文科省は、学力試験(ここでは国語)の問題A、Bを、今後は一本化して行く方針であるという。Aは基礎・基本、Bは応用という性格のもので、従来、BがAを上回ることはなかった模様だ。
この結果にはチャンと理由がある。従来、学校では、「基礎」的な能力に集中していたのであり、「生活」に生きる、「実の場」に活きて働く力などは、かけ声はあったものの、かけ声だけに終わり、ほとんど成果があがらなかったのである。しかも、Bタイプの能力を育成する方法も分からないままであった。
二つの学力は、基礎・基本と応用という一つにまとめられるものであるという考えにも一理あるように見えるが、学校で育成した力が、児童・生徒の日々の学校内外の生活の場に活かされるという当たり前のことが達成できていない状況下で、一つにまとめ上げてしまうことは、両者の特性および関係を曖昧にしてしまい、特に、現実の生活で最も必要とされるBタイプの能力の存在を見えなくしてしまう危険性がある。
かつて研究のアドバイスを続けていた小学校で、Bタイプの学力の育成を主眼とする取り組みを進めて、学力試験の結果、Bタイプが全国平均を十数ポイント上回ったことがある。私は、その結果を当然だと思っている。そういう結果が生まれるような指導理論に立つ実践を重ねてきていたからである。
学校の国語教育と実の場の言葉の教育、学校で求められる国語学力と実の場で求められる言葉の能力とは、全く異なる文化を背景に持っている。学校国語、教室国語は、確かに基礎的な知識や技能を育成するが、その機能するところは極端に狭く、限定的である。
例えば、国語の、あの薄い教科書(上下二冊構成になっていることが多い)を一年かけて使用するのであるから、重箱の隅をつつくような指導に陥る。現実の生活にはあり得ない行為である。しかも、「正確な読み書き」を旨として、批評的であったり、創造的であったりすることは稀である。国語で最も多くの時間を費やす、「読むこと」を例に取れば、実の場では数分で読み終えるような文章を数時間から十時間以上もつつき回す。精読といえば聞こえがよいが、こういう指導法は、一読では理解が難しい、難度の高い(成人向けの)文章の解釈の仕方の悪しき伝統の結果であろう。文章の内容と形式を、聖書のように、ひたすら正確に理解するというような活動が、児童、生徒が学校よりも多くの時間を使う日常生活においてどのような役割を果たすことになるのだろう。
教科書教材の内容にしても、ただひたすら信じてよいものはほとんどない。個性や癖のあるのが当然の人間の手になるものであるから当然である。「検定」を経ているなどのまやかしを信じてはならない。しかし、危うい内容、形式の教材こそが、実の場との接点になっているのである。世の中は、質も種類も多種多様なものであふれており、その危うい森の中を戦いながら通り抜ける(生活し、成長する)ことを教えるには、個性も癖もある教科書教材は、極めて有効である。これは皮肉でも何でもない。
現場の教員との毎月の研究会では、いつも、このような問題状況と、育成すべき真の学力を確認しつつ、もっとリアリティのある言葉の教育が必要だと痛感している。結論的に言えば、実の場の原理に立って、学校国語、教室国語を大改造することが喫緊の課題である。現段階で学力AとBを一つにまとめることは、単に実の場文化を支える力の存在感を希薄にし、学校文化、教室文化という特異名世界に、子どもたちを閉じ込めることになるのではないかと心配である。そのように育てられた人間が、やがて支える日本という国の将来はどうなるのだろうか。
(わが家の庭で出来た山葡萄の一部。びっくりするほど大量に実った。)
「分類」と「比較」は、人間が物事を認識する上で、最も基本的なものと考えられているようだ。最も基本的という断定が正しいかどうかに自信はないが、重要な認識能力であることは間違いないであろう。
今日は、古書店に出かけた。昨夜、かこさとし(加古里子)氏の『未来のだるまちゃんへ』(文春文庫)を読了し、子どもへの対し方に感銘を受けたので、氏の手になる絵本を入手するためである。氏の絵本は、すでに数冊手元にあるはずであるが、探し出す時間とエネルギーがない。手っ取り早く古本屋に行ってみようと思い立ったのである。
