき分けかき分け息子の部屋のところへ行って、足が出てるのを見つけていた。で、脈がないっていうのでどうしようという話になって、で先生に相談して。
メ)お父さんお母さんにどう伝えようかと。
母)そうです。息子の友達たちは、親に直接言えないので…。先生は、亡くなったってことはおっしゃらなくで、「朝一番でおいでください」って…。

母)翌日、(主人と娘は)朝一番に近鉄で、鶴橋駅だったかな、そこまで行って、そこへ神戸大学の友達のS君がワゴン車で迎えに来てくださってて。娘と主人を乗せて六甲の北側を回って大学まで行って。
メ)六甲トンネルを抜けて行ったんですね。
母)たぶんね。そこから下宿までたどり着いたという話でした。
メ)妹さんも行かれたんですね
母)娘はお兄ちゃんの下宿にはよく行ってて、兄妹仲良くて。妹をかわいがる息子だったので。お兄ちゃんの友達にも、みんなにかわいがってもらったみたいなので。私が絶対(神戸に)行きたいからって、で、出かけて行ったんですけど。

母)主人は、「先生からそういう電話があったってことは、覚悟をしておきなさい」って言い置いて出かけたんですけど、娘にはそれを知らせなくて。言ったらショックだから、っていうので…。


お兄ちゃんどこーって…。しばらく叫んでた

妹)すごく時間をかけて、六甲の裏からだいぶ時間かけて神戸に入りました。着いたのが午後3時ぐらい。普通、始発で出たら午前10時には着いているはずですから。

妹)私は、お兄ちゃんがきっと生きてるってずっと思いながら、電車の中でもずっと祈りながら…。
メ)移動されている時、お父さんは声掛けとかされていましたか?
妹)無言です。ずーっと無言です。お互い喋らなかったです。父にはきっと覚悟があったんだと思いますけど、それは私には言わなかったですね。

父・和巳さんと、妹・朗子さんは、基弘さんの確定的な情報は知らされないまま、現場に着いた。

妹)車で着いて、神社の駐車場に留めて。そこで初めて地震の惨状っていうか、街が崩れ落ちて、道路が盛り上がって、コンクリートが割れてるとか目の当たりにして、初めて、お兄ちゃんが危ないかもしれないって気がついて…。小走りに、下宿まで行きましたね。
メ)アパートが崩れているのを見てどうでしたか。
妹)ちょっと半狂乱になりましたね。お兄ちゃんどこ?おにいちゃんどこ!って言いながら。崩れちゃってるから、中に入れないので。2階の部分が1階を押しつぶしていて…。2階の窓があって、窓枠につかまりながら、お兄ちゃんどこーって…。しばらく叫んでたと思います。下宿が潰れているのを見て、お兄ちゃんはもう生きてないかもしれないと、そのとき初めて思いましたね。


(写真:倒壊した杉本文化。花が手向けられている。1995年3月25日、母・恵美子さん撮影)


毛布にくるまれてお兄ちゃんが出てきた

母)2階建てのアパートの1階に住んでて、で潰れちゃったんです。南へ飛んで潰れた(倒れた)から、息子を出してもらう時は北側から(探して)。
台所はそのまま残ってる。たまたま2階の部屋の玄関の土間が息子の上に直撃して、亡くなったって。


写真を見ると、杉本文化は1階が潰れて、2階が南に傾いて、細い道を越えて駐車場の車の後ろのボンネットの上に倒れこんでいる。
竸さんは、この文化住宅の1階に住んでいた。
写真は、オレンジ色の作業服のレスキュー隊が2階の床をめくっている場面。がれきの隙間から、靴下を履いたままの足が見えている。


妹)足が見えてるって情報はどこで聞いたんだろう?
母)立ち入り禁止がなくなって、菅君のほか何人かが下宿のところへがれきをかき分けて入っていって。息子がいつも寝てる場所のとこらへんと思ってN君が見たら息子の足が、靴下を履いている足があった。それを触ったらもう脈がなかって、びっくりしてどうしよう、ってなって。でも、池田先生は私たちには直接はそれを私たちにはおっしゃらなかったので。
妹)私、現場に着いて…。
母)かきわけて見たの?
妹)ううん。私見てないの。それでも私は希望を捨ててなくって。



妹)で、父が灘消防署に、「下敷きになって埋まってるから救出してほしい」って言いに行って。それで消防隊員さんがしばらくして来てくれて。2階が1階を押しつぶしていたので、2階の畳をあげて、ジャッキみたいなのを使って、作業してくれて。しばらくしたら………。(絶句)
フラッシュバック、ちょっと…。
(母・恵美子さんが背中をさする)
妹)お兄ちゃんがいつも寝てた毛布。毛布にくるまれてお兄ちゃんが出てきたときに、初めて、お兄ちゃんが死んじゃったってことがわかって。
(涙をぬぐいながら)
妹)わーって泣き崩れたのを、お兄ちゃんの足を一番初めに発見してくれたNさんが受け止めてくれた。そばにいてくれた。うん。
(目頭を何度もおさえながら)
妹)2人兄妹だったのでね、「お兄ちゃんわたし一人になっちゃうよー」って言いながら泣いていたのを覚えています……。



(写真:基弘さんの救出作業。1995年1月18日午後、父・和巳さん撮影 )


主人は、市役所の広報を長い間やっていました

メ)でも、救出する現場をよくお父様は写真撮ってましたね。
母)主人は、市役所の広報を長い間やってた。課長で。記録に残さないといけないっていうのは、その辺はすごいなと思うんですけど。

メ)これらの写真、お父様はおそらく着いた時から順番に撮っていらっしゃるんですね。アパートの南が焼けてるんですね。
母)南が西尾荘の方向です。
メ)あぁ、竸さんのアパートの南側の駐車場の南半分まで焼けている。
母)西側が六甲交番だと思います。東側のマンションは、燃えちゃったみたいですねぇ。


(写真:基弘さんに寄り添う朗子さん。1995年1月18日午後、父・和巳さん撮影)


母)この写真に写っているのが娘です。担架でね、(息子は)毛布でこうやってうつ伏せに寝てるんです。

妹)灘区役所のソファまでそのまま行った記憶はあるから。これはたぶん、救急車で王子スポーツセンターに運びますといって、それで区役所の前で兄の遺体とともに、一旦待ってるところだと思います。
悲しみしかないので。考える力がない。ぼーっとしてましたね。
メ)このあとは?
妹)区役所の方が王子スポーツセンターまで行ってくれって、おっしゃったのかな。救急車で搬送してくれたんですよね。


(写真:杉本文化の前で。左から祖父、基弘さん、母・恵美子さん、父・和巳さん、祖母と。)

メ)震災前の写真ですね。アパートが写っている。
母)この写真は義父が長い間入院したあと、体調が戻って退院して来たときに、初孫の基弘の下宿へ行って撮ったものです。大学2年生の9月ですね。義父、義母と一緒に、主人の運転で息子の下宿へ行って。菅君が写してくれた写真です。


(写真:下宿で友人とくつろぐ竸さん)

メ)この写真では、アパートの部屋の中で基弘さんが笑っています。
母)左が菅君です。これは息子の下宿の部屋で撮った写真です。

母)杉本文化は8世帯か10世帯いる中で、うちの子だけだったんです、亡くなったの。1階はみんな潰れたのに…。お隣は家族4人で住んでらして、家財道具のタンスなんかが両側から倒れてピラミッドのように(三角形に)なって、空間で助かったそうです。一番端っこのお部屋の方はパイプのベッドで寝てらして、その枠に(天井が)落ちてきたから、隙間で助かる状態だった。
メ)そのことはいつ知ったんですか?
母)5月の取り壊しの時です、うちの子だけだったということを知って、ものすごいショックでした。なんで、なんでうちの子だけ? 違った場所に寝てたら、(結果が)違っとったんだろうかといろいろ思ってしまって…。




父・和巳さんが残した手書きのメモ

メ)それにしても、お父様は、よくここまで写真を撮られましたね。
母)仕事柄とはいえ、記録に残すことが大事と言ってました。こっちを読んでいただければ…。

母・恵美子さんはそういって、父・和巳さんの手書きのメモを取り出した。
メモには、「兵庫県南部地震 基弘始末記 父和巳記」「平成7年1月18日(水)〜20日(金)その后、追記も」と赤ボールペンで書かれている。


(写真:父・和巳さんのメモの表紙。赤ボールペンで「兵庫県南部地震 基弘始末記 父和巳記」とある。)

以下、父・和巳さんメモの抜粋。
 時刻は24時間表記にしています。
 [ ]内は、編集部の付記。〓〓部分は判読不明部分。
 一部の実名はイニシャルに変換しています。


1月18日(水)
 5:30 朗子と一緒に自宅発(憲一[和巳さんの弟]車)
 5:47 [名鉄]神宮前発
 6:30 近鉄名駅発(特急5号車)
 8:57 〃 鶴橋着
      S君ホームで出迎え、父親とあいさつ
      S(車)で下宿先へ(宝塚、有馬、裏六甲経由)

14:30 神大経由下宿先へ、池田先生と会う
      基弘確認 区消防本部へ行き
      救助要請。直ちに1個隊派遣
      (岐阜、大垣、東京、各務原の車を見かける)

      基弘の下宿のみ焼け残り、周囲は灰のみ

15:00 救助開始 15:40終了
      うつ伏せ状態で死亡確認 区対策本部へ運ぶ
      (M、Kt、Kn、菅、S、Su、IN 他でタンカ運ぶ)
      [注:M、Kt、Knさんは名古屋の友人]

16:15 神戸市立王子スポーツセンター2階の
      死体安置所[ママ]へ救急車で運ぶ
      ・基弘下宿先のみ焼けずに残り、遺体はきれいでスム

16:30 下の1Fから死体検視(死顔苦痛の跡なし)
      (圧迫により即死状態か?)
      名古屋へ状況Tel
      鑑識[検視]が終わり次第 M(車)で
      帰名する旨伝える
      その后、鑑識が今日中に終わるかどうか不明に。
      M君達午前1時には帰名。

18:30 名古屋へTel。明日ワゴン車で当所へ来れるよう手配依頼
      池田先生、同級生帰る。明朝再訪依頼(遺体運搬)

       ※救助活動が遅い(もっと助かったかも)
       ※鑑識医1人で1千体を越す遺体 誠にお役所的
        いかりを感ずる(兵庫2529人死亡)
       ※安置所は遺体を置くだけの場所
        どういう手続きをした上、引き取るのか 
        その后どういう手続き必要か説明なし(紙に書いて貼出せばよい)
        (自分の親ならどうするか考えて)

      ・市内GSガソリンなし(@¥125)
      ・飲料水求め人々右往左往
      ・食料品を求めスーパーに行列(開いているのは一部)
      ・公衆電話も行列
       ※安置所 ひ難所も同居 にも2台だけで大行列
        もっと設置すべきでは
       ※ひつぎが足りず配布についてケンカ
        毛布も足りず配布するとケンカになるので
        引っ込めてしまう
       ※余りに多い遺体 早く引き取ってほしいとの事
        家がないのにどうすると又ケンカ

19:15 おにぎり、パンの配布あり(食べる気なくもらわず)
      鑑識始まりそうで始まらない イライラ
      今日中に帰りたいので早くしてと警察に頼むもラチあかず
20:30 寛[和巳さんの弟]からTel有 ワゴンレンタルOK
22:30 家へTel
      名古ヤからのワゴン車見切り発車してほしい旨
      1時過ぎに高坂(注:自宅)へTel入れ
      我々がM(車)で帰名していたら引き返すよう指示
      (王子スポセンTelNo.802-0223 2F 179番)
23:30 鑑識医が過労でダウン 休息中と発表
      (1Fの遺体のみ終了)
24:30 M君達に帰名するようにと、基弘の遺品を届けるよう依頼
      ダウンジャケット借用(冷え込み厳しい)
      家へTel、寛(車)神戸行くよう指示
午前1時  かなり大きな余震有
       331-8181 市対策本部
       341-7441 県警
       871-5101 区対策本部


妹)王子スポーツセンターには、何百体と遺体が並んでて。私たちは遅い方で。壁際の真ん中あたり。兄と私と父で。
メ)出入り口の近くですね。
妹)壁際だったのがありがたかって、名古屋から来てるから帰る家がないので、この遺体安置所で2泊したんです。生きてる人間が横になれるスペースはないんです。遺体がわーっとならんでるから。私と父は、2日間壁際に座って寝る。玄関のそばだったから、お兄ちゃんの友達とか、彼女とか出入りしていました。
妹)兄の遺体はきれいなほうだったんですよ。もっと悲しい遺体が、ほんとうにたくさん並んでましたんで。
メ)顔をみられたときどんなだったんですか?
妹)お兄ちゃんじゃないみたいでした…。最初見たときは。冷たくなって動かないお兄ちゃんと会うの初めてだったんでね…。




1月19日(木)
1:10 夜食おにぎり配布(1人1ケ)アナウンス
     もらわずにおく
               ↗︎死体検案書
5:00 12時間経ても未だ検視の目途たたず。
       ↗︎文句いうも たらいまわし
    ※この非常時に、警察の都合で遺族はりつけのままとは
     このままでは2日間待ち迎える人も。
     夏ならどうなる。怒り心頭。
     これは一種の規制。こんな時こそ
     かん和考えるべきでは 又は
     他県から監察医を応援に頼むとか
     これは今後の大きな教訓!

