それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

短ければよい、というものでもない-見出しの付け方

2019-12-30 19:12:28 | 教育

 新聞には見出しやリード記事など、記事本文を短くまとめたものがある。    次の見出しは、M新聞の朝刊、社会面の記事の見出しである。

「逮捕の2容疑者/知人の車で逃走/東京・青梅強殺」(/は行換え)

 このところ、警察や検察の容疑者逮捕、移送に際しての不手際が多い。これは、また、逮捕後に不適切な事例があったのかと思わせる見出しである。

 しかし、記事本文を読むと、  「……○○さんが自宅で殺害された事件で、強盗殺人容疑で逮捕された△△と××が○○さん宅に押し入った後、知人男性の車で……経逃げていたことが捜査関係者への取材で判明した。」 ということであった。

 であるのなら、次のようにすべきである。

 「知人の車で逃走の2容疑者逮捕/東京・青梅強殺」

 青梅署は、名誉毀損で抗議すべきかもしれない。

  本文を短くまとめるためには「抽象能力」が必須である。記事では、さらに、その抽象能力に見合う言語表現力が必要である。

 物事を説明するのに冗長、饒舌であるのに、一向に内容が正確に伝わらないことがある。大事なこととそうでないことを区別し、大事なものとして抽出したものを構造化し、言語化する能力の程度に問題ないし欠陥があることを示している。日常生活ではやむを得ないこともあろうが、情報を売り物にする企業や人の場合は見過ごせない。近年は、この手の不手際は数多い。しかも、新聞や雑誌は、複数の人の目を経た結果であることが悩ましい。関係者が総体として、思考力、言語能力に問題を抱えていることになるからである。

 読者としては、毎日、新聞を警戒しながら読む。これは読者の思考力や表現力を鍛える機会になる。無論、皮肉であるが……。


体力低減への対応

2019-12-27 22:33:04 | 教育

 先日国際学力調査PISAで、わが国の15歳生徒の読解力が、前回の4位から15位に転落したことは、本ブログに書いた。

 今度は、文科省の調査で、小中学生の体力が低下していることが明らかになった。つまり、文武両面で力が落ちていることになる。

 能力の低下の原因は、何か一つに絞り込むことはできない。子どもの置かれた生活環境の変化、その中での生活様式の変化が全体として影響しているに違いない。能力の低下、青少年の不祥事というと、すぐに学校教育に責任を押しつける風潮があるが、それは責任転嫁というものであり、学校、教員を不当に苦しめるだけである。政治、経済、メディア、保護者などすべてが、我がこととして責任を痛感し、対応策を講じなくてはならない。

 私の住む県の教育委員会は、体力向上のために、陸上競技の専門家を呼んで、速く走るための特訓をするという。教育関係の機関として、放置できない問題はへの苦肉の策であろうが、こういう対症療法で問題は解決しない。問題の本質的な解決のためには、もっと広い視野によって、教育の専門家、専門機関として、問題の所在と解決法を探り、外部(国、自治体、経済界、保護者等)に提言し、共同で取り組む努力をすべきであろう。


「勇気と感動を与える」という傲慢

2019-12-27 15:49:32 | 教育

 「与える」という日本語は、上から下へという相手意識を含んでいる。手元の大型辞書で確認してみると、以下のように、いわゆる「上から目線」の動詞であることが判る。

【与える】 ①自分の物を目下の相手にやる。 ②影響・効果などを、相手にこうむらせる。 ③特別の配慮を、相手にほどこす。 ④仕事・課題などを、課する。あてがう。

 新聞(毎日)地方欄に、地元の高校ラグビー・チームが全国大会に出場する記事があった。生徒である主将は、「……ひたむきに、謙虚に戦う。」との意思表明をしていてほほえましいが、監督は、「全力を尽くし、元気、勇気、感動を与えたい。」とあいさつしたそうである。

 高校野球の全国および地方大会での選手宣誓は、多くの国民の聞くところであり、「……感動を与える」という表現が通り相場になってしまっていた。気になって仕方がなかったが、このところ少しばかり改善があって、「……感動を届ける」という表現も、たまに見られるようになった。

