毎日新聞(2019/10/27)の報告によると、「学校で、先生や司書に本をすすめられることがあるか」という問いに、『よくすすめられる』は小学生11%、中学生7%、高校生4%。『ときどきすすめられる』は小学生29%、中学生23%、高校生21%だった。 『まったくすすめられない』は小学生29%、中学生35%、高校生40%。『あまりすすめられない』を合わせると、小学生58%、中学生69%、高校生75%が、学校で本をすすめてもらう経験に乏しかった。」
国語教育研究と実践に携わってきた者としては、残念な数字である。
むろん、未成年者にとって重要な活動は、読書に限定されるものではない。しかし、限られた直接経験を超えて世の中の様々な事象に触れること、文字を中心とした媒体から自らの想像力を駆使して人間や状況を想像・認識する能力を育てること、限られた日常生活では入手しにくい知識・情報を獲得し、視野を広げたり、問題解決能力を高めたりするためには、読書は、もっとも手近で、安価な方法である。 学校で、先生が本を薦めないのは、自らが読書行為をしていないので、推薦図書のストックもないからであろう。正直といえば正直である。毎月実施している現場教員の勉強会のメンバーは、意識の高い人達であるが、読書行為には問題がある。「忙しくて読書の時間がない」のだそうであるが、読書は暇だからするのではない。忙しくてもするのが読書である。自らを振り返っても、忙しい時の方がよく読んでいる。
父の転勤によって小さな村の学校に転校し、閉鎖的な子どもたちの陰湿ないじめにあったとき、私を救ってくれたのは、寒村の四季の自然の美しさと、学校の図書室の本であった。図書室の本はすべて読んだ。卑小な人間のさもしい行為にうちひしがれることはなかった。後期高齢者になった今も、毎日、毎日読書を欠かさない。そして飽きることがない。数千冊に及ぶ蔵書の中には未読のものもあり、再読を要するものもある。生きているうちに読了は不可能であろうと考え、幾ばくか焦りを感じている。多くの高齢者の好きな旅行も散歩も読書の時間を奪う気がして、できるだけ控えるようにしている。
世の中の児童、生徒、学生、若者に、読書が最高、最重要な行為であるというつもりはない。しかし読書の魅力は体験、体得して欲しいと。読書も楽しい、大切だと感じてもらいたい。忙しくても生理現象や食事を止めれば生命に影響する。忙しくても読みたいと言うようであって欲しい。第二の本能、整理、欲求であってほしい。昔、薪を背負って歩きながら本を読んでいる二宮金次郎の像があった。現代の「歩きスマホ」以上に危険な格好をしていて、行為は生命に関わるので止めるべきであるが、読書の大切さ、読書にかける人間の強い思いが表現されている像だと思う。
読書もしないような狭い視野の人間が教員になると、神戸の小学校のような低次元の行為をするようになる。加害者たちが読書人であるはずがない。
書店がどんどんなくなる現象を防ぐためにも、子どもも先生も、本を読もう。せめて、本「も」読もう。