5:00 宣雄君(東京)[恵美子さんの弟]へTel。上記伝える
     寛のレンタカー(トヨタリース名古屋)今日午后8時までを
     無制限使用可になったとの事、朗報
     
      家へTel(経過、レンタカー、基弘名前出た?)
      Su君Tel(経過と見込)[大学の友人]

7:40 家へTel
     葬儀は浄元寺[じょうげんじ]と打合わせて決める
     一柳[葬儀社の名前]希望ならそれで話しの上、
      葬儀社へTel予約すること
       1/20(金)仮通夜
       1/21(土)本通夜
       1/22(日)10〜葬儀、告別式
      我々は、検視が午后になりそうなので今夜遅く帰名になる見込み

     Su君宅Tel(菅君達10時頃来)
     池田先生宅Tel(午後顔出すとの事)
     朝食おにぎりもらう


              ↗︎検視遅れ 今晩帰名葬儀〓〓相談
 9:00 ・S課長へTel 24日(火)までの日程キャンセルを
       中村区地振課長N氏へ1/23(月)夜キャンセルTelを
       東市民病院W院長へ1/28〜29〓〓会キャンセルTelを
      ・池田先生へTel 9:50検視開始(予定)
      ・家へTel(基弘写真、葬儀場所)
      ・朗子海外旅行どうする返事を
      ・Tさん来るとの事[基弘さんのガールフレンド]
 9:30 検視開始(No.102〜)
10:00 菅君達来 池田先生来(おにぎり差入)
12:15 寛、憲一到着
      菅君達の案内で下宿現場へ(徒歩30分)
12:00 T嬢来(尼崎から自転車3h)
       とりすがり、ほおずり、手を握って
       別れを惜しむ 15:15帰り
13:00 家へTel 下記連絡
       寛到着のこと 朗子海外旅行取止め
       葬儀場「地蔵寺」一柳へ依頼
       ここは6時ごろ出発の見込み
14:00 現吉夫妻、花たばもって弔問に来[注:アルバイト先の居酒屋]
      (小出君もアルバイト)
      基弘の家庭教師先知っている人あれば連絡依頼
      [注:基弘さんは家庭教師を2件受け持っていた]

15:15 菅君達一たん帰る。N、K君、I君残る。
16:50 検死[ママ]
     胸部圧迫によるちっ息死 即死に近い 
       生きていても数十分位。

     死亡診断書は明日1/20午后 できるだけ遅い方で
     神戸大医学部死因研究室[ママ]へ取りに行くこと
               ↘︎三宮より北西

17:15 家へTel 6時に出発する
17:40 池田、藤井両教授来 
     死亡診断書入手見込みできた時点で拙宅へTel
     落合う場所その時決めることに。
18:00 遺体搬出(寛、憲一の他 Ik、K、N、I手伝い)

   出発(裏六甲、有馬口、宝塚、池田経由171号線
   京都南インター名神入り)


母)18日の15時ぐらい[和巳さんのメモには16時30分とある]、息子の確認の電話を受け、「ああそうなんだ」と力が抜ける感じでしたね。主人から「まだ基弘にやること残ってるから、心をちゃんとしなさい」と言われて…。辛かったですね。記憶が残っていない…。
結婚式ももうできなくなってしまったわけだから、セレモニー的なものというのはお葬式しかないので…それだけはなんとしてでもちゃんと(涙声)…母親としてやれるだけのことはやらなくちゃいかんっていう思いが…、それだけでしたね。


1月20日(金)
AM 3:00 京都南インター(3:15草津休けい)
   5:00 名古屋インター
   5:20 自宅着 基弘仮安置
    (M、K君、森夫妻[恵美子さんの姉夫婦]、蟹江<宣雄、母>、家族出迎え)

   ・今日の仕事        (結果)
    ①モーニング借受 大丸Tel、土曜日宅送
    ②死亡診断書受取 松野助教授来、土曜昼に
    ③市民課手続問合せ 土曜5時までは天白区で

   8:00 地蔵寺住職の手で枕経
         一柳葬儀店N営業部長来
   9:00 区総務課長 T君来訪 合同で葬儀打ち合わせ
         菅君に友人代表弔辞と神戸からの弔問者まとめ依頼
  10:00 「浄元寺」住職にTelし、息子の葬儀は
         地元、役所(駐車場に天白区役所他可能)の関係で、
         同宗派「地蔵寺」で執行すること了承得る。
        (この間色々な方弔問客来訪 弔電来)
  14:00 両親宅仏間へ移し、納棺
         [2世帯住宅で仏間は両親宅にある]
         隣家UY君手伝ってくれる
        (区両部長、H、N来訪)
  15:00 池田教授からTel 死亡診断書入手 明日
         昼頃、松野文俊助教授(基弘の直接指導教官)が
         拙宅へ届けてくれるとの事。
         菅君から神戸から参列希望(宿泊)30人以上に
         なるかもとTel有。最大人数今日中に教えてと返事。
 
  20:00 食事 宣雄君から神大組のマルベリーホテル予約
  21:30 M、Kn、Kt、T、M、N来
  21:40 地蔵寺住職来 読経

  23:00 解散
         12時過ぎ星空を見ながら基弘の遺品の
         タバコ「フィリップモーリス」を一服吸う。
         突然ひとかたまりの雲が現れ、北から南へ流れていく。
         光の中へ消える。
         天国へ行ったことの知らせか。朗子を呼んで一緒に見る。
      

1月21日(土)
 1時すぎ就寝
 8時すぎ起床・朝食

 今日の仕事
  ・食事数量、生花一柳へ注文
  ・モーニング受取(宅送)
  ・松野先生から死亡診断書受取
  ・天白区役所で火葬許可書

   (松野先生へ診断書5通追加で後日送付依頼)
  ・写真とる 髪の毛切り
  ・納棺品揃える
  ・電報、香典、供物帳(1/20分)寺へ持参

11:00 松野先生 新瑞橋でPick upし自宅へ 診断書受取
       極楽の実家へ送る。[松野助教授の実家=名東区極楽]
       帰る途中、基弘が好きなサザンのCDを買う(棺へ入れるため)
       
       天白区役所で火葬許可書もらう
       地蔵寺へ寄ってみると、すでに祭壇等準備完了 
       基弘の正面の写真(カラー)見ると泣けてくる

12:30 一柳へTel、食事、供花連絡
16:30 出棺 地蔵寺へ(K君達 寛 憲一 智久[いとこ]等男衆の手で)
       
18:00 (夕食)108食用意
       親族、神戸学友45人
       (松野先生、菅君が住職に基弘の話し 戒名用)
       区役所手伝いは夕食すまして集合とのこと不用に
       手伝いにあいさつ。
19:00〜通夜開始 住職やや遅れ、浄元寺住職と息子の手で始める。
       700人を超える人がお参りに来てくれる
       以后、24時頃まで来訪あり。両親帰宅
       M君等6人終夜本堂で基弘に別れの手紙書いたりしている
       小生、午前3時〜6時横になる


母:この1月21日の夕方には、松野先生と菅くんが、戒名をつける参考にと、ご住職の神野さんに基弘の人となりを話してくれました。そして本堂では、中学時3年生のときに同じクラスだった仲良しのM君ら男の子3人、女の子3人が、夜通し基弘に付き添ってくれました。


1月22日(日)
 6:00 起床 寛達朝食をスーパーで整える
       小生は食べられず(胸が一杯)
 8:30 一旦、3人[父・和巳さん、母・恵美子さん、妹・朗子さん]
       帰宅 風呂に入りモーニングに着替

10:30 寺へ戻る
       (午前8時子供達に住職が祭だん前で基弘の話をし
       読経したと聞く 基弘の学問、鉄腕アトムのめざすもの)
       [注:お寺の日曜教室]

12:00 出立(昼食)88食
14:00 来賓区内公職者(6)、天白・中・中村区長、市民
       水道、教育各局長、[中略]警察、消防、保健各署長
       神戸学友(20に絞る)、向陽2人、M君達6人着席
        [注:本堂に入る人を絞った]
       葬儀開始 
       僧侶7人(内浄元寺2人)
        戒名「基岳瑛光居士」→秀れて光り輝く人の意
        [注:きがくえいこうこじ]
       参列者、雨の中1200人程に。
       恩師松野先生思い出語り、その後池田教授の弔辞代読。
       菅君が友人代表で、菅君も泣きながら弔辞 名弔辞、感動す。
       皆もらい泣きす 神野導師も
15:10 終了 最後の別れをする。学友も
      雨の中、多勢が見送りに残ってくれていた。
      (市、区役所、区会、名鉄、ぶんご会、学友、名東区の人々等)

   あいさつ[注:父・和巳さんの挨拶文]
    ・長男基弘は去る1月17日未明の兵庫県南部地震で
     祖父母、両親2代を追いこして勉学先の神戸市で彼岸に旅立ちました。
    ・小さい頃からおじいさん、おばあさんの教育のせいか、
      人に迷惑をかけない、人のいやがることをしない子でした。
    ・短い人生でしたが、思い出は尽きません。
     又友人にも恵まれ、充実した楽しい一生であったかと思います。
    ・親としてはもっと世の中のために才能を発揮し
     役立つ人になってほしいと期待していましたが、
     こんな形で人生を終えたのは大変残念ですが
     これも定めと今は思い切るしかありません。
    ・今までの彼に対するご厚情、ご厚誼に対し、彼に代り
     心から感謝申し上げ、彼が皆さまの
     胸の中で少しでも生き続けることができれば親として幸せの限りです。
    ・本日は基弘にお別れに、この様に沢山の方々が来ていただき、
     特に彼の終えんの地、神戸からも災害の中、
     遠路はるばるかけつけていただき心からお礼申しあげます。
    ・これからは私達残された者はこの深い悲しみを乗りこえ、
     いずれ彼の居る天国へ行けるよう
     正しく、そして力強く歩んで行きたいと思っています。
     それが故人の遺志でもあると思います。
    ・皆様にはくれぐれもお体にご留意され、友人の皆さまに
     彼の分も生きていってほしいと願っております。
     本日は雨の中、基弘へお別れに来ていただき
     本当にありがとうございました。


「基弘は王子スポーツセンターにいるから会いに行ってやって」

母)地震のあとで(ガールフレンドの)Tさんから電話かかって来て、「あっ、Tさんでしょ、基弘ね今ね王子スポーツセンターにいるから会いに行ってやって」って言った覚えがあるんです。彼女も連絡の手はずがとれないですよね、で、実家元のうちへお電話くださった…。彼女は尼崎から自転車で行ってくださって、(名古屋まで)お葬式にも来てくださった。

母)お葬式の後、生まれ育った名古屋の実家の部屋を一目見ておきたいと、彼女は、基弘の大学の友人のKsさんに付き添われて来てくださったんです。
メ)「基弘の赤ちゃんの時からのアルバムや遺品を一緒に見てもらい思い出話を聞く」と、お父様のメモにはあります。
母)その遺品の中にCDがあったんです。
メ)お父様のメモには、「CDのうちケースに合わないものを朗子が発見。『プライベート』と表示されていた。さっそくCDをかけてみると、基弘のカラオケの声が入っていた。サザンの『YaYa(あの時代を忘れない)』。みんなびっくり。みんな聴きながら、泣く。うれしい発見!」と書かれています。肉声が入っていたんですね。
母)聴くと、あの子の人生を歌ってる様な気がして…。サザン好きだったので…。


(写真:尾崎豊のCDケースには、カラオケで吹き込んだ肉声のCDが入っていた。)

メ)さらに、1月28日のお父様のメモにこうあります。「午後2時ごろ、子ども会ボラ仲間のTuさん、Mmさん(女性)来宅、お参り。Tuさんは12月30日の夜、基弘と8時間あまり電話したという」。
母)子ども会冒険隊のボランティア仲間なんですけど。
メ)「『人生に悔いはない』と言っていた」。
母)そうなんです。今までの人生に、僕は悔いはないんだよって、Tさんとおしゃべりしたそうで。それを聞いて、なんかね、親としても、ああそうなんだ、短かったけども、それまでの人生は充実してたんだな、よかったな、っていう思いですよね。
メ)「『親が名古屋に帰ってほしいと言った。そうするつもり』」、基弘さんは、名古屋で就職するつもりだったんですね。
母)思ってたんですね。


(写真:ユースサイクリング同好会のおそろいのパーカー。お気に入りの色だった。)

メ)同じ日のメモには、「北海道礼文島で1993年のサイクル旅行で一緒になった、奈良女子大学ワンゲル部の、Iさん、Nさん、Sさん3人が来宅。3人とも今はOL。Iさんは習志野から。ほんとうに、少しの縁でよく来てくれた」ともあります。ユースサイクリング同好会での繋がりですかね。
母)そうですねぇ。
メ)「19時、きょうは小生の誕生日。Y君[朗子さんの当時のボーイフレンド]をまじえて、しゃぶしゃぶ囲んで夕食。一番悲しい誕生日となってしまった」。
母)うーん……。

メ)2月4日には、「午後4時ごろにはユースサイクリングのTくんが大阪から来た。彼も震災で彼女を亡くした。ユースサイクリングでは3人亡くなった」と書かれています。
母)そう、ユースサイクリング同好会では櫻井くん(当時法学部・4年、櫻井英二さん、愛媛県出身)と細井里美さん(当時農学部・2年、和歌山県出身)も亡くなったんです。ユースサイクリングのお仲間の繋がりってけっこう強くて、同じ歳の人や先輩にあたる人たちが、いまだにゴールデンウィークを利用してサイクリングしてて、名古屋にいらした時はお墓参りにきてくださったりとか、思いが強くて。感謝ですね。


バケツリレーで遺品を運び出す

母)3月に神戸に行って、倒壊した下宿からいろんなもの(遺品)を出したいと相談したら、10何人集まってくだすって、松野先生も。みんなバケツリレーで、人海戦術で出してもらって、それをいったん研究室に預かってもらって。4月の年度始めに、大事なものだけ名古屋に送っていただいたんですけど。


(写真:下宿で見つかった時計。地震発生の5時46分をまわったところで止まっている。)

母)基弘の神戸で培った人と人との繋がり、あったかいものを、返してもらいながら、こんなに愛情に包まれた日々を送らせてもらったんだっていうのは、親元を一人離れて親戚もいない神戸に行った子ですけど、5年間っていうのが改めて、ああ寂しくなかった充実した5年間だったんだなっていうことを感じさせられて…。いかに人って、一人ではなくて、寄り添う心に包まれて支えられて生きてるんだなって。息子も私たちも一緒なんだなと、そう感じますね、はい。
そのあとも、なにかにつけ(ボランティをしていた)冒険隊という子ども会の仲間の人が8人ぐらい連休に、お墓まいりかたがた来てくださったりとか。
メ)社団法人兵庫県子ども会連合会と書いていますね。年末に長時間電話で話したTuさんもこのつながりですね。
母)冒険隊は、研究室の1年上の先輩からお誘いを受けて参加したんです。うちの子も子どもが好きだったんで。子どもたちと上手に遊ぶ子だったんです。

2月10日(金) 共同通信の記者の取材を受ける
[注:共同通信が連載記事「5時46分の生と死」の第12回として全国35紙に配信した]
2月11日(祝) Tさん、Sさんの結婚式。仲人を務める。
         式中、万感胸に迫る。もう両家代表挨拶もできない。

母)主人の勤務先の部下だった人です。仲人することが決まってて…。主人は、新郎の父の両家代表挨拶をしたいっていうのが夢だったから。主人としてはそれが心残りだったと思います。


2月19日(日) 区制20周年式典 市長、議長迎え挙行。
         祝賀会で多くの人から慰めの言葉を受け、
          ついホロリとしてしまう
2月20日(月) 3月17日に大学の慰霊祭あるとの連絡
         ぜひ出席したいと返事
2月26日(日) 忌明け法要(四十九日法要)

3月 8日(水) 六甲道へ 掘り出し道具を借りて下宿先へ
         1時半作業開始 2階床下を全部はがし
         徹底的に遺品探しを行う
         セカンドバッグ、アルバム、衣類、スーツ、
          コンピューター、折り畳み自転車
          小型トラック1杯分集め神大の研究室に運ぶ途中雨が降る

        Tさんが置いてくれた遺影を前に
         ろうそく、線香、お酒、果物を供え
         みんなで手を合わす 池田教授も来る
3月12日(日) 墓地へ行く 納骨
         神大から3人来る
        サイクリング部の友人Tさんはじめ7人が来訪
          お参りをして思い出話
          基弘がタバコを吸い始めたきっかけなど聞く

3月17日(金) 震災後ちょうど2か月 
          休暇を取り8時35分ののぞみで名古屋駅を出発 
         家内と9時55分JR神戸線で住吉へ
         10時20分住吉着 菅君、Kくん駅へ出迎え
         基弘の下宿へまず行く
         11時に神大の研究室へ 早速遺品の整理
          バッグで7つになる

        2時から神大合同慰霊祭 講堂で開催
         学生39人、教職員2人 
         計41人の遺影が菊の花に囲まれ飾られた中で
          基弘は下段向かって右から2枚目なり
          遺族代表・森さん[森渉さんの父・茂隆さん]の弔辞は
          遺族の気持ちをよく表していて みなさん涙す
          参列者 講堂の中830人はじめ2000人が献花


