それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

「自粛」「自主」と「要請」「勧告」

2020-04-29 16:21:26 | 教育

 このところの大雨災害や新型コロナ対策の中で、しばしば耳にし、目にする言葉が「自粛」「自主」である。「外出自粛を要請」「自主避難の勧告」等の言葉は聞き慣れて、特に問題にならないかに思える。

 ところが、このたびの新型コロナ禍は、私たちの心構えや行動に、大きな欠陥があることを明らかにしてくれた。
 
 パチンコ店は、休業要請にもかかわらず営業を続けるケースがあることが判明し、自治体のいくつかは、営業店名を公表する措置を取った。店側の問題はさることながら、店に駆けつける尋常ならざる数の客のことをどう考えるか。店の前には行列ができ、乗り付けた多数の自転車がある。インタビューに答える客に、悪びれる様子もない。

 公園は、緊急事態宣言前よりも多くの人が集まる所があるという。またジョギングコースのいくつかも、走者は密集状態だという

  自治体も、スーパーには、家族あたり一人が時間を選んで、三日に一度程度でかけるようにとか、他の人との間隔を2メートル空けるように、散歩は一人で行け、などと立ち入った注意をする。

  通販のマスクの価格に驚いた。去年は100円ショップで、1函30枚入りが100円か200円程度だったものが、50倍、60倍になっている。

 コロナに便乗した詐欺も多発しているようだ。

  国民の側の弱点・問題点と自治体や国の対応は相関関係がある。

 元々、「自主」「自粛」とは、他者から求められるものではなく、自らが決断し、実行するものである。それを、「要請」「勧告」されること自体がおかしいが、自立的に判断、行動できない者が多数存在するから、差し出がましいことを言わせることになる。

 行政と不届き者とのせめぎ合いは、いわば「いたちごっこ」であり、根本的な問題解決にはならないようだ。

 例えばパチンコ店名の公表は、一方ではどこにいけばパチンコができるのかを教えている、いわば広告の役目を果たしてもいる。どのジョギングコースには多くの仲間がいるのか、どの商店街、公園には人が集まって心強いのかを教えてくれているともいえるのである。


 行政や他者に、プライベートな領域にまで踏み込まれたくない。これは自然な感情であろう。であれば、私たちにも、それなりの覚悟が必要である。「あなた方に言われるまでもなく、いや言われる以上に、自らを律している。」と、介入を拒否できるようでありたい。「自」とは、本来、そういう意味ではなかろうか。


政治と言葉

2020-04-27 15:35:06 | 教育

 新型コロナの勢いは一向に衰えを見せない。感染拡大の初期段階から、特に高齢者しかも基礎疾患のある老人には深刻であると言われていた。逆に低年齢の子どもや青少年の場合は高齢者に比して重篤化しにくいとも言われていた。

 このような事実を受ければ、高齢者が神経質になるのは理解できる。特に若い感染者が怖いという気持ちも分かる。だから、

 「新型コロナの感染者は、老若男女を問わず怖い存在であるが、特に高齢者にとっては怖い存在です。」

とでも言えば、事実その通りであるから問題はないはずである。

 ところが大阪府泉南市の議員が、「高齢者にとっては殺人鬼に見える。」とフェイスブックに書き込んで大問題になっている。同市の第一号感染者が女子高生(=若者)だったことを受けて、72歳という高齢である自身の心配を表明したもののようである。それはそれで同情できる点もある。問題は、「殺人鬼」という恐怖感、嫌悪感、悪意を帯びた表現である。

 政治家ないしは政治屋の不適切発言は珍しいことではないが、このところ国会等においては頻出していて、政治家の質の低下が否定できない。主張、説得には言葉が最有力の武器である。不用意な言葉遣い(言語表現)しかできない政治家ないし政治屋は、そもそも政治に関わる資格がないのではなかろうか。国会審議中に総理からヤジが飛ぶなど、この国の政治の場における言葉の寿命は尽きかけている。コロナに劣らず危険である。

 そのコロナを巡る説明、解説、警告において、多数の横文字が使用された。日本語という母語は十分に良質な言語であり、横文字に頼る必要はないのに……。

 緊急事態宣言下にあって、都知事は、3つのスローガンを発表した(どういうわけか3密を始め、3つが好きというのも気になる)。曰く、Stay home, Stay in Tokyo, Save lives だったと記憶している。「家に居よう、東京に居よう、命を守ろう」という身近な日本語ではなぜいけないのか。危険が迫っているらしい高齢者向けには、さらに適切ではなかろうか。

  いい加減な言語表現者の頭の中は、きっといい加減なのであろう。言葉と認識力は、切っても切れない緊密な関係にある。コロナは怖いが、私たちは、さらに怖い状況下に生きているのかもしれない。


学校で教える「理想」の意味

2020-04-24 12:17:27 | 教育

 保護者にアンケートをして、職業を調べ、新型コロナ汚染地区への関わりのある保護者の場合、その子弟の登校自粛を求める小学校があったという。登校を拒否されたのは、汚染地区である都市部に出かける長距離ドライバの子弟であった。緊急事態宣言下、買い物は通販を推奨しながら、一方では、通販関係者へのいわれなき差別である。

