それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

「同好会」-特に「山の会」-考

2018-04-30 11:51:56 | 教育

  (広島城の「狭間」)

 世の中には、様々な同好会がある。同好の人々が群れる形態である。私は、ほぼ、「おひとり」主義であるから、その同好会の存在理由が分かりにくい。
 中でも不可解なのは、「山の会」なるものの存在である。昨年は、近隣の町の会員が、北海道の山で「水死」するという、私には分かりかねる事故を起こした。また初春の山で滑落死したり、低体温症で死亡したりという事故が続いている。何故、人は集って、このような危険な行為を続けるのだろうか。危険だから「みんなで」取り組んでいるのだろうか。
  山好きの友人に誘われて、数度、近くの低い山に登ったことがある。正直言って「苦行」であった。山頂で味わう爽快感がよいようだが、何によらず、苦労したあとの達成感、爽快感はある。汗をかいた後のビールの味である。にしても登山は時間もかかるし、エネルギーの消費も膨大である。しかも、同じ山に何度も登るという姿勢はどう理解すべきか。100名山制覇などという活動もあるという。山頂に登ることを「征服」ないし「制覇」というらしいが、山にとっては何ら痛痒を感じていないことだろう。「それしきのことで人間は、勝手なことを言いおるわい。」といなしておいて、時に痛打を加え、命を奪い、大けがをさせるのである。
 なぜ山に登るのかという問いに対して、「そこに山があるから」という有名な答えがあったが、「そこに酒があるから」「そこに薬があるから」「そこにカジノがあるから」という答えと五十歩百歩である。出不精の私は、「そこに本があるから」「そこに書店があるから」という趣味に走っている。この趣味には、少なくとも命の危険はない。
 一般に、登山家は、自己本位であると言ったら叱られようか。もっとも同好の士というのは、いずれも自己本位の人間の集団と言う側面がある。
 「いつかある日」という山男の歌がある。学生時代にコンパで合唱した覚えがあるが、今改めてその歌詞を見ると、男の独りよがり、セクハラ発言に満ちており、当世に通用する代物ではない。登山が、「男の」ロマンと言われた時代の遺物である。笑ってしまうので一読願いたい。ここに引用すべきであろうが、著作権の問題もあろうし、こんな歌詞で無断引用といわれるのは癪なので、取り止めておく。
 同好の士が死のうが生きようが、会のメンバーでない私には何の関わりもないが、事故を起こして救助隊員の命を奪うような事態を招くことは許されまい。

  わが女房は、昨日も、今日も登山である。私は、「中毒」だと断定しているが、同好の士以外の方々の迷惑にならないことを願うばかりである。


スポーツ界(選手・解説者)と言葉

2018-04-29 16:16:14 | 教育

 

 運動選手というと、技量は人並み外れていても寡黙な印象を持っていた。あまり饒舌であることはスポーツになじまないと思っていたが、どうやらまちがいだったようだ。
 アスリートの中には弁舌家もいる。スケーターの羽生選手は独特の話法を持っていて聞き手が戸惑うこともある。MLBのイチロー選手も同様で、もっと率直、端的に言えば分かりやすいのにと思うことしばしばである。しかし、これも個性の、重要な構成要素ではある。
 解説者の言葉にも人柄が表れる。時にテレビの主音声を消して、解説者に退室願うこともある。
 マラソンの解説者には、有名な饒舌家がいる。事前にあれこれ調査して、あたかも週刊誌、イエロー・ジャーナリズムの如き有様で、少なくとも私には必要ない。球場に行きながらラジオ中継を聴いている人もいるが、これも私には意味不明である。解説に頼らず、自分流に楽しみたい。
 先日、スポーツ中継を視聴していて、次のような解説者の言葉に遭遇した。
 「野球は、再現性が求められるスポーツですから……」
 野球は、自然科学や医学のような実証科学になってしまったかと感動したのであるが、その真意は、「キャンプでできたことは、本番でもできなくてはならない」という平凡なことを言っているのであった。持って回った言い方である。一般に野球の解説は、特に解説の必要などない内容が多いが、ここまで屈折すると、解説の解説が必要になるあ。
 ものの考え方が暗い解説者も困りもので、贔屓チームのチャンスも心から喜べないことが多い。選手や解説者は、どのような言語表現の訓練をし、またコーチを受けて仕事をしているのか気になる。