母)主人も、他人様の暖かい心がありがたかったようです。
このあと、「鎮魂」の慰霊碑ができてすっごい嬉しかったです。あそこへ行けば、名前がちゃんとある。息子が大好きだった神戸大学だし。青春がいっぱい詰まった息子の存在がここにあるわと…。遺族はみんな同じかな。


(写真:妹・朗子さんの成人式の際に撮影した写真が遺影となった。)


メモは25年間そのまま引き出しの中にしまっておいた

メ)六甲の八幡神社についてからのお父様の様子はどうでしたか?
妹)感情的にならないで、常に冷静な判断をしてたと思います。父はどこか、深い悲しみを持っていながらも、冷静に現場を残しておかなければと写真をとるし、どう動いたら兄の遺体をできるだけ早く救出してもらえるだろうかと判断して灘消防署に行ってるし、さすが父親だったなとおもいます。
メ)写真を撮っておられたのは知っていたんですね。
妹)下宿の周りにいた私たちではどうしようもなかったんで、助け出せない状況で。記憶の風景の中で、写真を撮ってるという記憶はあります。
メ)メモもずっととられてたんですか。
妹)私は知らなかったです。(後に)母にみせてもらったんだと思います。
メ)中身は読まれましたか。
妹)ちらっと…。よーく読んだことは、まだないです。わたしにとっても、これは向き合わされるものなので。そんな克明に思い出したいことでもないので。
妹)王子スポーツセンターの壁際で、なんか書いてたのは覚えてますね。でも、これを書いていたのは知りませんでした。
母)私も、そのまま引き出しの中にしまってあって、主人が亡くなってからも見なかったので。
メ)ご家族としては、見たいと思わなかった?
母)やっぱりね、息子が亡くなったことに関してのことだから、辛いから見れない。今回、25年経つんだけれど全部見たことがなかった。写真とメモと両方見ると、こんな思いをしてたとか、すざまじい経験を客観的に書いてるから、これがお父さんの凄いところかなと思う。このとき主人は54歳でした。

メ)お父様も、最初の頃は少しだけ書き付けるつもりだったんでしょうね。
母)そう、だからそのメモ用紙みたいな半端なものに書いたんでしょう。
妹)もっと長く書くと思ったらノートだったはずですよね。ちょっとしたメモのつもりで始めたんだと思うんですけどね。




長期休暇のたびに長く神戸に行ってました

メ)神戸にはよく遊びに行っていらしたんだそうですね。
妹)神戸に行ってからの5年間は、よくかわいがってくれました。だから私も長期休暇のたびに長く神戸に行って、それでお兄ちゃんの友だちとかも仲良くしてくれてたので、それがここまでのつながりにもなって、支えにもなっているので、ありがたかったなあと思います。
メ)やさしかったんですね。
妹)下宿に行くと、いつも当たり前のように友達がいたので。お互いに遠慮なく壁がなく、そこに私さえも入りやすいような、親密な飾らない人間関係を兄が築いてましたね。
妹)私、大学3年生でしたけど、当時の友達に、わたし世界一好きなのはお兄ちゃんだよねって言ってました。格好いいタイプではなかったけど、頭いいし、おもしろいし、優しいし、最高のお兄ちゃん。(笑)


母)ワゴン車で(名古屋に)帰って来るとき、隣に寝てかえってきたんだよね。
妹)父と2人の弟(叔父)が一番前に3人で座って、その後ろは全部倒して、そこでお兄ちゃんと私が一緒に横になって名古屋まで帰って来ましてね。


1、2年したらマンションに移るつもりで…

メ)お母さんも神戸にはよく行かれてたんですか?
母)下宿に行ったのは、学校入る手続きで入居を決めた時と、引っ越しの時と、そのあと2年生の時に主人の両親連れて一緒に行った、3回しか行ったことがないんですよ。こんなに古い、崩れ落ちるような建物に住んでたんだって…。神戸大は国立大学なので、マンションやなんかは私立の(合格発表が早い)人がおさえちゃって。本当はマンションに住みたかったけど、(物件が)なかったんですよ。とりあえずは、大学生協でも斡旋していただいたんだけど、日当たりが悪いとか何かでやめて、同じ阪神産業さんというところが、家族も住んでいて広いところですけど、っていって案内してくださったのがここで。日当たりがいいので息子は気に入って…。どちらにしても、1、2年したらマンションに移るっていうつもりで入ったとこなんですよ。でも結局お友達が来やすいので…。
メ)広かったんですね。
母)だから、亡くなるまでそこに住んでた。玄関が1畳あって、その脇が3畳の和室でそこに机と本棚とパソコンと置いてあったんだよね。真ん中の部屋が6畳の和室で、一間の押入れと一間の板の間があってファスナー式のクローゼットなんか置いてあって。奥が4畳半ぐらいの台所で、トイレがついている。
メ)広いですね
妹)単純に足すと15畳ぐらいあるね。
母)30年ぐらい前の当時で、家賃が4万2000円しましたから。気に入ってずっと住んじゃってた。



(写真:研究室のPC前でのスナップ。偶然だが、日付が震災で亡くなるちょうど1年前。1994年1月17日、研究室で)


メ)震災後、若手の研究者や技術者を表彰する「竸基弘賞」が創設されましたね。
母)指導教官だった田所先生や松野先生たちが2002年(平成14年)に国際レスキューシステム研究機構を立ち上げて、2005年(平成17年)にはレスキュー・ロボットの若手研究者を奨励するために竸基弘賞を創設されたんです。
メ)基弘さんのお名前が、後世に伝えられていますね。そして、毎年、震災の日の前夜には、基弘さんの友人と毎年集まる会がありますね。
母)阪神御影の居酒屋「現吉」には、ユースサイクリング同好会の仲間で代々アルバイトをしていたんです。基弘も1年の冬ぐらいから行ってたから。主人と息子ゆかりの場所だからと行き始めたら、結構ゆかりの人がきてくださるようになって、毎年1月16日の夜は賑やかに飲み会をするんです。
息子の足を(倒壊したアパートで)見つけてくださった大学院の研究室でいっしょだったNさんは必ず。それと、ボランティア活動をしていた冒険隊の先輩リーダーのKさんも。

母)主人も、男の子を亡くしてしまって、仕事する上での生きがいも一時期微妙に揺れ動いた時があるみたいで。でも基弘のこと考えたら、私たちがあの子の心を感じながら頑張って生きていかなきゃいけないという思いでした。
いろんなつながりがなければ、自分だけの悲しみの世界で出口のないトンネルの中にいたかもしれないですね。


同じ学び舎で青春を過ごした先輩39人の死 風化させないでほしい

メ)今の学生へのメッセージを。
妹)私はね、兄が23歳で、自分でも思いもよらず突然命を失っているんで、若い人たちには、「その命っていつなくなるかわからんよ」っていうものでもあるから、命のある時間を大切にしてほしいなと思います。

母)あの震災で6434人が亡くなったんです。歴史の中の出来事と感じていらっしゃるかもしれませんが、同じ神戸大学の学び舎で青春を過ごしていた先輩39人も、ある日突然命を絶たれてしまったんだよってことは、風化させないでほしいなぁ、って思います。災害はあちこちで起きているわけだし。私たちも我が子がなくなるなんて思ってもみなかったんだから。いつなん時だれかの身に降りかかってくるかわからない、っていうことを感じるアンテナを持ってて欲しいんです。ITやAIの世の中だけど、人でなければできない「感じる心」を忘れないでほしいなと思いますね。


(2019年11月4日、12月29日インタビュー、きき手:森岡聖陽、玉井晃平)




<2020年1月11日アップロード>

《連載記事》
【慰霊碑の向こうに】① 一枚の写真から
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/b81d5f93f24d4db312586b32da0838da

【慰霊碑の向こうに】② 故・戸梶道夫さん(当時経営学部2年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/023b839a782ed062de6f26d1d5f0919b

【慰霊碑の向こうに】③ 故・高橋幹弥さん(当時理学部2年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/7165089761eef41f45c9d3eae84c1870

【慰霊碑の向こうに】④ 故・高見秀樹さん(当時経済学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/eb2e066042bfb01d561385907b64f44a

【慰霊碑の向こうに】⑤ 故・坂本竜一さん(当時工学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5c9a8898fafde156a8091d6fac45d615

【慰霊碑の向こうに】⑥ 故・中村公治さん(当時経営学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/a65c964c3ba5baa556ab126cf22dc1f1

【慰霊碑の向こうに】⑦ 故・森 渉さん(当時法学部4年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/51f49f1abe823bdfa978ca6c6addd922

【慰霊碑の向こうに】⑧ 故・竸基弘さん(当時自然科学研究科博士前期課程1年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/bbbdb927d2917cdde7834b73e8dfd2b4

【慰霊碑の向こうに】⑨ 故・白木健介さん(当時経済学部Ⅱ課程3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5cf5033cc4e75acb06952295dad255aa

【慰霊碑の向こうに】⑩ 故・工藤純さん(当時法学部修士課程1年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3f0215cb9c0ff23b43149a3076ccb645

【慰霊碑の向こうに】番外 亡くなった学生の家族からのメッセージ
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/c6a974c72827bb82f3339b2381077f8b



【慰霊碑の向こうに】⑦ 故・森 渉さん(当時法学部4年) =母・尚江さんの証言=

2020-01-12 20:12:23 | 阪神・淡路大震災
 森渉さん(当時22歳、大阪府立泉陽高校卒、五百旗頭(いおきべ)ゼミ/軽音楽部)は、神戸市東灘区本山中町4丁目9のイーストハイム1階西に下宿していた。
 1995年1月17日午前5時46分の地震発生時、当時の堺市の泉北ニュータウンの実家でも大きな揺れ(大阪市中央区で震度4)を感じた。母・尚江(ひさえ)さんも、揺れで目が覚めたという。翌18日、父・茂隆さん(故人、2016年没)が電車で神戸に向かい、JR摂津本山駅近くの下宿にたどり着いた。
 そこで見たのは、1階がつぶれ、2階がその上に乗っている状態の渉さんのアパートだった。
 今は京都市東山区に住む、母・尚江さん(82)を訪ね、2016年に亡くなった茂隆さんから聞いた話も合わせて、震災直後の状況を教えていただいた。


(写真:地震の3ヶ月前の森渉さん。1994年10月22日、姉のリサイタル会場の神戸・風月堂ホールで撮影。)


何十回も電話をかけました。すでに死んでることを知らないから…

きき手:地震があった1月17日当日、お母さんはどちらで揺れを経験されましたか?
母:泉北ニュータウンの高倉台(現在の堺市南区)というところにおりました。すっごく大きな揺れがあったというわけではないんですが、それでもかなり感じました。主人と2人で目が覚めましたよね。すぐテレビつけたら、はじめはあんまりたいした放送しなかったんです。渉はスポーツマンだし、体格もいいし、めったなことがあるなんて夢にも思ってないもん。

きき手:電話をかけられたそうですね、下宿に。
母:渉の下宿の部屋の電話は通じてるんですよ。なぜか知らないけど。ちゃんと切れずにね。だからコールがなるんですよ。何十回もね、私電話をかけました。その時はすでに死んでることを知らないから…。


(写真:渉さんの写真のある部屋で、震災直後の様子を語る森尚江さん。2019年12月1日、京都市東山区の自宅で。)


アパートは2階が1階になっていた

母:私達クリスチャンなんですね、その日は午前10時ごろにキリスト教の集会がありましてね、教会に行っておりましたら、そこに神戸大学の学生の親がうちともう一人いて。「まだ帰ってこないわ」と言うてるところに、そのお母様が、「子どもがおかげさまで帰ってきました」と言いはってね。渉ももうすぐ帰ってくるわといいながら、待てど暮らせど帰ってこなくて。それで父親が電車で神戸に向かいました。

姉・祐理さんが父・茂隆さんから聞いた話によると、茂隆さんは18日朝、神戸に向け出発。動いていた阪急電車で西宮北口まで行き、そこから先は東灘区本山中町まで徒歩だったという。(「現代ビジネス」西岡研介 2015年2月11日 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/42057

母:渉はJRの芦屋の次の駅、摂津本山駅の近くに下宿してたんです。Sさんいう立派な資産家のおうちがありまして、そこのところに簡単な下宿を、8人が住めるような細長い、今はもうガレージになってますけど、そういう下宿屋さんをやってたんですよね。渉が一番端に住んでたんですよね。
きき手:2階建て。1階に4軒。2階に4軒。渉さんは一階の西端に住んでいらしたという記録があります。
母:完全に2階が1階になってましたからね。主人の話ではあんまりその体に傷はなかったみたいですけれどね。(周りの人に)手伝ってもらったり自衛隊の人とかにね、助けてもらって、足が見えて、手が見えてという感じで。それでなんとかあの、持ち上げて引き出してくださって…。商船大学が遺体安置場所やったらしいんです。自衛隊の車で運んでもらって。ずらーっと遺体が並んでる状況やったらしいんです。


(写真:アパートは、渉さんの部屋のあった1階が潰れて、2階がその上に乗った状態だった。地震翌日、1995年1月18日、神戸市東灘区本山中町で撮影。)


「落ち着いて聞けよ。渉はだめだった」

母:近くで火事が起こるし、大変だったみたいです。それで主人は(公衆電話の列に)並んでね、私に電話かけてきまして…。
きき手:何時頃ですか?
母:私そのころパニックだったから、あんまりしっかり覚えてないわ。
きき手:どんな内容でしたか?
母:第一声がね「落ち着いて聞けよ」と言って、それだけが頭に残ってるんです。落ち着いて聞けよって言ったんですわ。私それでもう、ふぅっとなったみたい。
きき手:じゃあそこから先は覚えてない?
母:渉はだめだった、という意味だったと思いますけど。だいたい言葉数の多い人じゃないから簡単に言ったはずですけれど。「渉はだめだった」いう意味のことは耳に残ってますね。
きき手:電話は一応最後までお聞きになった?
母:しっかりしてなさいということを主人に言われて。主人の妹が泉北ニュータウンの竹城台というところに住んでまして、すぐに来てくれました。祐理は、なかなか東京からも交通事情が大変だったんですね。やっとのことで帰ってきて。

姉・祐理さんは、18日の夕刻に叔母から知らせを受け、19日の朝一番の関空発の飛行機で堺市の自宅に戻ったという。

きき手:父・茂隆さんは電車で神戸に向かったので、渉さんを堺市に連れて帰るためには自動車が必要でしたね。
母:泉北キリスト教会に所属していたので、教会のメンバーの人たちも大変だということで駆けつけてくれて、自動車で行ってくれてたんです。男の人達が大きいワゴンみたいな車で、神戸に向かってくれたんです。


(写真:堺市南区の泉北キリスト教会)

きき手:お母さんは一緒に行かれなかったんですか。
母:私はもうとてもそんな状態ではなかったです。私なんかまだ若かったんやけども、あきませんでした、もう私は。結局、主人は18日の晩を商船大学ですごして…。
きき手:ワゴンに乗って渉さんが帰ってきたのは何日でしたか。
母:結局、翌19日でしょうか。記憶があるから。まだ明るかった。大きな車だったし、神戸の国道43号線が通れなかったとかで、それでもう時間がすごくかかったと聞きました。



