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名古屋外大に快勝 関西学生タッチフット第3戦

2019-10-28 01:35:40 | ニュース
 10月27日、武庫女大総合グラウンド(西宮市)で行われた関西学生タッチフットリーグ第3戦で、神戸大タッチフットボール部ルークスは名古屋外大に27-0で完封勝利した。秋リーグ第4戦は11月3日(日)15時10分から神戸大エレコムグラウンド(灘区鶴甲)で武庫女大と対戦予定。<綿貫由希>

《関西学生タッチフットリーグ第3戦》
 神戸大 40-0 関 学 (10月27日 武庫女大総合グラウンド)

《関西学生タッチフットリーグ日程》
 11月3日(日・祝)15時10分~ 対武庫女大 神戸大エレコムグラウンド
 11月30日(土) 東西大学王座決定戦(関西上位2位出場)王子スタジアム 
 


「50年目の卒業式」 秋晴れのもと8学部、172人が集う

2019-10-27 23:24:33 | ニュース
 1969年の神戸大卒業生らが、大学紛争の影響で中止になった卒業式を半世紀の節目に改めて行おうという「50年目の卒業式」が、10月27日に行われた。爽やかな秋晴れのもと、当時の8学部から172人の卒業生が集った。<玉井晃平、小野花菜子、森岡聖陽、長谷川雅也、渡邊志保>


(写真:「50年目の卒業式」に集った1969年の卒業生ら。武田・現学長を囲んで記念撮影。 2019年10月27日14時すぎ、六甲台第1キャンパスで)

 1960年代末に起きた神戸大紛争は、文科省が学生寮の光熱費などの学生負担を通達し、大学がそれに応じたことに端を発した。学内では学生の多くの不満が次々に噴出し、激しい紛争に発展した。医学部以外の全学部で、学舎の占拠や封鎖が広がり神戸大は授業が一切行えない状態に陥った。
 1969年8月7日、戸田義郎・学長事務取扱(当時)による封鎖解除通告が行われ、翌8日機動隊が見守る中で封鎖解除が行われた。(1968年〜1969年 神戸大の主なスト・封鎖の状況年表https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/a0acb6fe926314730cd6aa330e78f6da

 この日参加したのは、当時の8学部(文、教育、法、経済、経営、理、医、工学部)172人の卒業生。
 神戸大出光佐三記念六甲台講堂で行われた式典は、正午ちょうどからフリーアナウンサーの川畑亜紀さん(1998年・文卒)の司会で始まった。
 番尚志・実行委員会共同代表はあいさつの中で今回の企画が、東京の同期会の中から声が上がり、全学部に呼びかけて実現した経緯について語った。
 また、会場の卒業生と同世代の武田廣・神戸大学長は、祝辞の中でアポロ11号の月面着陸など1969年のできごとや、「あっと驚く為五郎」などの当時の流行語に触れ会場の笑いを誘った。

 そして、1969年当時、学長事務取扱を務めていた戸田義郎教授(故人・当時)が卒業生に宛てたメッセージが、武田学長の代読で披露された。戸田学長事務取扱の神戸大と神戸大生に対する率直な思いと、混乱の中で学生生活を送らせてしまったことに対するお詫びの気持ちが読み上げられると、卒業生は感慨深そうに、耳を傾けていた。(メッセージ全文http://www.lib.kobe-u.ac.jp/bunsho/shikiji/5a.01.htm


(写真:50年前の戸田義郎学長事務取扱のメッセージを代読する武田廣・現学長 六甲台講堂で)


(写真:戸田義郎学長事務取扱と直筆コピーのメッセージ)

 続いて、1979年に神戸大映画研究部が制作したドキュメンタリー・フィルムのダイジェストが上映された。1971年に正式に学長に就任し当時は名誉教授となっていた戸田義郎さんが封鎖解除に臨んだ様子を語る肉声のインタビューが会場に流れた。また、モノクロのニュース・フィルムもインサートされていて、くいいるように当時の学生のデモの姿を見つめる人もいた。

 大学文書史料室室長補佐の野邑理栄子さんの記念講演では、教育学部の教室の黒板が「授業粉砕」などとペンキで書かれたり、経済学部の研究室で本が散乱している様子など、紛争当時を写した生々しい記録写真が披露された。

