それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

たかが一雑誌のこと

2018-09-25 18:17:47 | 教育


 

 新潮45の特集号を巡って、狭い出版界は、右往左往しているようだが、世間は冷静である。何を大騒ぎしているのか。何しろ,たかが一雑誌の編集のありようである。炎上商法などとの中傷は、読者を馬鹿にしていないか。
 一定の立ち位置を明示している雑誌の存在価値は重要である。批判する向きは自由にすればよい。批判される側は,受けて立てばよい。ただ、それだけのことだ。一雑誌の存在を過大視していないか。出版社の責任云々など烏滸がましい。編集のよしあしは、読者に任せなさい。次号から,全く売れなくなったら,その時点で営業の観点から考えればよい。 神経質な出版界、投稿者の反応は、表現の自由を阻害し,建前主義を助長し、読者の思想を束縛する。再度言おう、たかが一雑誌の編集方針である。その善し悪しは,読者の手で行う。淘汰の原理が機能して、本当に問題がある場合は、それなりの結果が出るであろう。それまでは、得体の知れない有識者やいわゆる専門家は,口を出さないでもらいたい。


校長の受難・大阪市

2018-09-24 18:42:37 | 教育

 文科省による学力テストの結果、大阪市は最下位だったらしい。市長は,正気を失って,学校の成績と校長に対する評価を連動させる意向だという。
 かつて、クラスの成績と担任教員の指導力(能力評価)を連動させようという動きがあり、本ブログでも、その問題性を指摘したところであるが、今回も、理解不能の措置である。
 学校全体の学力レベルは,校長の能力に対応するものであるのか。学力形成には,様々な要因があり、校長の管理能力などは、ほとんど因果関係はないであろう。
 家庭の経済状況は、それだけが学力のレベルに対応するものとも言えないが、かなりのレベルで相関関係もある。学校によっては、経済的に不利な状況下にある家庭が多くを占める地域に位置している場合もあろう。そのような事実に直面した自治体の首長のすべきことは、学校や管理職を責めることでなく、冷静に,低学力の原因を分析することであり、結論的に言えば、原因を解決すべく,手厚い財政的、人的配慮をすることでなくてはならない。

 学力検査の結果への対応に関して,毎年のように同じ種類の問題が生じる。ほとんどが,教育に関する無知から発生する。責任者の無知は,現場で努力しているものたちの士気を殺ぎ,学校の教育観環境を悪化させ、最終的に児童、生徒の成長を阻害するのである。
 教育、学校に対しては、だれでも評論家たりうる。しかし、教育は、専門家による営為であり、素人考えで運営できる世界ではない。教員にも、一定の割合で問題を抱えた者も存在するが、自治体の首長の無知は影響が大きい。


「知識」と「認識」(「知ること」と「分かること」)-LGBT論争-

2018-09-22 21:39:58 | 教育

 LGBTに関する一人の女性国会議員の雑誌論文をめぐって、LGBT支援団体から抗議がありデモまで実施されたことを受けて、論文を掲載した雑誌は、あらためて,論文内容に問題はないとして,最新号で反論の特集を組んだ。
 ここまでの動きが、かなり神経質であるが、この問題はこれで終わらなかった。雑誌を出版する会社の社長が、反論特集号の掲載論文の「ある部分」に不適切な部分があったとして、公的にお詫びをしたのである。今朝のM新聞の社会面では大きく扱っている。
 出版社、具体的には編集部は、雑誌論文の内容をどのように考えているのだろうか、さらに、読者をどのような存在と考えているのだろうか。
 雑誌編集部は、執筆依頼をするに際して、執筆者の思想や心情、さらには人柄等を念頭に置いて判断しているはずである。どのような原稿が完成するかは分からないのが当然である。署名付きの文章の責任は,著者にある。権利とともにある。単純なミスについて訂正をすることはあっても、内容の重要部分について介入することは稀であろうし、あってはならない。「検閲」の許される国であってはならない。
 今回の社長の判断と行為をどうとらえるべきか。
 外部のどこかから忠告や圧力があったのかもしれないが、論文の最終かつ最高責任は著者であってみれば、わざわざ形式的なトップが顔を出して世間にわびを入れる必要はない。余計なことであり,不遜な行為でもある。
 反論特集号を,私も、先ほど読み終えた。「なるほど」という論もあれば、「それは言い過ぎだろう」「筋違いだろう」「譬えが悪かろう」というものもある。こういう反応は、読者として当然である。読者は、単に,知識を増やそう、情報を知ろうとして代金を払って雑誌を買い,時間を使って内容を読んでいるとは限らない。むしろ、事の本質と問題点を認識しよう,分かろうとしているのである。つまり、良いか悪いか、納得いく論かそうでないのかを決めるのは,読者の権限である。読者は,論文の内容、つまり,著者の意見、主張にやすやすと感化され、時に洗脳されるのではないかと考えるのは,出版社側の思い違いであり,読者を冒涜する行為であるとともに,言論、表現の統制につながる行為でもある。
 世間には、いろいろな人がいる,いろいろな思想・信条の人がおり、さまざまな媒体で表現をしている。また,同様にいろいろな情報の受け手もいる。その多様性は、そのままに尊重されるべきである。どこか高いところや脇から、思想・信条を操作したり、評価したりすべきではない。私たちは、一人一人が,物知りになるのでなく、深く、広い認識に至るために読者という役割を演じているのであり、著者の言説を、ただひたすら有難く受け入れるような存在ではないし、そうであってはならない。編集者や社長に配慮していただく必要はないのである。
  思想・表現の自由を守るためには,著者、出版社のみならず、読者も毅然とした姿勢を維持しなくてはならないのだろう。