パジャマ姿で帰ってきて… 座敷に寝させた

きき手:お宅に帰ってこられたときは出迎えたんですか?
母:お座敷にね、寝させて。それでもうね、ありがたいことに体がつぶれたりだとかそんなことは全然ありませんでした。パジャマ着てましたけどね。まだ朝起きてないから。パジャマ姿でしたね。娘の祐理は渉の顔が…とかちょっと言ってたけど、私はその記憶がない。渉がそんな汚くなったような記憶が本当にないです。
きき手:渉さんのご遺体を前に、どんなお気持ちでしたか。
母:しっかりと受け止めなあかんとおもいましたけれどね、突然のそういうことにあいますとね…。人間というものは、そんなになかなかしっかりとはできません。もう。ましてやね、親が子供を失くすということはすごく大きなことです。
きき手:目の前のできごとを受け止められない…。
母:それは、クリスチャンとしてね、そういうことはいつも聖書から学んではいるんですけれどね。もうどなたもそうだったと思うけれど、呆然としてしまうということにつきますね。


ゼミ、軽音楽部… 500人以上が葬儀に

きき手:家に帰ってこられてから、お葬式ですね。
母:うちのお葬式、1月21日だったかしら。(ゼミの担当教官の)五百旗頭先生がものすごくいい追悼の言葉を書いてくださって、立派な文章だったんです。それがお葬式で。光明池の泉北メモリアルホールです。

姉・祐理さんの記録には、1月22日の日曜日に告別式が行われたとある。

きき手:どれくらいの方がこられたんですか
母:すごい方がこられて。もう500人以上やったって聞いてます。ゼミとか、その軽音楽部の人達とかね。(被災地に)下宿してるお友達なんか、もうこれしかない言うてね、着の身着のままで、そんな感じだったみたいでねえ。
きき手:友人のみなさんのお話を聞かれていかがでしたか。
母:お友達の中でこうやって皆さんに受け入れてもらってる子やったんやなということがわかって。22歳でもこれだけ充実して人生を送ったんだというそういう気持ちも、私にはありましたね。
きき手:すごく凛々しい、いい写真ですよね。
母:イソップ物語だったかな、ヨーロッパのおとぎ話だったかしら。猟師が鳩たちを撃とうとしたら、鳩のお母さんがね、「どの鳩を撃っても構わないけど、この鳩の中で一番美しい鳩だけ撃たないでね。それは私の息子だから」と言うんですよ。わかったわかった一番きれいな鳩は撃たないからと、猟師が鳩を撃つんです。お母さんに見せたらね、お母さんが「それは私の息子よ」って言ったというそういう話があるのね。母親から見ると自分の息子は最高に美しい、ただし猟師から見るとそうではない、という寓話なんですよね。私だってそういうだろうなと。母親の切なさというものはそういうものなんだなとね。


(写真:就職活動のために撮影した写真。)


新聞社に内定して 今は天国で取材してる

きき手:渉さんは、読売新聞社大阪本社に内定されていましたね。
母:(前の年の)3年生のとき、一番最初に決まったの。
きき手:もともと渉さん新聞に興味があったのですか?
母:なんかね、ピューリッツァー賞かなんかねとるいうて。まだ夢大きい時代だったんですよ、あの子はね。政治を語るっていうのにものすごい興味がある子でしたね。神戸大学新聞にも、そのころエッセイか小説かをずっと書いていたらしいけど、そんなの何も(手元に)ないもん、ねえ。(下宿が)潰れてしまってるから。
きき手:新聞社の研修のお写真もありますね。
母:おなじ神戸大学の法学部から、中川君という方も入られて。今、海外特派員で新聞に名前が時々載っているんですけど。毎年1月にはメッセージカードをつけて、お花をくださるの。「お母さん。僕は渉のためにも頑張ります」とそういってくれるからね、もう息子みたいに思ってね。
主人は、「渉は天国で取材してるんやから、もう嘆くな」と時々言ってましたけどね。中川君がこの世で取材して、渉が天国で取材して、とそう言っていましたけどね。


週に1回帰宅して、私の料理を食べながら話してくれました

きき手:アルバイトは何をされてましたか?
母:神戸にいましたけれど一週間に一度、土曜日に泉北の家に帰ってきて中学生の家庭教師をしておりましたの。帰ってきたら、私の料理を食べながら、いろんなもうそれこそ時事的なこととかもね話してくれました。

きき手:やっぱり一年生の最初から下宿生活だったんですか?
母:いや、しばらく、ほんのしばらくは通ってたけど、常識的に考えて泉北から通うのはちょっとね…。一年生の夏ごろから下宿生活を始めました。
きき手:下宿は、東灘区本山中町でしたね。下宿を決めた時は一緒に行かれました?
母:確かに行きましたね。摂津本山いうとこにね。

母:大家さんのSさんがねぇ、「私どものアパートにいたばっかりに」とおっしゃるんやけど、絶対そんなことはない。それは渉の持って生まれた運命やから、といつも言ってるんです。
きき手:Sさんとは今でもおつきあいがあるんですか。
母:はい。いいおつきあいさせていただいています。もう90歳を過ぎておられます。

母:素敵なガールフレンドがいてね、経済学部の人で。長いこと独身でいましたけどね、とうとう結婚しましてね。ものすごく優秀な子で、今ね英語の翻訳して暮らしているそうです。
きき手:渉さんが亡くなったということは彼女は知っておられた?
母:知ってるどころか、それこそ下宿の引き出しの荷物なんかを整理してくれてました。どろどろになったのかなんかをね。たくさんのお友達が渉のためにしてくれてましたね。


(写真:堺市泉北高倉台の実家の前で、母、姉と仲良く写真に収まる 1994年10月22日撮影)


中学・高校とバスケ 文学青年でした

きき手:小学校はどちらに…?
母:泉北ニュータウンの高倉台小学校というところに行きました。私たちが結婚してしばらくは、(大阪府北部の)枚方におりましてね。(大阪府南部の)堺市の泉北ニュータウンが売り出されたので、そこでくじ引きが当たりまして、高倉台に。小学校2つできましたわ。東と西とでね。そんななか、渉たちは高倉台の小学校に入りました。
きき手:中学校はどちらに?
母:三原台中学いうところ出たんです。中学はバスケやってた。
きき手:高校では?
母:高校は府立泉陽高校でバスケを続けたいって言いましてね。震災の後もね、高校時代の友達なんか、涙が出るくらい、もう集ってくれました。

母:ちょっとだけ、死んだ子ですから自慢させてください。あの子は、文学青年なんですよ。模擬試験の国語の試験の時にね、夏目漱石が試験に出たんですって。そしたらその問題を読んでるだけで何にも試験ができなかったって。もう夢中になってしまって。まあそういうような文学的な知的好奇心のある子でした。


棺のなかで新しく買ったスーツを着せて、天国に行きました

母:で、大学では軽音ですね。テナーサックスいうの…やってました。
きき手:神戸大学に行きたいって言われだしたのは、いつごろだったんですか?
母:神戸大学には、まず五百旗頭先生に憧れたのと、それから神戸って「かっこいいな」っていうので。私立いっぱい受けたらすごくお金がかかるから、それ受けんかったから「いい時計買ってくれ」言うてね、高い時計を買ってやりましたね。
きき手:お祝いの品として時計を。
母:それから読売新聞に決まったとき、スーツを1着買わなきゃいうことでスーツを買ったわ。高いスーツだった。で、お棺の中でそれを着せて、天国に行きました。


(写真:卒業式のあと、五百旗頭眞教授と父・茂隆さん。ゼミ生に囲まれて撮影した。1995年3月24日)


五百旗頭先生はほんとうに可愛がってくださいました

きき手:追悼手記に、五百旗頭先生の弔辞の内容が一文だけ載っています。「志を持って生きるもの、愛を知るものの目の輝きを持っていた森くんこそ、短いが充実した生を楽しみに、充実の最中で、輝きを持って飛び去ることができた幸せ者かもしれません」と。
母:思い出します。先生はほんとうに可愛がってくださいました。
きき手:ご主人は言葉数の多い方ではなかったけれども、震災後はさらに無口になったとも書かれています。
母:それは多分、娘の祐理が言ったことばじゃないかと思うんですけど、「お父さんは感情を外に表さないから、もっともっと泣かないとダメよ」って祐理は言ってましたけどね。


(写真:風月堂ホールで行われた姉のリサイタルでは撮影係を任された。1994年10月22日)


風月堂の前で立ったまま泣いていた。なんかもう涙が溢れて溢れて…

祐理さんが、神戸元町の風月堂ホールでリサイタルをされた時の写真がある。渉さんが、撮影係として記録写真を撮っていた。

母:あれ震災から何年目やったか…私、神戸元町の風月堂、あそこの前で立って泣いてたんです。なんかもう涙が溢れて溢れて…。そしたら道を歩いてた方が慰めてくださったということがありましたね。


渉は幸せです。愛されているから

母:主人は、学生時代は京都の下鴨あたりで下宿してたんですよね。京大生なんてみんな貧乏学生なんですよ。聖公会いうキリスト教の一つの派の平安女学院の大学の先生のお宅で、主人は息子さんの家庭教師させてもらって。そこで、クリスチャンにはなりませんでしたけど聖書を学ぶいう機会を持ったみたいなんですね。もう祐理は先にクリスチャンになりましたけど。おかげさまで、悲しみの涙に朝から晩までくれるというんじゃなくて、悲しみの中にも希望の光を見出すような感じでね…しばらくしたあとですよ、そりゃあすぐ後にはやっぱりね、もう泣いてばっかりいたけど、そういう風にしてきました。

きき手:祐理さんは歌手として活動していらっしゃいますね。
母:お姉ちゃんはね、福音歌手っていう仕事してるから、そういう意味では渉はいっつも話題の中ではいわゆる主人公になってるから、そういう意味で渉も幸せですね、そういう意味では…。祐理は毎年自分が主催でね、渉を含めて、震災で亡くなった方へのお祈りを、(神戸市東灘区の)御影の教会で毎年してます。
きき手:渉さんと、姉の祐理さんとはどうだったんですか?
母:ものっすご仲良しでした。だから、祐理はどうしてもこれをせずにはいられない。そういう意味でも渉は幸せです。愛されてるんですもん。


(写真:机上には福音歌手として活躍する祐理さんの写真がある。)


関心を持って欲しい 語り継いでいってくださいね。

きき手:僕たちの活動は、今年(2019年)1月17日の大学の慰霊献花式に現役の学生が誰もいなかったことから始まったんですけれど、今の学生へのメッセージはありますか?
母:ものすごくたくさんの方が亡くなってるわけでしょ?だから震災があったということに関心を持って欲しいなとは思います。渉みたいなこともありえるんですからね。災害はだれにでも突然襲ってくるんですよね。だから生きてきてきたことをね、大切にして、さらに人生を楽しむ。そういうように過ごしてもらえたらねぇ…。25年も前のことなのに興味持たれるってのはありがたいことだと思いますので、何かの形でね、また語り継いでいってくださいね。

母:やっぱり、取材されていると、年が経ってくるにしたがって遺族たちのコメントも変わってきません?傷が癒えてくるというのも確かだから…。でも、私たちの場合は子供でしょ?癒えない傷なんですよ。だらだらと血が滲むような傷はたしかに癒されてくるけど、絶対に癒されない。それはどの親御さんも一緒だと思うんですけど、絶対に癒されないのね。お若いみなさんのお顔をこうして見てるとね、(息子も)こんなんだったなぁと、思いますね。


こわれた家から 持ち帰りきた Tシャツパンツ
  洗ってたたみおり もう着ない子に

逝きてすぐに 23歳になりし子の
  写真も少し おとなびて見ゆ

天国(みくに)とは どこですか どこですか
  この母に 新しい住所 電話 教えて

一九九五年一月

(2019年12月1日インタビュー きき手:森岡聖陽、長谷川雅也、前田万亜矢、渡邊志保)




<2020年1月5日アップロード>

《連載記事》
【慰霊碑の向こうに】① 一枚の写真から
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/b81d5f93f24d4db312586b32da0838da

【慰霊碑の向こうに】② 故・戸梶道夫さん(当時経営学部2年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/023b839a782ed062de6f26d1d5f0919b

【慰霊碑の向こうに】③ 故・高橋幹弥さん(当時理学部2年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/7165089761eef41f45c9d3eae84c1870

【慰霊碑の向こうに】④ 故・高見秀樹さん(当時経済学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/eb2e066042bfb01d561385907b64f44a

【慰霊碑の向こうに】⑤ 故・坂本竜一さん(当時工学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5c9a8898fafde156a8091d6fac45d615

【慰霊碑の向こうに】⑥ 故・中村公治さん(当時経営学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/a65c964c3ba5baa556ab126cf22dc1f1

【慰霊碑の向こうに】⑦ 故・森 渉さん(当時法学部4年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/51f49f1abe823bdfa978ca6c6addd922

【慰霊碑の向こうに】⑧ 故・竸基弘さん(当時自然科学研究科博士前期課程1年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/bbbdb927d2917cdde7834b73e8dfd2b4

【慰霊碑の向こうに】⑨ 故・白木健介さん(当時経済学部Ⅱ課程3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5cf5033cc4e75acb06952295dad255aa

【慰霊碑の向こうに】⑩ 故・工藤純さん(当時法学部修士課程1年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3f0215cb9c0ff23b43149a3076ccb645

【慰霊碑の向こうに】番外 亡くなった学生の家族からのメッセージ
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/c6a974c72827bb82f3339b2381077f8b



【慰霊碑の向こうに】⑥ 故・中村公治さん(当時経営学部3年) =母・房江さんと妹・和美さんの証言=

2020-01-12 20:11:42 | 阪神・淡路大震災
 中村公治さん(当時21歳、名古屋市立向陽高卒、本多ゼミ/映画研究部)は、神戸市灘区六甲町2丁目4の西尾荘1階に下宿していた。
 1995年1月17日午前5時46分の地震発生時、実家の名古屋でも震度3を観測。母・房江さんが午前8時前に公治さんの下宿に電話をかけた時は呼び出し音がなったが、10時ごろにかけた時はその音は鳴らなかった。
 父・勇さん(故人)が神戸に駆けつけたが、西尾荘のあたりは焼け野原。焼け跡の遺骨を『中村公治』と証明してもらうのが大変だったと、勇さんは話していたという。

 愛知県豊明市の中村さんの実家で、母・房江さん(72)と、妹・和美さん(42)に伺いました。


(写真:震災の2年前の成人式の日の写真。友人が撮影して提供してくれた写真だという。 1993年1月15日撮影 中村房江さん提供)