『AI vs.教科書が読めない子どもたち』(新井紀子、東洋経済新報社)を読む

2018-04-27 22:27:38 | 教育

 

 たまには、本ブログの真のねらいに即した内容を書き込もう。
 昨日、表題の本を読了した。
 私は、「評価読み」なる読みの理論を主張し、特に小学校の現場にたびたび出かけて、現場の先生方と教材研究、授業構想を行い、理論の有効性を実践的に検証する努力を続けてきた。すべての研究アドバイザーとしての仕事から手を引いたのであるが、最後の研究校には8年継続して出かけ、多くの場合、訪問日には8時間程度滞在して、すべての先生の教材研究、授業案づくりに付き合い、実証のための授業の観察、分析、助言を行った。
 読みには、性格の異なる二種類がある。表現されたことを、できるだけ正確に読もうとする「確認読み」と、書かれた内容と表現方法、構造をの質を吟味・評価する「評価読み」とである。学習指導要領によって文科省が要求しているのは「確認読み」であり、書いてあるとおりに読む読みである。この読みに終始していては、情報リテラシーは身につかない。日常生活には、質も量もさまざまな情報が溢れている。身を守るためには、情報提供の仕方を吟味して、価値ある情報と有害、不十分なものを区別できなくてはならない。
 教材研究を重ねて来て、指導者である先生方の読みにも問題が多いことも分かった。時に、子どもの方が深く、正しい読みをしているのである。
 「評価読み」の実践を重ねた結果、文科省による学力テストでは、特にタイプBの問題(日本の児童・生徒の苦手とする。いわば評価読みタイプの読みの能力テスト)で、めざましい成果を上げることができた。ついでに、タイプAの成績も上々であった。児童の学習の姿勢も顕著な変化を見せ、先生方が、児童から有益な影響を与えられたことが判明した。その理由は、「評価読み」は、実生活の中で求められる、いわば「生活読み」であり、児童は、主体的にならざるを得ない読みだからであり、目的の鮮明な行為だからである。教材を吟味・評価するよみは、おざなりな読みを否定する。あやふやな読みに基づく評価は、他の児童に否定される。正確に読む必要がある。これが、「確認読み」の力を育てることになったのである。
 大雑把に言って、上記のような経験をし、「評価読み」の有効性を検証していたのであるが、新井氏の著書には、中・高生は、「確認読み」すらできないという実態が報告されている。AIは、文系の人間が圧倒されるほどに賢い存在ではなく、統計や確率を駆使した、意味を解することのできない不確かな存在で、人間を追い越すような存在ではないこと、不得意なことが多いことを明らかにしている。
 ところが、限界のあるAIの能力の実態と、中・高生の読解力は、どっこいどっこいだと言う。AIの進化によって消滅する職業が増えることが話題になっている。そこで、AIにはできない能力を磨いて、生き抜くことが必要になるのだが、人間の方も、AIができないのと同じように欠陥があるというのである。
 いかにも悲観的な現状認識、未来予想であるが、新井氏が著書で明らかにした中・高生の実態と私が目にしてきた小学生は、まるで、別の星の生き物のようである。小学校でも低学年の児童の反応の方が活発でおもしろいことを考慮すると、学年が上昇するにつれて読みの意欲も能力も劣化してしまい、無目的に、機械的に「確認読み」をしてしまうようになり、読みの能力も低下したのかもしれない。日本の小学生には、顕在化していない場合もあろうが、「確認読み」は、AIよりも上手にこなす能力があり、さらに意味と価値を吟味・評価する読みの能力を発揮できることを、彼らの名誉のために書いておきたい。