 グリークラブや、混声合唱団アポロンによる合唱披露もあり、OBも交えたステージに、会場には感極まって涙ぐむ人の姿も見られた。


(写真:OBも交えた混声合唱団アポロンのステージ 六甲台講堂で)

 式典終了後は神戸大学正門階段で学長を囲んで卒業生の集合写真が撮影され、アカデミア館ベルボックスで行われた懇親会では、卒業生達は旧交を温めた。
 「こんなに恵まれた環境で学んでいたのだと再確認した。誇るべき大学だと思う」と、中村慶子さん(教育卒)。石原周一さん(法卒)は、「当時できなかった卒業式が50年を経てこうして行われたのは感慨深い」と話した。


(写真:懇親会で乾杯の音頭をとる実行委員会共同代表・番尚志さん。 アカデミア館ベルボックスで)

神戸大の歴史を知ってほしい
「50年目の卒業式」実行委員会共同代表・番尚志さん(69年営卒)の話
「式が無事に開催でき、ほっとしている。卒業から50年が経ち亡くなった方もいるが、遠方に住む人なども含め180人近くが会してくれた。1969年春を振り返ると、異常事態の中で卒業していったことへのうやむや感はとてもあった。この50年間は色々なことがあり、走り続けてきた人生だった。神戸大はとても自由な大学で、自分はとても過ごしやすかった。現役の学生には、神戸大の歴史を知ってほしい。今の神戸大があるのは、こうした大学紛争などの歴史を乗り越えてきたからで、時代を通じて障害を乗り越え大学は変化してきた。なぜ今の神戸大が存在するのか知ってほしい」。

いつの時代も学生と大学の話し合い大切
武田廣学長の話
「当時学生が問いかけたこととは、現在になっても残っている大学の問題点だった。彼らが提起した問題には未だに解決しないままのものもある。当時の学生側の主張には国家レベルの政治的なものもあり、大学との交渉だけではどうしようもなかった部分もある。しかし、学生と大学の話し合いが大切であるという点は現在にも言える教訓だ。神戸大は現在も学生との対話に取り組んでいる。学生の皆さんに対しては、『もっと声を!』と思う。あの時代はしばしば大衆団交があり収集がつかなくなりがちだったが、今の時代はいろいろな方法がある。学生ともっと対話したい」。


(写真:当時の8学部の卒業生、172人が参加した。 六甲台講堂で)

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ホームカミングデー 卒業生でキャンパスにぎわう

2019-10-27 11:58:22 | ニュース
 神戸大を卒業したOB・OGを対象に学校に案内する、「ホームカミングデー」が、雨の上がった10月26日開催された。キャンパスにはたくさんの卒業生がつめかけ、式典では警察庁科学警察研究所所長の福永龍繁さん(1981年・医卒)による講演が行われた。午後からは各学部企画が行われ、文学部では学部創立70周年記念の企画が開催された。<森岡聖陽>


(写真:多くの卒業生が訪れた六甲台第1キャンパス 2019年10月26日午前)

 ホームカミングデーは卒業生同士の交友を深め、神戸大を支援してもらうために大学をアピールするイベントで、今年で14回目。記念式典などの全体企画のほか、学生らも協力して各学部企画などを開催し、キャンパスは幅広い年齢層でにぎわった。

 午前の記念式典は出光佐三記念六甲台講堂で行われ、NHKアナウンサーの住田功一さん(1983年・営卒)の司会で進行。武田廣学長のあいさつで始まった。
 武田学長は、2021年度に新設する構想の海洋政策科学部(仮称)や、「はやぶさ2」にかかわった理学研究科の荒川政彦教授のチームのことなど、大学のトピックスや今後の構想に言及。また来年度開設されるV(バリュー)スクールの将来性を語った。

 学友会会長の坂井信也さん(1970年・済卒)は、神戸大の名前をもっと全国に浸透させなければと力説。「箱根の山を越えないどころか、生駒の山も越えない状況ではいけない」と、苦言を呈した。

 医学部卒で警察庁科学警察研究所所長の福永龍繁さんの講演「日本の死因究明システム~神戸と監察医制度」では、監察医制度の必要性や、その制度を守るために神戸市や東京都など行政との交渉の歴史を語った。


(写真:警察庁科学警察研究所所長の福永龍繁さんの講演 六甲台講堂で)