さて、古書店に行って、絵本の棚の前に立ったところで困惑した。多数の絵本が、どのような原理・原則で分類、配置されているのか、さっぱり分からないのである。ちょうどやってきた女性の店員さんに尋ねてみた。答えは、「大きさで分けています」とのこと、困惑が続く。このような分類法は、かつて、保育園関係の書物で、目にして、愕然としたことがある。特定の本を探し出すのに苦労するだろう。店員さんは、その後で、「出版社別にもなっています」と付け加えた。分類基準が複数あると、本の検索は、更にむずかしくなる。
結局、かこ氏の本は、一冊あっただけで、別のカテゴリーの棚に異動した。他の棚は、基本的に、分野別に大別した上で、著者名による分類が行われていて、本を探し出すのにあまり苦労はしなかった。絵本も、書名あるいは著者名の順番に配置してくれればわかりやすい。絵本などは大きさが多様で、分類後の見た目も悪く、書棚の棚の位置の決め方も難しいという理由もあるのだろうが、それにしても、大きさで分けるというのは大胆過ぎはしないだろうか。
わが家の小図書室と書斎には、合わせて、二千冊以上の本があるようだが、特定の本を探し出すのに大変苦労する。おおよそのジャンルを念頭に入れて配置しているてつもりであるが、ほとんど役に立たない。数百枚あるCDも同様である。作曲家別にしたものの、分類後に購入した物が思いもかけない所に入り込んだり、入れ間違ったりで、聴きたい物を探し出すのは一苦労である。
仕事の必要から、雑誌論文のデータベースを作成したことがある。極めて多くの論文を収録したが、これも論文名、著者、掲載誌、出版日時が中心で、論文の現物をデータにしたわけではない。PC上で、即座に検出できても、現物を手に入れるとなると、書斎で本を探しあぐねるという状況に悩むことになる。
いっそのこと、ジャンルを度外視して、著者名か書名の五十音順に配置するのが便利かもしれない。しかし所有物の所在が分からないということは、物を持ちすぎているということであろう。不要なものを大胆に処分するということも考えなくてはならない。分類しなくてもすぐに発見できるという簡素な部屋を夢想しつつ、とても出来そうもないことに落胆している。
「周防大島」(山口県)で、2歳の誕生日を翌日に控えた幼児が行方不明になった。帰省先の祖父母の家の近くで、祖父と海岸に行く途中、一人で引き返し、自宅の側まで帰ったのが確認された後、神隠しのように消えてしまったという。連日多くの人が捜索にあたったが見つからず、3日目になって、大分県からやってきた高齢のボランティア男性によって発見された。祖父母宅から、さして遠くない谷川だったという。健康状態に大きな問題はないというので、家族のみならず多くの人が胸を撫で下ろした次第である。
発見者の男性は、過去にも行方が分からなくなった女児を捜し出した経験があったとかで、それを元に、「子どもというのは、上に上に登る習性があることが分かったので、今回も、山の方に登ったはず。」と想定して捜索場所を決め、わずか20分ほどで発見に至ったというから見事でる。多くの警察関係者、警察犬、むろん地元の人々の人海戦術をよそに、あっという間に解決してしまった。
この事例から、「経験」と「知識」の関係について考えることがあった。
わが国の教育界に、時々、「知識」教育の否定という動きが出現する。「知識」の詰めこみ教育は、学習者の主体性を損なうというのであり、時に、これが教育改革のエネルギーになり、偏った結果を生み出すことにもなる。
「知識」によらず、何でも「偏重」はよくない。「知識」教育=「知識偏重」教育ではないのであるが、しばしば「知識」は教育の敵となってきた。「知識」に対置されるのは「経験」である。「経験」の重視は、「学習者」の論理を重く見ることを意味し、一般受けしやすいが、これまでのところ、教育内容の構造化、系統化が難しく、学力形成に難があるという問題を抱えていた。
教育すべき「内容」に重点を置くのか、学習者の論理を重視するのかは、教育におけるえ大きな課題で、教育の歴史は、この両者の間を一定の間隔で行き来することを示している。お陰で、大局的には、教育の現状から、未来・将来を予見することが可能になるとも言える。現状は、「経験」重視から抜け出て、「教育内容」(知識、学力)の方に身を寄せつつあるというところか。昨今、「アクティブ・ラーニング」なる学習者の論理を重視する活動が奨励されているので分かりにくいが、これは、主として、旧態依然とした講義中心の大学教育(学士教育)に関する改革の理論から言われ始めたものであり、大学での教育が知識偏重に陥っていたと見るなら、この動きは必然であるが、初等・中等教育に関して言うなら、歴史的には、教育内容重視(の見直し、再確認)の方向に向かっているのではなかろうか。