  野球で活躍しているとはいえ、年端もいかない高校生に、「勇気を与えられる」筋合いなどないのであり、一生懸命プレーに専念してくれていれば、それ以上の期待はしないという人達も多いのではなかろうか。

  問題は、宣誓の当事者が何の悪意も傲慢さもないのに、「与える」という言葉を使用していることである。宣誓の言葉は、多くの大人のチェックを経て完成するのが普通であろう。チェックを経た結果が「与える」の表現であるとするなら、あまりに言語感覚が低劣な世界だといわざるを得ない。

 一方で、テレビの料理番組などで、講師が、食材について、「……塩水に漬けてあげる」、「皮をむいてあげる」などと言うのである。

  母なる言葉「日本語」にもっと敏感になろう。


皇室関連記事の中の敬語

2019-12-14 17:33:06 | 教育

 このところ皇室の慶事が続き、テレビ、新聞、雑誌等も、数多くの記事を発信していたが、いささか気になることがある。

 以下に掲げるのは、毎日新聞、産経新聞、朝日新聞の記事の一部である。内容は、ほぼ共通しており、宮内庁での発表を受けて記事にしたもののようである。発表を録音し、文字化したのなら寸分違わぬ表現になるはずであるが、新聞各社は発表を加工している。ニュースは創られると言うことを知る上で有意義な記事ではある。

①  天皇、皇后両陛下の長女愛子さまは1日、18歳の誕生日を迎えられた。学習院女子高等科3年の愛子さまは充実した高校生活を送り、4月から続く代替わり儀式にも深い関心を寄せているという。/宮内庁によると、学校では進学に向けてこれまで以上に勉強に励んでいるという。4月にあった学習院の行事で…

②  天皇、皇后両陛下の長女、敬宮(としのみや)愛子さまは1日、18歳の誕生日を迎えられた。4月に学習院女子高等科3年生となり、勉学に励む一方、高校生活最後となる運動会や文化祭などの行事で活躍するなど、充実した日々を過ごされている。天皇陛下のご即位に伴う一連の関連儀式も逐次テレビなどで見守り、関心を持たれているという。

③  天皇、皇后両陛下の長女愛子さまが1日、18歳の誕生日を迎えた。宮内庁によると、即位に伴う一連の儀式について深い関心を持ち、新聞やテレビなどの報道を見ていたという。/愛子さまは現在、学習院女子高等科3年生。今後の進学に向け、これまで以上に勉学に励み、充実した忙しい日々を過ごしているという。

  さて、どれがどの社の記事か判るであろうか。

 各文(センテンス)の主述表現に着目してみよう。    冒頭の文の「長女愛子さま」は共通である。①と②は述部①が敬意を含む表現になっているが、③のみは異なる。

 ①では、第二文以下の述部から敬語は使用されなくなる。②は基本的に敬語表現で通そうという姿勢が見える(文の途中を常体で、文末を敬体にすることは認めてよいであろう)。

 つまりここには、できるだけ敬体を用いて敬意を表明しようという立場の記事、最初に敬意を表明した後は、それで後はよしとする立場の記事、そして一貫して敬意を表に出さないようにしようとする立場の記事が存在しているということである。

  話し手や書き手が。相手や話題になっている人物に対してどのような態度をとるかを示す言語表現を「待遇表現」という。敬語はその待遇表現で、皇室の一員に対して、各新聞社がどのような態度を取っているかを知ることができる。現場からの記者レポートなどでは余裕のなさから、不用意、不適切な表現もある(新天皇の伊勢神宮参拝報道では、敬語に不慣れなレポーターが馬車を引く馬に敬語を使っていて、思わずわらってしまったが……)が、新聞記事はそうではない。

 ①から③の記事は、①=毎日新聞、②=産経新聞、③=朝日新聞である。言うまでもないことであるが、各社の皇室に対する日頃からの姿勢・態度をよく示している。③では、 「○○さま(が)」-「迎えた」という対応には、日本人の言語感覚としては違和感がある。言語感覚としては、「○○さん」-「迎えた」というのが普通の感覚であろうが、さすがに「○○さん」とは言えなかったようで歯切れが悪い。いっそ記事にしないという方法も考えてみるべきではなかったのかと思ってしまう事例であった。

 


