毎日新聞2019年の6月24日、「短歌月評」に、歌人・加藤英彦氏が文学擁護論を書いている。
「……これからの高校の国語は大きく変わろうとしている。小説や詩歌を扱う時間は極端に減少し、論理国語という実用性重視の傾向が強まるのだ。」
「……この実学重視の流れは二〇二一年から実施される大学入学共通テストと連動している。すでに小説や詩歌に代わって生徒会規約や駐車場の契約書が国語のモデル問題になったと聞く。」
この部分引用に、文学者、文学研究者や文学愛好家に特有のある種の偏見のあることが判る。この偏見の原因のひとつが、文科省の安易な見解や措置である。
「論理国語」=「実用国語」という図式は、それこそ論理的に正しいのか。国語教育の世界では、文学以外の文章を「説明的文章」と呼ぶ。説明的文章の中身は広く、雑多であり、そのカテゴリーの端っこには、確かに「実用的文章」も存在する。しかし、それは、中枢を占めるものではない。規約や契約書を論理的文章の代表とする考えは浅薄すぎる。高校国語でいうなら、過去に中核的位置を占めていた「論説」や「評論」といわなくてはならない。小、中学校では、説明文、初歩的な論説文が中心的な教材となり、論理的構造の特質についての学習や、論理による物事の本質や問題把握の力の基礎を学ぶ。我が国の国語教育では、こうした分野での蓄積や成果が乏しいことは、この分野の研究を続けている私の目から見ても残念ながら事実である。論理的なものの見方を育成することは、これまでの国語教育の歴史を振り返るとき、それなりに重視はされてきていた文学によるものの見方の育成以上に重要である。しかし、文学と論理とは、「二項対立」の関係にはない。車の両輪である。文学も言語を用いる限りは、論理を抜きに実現できるはずはない。論理も、矛盾のない個性的なものは「美しい」のである。
「文学的文章」と「論理的文章」は、異なる面と重なり合う面とがある。「エッセイ」や「評論」というジャンルは、文学、論理の双方を繋ぐものと言ってもよいだろう。文科省が、「論理国語には文学評論は含まない」という見解を明らかにしたしたということを目にした記憶があるが、その見解は間違っている。取り上げる対象が「文学」であっても、取り上げ方が論理的であるなら、論理的文章なのである。
加藤氏は、次のようにもい言う。
「……人間とは厄介な生き物だ。そんな人生の濃淡を生きる力を文学の奥深さは教えてくれる。それは読み、語りあうことで開かれる“知”の扉である。」
「豊かな心は論理が育むのではない。行間を読み、心の余白を感じとる力こそ実社会には必要だろう。いじめる心の闇やふと兆した狂気の逃がし方さえも文学は抱きよせる海なのだ。」
ここに取り上げられている文学の機能、効用は、残念ながら論理的文章にも同じように言えることである。論者が、規約や契約書を念頭に置いているかぎりは、こういう結論になるのだろうが、ことは、それほど単純ではない。
第一、加藤氏が現今の問題を解明し、自身の主張を述べようとしている、この新聞の文章自体が「論理国語」そのものなのである。氏は小説や詩歌の形で問題を指摘し、主張を展開することを選択しなかったのはなぜだろうか。(「抱きよせる海」は比喩的かつ多義的で、文学的ではあるが) 私には判るが、論理国語=実用的文章という前提に立つ立場にあっては、十分に説明できないであろう。