「国民」とは何か

2018-04-26 15:44:36 | 教育

  (広島市・縮景園の新緑)

 民進党の国会議員に対して、自衛隊の幹部隊員が、「国民の敵」と罵ったのそうでないのと、またぞろ、「あった・なかった」という、低次元の争いが出現した。
 防衛省の聞き取りによれば、「日本の国益を損なう」「ばか」「気持ち悪い」などとは言ったが「国民の的」とは言っていないということであった。

 こういうレベルの争いは、あまり実りがない。「国益を損なう」と言えば、国にとって不利益な言動であり、意味の上では、「国民の敵」と大差ない。野党だって、与党の責任者に向かって「国民に対する背信行為だ」などと追及しているではないか。背信行為と国益を損なうは、ほぼ同一の内容である。「軍事衝突」と「戦闘」と同じ程度に近い。

 問題は、「国民」という言葉の方である。何を以て「国民」なる曖昧・多様な言葉を安易に用いるのか。自衛隊員の言う「国民」と野党議員の言う「国民」の意味は異なるに違いない。いかに国政選挙で選出されたとはいえ、低投票率の選挙で選出されたものであり、選挙区の選挙民の意思を反映してしるかどうかさえ怪しいのである。「国民」の意思などどうして把握できようか。
 戦時中の忌まわしい言葉「非国民」も同様で、どのような存在を「国民」と認識し、どのような国民を「国民ならざる者」と認定したのか。伝家の宝刀のように、「国民」をもてあそぶのは、与党も野党も、いやすべての日本人にも止めにしてほしい。言葉の内容を確認するすべのないことであり、恣意的に使用されるに決まっているからである。
 日常の会話においても、しばしば、根拠もなしに「みんなが(は)」を使い、他者を説得しようとすることがある。「国民」も同様である。根拠もなく、大上段に振りかぶってみただけであろう。


小賢しい表現

2018-04-15 23:26:19 | 教育

 一つのことを表現するにも、いろいろな方法がある。そして、どの方法を選択するのかは、表現主体の特性、しばしば品格をもあらわすものなのである。
 加計学園を巡る文書について、経済産業審議官が、「首相案件」であると発言したことが愛媛県の職員が作成した文書に書き込まれていることが問題になっており、その発言の有無について問題になっている。
 この問題に関して、印象に残る表現が出現した。
 「私の記憶の限りでは……」である。「ある」「ない」と断定すれば、事実に相違することが判明したときに窮地に立たされる。そこで知恵を絞った結果が、この表現である。事実認定の問題を、記憶の有無にすり替えるという巧妙かつ小賢しい方法である。この方法は、かつて、ロッキード事件の証人喚問の際に、「記憶にございません」を多用して、こんなに記憶力の乏しい人間がいるのかと世間を驚かせたものと同じである。
 特に、官僚は、平均的な人間以上に記憶力を必要とする学力を有する人たちではなかろうか。(学力は、記憶力のみで形成されるものではないが、思考力、想像力、創造力の基礎を構成するもので、近年の知識・記憶重視の学力観の否定には同意できない。記憶によって蓄積された知識なしの創造活動などは低レベルの活動に終始することは分かりきっている。ただ、記憶の結果を「再生・再現」に終わらせる、クイズの解答に止まるような活動に用いられるような機能のさせ方に問題があるに過ぎない。)
 加計学園や森友学園の諸問題もさることながら、わが国では、こんな記憶力の乏しい官僚が、国の重要な案件を担っていることこそが危険なのではなかろうか。そもそも人間の記憶には誤りも消失もあるから文書に残しているのではなかろうか。
 いやはや言い逃れも、もう少し洗練されたレベルのものであって欲しい。
  これらは表現(作文・話し方)教育の問題のようでありながら、実は人間教育、更に絞り込むなら、昨今話題の「道徳教育」の問題である。