キッチンの流しの隅に、食材に付いていたシールが落ちている。そこには、「国産豚肉もも切り落とし」とある。この食材の製造過程を想像して背筋が寒くなった。「肉食」の人間は、当然のように生き物の命を奪い、切り刻み、煮たり焼いたり、稀に生のまま、摂取しているのである。国産豚は、さぞ苦しい思いや痛い思いをしたであろう。それを私たちは、固いだの柔らかいだの、美味しいだのまずいだのと言いながら食しているのである。
かつてベジタリアン(菜食主義者)であるオーストラリア人家族と数ヶ月生活を共にした。かの国には多くのベジタリアンがおり、市中のレストランの多くにはベジタリアン用のメニューが置いてあった。日本にいて、時に一緒に外食をするときに随分困った記憶がある。動物性の食材が皆無の料理など日本にはほとんど存在しないのである。例えば「うどん」鰹だしはだめ、かまぼこの切れ端もだめである。外食はあきらめざるを得ない。彼らの体格やエネルギーを見ると、別に肉を摂取しなくとも随分大きく、エネルギッシュである。菜食の理由は、宗教的な理念によるものではなく、単に生き物に対する憐憫の情にもとづくもののようであり、一部同感できる。
わが家では、随分前から金魚を飼っている。金魚を飼うようになってからは、「釣り」をしなくなった。懐いて指からえさを食べる金魚に接していると趣味で彼らの命を奪う「釣り」はできなくなったのである。食卓に上る諸種の魚は、複雑な思いをしながら食すことになるが、いつも、これを食べなくても生きていけるのだが……と考えている。
時々、友人夫妻と家族でドライブに出かけるが、あるとき、島のレストランでランチを楽しむことになった。店内には大きな水槽があり、立派な鯛が泳いでいた。いわゆる「活け造り」用の魚である。私は「気の毒に」と思い眺めていたが、友人の奥さんが、「まあ美味しそう」と反応した。これは、料理を担当することの多い、女性の一般的な反応なのであろうか。とするなら、その事情に便乗している男どもは、ずいぶんずるい生き方をしていることになろう。大きなことは言えない。同じような経験は、やはり島の鮮魚店で、「しらうお」だか「しろうお」を購入するときにもあった。男どもは、その魚の購入に興味がなかった、というより反対であった。それは、生きたまま食す「踊り食い」や生きたまま「かき揚げ」にするための食材であり、「いのち」ではなかった。持ち帰った二人の主婦は美味しく召し上がったようだが、詳細は知らない、見たくも聞きたくもなかった。
考えてみれば、残虐な料理がある。「親子どんぶり」「他人どんぶり」「生け造り」「たたき」「姿焼き」「尾頭付き」「目刺し」「刺身」「白焼き」「骨酒」……。似たような名称は、いくらでもありそうだが、料理される側に立って見れば、こんな残虐な行為はない。「命」を奪う過程は隠蔽され、いきなり食材として提示されることで、私たちの罪悪感は薄れる。かつて若い主婦は目玉のついた食材としての魚が怖くて料理できないということが話題になったが、案外、極めてまともな反応だったような気がする。
命あるものを摂取しなくて済むのなら、ベジタリアンが急増すると思われるが、「老人は、もっと肉を食べるべき」などというアドバイスをされることがある。栄養のバランスなどの観点からの提言もある。青魚の効用などもよく耳にする。植物性タンパク質を使った肉もあり、これを使ったハンバーグなどは、本物の肉の料理と、見た目も味も違わない。これらを考えると、人間の多くは「肉食」から解き放たれることはないのだろうか。