午前10時ぐらいに電話をかけた時には、もう鳴らなかった

きき手:名古屋でも揺れましたか?
母:わりと大きいなあという感じでしたね。
妹:ちょうど下に沈む、やっぱり直下型地震というのを感じるぐらいの。がくんと下がりました。一度大きな、ねえ。
母:それで…、仕事行く前にテレビを見たときには、火事が伝えられてたけどまだ大丈夫かなと思ったので、会社に行って電話をかけたの、私。で、その時は呼び出していたのよ、まだ。火事になる前だったから。
きき手:西尾荘の公治さんの部屋の電話ですね。
母:1回目の時は呼んでたの(呼び出し音はしていた)。で、あー大丈夫だろなと思ったの、とりあえず電話がつながったから。
きき手:何時ごろでした?
母:午前8時…、仕事が8時始まりだから、そのちょっと前に掛けて。それで、もう一回、10時ぐらいかな?かけた時には、もう電話が鳴らなかった。
きき手:何の音もしない?
母:そうそう。で、あれーっと思ったの。

母:まだ、ねえ、そんななるとは思わなかったから。まだ会社にいたのよ。
きき手:会社はどういったお仕事なさっていたんですか。
母:普通の町工場みたいなところ。

母:主人は魚市場(の勤務)だから昼前に家に帰ったら、同じ映画研究部の井口(克己)さんから電話が掛かってきたって私の会社に電話がきて。
きき手:井口さんはお友達でしたよね。
母:はい、同じ名古屋市立向陽高卒で、学部も経営学部でした。


(写真:母・房江さん(左)と、妹・和美さん(右) 2019年11月4日撮影 愛知県豊明市で)

神戸に行って…遺骨を持って帰ってきました

きき手:高校が一緒だった井口君が、電話をくれた?
母:そうです。家に電話くれて。
きき手:その時にもう中村さんはもう厳しい状況だっていうのを聞いたんですね。
母:駄目でしたね。もう火事だったから。
それで、その夜だったか次の夜だったかわからないんですが、主人と上の兄さんと、あれは甥になるんですが…甥といってもおんなしぐらいの年齢の人ですけど。それでとりあえず神戸に行きましたけど。で、とりあえず着いて、もう焼け野原でしたわね、その時は。だから、あの、遺体のね、中村公治っていう証明をね、してもらうのに大変だったみたいですよ。


(写真:焼け落ちた西尾荘。震災から2か月たっても焼け落ちた瓦礫が広がっていた。 1995年3月18日撮影 神戸大メディア研/ニュースネット)

井口克己さん(当時経営学部3年)は、午前8時ごろに、まだ火の手が迫る前の西尾荘に救援に行ったと後に証言している。
 「『出れるのかなあ』、『あとちょっとだよ』と、声を掛け合った。埋まってるだけで出てくる、と思っていた。中村君は『痛い』と言っていた。はやく取ってあげなければ、と思った。
 20、30分くらいして、気づいたときには火が来たんですね。西尾荘の屋根が落ちそうなくらいに燃え移っていた。風が強かった。
 西尾荘の崩れたものを取り除こうとしていた人は5、6人いたけど、気づいたら最後の1人になっていた。どうにもならなくなり、自分も立ち去った。立ち去ったと同時に崩れ落ちる音がした。
 『ごめんなさい』という気持ち。最後、話をしていたかどうかまではわかりません。その場に立ち尽くしていました」。(2009年9月24日取材 「僕たちの阪神大震災ノート 震災写真[調べ学習]プロジェクト」公式サイト http://1995kobe.d.dooo.jp/photo17.html から抜粋)

母:で、それをとりあえずちょこっとこんなぐらいですよね(手に盛るようなしぐさ)、夫は遺骨を持って帰ってきましたね。あれは次の日だったかな。17日じゃなくて18日だったかもしれない。それで帰ってきて、しばらくしたら警察からもう少しあるって言われてね、遺骨がね。で、その時私も娘も行ったんだよ、一緒に。神戸に、大学に行ったんです。
きき手:行かれたのは車で行かれた?
母:車で行きました。

母:そうですね。だからあの時の火事は、朝の8時頃だったですよね、あの商店街から(火が)来たのが。瞬く間に燃えたんでしょう。細い道の向こう側は焼けなかったんです。もうあれ見た時…。1本の道が分かれ目になるとは…。

母:井口君は葬儀の前の日ぐらいにみえたんだったかなあ。もう本当にお世話になりっぱなしでねえ。
きき手:井口さんご自身の手記の中で、中村君のことが気になって、西尾荘の方に行くっていう、いきさつをちょっと語ってらっしゃいますよね。
母:そうです、それで友達何人かと助け出す、まだ火事になる前に、助け出したんだけど、助け出せなくて、火が回ってきて。だからまだその時分(生き埋めになっていた時は)、声出してたから。
きき手:井口さんとやりとりをしていたんですね。


(写真:西尾荘の焼け跡には追悼上映会の案内チラシが置かれていた。風で飛ばないように瓦礫で重石がしてあった。その横には花束が。 1995年3月18日撮影 神戸大メディア研/ニュースネット)

遺体じゃなくて遺骨…亡くなったことを受け止められない

きき手:あの、同じ西尾荘に住んでいた坂本竜一さんのお父さんが、掘って探さなきゃいけなかったとおっしゃっていました。
母:ええ、そうです。
きき手:掘っていたら、骨の状態で出てきたということで、坂本さんのお父さんは大変辛そうに語っていらっしゃいました。
母:うちの人(夫・勇さん)、兄さんと甥の3人で掘ったみたいですよ。とりあえず掘らないと出てこないっていうんで。やっぱり坂本さんと同じです。掘って、うちのが出てきたっていうんだから。とりあえずなんか、網に包んで持ってきたんだけど。

母:何とも言えない。顔はないからね、ほんとに。遺体じゃなくて、遺骨っていうの。あれはもう顔がないっていうのは。で、後からもらったのと合わせても、まあこんなくらいのが2つですよね。顔がないっていうのは、なんていうんだろうね、亡くなったというのを受け止められないっていうの。何年も前の話ですけど、ほんとに。

きき手:西尾荘は2棟あったそうですね。
母:あのうちは道路側の、とりあえず入り口から1番奥だったのよ。で、一番手前入り口のところが坂本さんだったよね、確か。で、私たちが(下宿探しに)行ったときはまだそこが空いてて、どっちにする?って言ったら一番奥にするって。


(写真:追悼上映会であいさつする母・房江さん<左>と父・勇さん。 1995年3月26日撮影 神戸大六甲台講堂で。 神戸大メディア研/ニュースネット)


中村君の生きた証しのフィルムをと、追悼上映会が開かれた

地震から2ヶ月後の、1995年3月26日。神戸大の六甲台講堂で映画研究部の追悼上映会が開かれた。部長だった中村さんが生前監督を務め、完成を楽しみにしていた作品と一緒に、過去に中村さんが製作していた3作品も上映された。

母:井口君は、「中村の生きた証しのフィルムを残したい」って言ってもらって。私はその言葉がものすごい心に残っているんです。そこまで想ってもらえてね。ありがたいです。
きき手:井口さんの尽力もあって追悼上映会がありました。それを見られた時はどんな思いでしたか?。
母:初めて見たからねえ。一応劇やってるからね、多少は演技してたりねしてたから。…見てるんだけど、あの、あんまり私は頭の中に残ってない。ね。
きき手:時計がテーマでしたね。古い時計、大きな時計がね。
母:そうそう。そうです。私は。そんな映研に入るなんて、私たちにしたら思いもよらない部活動に入ってね。それも不思議でしたからね。あら映画なんて好きだったかなーって。
きき手:映画研究部でも公治さんはリーダー的な存在だったんですよね?
母:はい、一応部長やったから。そうだったんじゃないかな。
母:(作品を)四角いビデオテープでいただいたんだけど、もう今は見れないわねえ。


(写真:追悼上映会で記者に囲まれる父・勇さん<左>と母・房江さん、妹・和美さん。 1995年3月26日撮影 神戸大六甲台講堂で。 神戸大メディア研/ニュースネット)


火事がなかったらあの子は助かってる

きき手:西尾荘のことは、坂本竜一君のお父さんにもインタビューをさせていただきました。
母:(西尾荘で亡くなったのは)坂本さんと、鈴木(伸弘)さんとうちだったからね。木造の古い建物だったから。
きき手:あの西尾荘に住んだのは一年生の時からだったんですか。
母:そうですよ。で、一時かわりたいって言った時もありましたね。かわれば良かったね、というのはありますけどね。
きき手:公治さん自身が見つけてきた下宿アパートだったんですか。
母:受かってすぐ行きました。合格してすぐ行って、もう、あそこの下宿を決めて帰ってきましたね。

きき手:最初、神戸に着いて、その神戸の街というか実際に壊れている町を見て、その時どう思いましたか。
母:あの子の住んでいるところは焼け野原でしたからね。何にもなかったし、本当にちょっと離れたところにビルみたいな3階建てのがあっただけで、あとはもうみんな焼け野原でした。
きき手:なんかもう、ビルやマンションの一部も焼けてましたよね。
母:焼けてました、はい。それで、とりあえず大学に行ったのよ、そこから。だから大学は山(の中腹)にあるから、なんにも(被害は)なかったですね。ええ、同じ神戸なのにっていうか、ああ何にもなかったんですねって。それで、ゼミの先生に会えました。その時にあの子の答案用紙など何枚か残ってるからって、頂きましたね。
きき手:経営学部の本多ゼミだった
母:そうです。本多先生も来てくださいました。ゼミの学生さんも一緒に。

きき手:神戸の街、和美さんも行かれたんでしたよね。
妹:町全体がなんか静まり返ってる感じがとてもして。
きき手:最初行かれた時、神戸の街についたのは何時頃だったんですか。
母:あれは7時間後だったよね。
妹:ちょっと覚えていないなあ。
母:車で行ったよね。あれが7時間後なのよ。
妹:そうそう、それは1回目。私は2回目に乗ってるよね。
母:1回目はお父さんだけだよね。2回目に私も初めて行って。で、焼け野原でした。西尾荘の道を挟んで向こう側は焼け残ってたのに…。
妹:そうだったね。
母:道を挟んで、こっちだけがダーッと焼けちゃって。向こうは良くてこっちは駄目だっていう。何とも言えない気持ちですね。火事がなかったらあの子は助かってる。




ゼミやサークルの仲間が大勢弔問に 焼香台を3つ余分に出した

きき手:じゃあ、お葬式は何日後でしたか?地震は火曜日でした。
母:日曜日にやりたいっていう主人の希望だったから日曜日だった。葬儀屋さんに頼んだら、自宅ではできないって言われてね。
きき手:できないというのは?
母:あの、棺が入らないっていう。ここでは無理と。
きき手:お家でやりたいって言ったけど、ここは棺ともう何人か入ったらいっぱいになるからですか?
母:それでここではできません、って言われて。あとは、葬儀屋さん任せでした。
きき手:お寺さんは何というお寺さんだったんですか。
母:曹源寺です。そこは駐車場が広かった。それに、広くて大勢見えたときも大丈夫ですって。みんなお任せで、一応済みました。葬儀までは本当に全然何の記憶もないじゃないけど、ただ流れで過ぎました。
きき手:ご葬儀の時には、お友達などもたくさんお見えになったそうですね。
母:焼香するのが足らないから3つ余分に出してくれないか、っていうのは聞こえてたから。
きき手:学生の仲間がたくさん来てくれたという。
母:クラスの仲間、ゼミとサークルの仲間、小学校、中学、高校時代の友達ですね。


リーダーシップは小さな頃から 小中高と生徒会長だった

きき手:それまでは特に映画を撮ったりはされなかったんですか、高校時代とかは。
母:そんなの全然でした。
きき手:高校の時は何をやってたんですか。
母:ハンドボールかな。で、後は野球やってました、中学校は。はい。
きき手:スポーツ、ですね。
母:あの、好きなんだけど、上手じゃない。野球だって、大体補欠の1番目くらい。とりあえず1番目だって私は言われたから。
きき手:お兄さんはどういう方だったんですか。
妹:うーん。あの、いつもリーダーシップは小さな頃からあって、で、生徒会長とかなってたんで。中学だったよね?
母:小学校、中学、高校もだったよ。高校は言わなかったけど紙見てね。
妹:聞いてなかった。人の前に立つ、ねえ。
母:リーダー的な面はあったと思いますよ。
妹:うちではね、全然見せなかったけど、外ではね、活躍してた。だから、私からしたら優秀な…。
母:お兄ちゃん。小学校6年生になった時、その新入生迎えるときの生徒会の言葉ね。お母さんこうやって文章書いてるけどどう?って言ったり。




就職したら、名古屋には帰って来ないって言ってた

きき手:1995年1月16日の月曜日は振り替え休日で、3連休でした。
母:その休みの時は来なかったけど、正月には帰って来てて。正月はずっと家にいたのよ。この子(妹・和美さん)は受験でしたので、熱田神宮に行きました。もうリクルートのスーツがいるって言って。
きき手:就職活動に。
母:そうそう。そうです。で、買いはしなかったんだけど、じゃあ見ようかって言って、熱田の駅にちょっと百貨店ではないけどそれらしき店が駅のとこにありますから。そこで一応見て、じゃあ靴だけ買おうか、叔母さんのくれたお金があるけんそれで買ったらいいわって。で、靴だけ買って帰ってきて、次の日ぐらいにもう帰ったかな。バイトがあるから。
きき手:それは何日ですか。
母:だから1月3日ぐらいじゃなかったかな。送っていく時、私が送っていったの。雨降ってたけど。
きき手:正月休み終えて神戸に帰る時ですね。
母:で、向こうの方(神戸)はもう雨は上がってるだろうし、傘は私が持って帰った。それが最後だった。

きき手:アルバイトは何をされてたんでしょう。
母:焼き肉屋は長く行ってたみたいですよ。あとは、お正月前に百貨店のお歳暮のアルバイトとか、なんかいっぱいやってましたね。

きき手:就職の話なんかもしてました?
母:正月に少し持ってきてたのね、2、3冊本を。で、部屋に帰ったらもっと分厚いのがいっぱいあるとかなんだか言ってました。
きき手:会社案内が載っている就職情報誌ですね。経営学部だから、こういう方面に行きたいとかおっしゃっていましたか?
母:あ、それはありましたね。とりあえず帰っては来ないって言ってた、名古屋にはね。
きき手:名古屋では勤めないと。
母:金融関係でしたね。ゼミの先生はそう言っておられました。あの子は数字が強いし、金融ですねって。あの時分は良かったからね、今と違って。
きき手:じゃあ先生は金融に行くんじゃないかと。
母:思ってたかもしれないけど。

遺影は大学の入学の時の写真です 若くて、あの子の顔じゃないみたい

きき手:こちらの写真はどういった写真ですか。
母:これは成人式の時のですよ。
きき手:成人式。
母:友達の家で、撮って頂いたのがとりあえず残ってて。まあほとんど無いからね。家にあったのもほとんど持って行ったからね、向こうへ。残ってるのはほんとに小学校入る前くらいの写真ぐらいしかないです。
きき手:これがその遺影に、葬儀の時も遺影になったのですか。
母:あ、遺影は大学の入学の時の写真です。だからあの子の顔じゃないみたいですね。
きき手:ちょっと若い?
母:若いし、あの子の顔じゃないわ。
きき手:じゃあこの成人式の写真は後から手に入れられた?
母:亡くなってから友達が、持ってきてくださって。