メディアによる選挙妨害

2018-09-21 01:20:08 | 教育

 沖縄県知事選は、9月30日の投開票まで、4人の立候補者が争うことになった。
 メディアは、早速,「実質的には、A氏、B氏,二人の戦いになる」と言ってのけた。この常套句とも言える、傲慢な切り捨ては、許されてよいのか。この行為は、いわば、選挙用ポスターを、A、B両氏の物以外、破り捨ててしまうのと同じ行為で、公職選挙法に明確に違反しているのではないか。切り捨てられた候補者は、選挙違反、人権侵害として訴え出るべきである。
 開発途上国では,露骨な選挙妨害があって、違反の内容が分かりやすいが,メディアによる候補者の仕分け、差別も,結果として同じことである。
 候補者に審判を下すのは,有権者であり、その権利も犯している。県民に対する冒涜でもある。なぜ、このような暴挙が黙認されるのであろうか。
 メディアは、選挙となると異常に興奮し、開票速報なるものに命をかける。時には,開票の時間と同時に「当確」を打ってびっくりさせる。これも有権者を馬鹿にした行為である。出口調査という「怪しげなデータ」に依拠したものだろうが、稀に誤報になることがあって笑わせる。何を急ぐ必要があるのか。厳しく長い選挙戦の後、半日程度、結果を待つことが不可能なわけでもあるまい。
  人権擁護の旗手を気取ることの多いメディア、他国に人権侵害、非民主的政治を批判することの多いメディアは、少し,自分自身の足下を確かめてみては々だろうか。


「カリスマ」の創造

2018-09-16 01:53:26 | 教育

 「博学・博識」を売りにしたジャーナリスト(元)のI氏に関わる問題が浮上しているという。テレビ番組中では、世の中のあらゆる問題を快刀乱麻よろしく腑分けして見せ,世の情報弱者を驚嘆させている存在であり,今やわが国随一の物知り・博学と信じられている。ところが、番組制作チームのスタッフが、専門家の元に走り,多くの取材をした挙げ句、取材内容としての知識や見解を,取材先の専門家のものとしてでなく、I氏の独自のものであるとして放送してもよいかと持ちかけ、取材を受けた者に不快な思いをさせているというのである。
 当の番組を一度だけ,途中まで視聴したが、何にでも答えますという怪しげな雰囲気に嫌気が差して見るのを止めてしまったことがある。そう言えば,○○さんは、このように言っていますという文脈で語られることはなかったかもしれないと、今にして思うが、発言の後の、自信なさげ,ばつの悪そうな表情は、印象に残っている。
 一人の人間が,世の中のあらゆる問題を知悉し、他人に解説する能力を持っている必要はないし、そのような人間が存在する可能性もないであろう。であるのに、なぜ,このようないかがわしいことが発生するのか。番組は,普通にはあり得ないことを起こすという不思議の実現が売りなのである。一般人が,専門家の間を走り回り、知識や意見を聞き回って、それを番組で紹介するという陳腐な発想では,視聴率を稼ぐことなどできないのである。いわば、普通にはあり得ない異能の人物を設定することで,人々の目と耳を奪おうと企んだのである。異能の人物とは,カリスマである。まあ、カリスマ主婦という存在まであるようだから、カリスマもずいぶん低次元になってきてはいるが……。怪しさという点では,新興宗教に近い。
 正直かつまじめな人間であれば、なぜ、知見の出所を明らかにしないのか。I氏のばつの悪そうな表情は,スタッフからの要請で、不本意な役回りを演じさせられていることへの反応であったのかもしれない。どう見ても悪人には見えないからである。
 ところで、自分の見解ではないものを借りた場合は,出所を明らかにしよう。他人の意見を借用して,自分のもののように振る舞うのは、研究の世界では、「盗用・盗作」といい、発覚すれば研究者生命を失う。
 著作権に関しては、苦い思い出がある。かつて、専門書を書き上げ、巻末に教科書教材数編を参考資料として収録しようとしたことがある。当然,教科書会社の了解が必要である。この了解を取る作業を出版社の責任者が怠っていた。(私が了解を取るというのを、いや出版社がやりますと確約した末の出来事であった。)本が完成した後でそのことが分かり,改めて了解を得ようとしたところ、教科書会社は、著作権に関わる問題の処理を、専門の団体に委託しているとのことで、そこを通しての問題の解決をしなくてはならず、私の著書が日の目を見るのに予定の数ヶ月の遅れを余儀なくされたのである。原稿の段階で教科書会社に打診して、時間がかかりそうなら資料としての教材文を削除しようという話になっていたはずであったのに、無駄な時間の遅れであった。出版社による「発行遅延」のアナウンスには、「著作権の問題のため遅れます」とはなはだ不見識、無責任が表現があり、不愉快な思いをした。
  著作権に関わる問題は、教科書教材文にとどまらず、書物中のあらゆる引用(児童のノート等を含む)に及び,全く無駄な時間を生み出した。堅苦しい著作権管理とは,このような事態を生むのである。これでは本など書けないと憤ろしい思いをすると同時に,他人の意見を勝手に我が物にするという取材の手法にも別の意味での憤りを感じた次第である。ここまで書いて、ふと、気づいた。私に、「あなたの著書や論文から、ここを引用しました」という連絡や許可願いが届いたことは一度もない。ただ、ほとんどの場合,出典は正確に書かれている。営利目的でない研究書は、その程度でよいと考えている。

 テレビ番組には、時々、いやしばしば異能の人物が登場する。異能であることは出演者の必要不可欠の条件なのであろう。博識を売りにする者は他にもいるが、I氏の場合とおなじような疑惑を招く場合は深く反省する必要があろう。世の中には,本当に他者の及ばない能力をもったり,希有な行為をしていたりして敬服することも少なくないのである。番組も、そのような人たちを誠実に発見する努力をすべきであろう。