それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

曲乗り女子大生

2017-12-18 22:37:24 | 教育

 

 神奈川新聞による記事:
******************************************************************************
 川崎市麻生区で7日、電動自転車と歩行者がぶつかり、その後に歩行者が死亡する事故があり、麻生署が重過失致死の疑いで、電動自転車の女子大学生(20)=同区=を書類送検する方針を固めたことが13日、捜査関係者への取材で分かった。運転中にスマートフォンを操作していたとみられ、同署はこの行為が重大な過失に当たると判断した。横浜市鶴見区でも12日夜に自転車による死亡事故が発生し、県警は注意を呼び掛けている。
(中略)
   捜査関係者によると、女子学生は運転中にスマホを操作、前方不注意で女性を死なせた疑いが持たれている。女子学生は当時、左耳にイヤホンをつけ、左手にスマホを、右手には飲み物を持っていた。
******************************************************************************
 右手に飲み物、左手にスマホ、耳にイヤホンで、電動アシスト自転車とは、まともな神経ではない。が、若者が欲しいものを同時に使用した結果であろう。これ以上のことと言えば目隠しくらいであろうが、スマホを見ながらの自転車運転は、ほぼ目隠しに近い。こういうことは、サーカスでもしないであろう。
 状況認識ができない人間は、どのようにしてできあがるのだろうか。学歴とは関係ないことは分かるが、無償化が検討される教育機関であることを考えると、自転車の乗り方くらいは理解できるようであってほしい。少なくとも多くの小学生は分かっていよう


どこに逃げるのか?

2017-12-17 12:03:28 | 教育

  政府の調査発表によると、「Jアラート」によって避難した人は、わずかに5パーセントに過ぎなかったという。(読売新聞)
 その理由の大半を占めるのが「避難先不明」と「無意味」だという。国民の判断が正しいというほかない。
 そもそも無意味な調査である。その昔、大学による調査の一つに、「ペットは飼い主を認識できるか」という珍妙なものがあり、投書の中に、「そんなことは調査するまでもない。うちのペットは俺を認識している」というものがあり、納得して笑ってしまった。
 この程度のことが調査なしで判断できない政府にはあきれかえるほかない。「ミサイルが飛んできたらどこに逃げるか」という答えが、「とりあえず屋内へ」というのでは、国民の生命・財産を守る責務を担う政治家や役人の存在意義はない。飛んできたら万事休すで、95パーセントの国民は覚悟を決めている(政府など当てにしていない)のである。そもそも「飛んでこないような工夫を」凝らすのが外交、防衛というものではなかろうか。ミサイルを地震や洪水と同列において避難訓練をしてみせるなどとは、悪い冗談としか受け取れない。
 この調査結果について、政府は、次のように考えているという。
  「政府は『逃げる理由そのものを理解してもらう必要がある』(内閣官房)として、 訓練動画などを『国民保護ポータルサイト』で公開し、啓発活動を強化する考えだ。」
 国民の側から、政府に問いただしてみたい。
 「逃げる理由とは?」
 「どんな風に、どこに逃げるのか?」
 こんな当然の問いに対する答えもないのに、啓発活動もないであろう
 ちょっと意地悪に聴いてみたい、「政府首脳や議員用には、『核シェルター』という避難先があるのでしょうね」と。


『わかったつもり-読解力がつかない本当の原因』(西林克彦著、光文社新書222)を読む

2017-12-15 01:21:36 | 教育

★ 本稿は、私が、本ブログとは別に開設している「国語教育クリニック」に掲載していたものの転載です。旧ブログは、休止状態ですので、折りをみてすべて、このブログに移す予定です。