きき手:大学の合同慰霊祭には参列されましたか。
母:はい、行きましたね。
きき手:取材も受けられましたね。
母:『ニュースステーション』ね。私の職場で一緒に働いてた女の子で、大阪や四国に嫁いだ子から電話来たわね。やっぱり全国放送でしたから。
きき手:多くの方が、公治さんのことを知った。
母:そうですね、テレビで知ったんでしょうね。今一人暮らしで老人会みたいなのに一応入って、ちょっとでも友達作らないとね、生きていけないから。そしたらやっぱりそのニュースで知って見えるんだわね、何人かから言われました。



自分の大学の先輩が短い命で終わってしまったこと、覚えてて欲しい

きき手:今年(2019年)の献花式に現役の学生はひとりもいませんでした。そういった中で、やはり今の学生は阪神・淡路大震災を遠い出来事のように感じているように思えます。そういった若い世代に対して、なにか伝えたいことがあれば教えていただけますか。
母:やっぱり私たちとしてはそういうことがあったということは、やっぱり心に留めてて欲しいし、事実は知ってて欲しいですね。やっぱり慰霊碑がある限り、覚えてて欲しいと思います。
妹:そうですね、今の学生たちにとっては生まれる前の出来事だから。あの、もちろん自分には関係ないことと思いますよね。だけど、自分の入った大学の先輩が、短い命で終わってしまったということを、できたら後の世代にも伝えていって欲しいなと思います。
(2019年11月4日インタビュー きき手:森岡聖陽)


(写真:映画研究部の作品に残された中村公治さん。8ミリフイルムから。中村房江さん提供)


<2019年12月28日アップロード>

《連載記事》
【慰霊碑の向こうに】① 一枚の写真から
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/b81d5f93f24d4db312586b32da0838da

【慰霊碑の向こうに】② 故・戸梶道夫さん(当時経営学部2年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/023b839a782ed062de6f26d1d5f0919b

【慰霊碑の向こうに】③ 故・高橋幹弥さん(当時理学部2年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/7165089761eef41f45c9d3eae84c1870

【慰霊碑の向こうに】④ 故・高見秀樹さん(当時経済学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/eb2e066042bfb01d561385907b64f44a

【慰霊碑の向こうに】⑤ 故・坂本竜一さん(当時工学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5c9a8898fafde156a8091d6fac45d615

【慰霊碑の向こうに】⑥ 故・中村公治さん(当時経営学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/a65c964c3ba5baa556ab126cf22dc1f1

【慰霊碑の向こうに】⑦ 故・森 渉さん(当時法学部4年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/51f49f1abe823bdfa978ca6c6addd922

【慰霊碑の向こうに】⑧ 故・竸基弘さん(当時自然科学研究科博士前期課程1年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/bbbdb927d2917cdde7834b73e8dfd2b4

【慰霊碑の向こうに】⑨ 故・白木健介さん(当時経済学部Ⅱ課程3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5cf5033cc4e75acb06952295dad255aa

【慰霊碑の向こうに】⑩ 故・工藤純さん(当時法学部修士課程1年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3f0215cb9c0ff23b43149a3076ccb645

【慰霊碑の向こうに】番外 亡くなった学生の家族からのメッセージ
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/c6a974c72827bb82f3339b2381077f8b



【慰霊碑の向こうに】⑤ 故・坂本竜一さん(当時工学部3年) =父・秀夫さんの証言=

2020-01-12 20:10:16 | 阪神・淡路大震災

(写真:坂本竜一さん。1年浪人して、行きたかった神戸大に合格した。)

 坂本竜一さん(当時22歳、兵庫県立八鹿高卒/応用化学科)は、神戸市灘区六甲町2丁目4の西尾荘1階に下宿していた。
 神戸の西に隣接する明石市に住んでいた父・秀夫さん(74)は、1995年1月17日の早朝5時46分、立っていられないほどの揺れにみまわれた。出張準備ですでに起きていた秀夫さんは、まずその日の出張を取りやめる段取りをしようと、車で神戸市兵庫区の会社に向かった。
 須磨区から長田区を通過する道路では、消防のホースが何本も横切っていた。長田の火災情報は車内のラジオでも流れていたという。
 秀夫さんは会社を午後1時ごろ出発。竜一さんの下宿の様子を見に行こうとさらに東に向かう。
 あたりが薄暗くなりかけたころ、ようやくたどり着いた灘区六甲町。しかし、西尾荘の建物はなく、煙がくすぶっているだけで、場所を間違えたかと思ったほどだった。

激震で倒壊した木造の西尾荘。東側の市場から燃え広がった炎がそこを襲った。このアパートでは、3人の神戸大生が亡くなった。
 竜一さんが、救出に駆けつけた学生に話した最後の言葉。これが後日、新聞に掲載され、父・秀夫さんを苦しませたのだった。


(写真:西尾荘の焼け跡。坂本竜一さんと、中村公治さん、鈴木伸弘さんの3人の神戸大生がここで亡くなった。1995年3月18日撮影 神戸大メディア研/ニュースネット )

私も74歳 竜一のとこに行くのもだいぶ近くなってきたかなぁと

父・秀夫さん:今年25年の法事やったやね。あっという間に過ぎ去った感じするな。25年は早かった。私も74歳や。だから、竜一のとこに行くのも、だいぶ近くなってきたかなぁと。平均年齢でいうと6、7年もしたら、あっちの世界でまた遊べるわい、一杯飲めるわいと思ってる。

きき手:神戸大学工学部の学科は?
父・秀夫さん:応用化学。
きき手:本人のご希望だったんですか?
父・秀夫さん:いやあどうかなぁ。理工系に行きたいとは言いよったけど。
きき手:合格発表や入学式はいっしょに行かれたんですか?
父・秀夫さん:いや私は見に行ってないですよ。現地建設工事で長期出張中で、行くことはできんかった。
きき手:入学が決まった時は一緒に喜ばれたんでしょう?
父・秀夫さん:うん。田舎(八鹿)へ帰ってささやかなお祝いをした。祖父母や叔父にも祝ってもらった。(生きていたら)いまなんぼや47、8歳になるんちゃう。ええおっさんや。


(写真:出張がちだった父・秀夫さん。男手で育てた竜一さんの大学合格はうれしかった。)

入学1年たって、阪神深江の下宿から六甲町の西尾荘に引っ越した

父・秀夫さん:(被災した灘区六甲町の)西尾荘に来る前はね、阪神深江近くの学生下宿におったんや。家主が、半分取り壊して建て替えするいうことで、出てくれいわれて(西尾荘に)引っ越した。私は長期出張中やったから、自分で(次の下宿を)探すように言うて…。引っ越し先が決まってから、週末に私が神戸に帰って、私の車で引越しした。大学に入って一年たってから、こっちの六甲町に来たんかな、それまでは深江の方でした。

きき手:お父様はどんなお仕事をされていたんですか?
父・秀夫さん:当時は名古屋に据付工事で長期の出張で、舞台機構の機器据付工事に行ってました。

父・秀夫さん:(地震のあった)1月17日の夜は、灘区民ホール1階は多くの人でいっぱいやった。ここだけ公衆電話がどうにか使えたので、順番待って家族と連絡取ってた。ずっとあとに復旧工事で区民ホールにいかなあかんことがあったけど、どうしても行けなくて、外してもらったことがあった。あそこだけは行きたくないと。

明石市大久保から兵庫区和田岬の会社まで、4、5時間かかった

きき手:当時の自宅だった明石市大久保の団地で地震を感じられたときどんな状況でしたか?
父・秀夫さん:あの日の朝は、出張に行くために早くから起きてました。ドーンと揺れて、うわって揺れて、立ってられへんかった。竜一に電話したけど通じへんかった。
きき手:明石市大久保と神戸は3、40キロ離れてますね。六甲町が火事になっとるいうのは、どの時点で知ったんですか?
父・秀夫さん:六甲町が火事になっとるいうのは全然知らなかった。長田のほうが火事になってるのは聞いたけど。車で移動中にラジオで聞いた。

父・秀夫さん:無事で、まあどこかに行ってるやろと、安易に考えてましたわ。全然。だから亡くなってるとか、そういう災難に遭うとは思わんし。出張のこともあったので、とにかく会社に行って、客先に出張のキャンセルを連絡して、そのあと隆一のところに行けばいいわと思って、午前6時ごろ明石を出た。
きき手:明石から神戸へ向かう途中は、どんな様子でしたか?
父・秀夫さん:大渋滞で全然進まへんし、長田区の浜側の道(2号線南側道路)では、いっぱいある(道を横切っている)消防ホースを乗り越えながら、兵庫区和田岬の会社まで、4、5時間もかかった。
きき手:大変な状況に竜一さんが巻き込まれているかもしれないと気付いたのは、いつだったんですか?
父・秀夫さん:いや、それは西尾荘に着いてから。建物がなくなって、煙が少し上がってた。



薄暗くなりかけたころ西尾荘に到着 建物はなく煙が少し上がってた

きき手:何時ごろ西尾荘にたどりつかれたんですか?
父・秀夫さん:会社を午後1時過ぎに出たけど、なかなか進まなくて、車をかなり離れた王子公園のあたりに置いて、歩いて西尾荘に向かった。あたりが薄暗くなりかけたころ着いたけど、建物はなくて、煙が少し上がってた。建物がないので、場所を間違えたかと思ったぐらいやった。

父・秀夫さん:学生が2人ほどどっか収容されてるとかなんとか、その辺の人が言っとったから、病院に行っとんかなと思って病院に行った。海星病院とか、阪急より上の電気ついとう病院は全部行った。4、5か所。負傷して入院してる人の名前の中に無いから…。

父・秀夫さん:で、西尾荘に戻って…。大家さんと会ったのは1月18日やったと思う。「坂本君の顔見てない」と言われた。昼前ぐらいやったと思う。大家さんも(息子が逃げられなかったと)わかっとったって、俺にそんなこと言われへんわなあ。言えないと思うわ。俺だってわかるよ。

父・秀夫さん:その前に、会社行って、「こういう事情やから当分会社出てこれへんから」ていうたら、手伝いに行く言うて、で皆会社の連中が現場に来てくれた。


翌々日、掘ってみるしかないと…鈴木さんとこも手伝って

父・秀夫さん:とにかくその部屋のとこを掘ってみるしかないやん。
1階の真ん中の南側の部屋。とにかく俺も何回かあいつの部屋に行ってるから、間取りはだいたい分かっとうから…。水もなにもかかってないから熱いんよ、手袋かなんかしてても。
部屋んとこを掘って何もなかったら、どっか行っとるんやろし…。それを確かめるには掘るしかないからね。

父・秀夫さん:で消防署に言ったら、勝手にやったら(現場検証をしていない火災現場をさわったら)あかんらしいね。だけど、なんとか許可をくれたんやね、会社の人が行って言うてくれたんや。警察も消防も手が回らんから、したらあかんとかいいながら黙認みたいな感じやと思うね。身内がするんやからね。生死を確認するために。

父・秀夫さん:(息子を)探しとった時に、(同じ西尾荘に住んでいた神戸大生の)鈴木さん(の家族)らと一緒になってね。夫婦2人で来てた。私は身内も来てくれたし、会社の人間も来てくれたし、こっちはもう手が足りとるから、そっち助けたってくれていうて、鈴木さんとこをな。
そうそう。鈴木さんも来られたから。掘り始めたのは3日目(1月19日)やったと思う。2日目は何もできんかった。



地獄やなと思った。骨拾ったの初めてやもん

きき手:で、掘ろうということになったんですね。
父・秀夫さん:そうそうそう。掘るしかないとなって…。
3日目に全部掘り出した。遺骨とジーパンのボタンやら硬貨。枕もとのカセットテープなんかを触ったらぐしゃぐしゃっとつぶれてまうけど、形はあったし。漫画本の形も。
そん中に一万円硬貨もあった。それは俺が「金なくなったらこれ使えるから」と渡していたものやった。

きき手:総勢何名くらいで掘られましたか?
父・秀夫さん:宝塚の俺のいとこが来てくれたのと、加古川の叔父も来てくれたし、まあ、2人ともバイクで。田舎から妹夫婦も来てくれとった。会社の人もおったし、5、6人おったのかな。それで、うちは手が足るから、鈴木さんとこは2人やったんで、会社の人に手伝ってあげてと言ったんです。

きき手:当初、西尾荘で生死が不明だったのは坂本さんと鈴木伸弘さん=工学部3年=、中村公治さん=経営学部3年=の3人でした。
父・秀夫さん:鈴木さんは浜松の人で中村さんは名古屋の人。なんか俺の仕事と関係のあるところばかり。めぐ合わせかなぁ思っとった。
外の(焼け残った)バイクのヘルメットには(竜一の)髪の毛が残っとったからね。DNA鑑定をしてないけど、それはあいつのバイクやと思って今でも仏壇に置いとるけどね。

きき手:掘っている間、どのようなお気持ちでしたか?
父・秀夫さん:いやあ、マジかいという気持ちと…。地獄やなと思った。俺、骨拾ったの初めてやもん。おじいさんおばあさんが先に亡くなってたけど、火葬場では(お骨を)拾ってないし、親父やお袋も(亡くなったのは)竜一より後やからね。俺が竜一の骨を拾うのが先やというのは、おかしいんやけどね、順序としては。 


遺骨を持って灘署に行って 鈴木さんと検視を待ってました

父・秀夫さん:だけど、おっきな骨はなかったなぁ。大腿のこんなとこの骨がちょっとこのぐらいの大きさのがあったかなぁ。あとはもうみんなもうわからへん。わからへんし、とにかく拾えるやつは全部拾って帰った。
何年かしてから、(区画整理で)造成してた時に、灘署から取りに来い言われて、また行ったことはある。骨を。それをまた、墓に、墓に入れるしかないからねぇ。

きき手:一緒に掘っていた鈴木さんのところも同じような状況でしたか?
父・秀夫さん:そうそう。そうです。あの人はベッドに寝とったんかな。金属製の枠組みのベッドがあるでしょ。きれいに拾えたん違うんかなぁて。

父・秀夫さん:掘って遺骨を拾った後は、検視をしてもらわなあかんでしょ。遺骨をもって灘署に行って、で検視官が神戸大医学部のお医者さんかな。死亡診断書を出してもらわなあかんから。それで灘署で待ってました。署内の通路にも避難されてる方がたくさんおられました。終わったら夜中の10時か11時ごろでした。鈴木さんと2人で待ってました。その日の晩で鈴木さんとは別れたけど。




骨はこれ以上焼いたらなくなってしまうから、遺品だけを棺桶に入れて

父・秀夫さん:俺は(明石市)大久保に帰って、あれ(火葬許可)を出してもらわなあかん。まあ火葬はもうせんでええのやけど、証明書を取らな。それから田舎に帰って葬儀したんやけどね。

父・秀夫さん:骨は(これ以上)焼いたらなくなってしまうから、遺品だけを棺桶に入れて。
きき手:遺品としてはどのようなものを入れられたのですか?
父・秀夫さん: 田舎(実家の養父市八鹿)に置いてた竜一の本、英検2級の合格証とか。あの世いったら役に立つかも分かれへんわね。子供のころから大切にしてたものをたくさん入れました。