「経験」重視、「学習者の論理」を大切にする教育は、過去に数多くの理論のもとに実施されてきた。子供の側に立つ教育は、一般受けもよいのだが、その実、何を教育すべきかが判然としにくく、教育の成果が見えにくいのである。その問題性は、「学力検査」等によって顕著になり、関係者や保護者を慌てさせることになる。「知識」や「能力」等の「教育内容」の価値を見直し、確かな学力の育成を目指すべきであるという動きが出てくることになる。で、現状は、そうした動きの中にあり、PISAなどの国際学力調査の結果が、この動きを加速させる
しかし、教育の内容としての知識や技能よりも、学習者の経験を大切にするという主張の方が一般受けはよい。教育の分野では、国民のすべてが評論家になりうる。すべての国民が教育の世界に身を置き、多くはつらい思いをさせられたという記憶があるので、知識中心、暗記中心、学習者の学習意欲無視などの実体験を持っているから、「知識」よりも「経験」を尊重するという主張が受け入れられやすい。このような事情もあって、現在でも、教育の歴史の流れの他に、「知識」の敵視が残存しているのである。
さて、今回の幼児の行方不明事件に戻ろう。
発見者の行動は、過去の女児捜索、発見という「経験」に根ざしている。あのときはこうだったという経験である。それが完璧といえるほどに的中し、成果をあげたとみれば、単純にああ「やっぱり『経験』が、ものを言うんだ」ということになろう。しかし、経験が経験のままでは、「あのときはこうだった」という域をでず、適用範囲は限定的にならざるを得ないであろう。「あの時」という一回性、限定性を超えるには、経験の一般化、抽象化、普遍化・法則化が必要である。いわば、「経験」の「知識化」が必要である。この点に、嫌われがちな「知識」の存在理由=価値があると言えよう。
「子どもは下るのでなく、登るという習性を持つ」という見解は、一回の経験そのままでは生まれない。この見解が、今回の場合に、地形から見て正しかったかどうかは分からないが、見事に発見に至ったという結果から見て、大成功だったことは間違いない。(徒労ともいえる行為に終わった人々が気の毒な結果であるが……。特に、そんなに近くにいた幼児に気づかなかった警察犬などは面目ないのではなかろうかと心配になる。)
「知識」は、単に「経験」の対立概念ではない。両者は、相互依存の関係にあり、一方から他方への回路が用意されていなくてはならない。切実な「経験」は、「知識」として構造化され、普遍化されて定着し、知識は、実の場で機能するものとして適用・変換されて、その存在意義が明確になるということであろう。
余計な教育談義は、さておき、今回の幼児発見は、まことにめでたいことであった。時節柄、ご先祖様のご加護とでもいうのが正しいのかもしれない。
新聞やテレビによってもたらされる情報は、私たちの生活においてかなり重要な位置を占めている。報道が遅れたり、誤っていたりすると命を失うこともある。このたびの西日本豪雨に際しても、情報の需要性は再確認されたはずである。
以下に掲げるのは、ネットに掲載された毎日新聞ニュースである。紙面の情報も、ほぼ同じであるように受け止めた。(細かく比較はしていないことを容赦願いたい。)
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9人が乗った群馬県の防災ヘリコプター「はるな」が10日、同県中之条町の山中で墜落。機体の部品が散乱した現場にヘリで駆けつけた自衛隊が8人を発見し2人を救出したが、いずれも死亡が確認された。消防、警察などは地上から救助に向かったが、深い山林と悪天候に阻まれて救出活動は進まず、6人の容体と1人の行方は不明のままこの日の捜索は打ち切られた。
(8/11)毎日新聞)
