それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

「言葉、コトバ、ことば」

2019-11-27 16:39:07 | 教育

 テレビから大きな声が聞こえる。

 CMで、「キョクジョウ!」、「キョクジョウ!」と叫んでいる。

 はて、さて、「キョクジョウ」とは異なことを、と字幕をみれば、漢字で「極上」である。恥ずかしい。 

 何が恥ずかしいのか。ナレーターのリテラシーは言うまでもない。しかし、テレビでCM放送するまでには、いくつかの「関門」(チェック)があったはずなのである。何しろ、相当な広告料を支払っているはずだから。幾人もの目と耳が、「極上」の読み誤りを見逃していた。それが恥ずかしいのである。

 近年は、このようなことが多い。日本人、特に情報産業に関わる人達(テレビ、新聞等関係者)のリテラシーの現状は、利用者の目や耳につきやすい。

 人は、誤りを犯しやすい。個々人の過ちは致し方ない面もあるが、関係する人々がチェック、修正機能を発揮すれば、過ちは回避できよう。総体的に劣化しているのか?


「桜を見る会」騒動の意味不明

2019-11-24 21:57:40 | 教育

 国会では、首相が、公費で開催される「桜を見る会」に地元支援者を招いているのではないか、公職選挙法に違反する金の使用はないか、領収書等はないか、など大騒ぎで、野党は追及に色めき立っている。

 シュレッダーにかけてしまったという書類については、シュレッダーの利用記録はないのか等の些末な質問まで出る始末。

 公費で実施する、「桜を見る会」という、ちょっと意味不明の会の内容は、国民に分かりやすい透明なものであることが望ましいのは言うまでもない。不正の疑惑がある場合には、その解明のための発言も論議も必要である。しかし、それも節度あるものであって欲しい。

 現在のわが国は、国内外の深刻な問題を抱えている。例えば、台風という大災害への対応は十分にできているのか。経済問題、社会福祉問題、教育問題等は楽観視していてよいのか。韓国、中国、ロシア等との間の関係は問題にするに及ばない状況なのか、等、実は問題だらけではなかろうか。

 国会運営のために必要な年間予算は千数百億円、単純計算で一日あたり数億円になるという。「桜を見る会」は、予算がふくれあがって5,200万円になったという。決して小さな額ではないが、国会議員の任務、機能を考えると、ことの重大性を弁えて行動してもらいたい。


共通試験の抱える問題-記述式解答の採点

2019-11-19 23:30:47 | 教育

 先日、国会で外国語の外部試験実施の延期が決まったと思ったら、今度は、国語と数学の共通試験における記述式問題の採点の客観性に関することで揉めている。

  採点の客観性に関して、国会でのやりとりは、自己採点と専門のの採点者による採点の結果では、30%程度差があるという内容であったと記憶しているが、正確さという観点からは、自己採点と専門家の差ではなく、専門の採点者間の一致度の方が問題である。文科省が、二次試験の記述式問題について正解を公表するように求めたところ、不可能という回答や「解答例」でお茶を濁す大学があったが、当然と言えば当然の結果である。

 大学の個別入試のための記述問題を作成し、採点もした経験からすれば、記述式問題の「正解」を公表するなど思いもよらないことである。記述式問題の答えは、多様であり、一つに集約、限定することなどできはしない。同じ採点者でも、午前と午後、一日目と二日目では、微妙な差や揺れが出てきて、採点を見直し、修正することは珍しいことではない。共通試験の選択肢でさえも、微細に検討すれば、多様な意見が出てくるに違いない。問題文の原著者が、「筆者の真意は何か。」などの問いに答えられず、どれも正しいような気がするなどと漏らすようなこともある。記述式ではなおさら困難な状況に直面することになろう。

 採点はいい加減であっていいというつもりはない。真剣に、慎重に取り組んでも、なお厳密には他の採点者による評価と一致しない、差が出るということを認めざるを得ないと言っているのである。世の中には、こうしたことがよくある。本質的で、重要な価値を有するものの評価に関する場合が多い。

 すべての評価が客観的な結果を生み出すべきであるという幻想を前提にした論戦は実りあるものにならない。客観性を最重視するのなら、評価に揺れのある記述式は避けたほうがよい。予備校に依頼して、何万人ものアルバイト採点員で事を進めることで問題をクリアするなど、ほとんど「冗談(ジョーク)」である。記述式問題は二次試験段階で、各大学に出題と採点を任せ、真剣に、精一杯の努力することで、難局を切り抜けてもらうしかないようだ。