きき手:死亡の診断書が出る、火葬の許可をもらうという、その。そういった一連のことが4日目の1月20日ですか?
父・秀夫さん:そうですね。3日目の晩に検視をしてもらって、(明石市)大久保に帰って、あくる日に明石市役所やなぁ、俺の住む近くに出張所があって、そこでやってくれたけど。
きき手:そして、その棺に入れて火葬の段取りになったんですね。
父・秀夫さん:そう、田舎で、私の親やら親戚が準備はみんなしてくれとった。
きき手:田舎というのは養父市ですか?
父・秀夫さん:そう、養父市の方。4日目の、役所に届けたその足で…。いや葬儀はそのあくる日やわ。


「もう俺のことはええかから逃げてくれ」と言ったというけれど

父・秀夫さん:東側から火が出てるでしょ。あっち側から火が来て、みなさん逃げざるを得んから、逃げたんやけど。(助けようとした学生に)「もう俺のことはええかから逃げてくれ」と(息子が)言うたと…。
そんな事情やから、そんなこと大家さんはだいたい知っておられて、俺にそんなこといえないやない。
俺もそんなこと、聞いたのは、3月に大学で慰霊祭をしたでしょ、あの時に新聞に書かれとったんよ。

(編集部注:朝日新聞大阪本社版1995年3月17日付夕刊の記事『友の目前、3人は逝った』には、「南棟二階の山口史郎さん(21)=工学部3年=は揺れが収まるのを待って外に飛び出した。自力で抜け出した松田好晴さん(22)=工学部4年=ら10人ほどの学生とともに、(中略)崩れた北棟の一階部分で、坂本さんを見つけた。のこぎりで畳を切り、床板を破ったが、坂本さんの下半身は木材などに挟まれて動かない。『火が来るー』。アパートの外から声がした。『君ら、危ななったら、頼むから逃げてくれ』。堂越浩さん(23)=農学部4年=の耳にいまも、坂本さんのその言葉が残る」と記されている。)



生きたまま焼かれたんやなぁ なかなか言葉にならんわ

父・秀夫さん:はっきりそのことを聞いたのはそれから5年してから。女性のテレビディレクターからやった。
きき手:2000年1月16日に放送されたNHK『新日本探訪』ですね。神戸大学の学生新聞「ニュースネット」の活動を描いた番組でしたね。
父・秀夫さん:「俺のことはええから逃げてくれ」とホントに言ったんやったらえらいやっちゃと。(女性ディレクターは)それはホンマやと、それは証明してくれる人がおるから電話つながるようにしてくれとったけど、私はええといって。それ以上のことは聞きたくない、聞いてもしょうがないしね。

父・秀夫さん:本人は亡くなった。生きたまま焼かれたんやなぁ、はっきり言うたら。だから今でこそ俺もそんなん言えるけど、なかなか言葉にならんわ。
その方(「逃げてくれ」と言ったと証言してくれた人)は、福井県の人、大野市かな。農学部の人。その人は2階やから助かっとんや。うちのやつは下(1階)やったから、ダメやったんや。


ホンマそんなこと言えるかなぁ…あの世行ったら聞いてみる

父・秀夫さん:私は全然知らんかった。なんで教えてくれんかったんやろうとはすごくおもったけど、まあ教えてもろたって一緒やけど。ショックが早く来るか遅く来るかだけの…。
きき手:なんで教えてくれんかったやろというのは?
父・秀夫さん:そういう亡くなり方したいうの全然知らんかったから。
昔から朝寝坊やったから、寝とって、ドンと来て潰されて(意識がないまま)火が来て亡くなったと。そう思うとったんやけど。

父・秀夫さん:火さえ来なかったら助かっとったわな。本人が「俺のことはええから逃げてくれ」とかね、ホンマそんなこと言えるかなぁとかな。もう自分であきらめて、もう出られない、しょうがないと思ってハラ決めたんかな。
まあそれは、またあの世行ったら聞いてみるわ。俺もあいつと同じ墓にはいるはずやから。聞いてみるわそれは。

きき手:その話を最初に聞いたときは、本当にそういう事を言ったのかな、という気持だったんですね。
父・秀夫さん:いやそらほんとかなぁという気持ち、すごいしてましたよ。そら、周りの人がうまいこといってくれとんのかなあとか、そんな気持ちがしとったからね。だけどそんな証明してくれる人がおるっていってね、その人が電話で話しますかといわれたときに、俺は「もっと何とかならんかったんかい」と言いたいぐらいやからね。そう言うかもわからんへんらね。
だから、それが事実やったらそれでええ。それで満足するから。

父・秀夫さん:火さえ来なかったら何とか時間かけたら助かってた話やから。そら足の一本はなくなってたかもしれへんで。
それがあいつが自分の口で言うたんやったら、それはえらいやっちゃとほめてやりたいと思うとるだけやけどな。悪あがきしそうな感じもするけどな。それがなかっただけにな、えらいやっちゃとわしは思ったな。

父・秀夫さん:実は、その後、助けようとした学生の一人に出会うことがありました。彼も長い間苦しんだことを聞きました。「もうあの時のことは忘れて、自分の人生を生きてほしい、竜一の分もがんばって」と伝えたんです。いまから15年から17年ぐらい前かな。


またあいつと会えるわ…そう思えるようになるには20年近くかかった

父・秀夫さん:今年で24年、25年になるよねぇ。だけど10何年かはなんか、しんどいというか、目標がなくなるというか、精神的には物凄いえらかったねぇ。
だんだん人生の終わりの年になってくるにしたがって、また、あいつと会えるわ、会って遊べるわってね、そういうふうに思えるようになるには20年近くかかったね。そういう感じがしますね。だから今70過ぎやろ、もうホンマ年齢だんだんいってきてから、ちょっと精神的にだいぶ楽になってきた。

きき手:前日、竜一さんはお父様と食事をされてったとうかがっています。
父・秀夫さん:夕方5時過ぎに来た。その時大相撲中継のテレビを見てたんです。見終わってから、食事に行こやいうて…。テレビ見てたとき、団地の鉄のサッシがちょっとガタガタ揺れた。なにげなしに、地震かなと。後で聞いたら地震やった。震度1か2かの弱い地震がやった。相当後になって知った。
前の日にね、好きな焼肉を食べて一緒に過ごしたんやから、他の人と比べたら言うことないやないかと思う。いい思い出にしたい。震災が来る前までの日々が、私も竜一も、それぞれの目標に向かって生活してた、一番いい時期、いい時代やったやと思ってる。


(写真:インタビューの前に、神戸大慰霊碑を訪れた秀夫さん。2019年8月14日、神戸市灘区六甲台町で)


大学の慰霊碑から持ち帰った楠の新芽 20年で大きく育った

父・秀夫さん:息子は、短い人生やったけど、彼の望み通り、全てをかなえて神戸大学工学部に入学して、下宿は一人住まいやったし、希望通りの人生を歩んだ。同級生の弟の家庭教師もしてた。自分も社会勉強になったと思うし、これからの人生の目標もあったんやろうなぁ。

父・秀夫さん:2000年の夏に、いつも通り神戸大学の慰霊碑の前に行ったら、楠の新芽が玉砂利の中から芽を出してた。その中の5センチぐらいの小さな芽を2本持って帰ったんです。育つかなぁと心配したけど、すくすく育った。30センチぐらいになった時、墓地に植えました。もう1本は、私の住んどる地域の公民館に植えてもらった。2本とも、20年近くの年月で、4メートルぐらいになりました。墓から私の家が見えるんです。いつも向こうから見てると思ってる。

父・秀夫さん:大学の慰霊碑は、墓ではないけれど、明石に住んでたときから、夏の7月末から8月ごろに、毎年、小さな花を持って行ってるんです。これからも、車の運転、身体の続く限り、行きたいと思ってます。

父・秀夫さん:竜一の亡くなり方もなんかちょっと特殊やしね。その場におった人だって、頭から一生離れへんのちゃうかな。自分自身で歯がゆい思いをされたんやろうと思うもん。俺もそうやけど、悲しい思い出になってしまうんかな、とか。そんな場面に出くわしてしもたのがな…。あの震災で6千何人死んだんやから、いろんな亡くなり方されたやろけど…特にその場にたまたま居合わせた人にとってつらい思い出やと、わしは思うもん。

父・秀夫さん:(葬儀に参列してくれた友人の)名前は、香典戴いた方には全部その時に名前全部書いとんやけどね。あの当時はロータスの123、そのフロッピーがあるんやけど、名前とか住所とか全部あれに入ってる。それを(いまのパソコンが)読んでくれへんからね、名前が全然分からん。



この大学で多くの学生・教職員が亡くなった このことだけは知ってほしい

父・秀夫さん:思うんやけど、テレビなんかで南海地震や東南海地震なんかが起きるとよく聞くけど、みんなどう思うのかなぁ。もしも地震が来たら、と思うことも、日常生活では必要ちゃうかな。頭の隅っこの中にはね、置いといてほしいなと。

きき手:今の学生の多くは、阪神淡路大震災のことや、たくさんの先輩が亡くなった事を知りません。何か、伝えたいことはありますか?
父・秀夫さん:神戸大学に入って卒業する子はやっぱり、阪神淡路大震災の時に、ここの学校で教職員、学生、留学生がこれだけ亡くなった、これだけ若い人が亡くなったんやってことだけは知ってほしいなと思いますね。慰霊碑があることを知らない学生もいるいうのは、ちょっとさびしいなぁ。
(2019年8月14日インタビュー、きき手:玉井晃平、森岡聖陽)




<2019年12月21日アップロード>

《連載記事》
【慰霊碑の向こうに】① 一枚の写真から
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/b81d5f93f24d4db312586b32da0838da

【慰霊碑の向こうに】② 故・戸梶道夫さん(当時経営学部2年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/023b839a782ed062de6f26d1d5f0919b

【慰霊碑の向こうに】③ 故・高橋幹弥さん(当時理学部2年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/7165089761eef41f45c9d3eae84c1870

【慰霊碑の向こうに】④ 故・高見秀樹さん(当時経済学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/eb2e066042bfb01d561385907b64f44a

【慰霊碑の向こうに】⑤ 故・坂本竜一さん(当時工学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5c9a8898fafde156a8091d6fac45d615

【慰霊碑の向こうに】⑥ 故・中村公治さん(当時経営学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/a65c964c3ba5baa556ab126cf22dc1f1

【慰霊碑の向こうに】⑦ 故・森 渉さん(当時法学部4年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/51f49f1abe823bdfa978ca6c6addd922

【慰霊碑の向こうに】⑧ 故・竸基弘さん(当時自然科学研究科博士前期課程1年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/bbbdb927d2917cdde7834b73e8dfd2b4

【慰霊碑の向こうに】⑨ 故・白木健介さん(当時経済学部Ⅱ課程3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5cf5033cc4e75acb06952295dad255aa

【慰霊碑の向こうに】⑩ 故・工藤純さん(当時法学部修士課程1年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3f0215cb9c0ff23b43149a3076ccb645

【慰霊碑の向こうに】番外 亡くなった学生の家族からのメッセージ
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/c6a974c72827bb82f3339b2381077f8b



【慰霊碑の向こうに】④ 故・高見秀樹さん(当時経済学部3年) =父・俊雄さんと母・初子さんの証言=

2020-01-12 20:09:41 | 阪神・淡路大震災
  震災直後、少なくとも20人を超える神戸大生が亡くなった、という情報が広まった。第35代の応援団長に就いたばかりの高見秀樹さんの死も、学内に悲しみとともに伝わった。「もしも生まれ変わったら、団旗になって神大生を見守り続ける」と、団の機関誌に綴っていた高見団長の、早すぎる死だった。
 高見さん(当時21歳、鳥取県立米子東高卒、経済学部植松ゼミ、応援団)は、神戸市灘区友田町1-1の盛華園アパート2階で被災した。
 鳥取県西部に暮らす両親のもとには、地震発生の1995年1月17日夜に、「高見だけ連絡が取れない」という電話が、応援団の関係者から入る。2人は翌18日午後、鳥取を出発。日付が変わった19日午前2時ごろ、神戸に着いた両親にもたらせたのは、秀樹さんが王子スポーツセンターの遺体安置所に収容されたという情報だった。
 
 父・俊雄さん、母・初子さんに、鳥取県大山町の自宅でお話しをうかがった。


(写真:学ランを脱いだ、笑顔の高見さん。)

たどり着いた下宿周辺はがれきの山で、足の踏み場もない状態

母・初子さん:最初は大丈夫かなと思ってテレビを見てましてね。それこそ、連絡はないけどもね、なにかボランティアとかしてるんだわと思ったりして。テレビにいろんなところが映し出されると、おらせんだろうかってね、見てましたけどね。
父・俊雄さん:秀樹のところに電話をしても混雑しているんでつながらんかったけど、夜になるとつながって。呼び出し音はするんだけど…。そのうち、応援団から連絡があったからね。
母・初子さん:「高見んとこだけ連絡が取れない」っちゅう連絡があってね。17日の夜かな。

父・俊雄さん:18日朝、朝、鳥取まで乗用車で行って。鳥取の農協会館に立ち寄ってね。そしたらうちの(農協中央会の)幹部が、2人で行かせるのはちょっと危ないけん、同僚の秋本さんっていう職員に、彼の車を運転をしてもらって、とりあえず9号線経由で神戸に行くことになった。

父・俊雄さん:神戸に近づくと、もう車は大渋滞で。六甲山のトンネルは通行止めという表示が出とったけども、トンネルの入り口はとにかく行ってみようと…。車の入る余地は開いとった。六甲トンネル抜けて出たら、神戸大学の上の団地(鶴甲団地)に出た。

父・俊雄さん:大学から下がったら、道路が波打っとるわ。そこに行くまでがすっごいノロノロ運転だったわ。新神戸のほうに曲がる、交差点の辺に墓があるわな。あそこの墓はもう全部墓石寝とるし。夜中、何時ごろ入ったんだったかいな。1月19日の未明、午前2時ごろになっとったかいな。

きき手:秀樹さんの下宿には、たどり着けたのですか?
父・俊雄さん:下宿までたどりつけんだがな。もうがれきの山で。足の踏み場もない状態だわな。
母・初子さん:最初に、応援団から来た連絡では、「高見だけが連絡とれない」ということだったけど、後になって、「下宿で見つかった」って連絡があった。でも、遺体はどこに運んだいうのは、分かってなかったんよな。
父・俊雄さん:友田町周辺の被災者の皆さんが、このあたりの犠牲者は、中学校にもってきてあるっていうもんで。
きき手:どこの中学ですか。
父・俊雄さん:大学のところからおりて新神戸方向に曲がる交差点があるなぁ。あの辺に中学校があらへんかい。
きき手:鷹匠中学ですかね。
父・俊雄さん:そいで中学校に行って、暗い中、各教室を回って遺体をずっと探してみたけど、違う違うで、そこにはいなかった。


(写真:母・初子さんと父・俊雄さん。鳥取県大山町で)

冷蔵庫か、電子レンジが落ちて来て…検視した医師は、即死だと言っとった

父・俊雄さん:これはいけんわ、応援団に連絡せにゃいけん。で、公衆電話だったかな、携帯したかな。電話したら、応援団が下宿に来て探したら、(建物の)下になっとったと。(秀樹さんを建物の下から)見つけて、王子スポーツセンターに居るっていう事で、それからまた、センターに向かった。

