学力構造と系統性-「読むこと」を中心に
1 学力構造観の誤り:
これまで、わが国では、学校教育において育成すべき学力とは、どのような構造を持ち、どのように系統化されるべきであると考えられてきたのか。かつて、小学校の各学年ごとの「目標」と「内容」が提示された時期の学習指導要領を例に取ると分かりやすい。
①第一学年-「だいたい」;
②第二学年-「順序」;
①第三学年-「要点」;
②第四学年-「段落相互の関係」;
③第五学年-「主題や要旨」;
⑥第六学年-「目的に応じて」
今日では二学年を併せた提示の仕方になっているが、ここに挙げた各学年の目標と同じ性格のものである。
なぜこのような構造がまかり通ってきたのか。その理由の一つは、一見系統的(順序性がある)に見えるからである。
そして、その結果として、指導者にとっては、目標が見えやすい。学習指導案の目標設定がしやすいということにある。いわば、単純化ということである。
しかし、実際に授業をしてみると、学習指導案の目標設定と実際の授業の中で求めているものとの乖離に気づくことになる。学習指導要領ほどに、授業の目標は単純ではないのである。
そこで、授業者の取るべき道は、苦労して設定した目標のことはあまり気にしないこと、という皮肉なことになる。が、しかし、授業は、目標達成のための一連の行為であるという原理・原則から離れる訳にはいかないという悩みも生じる。
2 あるべき(自然の)学力構造観:
学校・教室における国語学習は、「練習、そして時に治療」の意味も含む。その限りでは、要点把握の能力に問題のある児童に、重点的に要点把握能力の育成のための訓練を実施する必要はあろう。しかし、それは、練習・治療の場で行うことであって、日常的、継続的に行うべきものではない。読むこと=読書は、日常的な行為である。読むことを楽しみ、その行為によって人間としての自立・向上を実現する場である。このような読書の機能を十全に発揮するために、時に、必要に応じて、練習や治療を施すのである。
山に登るのが好きな人がいる。私の周りにはたくさんいる。時に誘われて、断り切れずに付き合うこともあるが、一緒に歩きながら何が楽しいのだろうと不審に思うことが多い。ただ、身近にいる山好きな人は、登り方の訓練、登山のスキルの向上を目指しているのではないらしい。登山部、アルピニストの中には、スキルの向上が目的にしている人もあろうが、それは、全体の山好きのなかでは、ごく少数であろう。
山に登るのに、脚の運び、重心の写し方、坂の登り方、尾根の歩き方、ステッキの用い方等々、様々なスキルを気にしていることはあろうが、そのようなスキルの習得、向上自体が目的になっている人は多くないと信じる。第一、それでは山登りは、訓練、トレーニング、そして苦行になり、たのしくはないであろう。山頂に達したときの爽快感のために登るという言い方もあるが、途中も楽しく爽快である方がもっと楽しい。
教室での読みの授業が、読書嫌い、国語嫌いの児童を生み出す原因であることはよく指摘されるし、私自身、多くの学生から聞いたことがある。学校における学びは、生活の学びに直結し、支え、質の向上を実現するものでなくてはならないが、そのためには、学校、教室における学びそのものが、「生活」を原理とするものでなくてはならない。
生活を原理にすることは、いきおい、経験主義的な指導に走り、学力の系統性が保障できないという批判もあり得るが、系統的指導は、学力の分断、積み上げ、練習方式によってのみ実現されるのではない。
私たちは、読むという行為を遂行するために、さまざまな能力を複合的、総合的に機能させている。能力に問題があると判定せざるを得ない児童でも、この複合的、総合的活用という点では同じことである。ただ、機能の規模とレベルが違うだけである。
この機能の規模とレベルの違いというところに、本来あるべき系統性、系統的指導のああるべき姿を見ることができる。
もう一度山登りの事例を取り上げてみよう。
山登りも、多様なスキルを総合的、複合的に活用して行う活動である。たまに特定のスキルに問題のある者がいて、ベテランが練習的、治療的な指導を加えることがあっても、基本は総合的活動である。この繰り返しが登山技術を向上させる。注意すべきは、本来の総合性であり、生活原理である。登山はだから多くの人にとって楽しいのであり、生活原理を犠牲にした登山は、山岳仏教における「行」のようなものになるのである。学校・教室の読むことの学習指導は、児童にとって、苦痛な「行」になることが多くないか。それを謙虚に考え直して見える必要がある。
しかし、生活原理に立つ総合的、複合的活動と「系統性」とはどういう関係にあるのか。 それは、登ろうとする山の特性の違い、難度の違いによる。同じ種類のスキルでも、レベルの高い使用能力の育成のためには、難度の高い山を選ばなくてはならない。初心者には、低い、平坦なところの多い山を選ぶべきである。
ここでいう「山」は、国語科で扱う「教材、作品」のことである。低学年で扱う教材も、読むという活動としては、高学年や成人の読みと、ほぼ同じだけの種類の能力を複合的に機能させて行われる。ただ、低学年の読み物は、難度の低い山と同様に、教材の構造や表現が優しいのである。能力の中には、低学年では、極めて初歩的、萌芽的な姿しか見せないものもあるが、基本的には、その後の発達過程に現れるものと同種であるとみて置く方が問題が少ない。
同じ種類の能力を組み合わせて読むという行為を繰り返しながら、次第に難度を増す教材を読みこなす力として質を高めていくというのが、生活原理煮立つ「系統的学習」であり、その指導の姿である。例えば、一年生では、教材の「だいたい」が分かればよく、主題や要旨に至っては五年生までは、その指導を保留しておくというような、現場や児童の実態を知らない作文的配置によって、学習者の学力保障も、言葉を学ぶ喜びも体験させることはできないのである。