*********************************************************************************疑問1:8人発見したのに、救出はなぜ2名か。
疑問2:死亡の確認と2名発見との時間の関係は.(「死亡している2名を発見、収容し た」のか。
疑問3:「救出」とは、生命の保全を意味せず、遺体の収容を意味することもあるのか。
疑問4:発見された乗員のうち、残る6名については、なぜ「容体」が分からないのか。
なぜ収容しなかったのか。
なお、この事故捜査では、駆けつけた自衛隊員数名との連絡が途絶えてしまっているとも言われるが、そういうことは一向に分からない。
疑問ばかりが残る報道は、読者を惑わせるだけである。剰員の関係者は、藁をもつかむ思いで情報を待っているはずであるが、このような報道では、更に不安が募るのではなかろうか。
メディアにとって、情報の正確性は「命」である。このニュース原稿はだれが書いたのか分からないが、これを掲載許可したデスクも同罪である。
この不正確さの原因は、日本語の表現能力に起因するのではない。ものの見方・考え方および責任感の問題であることを付言しておきたい。
東京医科大学の入試で、女子と三浪以上の受験生に不利な操作が加えられていることが発覚し、大学は過去の事例の調査発表するとともに謝罪した。
大学前では、女性差別反対などのデモがあったようだが、この問題は、あまり単純ではない。
現場の女性医師へのアンケートでは、6割を超える医師が、大学の措置を理解している。その理由は、病院は、男性医師の労働に負うところが多く、女性医師の増加は、単純に喜べないというのである。
今や病院という職場は、典型的な「ブラック職場」のようで、特に産婦人科、小児科の勤務は厳しいといわれる。救急病院も例外ではない。このブラック状況は、男女を問わずに医師に多大な負担を強いる。大学入試における女性差別とは別の視点で問題に対応しないと解決は難しい。
単純に考えれば、病院勤務が激務で、長時間労働、しかも休憩時間なし等の問題は、医師の数を増やすことで解決できる面もあろう。医師は、言うまでもなく、「計画養成」で、国家が大学での医師養成数を管理する。特定分野では医師の数が多すぎて病院経営が難しくなっているというような事実もあるようだが、一方で過疎地等における医師不足という事実もある。養成者数だけでなく、勤務状況の指導、助言、管理などを国に期待したい。 一時、アメリカの医学部入試についての情報では、入試には、すでに学士号を持つ受験生に対して、極めて長い時間をかけ、単なる学力でなく、人格、識見等の人間のありようまで評価の対象にするということであった。このように選ばれ、養成された医師は尊敬に値する人材であることが多いのだとも言う.納得である。それが、現代もそうであるのか、全米の全医学部の方法なのかどうか知らないが、このような方法は、わが国でも必要なのではなかろうか。教科の点数、小論文で入学の可否を決定するというのでは、とんでもない医師を生み出すことにもなりかねない。
そもそも、女子受験生の点数を減点するというのは、女子の方が男子より優れているという考えや事実の反映である。女性差別であると同時に、男子蔑視でもある。大学教師の経験から、男女の学力差について振り返ってみるとき、成績上位グループには、女子学生の方が多い。これは素質のみならず、学習態度が優れている故であろう。(学部によって男女の学生数には大きな差があるので、成績上位グループについての雑駁な記憶であることをお断りしておきたい。)医師のみならず大学を卒業して、社会人として、多様な職業人になるが、彼らの能力は、「学力」の違いのみに規定され、保障されるわけではない。入試段階でも、狭い意味の学力に限定せず、多様な人間評価法を追究すべきであろう。その方法は、AO入試における心許ない面接や実技では不十分である。認識能力、態度、など、人間の本質的な部分についての客観的な評価は難しい。しかし、一人の人間の生き方を規定し、社会人としての資質を決定する部分である。大学が、教育の専門家によって構成される機関であるのなら、この難しい問題に誠実に取り組まなくてはならない。男女の差などは本質的な問題ではない。
このところ、教育の現場には、あきれかえり、落胆することのみ多いのだが、人作りの場としての教育機関、教育のありようを反省すべきであろう。