きき手:王子の遺体安置所には、応援団も付き添っていたんですね。
母・初子さん:王子スポーツセンターの武道館。ここは明かりもついてるしね。寝さしてもらってね。応援団も何人かおられて。
父・俊雄さん:応援団はよう段取りして、ええところを確保しといてくれた。
母・初子さん:寝さしてあるような感じやったなぁ。普通に寝とるような感じ。

母・初子さん:あの、胸を押さえられて。(左の首筋を押さえながら)ここから血が出とったな。ここを打ったみたいでな。電気製品かなんかが落ちてきて、冷蔵庫か、電子レンジかねぇ。
父・俊雄さん:で、顔はうっ血して。検視した医師は、即死だと言っとったけどな。
母・初子さん:次の日から試験があったみたいで、結構遅くまで起きっとったんやない。普通だったら友達の所に行ったりしてね、おっただろうけど。たまたま家に(下宿に)おったからね。
父・俊雄さん:目は充血してるけ、これは勉強しとったもんだと医者は言っとった。

母・初子さん:前の日にちょうど私が電話してたんですよ。来年は就職だからね、応援団ばかりしておらずに勉強せにゃいけんよって話をしてたんです。その時はね、2回も電話した。正月に応援団の子たちが来た時にね、誰か靴下を忘れててね、「靴下忘れてるわ」っていってね。2回も電話したんです。


(写真:震災の12日前。学生服に腕章。ブリックカラーの団旗の前の高見さん。1995年1月5日、摩耶山上で。)

王子スポーツセンターの武道館は所狭しと遺体が並べられとって

父・俊雄さん:そこで、1日、おったかなぁ。そしたら検視が始まって、そこの柔道場の広いところはもう、もうそれこそ所狭しと、遺体が並べられとって、騒然たるもんだった。泣く声で、寝るのも寝られへんし。

きき手:お辛かったでしょうね。
父・俊雄さん:動転したわけでもないけど、これは葬式したらにゃいけんっていう、そっちの方で、一生懸命だった、俺は。それで、早よ連れて帰らにゃ。でも、検視が済まにゃ動かす事もできんだし。早よう検視せい、早よう検視せいと言って医学部の先生に…。
きき手:早く検視してほしいと。
父・俊雄さん:1人でやられとったんかなぁ。「私も検視の調書を、寝ずに作っとる」と。「お前何言っとるか」っちゅう事だった。
きき手:特別に早くするということはできないと。
父・俊雄さん:そういう状況ではないと。

父・俊雄さん:検視が済んでも、今度は検視の調書ができんで…。それがないと火葬ができんだけんなぁ、とりあえずなぁ遺体は連れて帰るけえ。応援団の先輩の立林(たてばやし)君、同じ米子東高校の出身で秀樹の一期上の先輩に、(調書を)受け取って夜行列車『出雲』で帰ってきてくれと。で、とりあえず家に連れて帰ると。まああの辺は応援団だけあってさすがだわい。
母・初子さん:その調書を持って帰るのね、ものすごく大事に、神経使われたみたいですけどね。



体は硬いまんまだったけん重さで動かせねんだ、鍛えた体だけぇ

父・俊雄さん:まだ、体は硬いまんまだったけん、連れて帰ってもここから、重さで動かせねんだがなぁ。大きなものだけんな、鍛えた体だけぇ。足はこんなだし。
母・初子さん:どこも悪いところがねぇないんだから。
父・俊雄さん:板に乗せて、ここまで運んで布団に寝さしただけど。
きき手:それは、お父さんお一人でされたんですか。
父・俊雄さん:みんなだわいな。誰がおったやろ、おねえ(秀樹さんの姉)もおったか。

母・初子さん:(葬儀は)すごい行列でね、もう国道9号線のとこまで参列してくれる方がいらっしゃってね。同級生の親御さんとかね、地域の小学校、中学校、高校の同級生にねぇ。すごい人だったらしい。私たちそこまで見てないですけど、友達がねぇ話してくれて。
きき手:神戸大学の学生たちも?
母・初子さん:ええもう、神戸大学の子たちはもう通夜の前から来て、ここ(実家)にね全部で45人くらい泊まりましたからねぇ。離れも使って。
きき手:交通が途絶している神戸から、よくみなさん来ましたね。
母・初子さん:ええみんな来てくれまして。よその大学の応援団の方もね。
父・俊雄さん:京都大学、大阪市立大学、大阪大学も来てくれたかいな。
母・初子さん:すごい上の先輩もこられるしねぇ。応援団初代の菅さんなんかもきて下さったんですよ。


(写真:応援団長に就任した直後の新年会で撮影した写真と、団の腕章。1995年1月5日、摩耶山上で。)

震災前の正月は、団員がうちに来てお酒飲んだり楽しくやってたんです

母・初子さん:(学部は)経済学部でした。3年生でねぇ、植松ゼミにいてねぇ。で、植松先生もすごいかわいがって下さっててね。葬式にも来て下さるしね。本も出されて高見君に捧げるってね。でももう先生も亡くなっちゃいましたけどね。
父・俊雄さん:秀樹は酒の方が忙しかったようだ。酒飲んでからの武勇伝はなんぼでもあるけぇ。学生会館のとこから何か下に落ちた、っていう事もあったし。
母・初子さん:震災直前の正月にはねぇ、なんか応援団の5、6人がうちに(団長の実家に)来たんです。夜はみんなでお酒飲んだり、卓球したりとかね楽しくやってたんです。



香典をもとに、応援団が追悼手記集を作ってくれた

父・俊雄さん:香典がな、こんなに集まった。何百万も。これは俺が使とったてしょうがねぇわいと思って、応援団に寄付したんだ。
きき手:その寄付金をもとに、応援団が追悼の冊子『若き旗手 丘陵に消えず』を作ってくれたんですね。
母・初子さん:もう、涙、涙ですよね。最初はなかなかね、読めませんでした。

きき手:この冊子には多くの応援団員の手記が収められています。秀樹さんはどのように発見されてのかを知る手がかりがありますね。


(画像:追悼手記集『若き旗手 丘陵に消えず』の表紙。団旗を支える高見さんの姿が。)

▽1期下の当時3回生・国司和丸さんの手記。
「1月17日未曽有の阪神大震災が神戸の街を襲った。我々団員がこの悲報を目にしたのは地震の翌日(18日)の朝のことである。我々が崩れた下宿先から高見さんの遺体を掘り起こした。(中略)もう一緒に応援することも、酒を酌み交わすことも、言葉を交わすことさえもできなくなったのだ。

母・初子さん:(次の)36代の団長さん。もうずっと毎年、1月17日には神戸に来られる。お勤めが東京ですけどね。こちら(鳥取の秀樹さんの実家)にもね、来てくださったこともあるしね。

きき手:18日の朝団員のみなさんが秀樹さんを見つけた。となると、お父様、お母様が神戸に到着されたのは?
父・俊雄さん:19日の未明だな。午前2時ごろ。
きき手:18日の日中に応援団は秀樹さんの悲報に接しているから、お父様、お母様は18日夜から19日の明け方になって神戸に着いたということですね。真っ暗な中、中学の安置所を探されて、その後、応援団の皆さんと連絡がついて、運ばれた場所が王子スポーツセンターの武道場だとわかったと。

母・初子さん:あのとき、(鳥取県)米子の火葬場はフル回転だった
父・俊雄さん:米子の火葬場に、神戸の遺体がヘリで運ばれてくるだけぇ。
きき手:つまり神戸で処理できなかったんですね、火葬場がいっぱいで。近県で火葬せざるを得なかった。
父・俊雄さん:もうフル回転だったけん。


中学まではサッカーに熱中、高校は美術部

きき手:高見さんが応援団の団長になると聞かれた時はどう思われました?
母・初子さん:だいたい合格発表の時に、学ランきた子らがおってね、おっ今頃、こんなの着てる子がおるんだわなんて思ってね。その時はまだね、応援団に入るかどうか分からんかったですけどね。まさか自分の子がね。
きき手:なんで入ったか聞かれました?
母・初子さん:なんかね、入りたかったみたいですよ。憧れだったんかなぁ。
きき手:高校では高見さんは何をやっていらしたんですか?
母・初子さん:米子東高校の時は美術部です。
父・俊雄さん:最初はサッカーしてて、サッカー部では時間に余裕がないけん辞めて、美術部。
母・初子さん:友達が美術部に入って、それと一緒に確か入った。絵も上手でもないのに。中学まではね、サッカーに一生懸命でした。
父・俊雄さん:あの頃はまだ、米東のサッカーは強かっただけな

父・俊雄さん:秀樹がバイトしよった、焼き鳥屋のおやじさんが四十九日のときだかには来てましたがぁ。
母・初子さん:バイト先は「鳥やす」でした。「鳥やす」でバイトしとった1つ下の人もやっぱり亡くなってね。王子公園の遺体安置所の隣は、神戸大の戸梶さんだった。偶然。お母さんの実家が鳥取ということで、一度来て下さったわ。


(写真:思い出のアルバムを見ながら、インタビューは続いた。)

古いアパートだったけど気に入って 合格発表の日に決めた

きき手:盛華園アパート、これはどうやって見つけたんですか。
母・初子さん:合格発表のときに見にいったんだよねえ。最初だったよねあそこ。古い建物でね、木造で。共同のトイレで。大家のおばあさんがね何かよさそうな感じの人でね、秀樹も気に入っちゃってね。でそこでいいっていうしね。どこかねもう1か所行ってみようかっては言ってたんですけどね。いいっていうもんで。そんなにきれいでもないし古い建物だったけど、まあ男の子だけぇ、ええっかと思ってね。
父:(大きなため息)。
母・初子さん:2階の一番角ね。公園がすぐ見える所だったけね。
父・俊雄さん:1階に住んどった者はみんな助かったけど、2階におった秀樹だけが、あそこでは犠牲になった。母・初子さん:秀樹の方に建物が傾いたような感じ。電気製品がね(飛んで来て)。やっぱり(当たった)場所が悪かったんでしょうね。
父・俊雄さん:(ため息)。

母・初子さん:隣の公園でね、1月17日はいつもね、応援団が慰霊祭をやってくれてたんです。ずーとね、行ってたんですけど、最近、お父さんも神戸まで運転するのが自信がなくなってね。その前に私も病気したりとかしているから。ここ2年くらいかな、行ってないんです。


さだめっていうだかなー、残念無念だわい

きき手:秀樹さんは21歳。当時、お父様が49歳でした。
父・俊雄さん:今は74歳。25年になるがな。
母・初子さん:私は46歳だった。
きき手:21ってまだ若いのに…。
父・俊雄さん:それだがな。まあこれは突発事故で、人生が途絶えるっちゅうのは情けないことだけどな。
母・初子さん:残念で仕方ない。
父・俊雄さん:まあしょうがねえわなこれは。
母・初子さん:娘(秀樹さんの姉)が男の子4人も作りましてね。その上の子が、今年9月に20歳になりました。息子(の亡くなった年齢)に近づいてますからね。
父・俊雄さん:その、なんちゅうだか、さだめっていうだかなー、どうにもならんもんがあるわなぁ。悔しがっとったってしょうがないんで、まあ残念無念だわい。
母・初子さん:(仏壇の傍の応援団の腕章を見ながら)応援団に入っとって幸せだったと思うです。応援団が学ランとかを掘り出して持ってきてくれたんです。


震災のこと慰霊碑のこと 今の学生に伝えるのは大学の務めではないか

きき手:今の若い世代に向かって何かお言葉を頂けるとありがたいです。
父・俊雄さん:もしもその運命っていうものがあるんなら、まあその、このロウソクの長さでないけれども、その長さが決まっとるっちゅう事であるならなぁ。自殺はしてほしくないですねやっぱり。
それと、あの震災っていうのはこれから、台風も同じ事だし水害も同じことなんだけども、いつ何が起こるか分からんから、そのためにも、どうしたら自分が守れるかっていう事も、もう1つ大事なことでないかなと思いますわね。

きき手:今の大学では震災のこと知らない学生が多いんです。
父・俊雄さん:せっかく(六甲台の)正門の所に記念碑を作ってるわけだけん、その建てとるって意味を学長みずから学生の皆さんに広く教えていく。その意味合いというものを教えるっていう事が、大震災の後から生まれた人たちに対する、学校としての努めだかしらんなあ。
母・初子さん:でもね、15年ぐらいまではね、もうあきらめるにあきらめきれんっていう感じでね。今でもこんなんで秀樹の話をすると涙が出るんですけどね。だけど、なんか、ちょっと吹っ切れたような感じがねしましたね。あのときは。あとはその、私たちはもう幸せになるというようなこと事を考えずに、精いっぱいその日その日を生きていけばいいと思って、頑張ってるんですけども。あちらに行ってからいい報告できるように、秀樹に、こうして頑張ったよと、いえるような生活にね、したいと思います。
(2019年9月8日インタビュー、きき手:森岡聖陽)


(写真:日本海に近い高見家の墓前で。2019年9月8日、鳥取県大山町)

▽1月17日
 午前5時46分……地震発生。
          鳥取から電話をしてもつながらない。
          夜になると、呼び出し音はするものの電話に誰も出ない。
 夜………………………「高見んとこだけ連絡が取れない」と応援団から電話が入る。
▽1月18日
 午後3時ごろ………父・俊雄さん、母・初子さん、鳥取を出発。
▽1月19日
 午前2時ごろ………神戸に到着。
         「下宿で見つかった」と連絡を受けていたため、
          鷹匠中学の遺体安置所を探すがみつからない。
          応援団と連絡がとれて、王子スポーツセンターで遺体と対面。
          検視を待つ。
▽1月20日
 午前0時40分……秀樹さんの遺体が鳥取県大山町の実家に戻る。
▽1月21日
 自宅にて通夜。
▽1月22日
 自宅にて葬儀。


<2019年12月15日アップロード>

《連載記事》
【慰霊碑の向こうに】① 一枚の写真から
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/b81d5f93f24d4db312586b32da0838da

【慰霊碑の向こうに】② 故・戸梶道夫さん(当時経営学部2年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/023b839a782ed062de6f26d1d5f0919b

【慰霊碑の向こうに】③ 故・高橋幹弥さん(当時理学部2年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/7165089761eef41f45c9d3eae84c1870

【慰霊碑の向こうに】④ 故・高見秀樹さん(当時経済学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/eb2e066042bfb01d561385907b64f44a

【慰霊碑の向こうに】⑤ 故・坂本竜一さん(当時工学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5c9a8898fafde156a8091d6fac45d615

【慰霊碑の向こうに】⑥ 故・中村公治さん(当時経営学部3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/a65c964c3ba5baa556ab126cf22dc1f1

【慰霊碑の向こうに】⑦ 故・森 渉さん(当時法学部4年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/51f49f1abe823bdfa978ca6c6addd922

【慰霊碑の向こうに】⑧ 故・竸基弘さん(当時自然科学研究科博士前期課程1年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/bbbdb927d2917cdde7834b73e8dfd2b4

【慰霊碑の向こうに】⑨ 故・白木健介さん(当時経済学部Ⅱ課程3年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5cf5033cc4e75acb06952295dad255aa

【慰霊碑の向こうに】⑩ 故・工藤純さん(当時法学部修士課程1年)
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3f0215cb9c0ff23b43149a3076ccb645

【慰霊碑の向こうに】番外 亡くなった学生の家族からのメッセージ
 https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/c6a974c72827bb82f3339b2381077f8b