読解力、世界15位の意味

2019-12-10 21:15:33 | 教育

 OECDが、3年に一度、15歳の生徒を対象に行う、79カ国参加の世界学力テストにおいて、日本は国語の読解力で15位であったことに衝撃を受けているようであるが、私は当然の結果だと受け止めている。

 新聞によれば、、その低迷の理由を、スマホにおける短文の横行や解答の際のデジタル機器操作の不慣れなどと適当なことを言っているが、ことはそれほど単純ではない。

  PISAでは、読解力を、次のように定義している。   「自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する能力」

 さらに詳しい文科省の説明を引用すれば、次の通りである。   「PISA型『読解力』では、義務教育終了段階にある生徒が、文章のような『連続型テキスト』及び図表のような「非連続型テキスト」を幅広く読み、これらを広く学校内外の様々な状況に関連付けて、組み立て、展開し、意味を理解することをどの程度行えるかについて、可能な限り客観的にみることをねらいとしている。このため、PISA型『読解力』の問題では、行為のプロセスとして、テキストの中の事実を切り取り、言語化・図式化する『情報の取り出し』だけではなく、書かれた情報から推論・比較して意味を理解する「テキストの解釈」、書かれた情報を自らの知識や経験に位置づけて理解・評価(批判・仮定)する『熟考・評価』の3つの観点を設定している。また、出題形式では、自由記述が約4割を占めている。」    文科省は、このように解説しながら、ここに言うような「読解力」を育成する教育を推進しようとしてきたのであろうか。特に、「テキストの解釈」を超える、「熟考・評価」に関する能力育成を本気で考えてきたのであろうか。

 前回のPISA(2015年)では、4位であった。それは、読解力をPISAの定義に即して捉え、それなりの対応をしていたからである。

 国内でも全国学力テストを行い、学習指導要領に示す指導事項の達成度の確認が行われている。国語に関しては、「国語A」と「国語B」という二種類の問題設定があり、この「B」は、PISA対応の手立てであった。十分に問題を認識した結果であるかどうか疑わしいが、ともかく、PISAで4位という結果を示した。ところが、学力試験において「B」の成績が振るわないために、「B」を独立させるのを止めて「A」に一本化することにしていた。つまり、PISAで求める学力の重要な部分を成果が挙がらないとして排除してしまったのである。その結果としての14位は、大いに納得がいく。

 この一連の動きは、過去の、学習指導要領における「読解」と「読書」の扱いに酷似している。文章、作品を叙述に即して正確に理解する」ことを目指す「読解」と、文章・作品に主体的、個性的に対応し、いわば生活の場の読みの原理を導入した「読書」とに二分して読むことの教育が行われたことがある。私は、読むと言う行為は、すべて「読書」でなければならないと考えており、この二分法には批判的であるが、それでも「読解」一辺倒の読みの教育の歴史を反省する上では一定の効果があった。ところが、その後、「読書」分野は指導しにくいために「読解」中心の古くさい国語教育に逆戻りして今日に至っている。生活の場にどう生きるのか疑わしい「読解」は指導内容が分かり易く、指導し易いという、あまり読書をしなし指導者に支持されて、相変わらず、国語教育の首座を占めている。その結果がPISAの14位であると見れば、その原因がスマホやパソコンではなく、学力観の相違、指導内容と方法に起因する根深いものであると考えなくてはならない。

  今も昔も、文章や作品(言語情報)を、ありのままに正確に受け取ればことが足りるということはないし、なかった。国定や検定教科書の存在が一定の役割を果たして、書いてある通りに理解することを推奨し、教師も、その方が都合が良いことを実感して、わが国の没個性的な読みとその指導の歴史ができあがった。文学作品の読みは、読者によって多種多様であるのが普通で、一つの解釈に収斂させるような指導は、国語教室における虚構である。吟味も評価もしないで、言語情報を受け取ることの危険性は誰もが知っている。ひたすら受け入れる読みは、物知りを造るかもしれない。クイズに答えるには重宝するかもしれないが、人間の価値を知識の量で量るのは無意味である。実の場に生きる読みの力とは、まさしくPISAの読解力の定義の後半部分、わが国が軽視ないしは無視した部分にある。世界の中での順位はどうでもよいから、学力観の誤りだけは修正すべきである。