 続くプログラムでは神戸大が発行した統合報告書の内容について、職員2人がプレゼン。革新的な価値創造人材の育成を目指し来年度設置されるVスクールをはじめ、神戸大のビジョンを解説した。
 その後神戸グローバルチャレンジプログラムに参加し、フィリピンに3週間滞在した農学部1年生の松本萌恵さんや、マレーシアに1カ月間フィールドワークで参加した海事科学部2年の森祐治さんが、プログラムの結果を報告した。

 来場した卒業生のひとり川中正登さん(法卒)は「福永さんの検察医の講演は『科捜研の女』が好きだから気になっていたけど、先生たちの頑張りが(制度を支えていることを)聞けて感心したし、勉強になった。(キャンパスも)階段の横に立派な建物(アカデミア館)が建っていて、エレベーターまでついて、様変わりしたなと思う。学生さんの発表が聞けていいことだと思ったし、これから卒業生が様々な舞台で活躍できるように人材育成に力を入れてほしい」と満足そうに語った。

 そのあとアカデミア館1階のBEL BOX食堂で行われた「ランチパーティー」には、応援団のリーダーと吹奏楽部、レイバンズチアが登場して、母校に集った先輩たちを歓迎した。


(写真:応援団のリーダーと吹奏楽部、レイバンズチアがランチパーティーを盛り上げた 2019年10月26日午後、BEL BOX食堂で)

 午後からは、各学部の企画も行われた。文学部では学部創立70周年記念の企画が開催された。
 2人の名誉教授と7人のOBの講演では、文学部のこれまでの歴史の流れを共有した。
 主催で学部長の奥村弘教授は「70年なので堅くならず、それぞれの年代の方が交流し、文学部がこの70年で何を大事にしてきたのかを確認できるような会が開けたと思う。」と会の成功を満足そうに語った。



(写真:文学部の歴史と展望について語った奥村弘・文学部長 文学部学舎で)



(写真:記念式典が行われた六甲台講堂 2019年10月26日午前)




「神大紛争」とは何だったのか④ フィルムに残った証言〜学長事務取扱・戸田義郎教授

2019-10-25 00:16:03 | ニュース
 このたび発掘されたドキュメンタリーフィルム『Rollig』(1979年・神戸大映画研究部制作、カラー・一部白黒、8ミリフィルム、49分)。この中で、50年前の大学紛争で、事態収拾の最前線に立った戸田義郎名誉教授が、封鎖解除の日を生々しく語っている。10月27日(日)の「50年目の卒業式」で、その一部が上映される。<小野花菜子、玉井晃平>

 画面には、1969年7月12日の、須磨区高倉山造成地で行われた全学集会の新聞記事の見出しが映し出される。
 「封鎖解除提案を支持 怒号の中10分で閉幕 妨害学生72人を逮捕」、「神戸大学の改革案まとまる 学生参加前面に 構成員の総意で解決」。
 そして、8月8日の全学封鎖解除を伝える見出しには、「神大8カ月ぶり封鎖解除 機動隊に守られながら 学生らはすでに退去」のゴシックの文字が踊る。


(写真:封鎖解除の日の様子を語る戸田義郎名誉教授 1979年8月8日午前、六甲台本館前で 映画『Rolling』から)

 画面は、1979年8月8日10時50分を示す、神戸大六甲台本館の時計が大写しに。パンダウンすると、映画研究部の住田功一部員(後にNHKアナウンサー)がマイクを持ってリポートしている。
 マイクを向けられインタビューを受けるのは、紛争当時、学長選を行うことができず学長事務取扱の職にあった戸田義郎名誉教授(撮影当時、のちに第6代学長、1999年没)。炎天下、ネクタイにスーツ姿、背筋を伸ばして10年前の同じ日に決行された封鎖解除の様子を証言し始める。
 「正門のところに、この建物(六甲台本館)の中から引っ張り出した机やいすがずっと積み重ねてありましてね、そして通行ができないようになっておりました。だから外部の人は何も内部の状況がわからない」。


(写真:封鎖解除を通告する掲示。「不法占拠者へ」という見出しで学外退去を命じる内容で、「命令に従わないものがあるときは警察力を要請する」と通告している。封鎖解除前日の昭和44年8月7日午前8時と記されている。 画像提供=神戸大学文書資料室。)

