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LGBTに関する一人の女性国会議員の雑誌論文をめぐって、LGBT支援団体から抗議がありデモまで実施されたことを受けて、論文を掲載した雑誌は、あらためて,論文内容に問題はないとして,最新号で反論の特集を組んだ。
ここまでの動きが、かなり神経質であるが、この問題はこれで終わらなかった。雑誌を出版する会社の社長が、反論特集号の掲載論文の「ある部分」に不適切な部分があったとして、公的にお詫びをしたのである。今朝のM新聞の社会面では大きく扱っている。
出版社、具体的には編集部は、雑誌論文の内容をどのように考えているのだろうか、さらに、読者をどのような存在と考えているのだろうか。
雑誌編集部は、執筆依頼をするに際して、執筆者の思想や心情、さらには人柄等を念頭に置いて判断しているはずである。どのような原稿が完成するかは分からないのが当然である。署名付きの文章の責任は,著者にある。権利とともにある。単純なミスについて訂正をすることはあっても、内容の重要部分について介入することは稀であろうし、あってはならない。「検閲」の許される国であってはならない。
今回の社長の判断と行為をどうとらえるべきか。
外部のどこかから忠告や圧力があったのかもしれないが、論文の最終かつ最高責任は著者であってみれば、わざわざ形式的なトップが顔を出して世間にわびを入れる必要はない。余計なことであり,不遜な行為でもある。
反論特集号を,私も、先ほど読み終えた。「なるほど」という論もあれば、「それは言い過ぎだろう」「筋違いだろう」「譬えが悪かろう」というものもある。こういう反応は、読者として当然である。読者は、単に,知識を増やそう、情報を知ろうとして代金を払って雑誌を買い,時間を使って内容を読んでいるとは限らない。むしろ、事の本質と問題点を認識しよう,分かろうとしているのである。つまり、良いか悪いか、納得いく論かそうでないのかを決めるのは,読者の権限である。読者は,論文の内容、つまり,著者の意見、主張にやすやすと感化され、時に洗脳されるのではないかと考えるのは,出版社側の思い違いであり,読者を冒涜する行為であるとともに,言論、表現の統制につながる行為でもある。
世間には、いろいろな人がいる,いろいろな思想・信条の人がおり、さまざまな媒体で表現をしている。また,同様にいろいろな情報の受け手もいる。その多様性は、そのままに尊重されるべきである。どこか高いところや脇から、思想・信条を操作したり、評価したりすべきではない。私たちは、一人一人が,物知りになるのでなく、深く、広い認識に至るために読者という役割を演じているのであり、著者の言説を、ただひたすら有難く受け入れるような存在ではないし、そうであってはならない。編集者や社長に配慮していただく必要はないのである。
思想・表現の自由を守るためには,著者、出版社のみならず、読者も毅然とした姿勢を維持しなくてはならないのだろう。