(広島城の「狭間」)
世の中には、様々な同好会がある。同好の人々が群れる形態である。私は、ほぼ、「おひとり」主義であるから、その同好会の存在理由が分かりにくい。
中でも不可解なのは、「山の会」なるものの存在である。昨年は、近隣の町の会員が、北海道の山で「水死」するという、私には分かりかねる事故を起こした。また初春の山で滑落死したり、低体温症で死亡したりという事故が続いている。何故、人は集って、このような危険な行為を続けるのだろうか。危険だから「みんなで」取り組んでいるのだろうか。
山好きの友人に誘われて、数度、近くの低い山に登ったことがある。正直言って「苦行」であった。山頂で味わう爽快感がよいようだが、何によらず、苦労したあとの達成感、爽快感はある。汗をかいた後のビールの味である。にしても登山は時間もかかるし、エネルギーの消費も膨大である。しかも、同じ山に何度も登るという姿勢はどう理解すべきか。100名山制覇などという活動もあるという。山頂に登ることを「征服」ないし「制覇」というらしいが、山にとっては何ら痛痒を感じていないことだろう。「それしきのことで人間は、勝手なことを言いおるわい。」といなしておいて、時に痛打を加え、命を奪い、大けがをさせるのである。
なぜ山に登るのかという問いに対して、「そこに山があるから」という有名な答えがあったが、「そこに酒があるから」「そこに薬があるから」「そこにカジノがあるから」という答えと五十歩百歩である。出不精の私は、「そこに本があるから」「そこに書店があるから」という趣味に走っている。この趣味には、少なくとも命の危険はない。
一般に、登山家は、自己本位であると言ったら叱られようか。もっとも同好の士というのは、いずれも自己本位の人間の集団と言う側面がある。
「いつかある日」という山男の歌がある。学生時代にコンパで合唱した覚えがあるが、今改めてその歌詞を見ると、男の独りよがり、セクハラ発言に満ちており、当世に通用する代物ではない。登山が、「男の」ロマンと言われた時代の遺物である。笑ってしまうので一読願いたい。ここに引用すべきであろうが、著作権の問題もあろうし、こんな歌詞で無断引用といわれるのは癪なので、取り止めておく。
同好の士が死のうが生きようが、会のメンバーでない私には何の関わりもないが、事故を起こして救助隊員の命を奪うような事態を招くことは許されまい。
わが女房は、昨日も、今日も登山である。私は、「中毒」だと断定しているが、同好の士以外の方々の迷惑にならないことを願うばかりである。