1 学力構造観の誤り:
これまで、わが国では、学校教育において育成すべき学力とは、どのような構造を持ち、どのように系統化されるべきであると考えられてきたのか。かつて、小学校の各学年ごとの「目標」と「内容」が提示された時期の学習指導要領を例に取ると分かりやすい。
①第一学年-「だいたい」;
②第二学年-「順序」;
①第三学年-「要点」;
②第四学年-「段落相互の関係」;
③第五学年-「主題や要旨」;
⑥第六学年-「目的に応じて」
今日では二学年を併せた提示の仕方になっているが、ここに挙げた各学年の目標と同じ性格のものである。
なぜこのような構造がまかり通ってきたのか。その理由の一つは、一見系統的(順序性がある)に見えるからである。
そして、その結果として、指導者にとっては、目標が見えやすい。学習指導案の目標設定がしやすいということにある。いわば、単純化ということである。
しかし、実際に授業をしてみると、学習指導案の目標設定と実際の授業の中で求めているものとの乖離に気づくことになる。学習指導要領ほどに、授業の目標は単純ではないのである。
そこで、授業者の取るべき道は、苦労して設定した目標のことはあまり気にしないこと、という皮肉なことになる。が、しかし、授業は、目標達成のための一連の行為であるという原理・原則から離れる訳にはいかないという悩みも生じる。
2 あるべき(自然の)学力構造観:
学校・教室における国語学習は、「練習、そして時に治療」の意味も含む。その限りでは、要点把握の能力に問題のある児童に、重点的に要点把握能力の育成のための訓練を実施する必要はあろう。しかし、それは、練習・治療の場で行うことであって、日常的、継続的に行うべきものではない。読むこと=読書は、日常的な行為である。読むことを楽しみ、その行為によって人間としての自立・向上を実現する場である。このような読書の機能を十全に発揮するために、時に、必要に応じて、練習や治療を施すのである。
山に登るのが好きな人がいる。私の周りにはたくさんいる。時に誘われて、断り切れずに付き合うこともあるが、一緒に歩きながら何が楽しいのだろうと不審に思うことが多い。ただ、身近にいる山好きな人は、登り方の訓練、登山のスキルの向上を目指しているのではないらしい。登山部、アルピニストの中には、スキルの向上が目的にしている人もあろうが、それは、全体の山好きのなかでは、ごく少数であろう。
山に登るのに、脚の運び、重心の写し方、坂の登り方、尾根の歩き方、ステッキの用い方等々、様々なスキルを気にしていることはあろうが、そのようなスキルの習得、向上自体が目的になっている人は多くないと信じる。第一、それでは山登りは、訓練、トレーニング、そして苦行になり、たのしくはないであろう。山頂に達したときの爽快感のために登るという言い方もあるが、途中も楽しく爽快である方がもっと楽しい。
教室での読みの授業が、読書嫌い、国語嫌いの児童を生み出す原因であることはよく指摘されるし、私自身、多くの学生から聞いたことがある。学校における学びは、生活の学びに直結し、支え、質の向上を実現するものでなくてはならないが、そのためには、学校、教室における学びそのものが、「生活」を原理とするものでなくてはならない。
生活を原理にすることは、いきおい、経験主義的な指導に走り、学力の系統性が保障できないという批判もあり得るが、系統的指導は、学力の分断、積み上げ、練習方式によってのみ実現されるのではない。
私たちは、読むという行為を遂行するために、さまざまな能力を複合的、総合的に機能させている。能力に問題があると判定せざるを得ない児童でも、この複合的、総合的活用という点では同じことである。ただ、機能の規模とレベルが違うだけである。
この機能の規模とレベルの違いというところに、本来あるべき系統性、系統的指導のああるべき姿を見ることができる。
もう一度山登りの事例を取り上げてみよう。
山登りも、多様なスキルを総合的、複合的に活用して行う活動である。たまに特定のスキルに問題のある者がいて、ベテランが練習的、治療的な指導を加えることがあっても、基本は総合的活動である。この繰り返しが登山技術を向上させる。注意すべきは、本来の総合性であり、生活原理である。登山はだから多くの人にとって楽しいのであり、生活原理を犠牲にした登山は、山岳仏教における「行」のようなものになるのである。学校・教室の読むことの学習指導は、児童にとって、苦痛な「行」になることが多くないか。それを謙虚に考え直して見える必要がある。
しかし、生活原理に立つ総合的、複合的活動と「系統性」とはどういう関係にあるのか。 それは、登ろうとする山の特性の違い、難度の違いによる。同じ種類のスキルでも、レベルの高い使用能力の育成のためには、難度の高い山を選ばなくてはならない。初心者には、低い、平坦なところの多い山を選ぶべきである。
ここでいう「山」は、国語科で扱う「教材、作品」のことである。低学年で扱う教材も、読むという活動としては、高学年や成人の読みと、ほぼ同じだけの種類の能力を複合的に機能させて行われる。ただ、低学年の読み物は、難度の低い山と同様に、教材の構造や表現が優しいのである。能力の中には、低学年では、極めて初歩的、萌芽的な姿しか見せないものもあるが、基本的には、その後の発達過程に現れるものと同種であるとみて置く方が問題が少ない。
同じ種類の能力を組み合わせて読むという行為を繰り返しながら、次第に難度を増す教材を読みこなす力として質を高めていくというのが、生活原理煮立つ「系統的学習」であり、その指導の姿である。例えば、一年生では、教材の「だいたい」が分かればよく、主題や要旨に至っては五年生までは、その指導を保留しておくというような、現場や児童の実態を知らない作文的配置によって、学習者の学力保障も、言葉を学ぶ喜びも体験させることはできないのである。