 今度は正門前で語る。「大きなバリケードが張ってあるんですな。さっき言いましたように、机やいす、それからロッカーもありましたね。この高い石門ね、この高さまでずーっと、ロックアウトされておりましたね」。
 「だから私は外へ出ましてね、外側へ来まして、外側から中へ向けてね、呼びかけをしたわけです。ここ中に残っている学生さんは、すぐに退去せよと。ハンドマイクというもんじゃあありません、メガホンですな。やっぱり10年前だから、器具が揃ってませんでしたね。それで呼びかけをいたしました。ちょうど階段の中段のところへ3名ばかり人がおりました」。

 画面が切り替わって、六甲台講堂前。神戸大の前身の神戸高等商業学校の初代校長・水島鐡也の銅像の前。
 「(昭和)44年の5月の15日が開学記念日になっておったでしょ。その時に引きずり下ろされましてね。そして、何で壊したのか知りませんけれど、先生の眉毛の上、大きく陥没してしまったんです。丸穴があいた、大きなこんな穴があいちゃいました。こちら側も叩かれて、もちろん叩かれてるんですよ。でこれが、今度はそこの階段、石段の中くらいのところまで転がっていたと、記憶してますね。蹴飛ばしたんでしょう」。
 「それと、もう一つは、あちらにあった田崎(慎治)先生(神戸商業大学・初代学長)の銅像ですね、これも…。これでね、まあ凌霜関係の先輩連中が非常に憤慨しましてね」。

 続いて、本館1階廊下を歩きながら、一段と張った声で証言を続ける。
 「本館はね、これが中央の階段ですね。向かって左側がこちらの棟になるでしょ。それから右側がそちらの袖になりますね。この下に(1階に)大学全体の事務所があったわけです。今、本部事務所があちらに行ってますけども、本部事務所がここにありました。(今の)あの本部の建物はなかったですからね。それで経営学部の事務所と経済学部の事務所もここにあったわけです」。

 封鎖で荒れ果てたキャンパスの中で、六甲台本館はやや様子が違ったと戸田名誉教授は言う。
 「惨酷の惨(ざん)っていう字ですな。惨状という言葉が当てはまりますな。ところがここはそうじゃなかった。割合に、まとまってました。どういうわけかって言うとね、どうやら神戸大学系統の学生諸君がね、特に凌霜関係の学生諸君がここにおったらしいです。この建物はわしらが見るから壊さないでくれと、いうことだったんでしょう。で、守ってくれたわけですね。それもあの、一緒になって封鎖を手伝ってる学生さんですよ。そのなかでも、あのー意識を持ってくれてたのがおりましてね。これが助けてくれましたね。だから比較的、損害が軽かったと。(損害が)無いと言うことはありません」。


(写真:封鎖解除が始まった六甲台正門。 1969年8月8日。画像提供=神戸大学文書資料室。)

 封鎖解除が終わった時の感想は?というインタビュアーの問いに、戸田名誉教授は六甲台本館前の木陰に腰掛けて静かに答える。
 「それは皆が来られた時は、私はそれまでの段階でね、どれだけみなさんが封鎖解除を望んでいられるかというのがよくわかりましたですから、特に高倉山で『全学集会』やりましたですね。そういうことでもわかりました。あの時に、封鎖解除という決意を表明したのに対してね、喜んで同調してくださった学生さん、教職員の方々がたくさんいてはる。やっぱり心配できょうもここへ来てくれたんだなと思いましたね。当時はね、わたくしはこちらです。で、学生さん教職員の方は皆こちらです。そこで一斉にこのー、中へバリケードを取るために入っていかれたわけです。だからわたくしは常に後ろにおったわけですな。そしてそのうちに、やっと通れるようになりましたから、こんど上へ上がったと、こういう状態です」。
 「で、わたくしはね、封鎖解除の時はそこの上の、この階段の上のところの隅でこう様子を見てたんです。バリケードが取れて入れるようになりましてからね、バリケードを解いて中へ、職員の方や教員の方や学生諸君が入ってくるんですが、みんな非常に嬉しそうな顔でしたな。なにか、憑かれたものがごそっと降りてしまったような顔でね上がって来られましたね。元気に上がって来られました。バリケードを解く姿勢にしましてもね、もうこういうものはいつまでもあってはいけないんだっていう決意が非常に強かったようですから」。

 このドキュメンタリーフィルム『Rollig』は、白黒のニュースフィルムが随所にインサートされている。
 放送を始めて間もないサンテレビジョン(1969年5月1日開局)が撮影したもので、この映画の製作時に条件付きで提供されたものだという。