論文の書き方に関する一問題:註(注)、引用文献、参考文献について

2019-11-07 00:13:37 | 教育

 論文作成に際して、他者の論文を引用したり、注を付けたりするのが普通である。

  時に、注も、引用・参考文献のないものもあるが、こういうものは厳密に言えば論文とは言えない。何かについて研究をするには、同じ対象や研究分野について、研究の歴史や現状に触れる必要があろう。自らの過去の研究と今書こうとしている論考との関係に触れる必要もあろう。これらは、参考文献、引用文献、註の形を取らざるを得ない。自分の思いだけを書き連ねているのでは随想にほかならず、専門的な論考とはほど遠いひとりごとである。こういうことは、論文作成の初心者に多いが、時に自意識過剰な研究者のこともある。

 他者の論文の引用については注意が必要で、引用さえすれば論文らしくなるというものではない。自分の考えを補強するために、過去の、多くは著名な先人の言説を引くのが好きな人がいる。自分の意見、判断、主張に重みを付けるという効果を狙ったものであろうが、同じ内容のものについて過去の大物の論文を引用する必要はない。先人が、過去に自分と同じことを言ってしまっているのなら、もう、事は済んでいるのである。未熟なものが、いまさら同じことを繰り返す必要はない。研究の進展も進歩もない。権威付けどころか自らの不見識、未熟をさらすだけである。先人の言説を引用するのは、それが言及し切れないものを補うとか、自説を真の意味で補強する場合などの外は、それに疑問があったり、不備があったり、異論があったりする場合に限るのがよいようだ。

 多すぎる注や引用、参考文献も煩わしい。誠実、謙虚な姿勢のようでもあり、勉強ぶりを見せつけているようでもある。自分の意見などは、厳密に言えば、数多の人々の研究や調査に支えられている。これは事実であるが、これを精密に記述しようとすれば、引用と注だらけになる。そういう研究分野も、そういうスタイルの研究者のいるが、一編の論文構成を考えると、研究の歴史と現状を詳細に記述し(記述であって論証ではない)自らの研究成果は、終末部分のごくわずかな分量にとどまることになる。誠実だが、非能率と言わざるを得ない。こういうスタイルの研究は、短い論文でなく、単行本の形で世に問うのがよい。

  研究分野や、同じ分野であっても学会によって、註(注)、引用、参考文系の形式が異なるのも面妖なことである。多くの分野の混在する研究紀要には、多種多様な形式が見られる。一見、自由でいいようにも思うが、気になる。


「身の丈」発言

2019-11-01 21:58:39 | 教育

 教育基本法には、次のような条項がある。憲法も「経済的理由」を除いて、ほぼ同じ内容の条項がある。

第3条 (教育の機会均等) すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。 2 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。     文科大臣が、共通試験のうちの外国語外部試験利用に際して、受験生に有利不利が生じるのは問題だという指摘に対して、「受験生は諸事情を考慮して、身の丈に合わせた対応をして欲しい」と言って問題になった。今日(11月1日)には、外部試験(民間試験)には制度上、いろいろ問題があるので当面は実施しないと、前言を翻す発言をして、また物議を醸した。

  教育基本法の規定に示されていても、全国の受験生が均等、平等な状況で受験をし、教育を受けているわけではない。地理的な条件から文化格差が発生するであろうし、弱少自治体の財政は教育施設に潤沢な手当のできる自治体より見劣りがすることもあろう。保護者の経済状態は、同じ自治体にあっても多様である。

  能力の多様性に応じた教育の規定は、機会均等の意味がやや異なるようでもあるが、どの子にも同じ内容、程度の教育を施すべきである、どの子も同じ能力を有しているという理想(幻想)に駆られた教育もあり、かえって不幸な学習者を生むこともあった。すべての児童に同じ点数、成績を与える教師も出た。「ひとしく」「機会均等」と言う言葉は美しく、温かい。しかし現実の世の中は、いろいろな場面で「身の丈に合わせて」生きざるを得ないのであり、そうしてもいる。現実は絵空事ではないのである。我々にできることは、均等な機会を得られない者への、それこそ身の丈に合わせた援助と励まし程度のことである。基本法にあるように、機会均等を実現するのは「国及び地方公共団体」なのである。今回の文科大臣の譲歩、翻意を、「鬼の首」でも取ったような自慢げな態度を見せている野党議員諸氏は、現実に存在する不平等をどう改善しようとしてているのだろうか。対案はあるのか。抽象的な平等論を口にしているだけでは、受験生の不幸は解消できない。与党も野党も、具体的な提案をすべきである。5年間の猶予を得た外国語試験を導入するためには、文科省、文科大臣だけでなく、少なくとも与野党国会議員は、このやっかいな問題を解決していなくてはならなくなっているのである。

 大学入試については、共通試験、それも民間機関による外国語試験など、本当に必要なのか。このことは、すでにこのブログに書いた。自分の大学に入学したい人間の選抜くらい自前の試験によるべきではないのか。大学ごとに問題を作成するなら、今回の事態は生じなかった。

 問題自作によって隠れてしまう不平等の状況は、別の観点と方法で改善、解決の努力をすべきである。最善の努力を重ねても、憲法や基本法のような理想的な状況にはならないであろうが……。