 *****************************************************************

著者は、東京工大理工学部を卒業後、東大大学院教育学研究科に進んだ人であり、宮城教育大学教育学部教授を勤めていると、筆者のプロフィールには書かれています。(2005時点)
 国語教育は、文系の学問と実践であると考えられることが多い。それは、国語=文学という文脈でとらえられがちであることと関係があるのでしょう。しかし、国語教育は、単に文系の学問、実践であるというわけにはいきません。私のように、説明的文章の評価読み(批判読み・クリティカル・リーディング)の研究と実践を進めてきた者にとっては、国語教育は、文系に限定されるものでもなく、また理系でもない世界です。文系の思考力や知識も文系のそれも要求される、総合的な性格のものというしかありません。
  著者が、理系学部を出た後、教育系の大学院に進み、読解力に関わる著作をものしたことには、このような観点からも興味が持たれると同時に、本書は、文系の頭しかない人間の著書・論文からは読み取れない価値ある考え方や知識が獲得できて、非常におもしろい読み物でした。
 私たち国語教育の実践者および教室で付き合ってくれる児童・生徒は、いずれも、教材を読んで「分かったつもり」という状態に陥ることが多い。著者は、わかったつもりとは、分からないことがない状態であり、ある種の安定状態であるといいます。もっとわかりたいと思わない、分からないことがあるということとは無関係の状態であるといいます。このような状態は、自分自身の読みを振り返ってみれば、体験的に同意できることではないでしょうか。特に、指導者の場合、一読して分かったつもりになることが、教材研究の深化の妨げになっていることが多く、そのような教材研究や読みから、児童の目を見開かせるような読みの指導ができるはずもありません。
  分かったつもりからの脱出方法が問われますが、著者は、まず、自分自身の「わかったつもり」状態を認識することの必要性を指摘します。敵は自分自身だというわけです。なぜわかったつもりという状態に陥ったのかということに原因の究明も必要になりますが、それについては、次のように述べています。
  まず、どのような時に「わかったつもり」に陥るのかを、文章構成に由来するものと、読み手の既存のスキーマに影響されるものとの二種類があるとしています。
・「文章の構成に読み手が惑わされた『わかったつもり』
   『「結果から」というわかったつもり』
 『「最初から」というわかったつもり』
 『「いろいろ」というわかったつもり』
・読み手の既存のスキーマによる『わかったつもり』
 『全体に当てはめられやすいスキーマ』
 『部分に関して当てはめられやすいスキーマ』
  ここに言う「スキーマ」とは、「あることがらに関する、私たちの中に既に存在しているひとまとまりの知識」(p.42)であると規定します。また、特定のスキーマを機能させるためには「文脈」が必要であると言います。「文脈」については、次のように説明しています。
  「文脈とは『物事・情報などが埋め込まれている背景・状況』」(p.51)であり、その「背景・状況」によって、ものごとの「続きぐあい」が生じるという説明をしています。
 「文脈」と「スキーマ」は、西林氏の著書を読む上でのキーワードになりますので、注意しておいて下さい。
  次に、わかったつもりを抜け出す過程(授業過程と言ってもよいでしょう)」を、次のように四つに整理しています。
  ①「わかったつもり」の状態
  ②新たな文脈による、部分からの新しい意味の引き出し
 ③引き出された意味による矛盾・無関連による「わからない」状態
  ④新たな無矛盾の関連づけによる「よりわかった」状態
  私の「評価読み理論」でも「わからない」という反応を読み深めの契機として重視しますので、併せて考えてみて下さい。
 著者の主張の最後に述べられる「答えは一つではない」という趣旨の発言も、国語教育関係者としては重く受け止めます。理由・根拠が成立する限り、答えは複数ありうるということは、多くの児童・生徒を救う手がかりになることでしょう

昨日の新聞に、スポーツ庁が、国民のスポーツに関する実態調査の結果を踏まえて、スポーツの実施率の向上を数値目標を掲げて推進しようとしているというので、話題にもなり、また批判を浴びている。
  こういう、日々生じる様々な事態をどう理解するのかという問題に関しても、「わかったつもり」の状態ではいられない。プレミアム・フライデーを設定したり、子どもの休暇に口をだしたり、節操もなく個人の領域に侵略してくる国家、政府の行為を、「そうなのか」という状態だけでなく、「わからない」ということを出発点にしてとらえ直すことができるような能力を育成することは喫緊の課題ではなかろうかと思います。「○○年までに、納豆好きの国民を65パーセントに増やす」などということを国が政策として提案すれば反発するでしょう。少なくとも、私は納豆を拒否します.最近の国や世界の状況には、首をかしげるようなことが多すぎます。「……ファースト」という情緒的、かつ偏狭な流れにも違和感があります。アンケートの「どちらとも言えない」という反応の多さにも疑問があります。論理を超えた不合理な出来事にも対応しなくてはなりません。こういう諸問題への取り組みの能力を育てることが教育の重要課題であるとすれば、「わからない」状態をもっと大切にしなくてはなりません。

  西林氏の著書は、かつて読んだ記憶があったのですが、最近新たに購入したものを読んで感心しました。読み終えて書棚に収めようとして、既に一冊、存在していることに気づきました。最近、こういうことが増えましたが、ブックオフで購入するのでダメージは、大きくはありません。ブックオフの商法には、著作権上の問題があるといいますし、そもそも経営が行き詰まっているとも言いますが、古書店は昔から存在するものだし、余計な分野に手を広げずに図書の販売とせいぜいCDに限定してがんばれば、まだまだ大丈夫とも思っているところです。

 日本の教師は、世界的に見ても忙しすぎるようですが、それが読書をしない理由にはなりにくいと思います。読書は持て余る時間の中でのみ行う行為ではありません。魂・心の食事です。忙しくても食事はするでしょう(食事もできないほど忙しい職場は、最近よく問題にされる「ブラック」な職場ですので、論外ですが).一日一ページでも「本」を読んで、他者の考えや感性に触れて下さい。児童は、「先生の言うようにはしないけれども、するようにはする。」と言われます.最大の配当時間の中で最大の位置を占める「読むこと」の指導のためにも、本を読む先生でいて欲しいと願っています。