 映画は、封鎖解除を撮影したニュースフィルムに『Let It Be』のメロディーがストリングスで流れ、エンディングを迎える。
 正門にはスチール製のロッカーが並べられ、その上には木製の椅子が積み上げられ、バリケードになっている。門の前に並ぶ、機動隊。机や椅子が、教官と思われる人たちによって取り外されて運び出されていく。トランジスタ・メガホンで本館に向かって呼びかける教官。彼らの腰には「封鎖解除」と書かれたリボンが。
 ラストカットは、1969年8月8日神戸新聞夕刊の見出しで、「“改革への道”」開くか」の黒ベタゴシックの文字をカメラはパーンして、画面が暗転する。

○        ○

 この映画では、10年前の1968年から1969年に吹き荒れた大学紛争と、製作当時の1979年のテレビゲームやテニスサークル全盛の時代を対比させながら構成されている。
 「80年代はどのような時代になると思うか」という質問に、1979年当時の学生は、「安定の世代やと思う」、「変動のない安定のはしりじゃないですか」と答えている。

 昭和の最後の10年とも重なるこの時代、1980年代は、社会は円高不況からバブル経済に転じた。これ以降学内では、自然科学研究科など大学院の新設や、博士課程の設置が進んだ。
 平成に入り1990年代になると、教養部・教育学部を改組し国際文化学部、発達科学部の設置(1992年)。2000年代は神戸商船大との統合(2003年)。さらには、国立大学法人への転換(2004年)で、大学は大きな変革の時代に突き進んでいくことになる。
<おわり>

▽戸田義郎:(1909年2月24日〜1999年11月21日):会計学者。大阪府出身。1933年、神戸商業大卒。1950年神戸大経営学部助教授、1952年教授。1969年1月 から1971年2月まで学長事務取扱。1971年2月から1975年2月まで、第6代学長。1975年定年退官。


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「神大紛争」とは何だったのか③ フィルムに残った証言〜闘った学生、ノンセクトの学生

2019-10-24 11:55:50 | ニュース
 10月27日(日)の「50年目の卒業式」で上映されるドキュメンタリーフィルム『Rollig』(1979年・神戸大映画研究部制作、カラー・一部白黒、8ミリフィルム、49分)。今回発掘されたこの映像には、紛争で向き合った大学側、学生サイドの証言が収められていた。<小野花菜子、玉井晃平>


(写真:六甲台正門付近でデモを行う学生とそれを取り巻く学生、教職員。1969年。 画像提供=神戸大学文書資料室。)

 映画には、当時学生だった人たちの証言も収められている。

 1969年当時文学部学生で、あるセクトに入っていたKさん(撮影当時は関西の私大の大学院在学中)が証言している。撮影は拒否したため、字幕が、画面に映し出される。
「具体的には住吉寮の問題があったわけ。要するに、“教育の機会均等”ということが問題だったわけでしょ。文部省側のしめつけは、日本帝国主義の再編成への過程っていう、そういうふうな認識があったからね」。
 「日本帝国主義っていうのは、アメリカ帝国主義っていうのと手を携えて…というふうな認識があったからね。それはとりもなおさず日本帝国主義に対する戦いとして、アメリカ帝国主義、すなわち、安保破棄っていう方向で戦うっていうのが、その当時の学生の一般的認識やったんちがう?」。
 「僕は『敗北した』とか、『私の人生が紛争でむちゃくちゃになった』とか、『思想そのものが変革されてしまった…』とか、そういうことはまずなかったね」。
 「僕が10年後の学生であったとしたら、というなら、僕もやっぱり学生運動にはアレルギーみたいなものを示したやろうね。でも僕は10年前の学生であり、その当時は一部学生だけの独走体制ではなくって、みんなが立ち上がるという動きにあったんよ」。


(写真:闘争に参加した学生のインタビューは、字幕処理で画面に映し出される 1979年に製作された映画『Rolling』から)


 画面は望遠レンズで大阪湾を捉える。ズームバックすると、鶴甲団地が広がる。

 「ええ、ノンセクトはノンセクトですけれども、授業がずっとなかったもんでね、私が3年の頃の終わりからですから(昭和)44年の最初から11月までずっと講義がなかったんです」と語るのは、闘争には加わらなかったという、当時文学部の4回生だった楫野政子さん(元高校教員、撮影当時主婦)。自宅のある鶴甲団地のベンチに座って、カメラの前で証言する。
 「文学部の学生大会で、44年の初め頃だったと思うんですけど。学生大会でストに入るということを決議して、それからずっと授業がなくて。その状態がずっと続いてたわけです」。
 「講義があってもそんなに真面目に受けるとか、そういうあれでもないんですが、それでも講義がないってことは非常に大きなことでね、あって出ないんじゃなくて、もう全然(講義が)ないわけですからね」。
 「でも最初のうちは、そんなにみんな講義がないっていうことに対してそれほど大きな意味も感じてなかったんですけど、やっぱり夏休みにかかる頃になってから次第に私たちは、卒論とか控えてますのでね、だんだん焦りを感じてきて。4回生ですから。で、夏休み頃からやっぱり授業をやってほしいという学生の動きがありました」という。
 「我々どっちつかずで、学校に来ないでいいわなんてそれほど楽天的にも考えられないし。やっぱり何か自分たちもしないといけないんじゃないか、いけないんじゃないか、っていうふうなことで。学校には行ってるけれども、具体的に何をしてるっていうではなかった」と振り返る。
 「(学校には)行ってました。ずーっと。ほとんど行ってましたけどね。授業がないから、全然学問的なことがなかったかって言われると、そんなことはないっていうことですけども」。
 同じ学科やクラスの友人で、とうとう学校に帰った来なかった学生はいたかという質問に、「ありましたね。それはでもほんの数人。積極的に闘争に参加して、それこそ裁判とかそういうことになった」とも答える。


(写真:ノンセクトの文学部4年生だったという楫野政子さん。 1979年に製作された映画『Rolling』から)

 映画には、随所に、紛争から10年がたった平和な若者が映し出される。
 そぞろ歩く若いカップルに、インベーダーゲームがオーバーラップする。
 学園祭(教養部の水無月祭)に興じる学生たちの姿には、前年デビューしたばかりの「サザンオールスターズ」の歌が流れる。
 一方で、大教室では、中山千夏と矢崎泰久のトークセッションが行われている。

 ハイツキャンパス(文・理・農学部)のロータリーで野球に興じる学生たち。
 カメラは、理学部の研究室内に入っていく。

 ナレーションで、「理学部修士課程だったUさんは、火炎瓶を投げたりかなり過激な活動をしていたということです。その後名古屋大学の博士課程に進み、現在研究活動のかたわら、予備校で教鞭をとったりもしています。Uさんも仕事の都合上、撮影や録音は差し控えて欲しいとのことでした。」と紹介があり、字幕のみの画面になる。

 「たしかに、ある人にとって挫折だったかもしれない。しかし、紛争の傷跡というものは、それ以上にずっと深いものがある。僕なんかはいまだに、学会で闘い続けている。大学の内部でも、紛争の時、どんな立場に立ったかということで、いまだに教授と助教授の間の関係がこじれたままのこともある」。
 「でも紛争でできた大きな流れというか、そんな流れは、深いところで今も流れ続けている。たとえば公害問題を追求する運動だってそうでしょ。だから、そんなふうにして、紛争が全く無に終わってしまったとは、思わんね」。
 「だから、今の学生についても、何か不満みたいなものがあると思う。それがうっ積していくと、いつかまたワァーッと爆発することがあるかもしれんね。でも大学に入ったら、パアーッと解放されたみたいな気分になってしもて遊んでしまう。不満も別にない…。何か受験生時代に肝を抜かれてしもたんちゃうかな」。

 画面は、教養部や学生会館でサークル活動をする学生に近づき、マイクが向けられる。
 学生生活について、100点満点で何点?という問いに、2年生男子はこう答える。「高校の時は勉強していたけど、今は全然勉強してない。人間的厚みから見たらええ点がつくかな」。
 楽器の練習をする3年生男子は、「60点ぐらいと思いますけど。ほとんどクラブで授業はさぼってばっかり。大学に入ったのは、就職に役に立つから」という。


(写真:大学紛争から10年後の1979年のキャンパスでインタビューに答える学生たち。 映画『Rolling』から)

<続く>

▽セクト:英語で「分派」の意。日本の戦後政治では、急進的な革命や暴力革命を掲げて、実力行使に重点を置いた運動を展開した新左翼の勢力の党派のこと。暴力的な集団は「過激派」などといわれた。特定の党派に属さない人は「ノンセクト」と呼ばれた。

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