理解できない言葉、不適切な言葉

2017-12-10 22:30:09 | 教育

 日本語を母国語にする人間同士なら、日本語の表現は、基本的に理解しあえるものと、単純に考えてしまいがちだが、案外、そういうものでもないようだ。
 理解不能な言語表現にも、その表現意図によって、二通りに分けるのがよいと思う。
 その一つは、意図的に、分かりにくくする場合である。この典型例は、不祥事を弁明したり、重大な問題に関する閣僚の答弁などである。相当にたちが悪い。
 首相によって、「丁寧」、「真摯」という語の意味は、辞書に載っていないものに変質してしまったし、「戦闘」ではなく、「武力衝突」であるなどと途方もない言い訳をする閣僚が居て、国会での議論の信頼を失ってしまった。また、問題発言体質の政治家が、「そういう意図でいったのではない。もしもそれを不快と思う人が居ればお詫びしたいし、発言を取り消したい。」というのが常套手段になっている。意図しないことをいってしまうのは、母国語能力が低レベルであり、それに応じて内言活動たる認識・思考能力のレベルも低いということになるのではないか。また、いったん口にしたものは、消しゴムで消すようになくなるものでもない。
  もう一つは、悪意はないが、意図通りに表現できていない例である。
 わが家の近くに、私立大学の学生寮がある。その入り口に、かなり大きな、しかも古びた注意書きの板(看板とでも言おうか)が二枚掛かっている。ずいぶん昔から使用されているもののように見受けられる。その板に、大きな赤い文字で書かれていることは、次の通りである。
 「部外者以外立ち入り禁止」
 思わず、?であり!である。「部外者だけが入ってもよい」という建物に、関係者である学生は入れないことになるのだが、だれも気づいては居ないようだ。
 「関係者以外立ち入り禁止」あるいは「部外者立ち入り禁止」の誤りである。
  先日、高速バスに乗った。車内の料金表示板の横に、次のような注意書きないしはお願いがあった。
 「バス車内では、2,000円以上の紙幣の両替はできません。」とある。二人分の料金の用意をするために、千円札を二回両替はできるのかできないのか。ちょと分かりにくい.一般に、バスの運転手は、運転に神経を使っているので、乗客の応対に無頓着、無神経であり、説明が下手である。しかも表示の有無に拘わらず、両替の内容は知悉しているから「そんなことも知らないのか。」という態度になることが多く、乗客も不愉快になる。この表示の場合も不親切、不適当である。どうすればよいか。
 おそらく、2,000円札、5,000円、10,000円札はだめだといいたかったのだろうから,
 「バス車内で両替できる紙幣は、1,000札だけです。」
とすればよい。何の問題もないではないか。しかもちょっとだけ短くて済む。
 こういうことの教育は「言語形成期」(小、中学校段階)に行うべきことである。不確かな日本語を、意図的あるいは不用意に使用する人間を放置している国語教育は、理屈に合わないだけでなく、倫理的にも問題がある。


勘違い・思い上がり

2017-12-08 21:20:05 | 教育

 (ハイウエイから秋の山の景色を) 

 今月号の月刊誌『文藝春秋』を買った。毎号楽しみにしている。今月号は、妙に分厚い。何事かと思ったら、創刊95周年記念号だという。
 中途半端な95周年はともかく、記念号とは、誰のための企画であろうか。どう考えても自画自賛である。大型企画のために、通常よりは100ページ近くを増加したと巻末の「編集だより」にある。企画の内容は、「文藝春秋を彩った95人」が中心で、しかも、その増ページのせいで、通常よりも価格が高く設定されている。この企画を喜んでいる固定読者はどれほどいるのだろうか。少なくとも購読歴の長い私は望んでいない。
 95年も続いたのは読者の皆さんのおかげですという気持ちがあって当然であろうし、そうであるのなら、今月号は、特別に定価を下げ、分厚い雑誌をお届けしますというのが筋であろう。少なくとも、同一価格であって欲しい、
 購読といえば、新聞(朝刊)も同様である。新聞社主催の催し物についての広告記事の多いこと、また、その記事の占める紙面の面積に呆れる。高校野球、書道展などなど、自社広告のための広報誌さながらである。
  今日は、同社の元社長の死亡記事が、第一面に堂々と掲載されていた。いったいどういう読者を想定した上での紙面構成でろうか。良識ではなく、常識を疑う。
  近年は、ネットでもニュースを読むことができる。便利といえば便利であるが、実は、数ページ読むと、肝心の内容を読むためには会員登録をしなくてはならない。さもしい姿勢である。いっそのことこういうサービス(実はサービスなんかではないのだが)は止めてもらいたい。あのいらいらするテレビの広告の方がまだましという思いがするのが情けない。