 感染者への差別行為、医療従事者及びその家族の拒否などが多発しているようだ。人間の素朴な感情として、危険なものに近寄ること、危険なものが接近する状況を回避しようとする本能があることは否定できない。しかし、一方で、最近は、医療従事者への感謝の気持ちの表明が、多様な方法でなされるなど、社会的存在としての人間の心情の表明も行われるようにもなっている。

 いずれの反応が温かい社会を創るかは、改めて言うまでもない。危機的な状況下では、プリミティブは感情を抑制することが求められる。それができるのが日本という国であり、日本人であると信じていたのだが、いやいや、「(原初的感情に支配される)人間も無視できないほど存在するようだ。しかも、それが、学校という教育の場に存在することが問題である。

 教育は「理想」だけを説いていればよいのかという意見は、教育関係者以外からしばしば投げかけられる疑問である。現実の社会は、学校で教えるほど理想的ではない(甘くない。)。学校の教育は絵に描いた餅である、現実世界に適用できない等々の批判である。

 しかし、学校では「理想」を説くべきである。しかも、「理想」のみを説くべきである。「現実」は、学校を一歩出たところで待ち構えている「社会」が痛切に教えてくれる。貧富の差、男女差、能力差、美醜……。理屈では受け入れがたい現実は、社会が教えてくれる。こういう理不尽に耐え、誇り高く生きるためには「現実」を超える「理想」の存在が必要なのであり、その教育の場が「学校」である。その「学校」が矛盾に満ちた、受け入れがたい「現実」教育の場になってどうするのか。

 学校が、集団いじめの場になって大問題になったご時世である。学校は、すでに死に絶えていたのか。


学校という権力機構

2020-04-22 14:42:04 | 教育

 近年は、学校受難の時代のようでもある。しかし、学校という組織は、一種の権力機構でもある。悪名高いモンスター・ペアレントといえども、一人で学校という組織に立ち向かうには躊躇するところがあるに違いない。学校には、我が子がいるのである。敢えて「人質」とは言わないが、場合によっては似たようなものである。

 その学校の一つが、手作りマスクの色を「白にせよ」と言っているという。緊急事態宣言の出る状況下、児童や保護者の造るマスクの色を制限する神経に唖然とする。スカートの丈、下着の色、スニーカーの底の厚さなど、制限の好きな組織である。制限の根拠は何かと考えると、論理的な説明は不可である。はっきり言ってどうでもいいことに時間と労力を費やしている。

 学校の背後には、「画一」の好きな教育委員会があり、その背後には、これまた「管理」の大好きな文科省がある。これら一連の権力機構は、児童・生徒に最も近い存在である教員の自由な発想、主体的態度を破壊している。子どもたちに悪影響を及ぼさないわけがない。

 しかし、組織といえども、成員一人一人から構成される。例えば、「なぜ、マスクの色まで統一する必要があるのか。布の入手も楽でない状況なのに、なぜ手元にある布ではいけないのか。保護者に余計な負担を求めることにならないのか。」という異論が出てこないのか。それが情けない。

 かつて、教組(教委職員組合=日教組)の強い時代には、今日とは真逆の、しかし、今日とそっくりの力関係のもとに、教員は翻弄された。よくよく教育現場は権力に弱いところのようである。子どもたちの目に、教員は、どのような存在に見えているのだろうか。レガ心配でならない。 


新型コロナと「心の緩み」

2020-04-06 14:41:19 | 教育

 新型コロナ感染拡大状況が危機的様相を呈している。

 感染拡大の一大原因は,私たちの心の緩み、「油断」である。

 大学生が、「卒業旅行」という物見遊山のために,海外に出かけ、感染して帰国し、さらにコンパに参加して友だちにウィルスを拡散する。悪意でないことは判っていても、容認できない行為である。いやしくも「高等教育」(高等教育とは大学段階の教育であり、高等学校は中等教育である)の修了者にして,この程度の教養程度、人間レベルかと嘆かざるを得ない。

  容認できない行動者は、若者・大学生に止まらない。夜の歓楽街は、依然としてサラリーマンの行動の場のようで,感染者の多くを占める。テレビの街頭インタビューで、「飲み会-からカラオケへ」というのは、「いつものコース」などとうそぶく輩がいた。また、養成反応の人間が、感染の場所をひた隠しにして,事を複雑にしている原因の一つが夜の歓楽街での行動のようである。好ましくない行動と理解しながらの行為である。

 高齢者は,さすがに人生経験が豊かで、模範的に行動しているかというと,案に相違して、若者に負けず劣らずの無軌道ぶりである。感染者の中に、60代、70代の男女のバス旅行、海外旅行(豪華クルーズ船によるものを含む)、ライブ参加者が多数含まれるのに愕然とする。長い人生の間に,何を学んできたのであろうか。自分だけは大丈夫(だった)という誤った自信を獲得してしまった結果なのだろうか。

 こうしてみると,成人のすべての年齢層に問題ありということにならないか。問題行動者のすべてに必要なのは、事の重大さについての正しい認識力であり、自己抑制力(がまんすること)の習得である。

 感染防止のための、国や自治体による自粛勧告を「私権の制限」と見る一群の人々がある。こういう状況下に必ず出てくる意見であるが、私たちはいつも他者と無関係に一人で生きている訳ではない。勧告を無視して自由に行動した結果罹患し、他者を巻き添えにするなら、他者の「私権」を侵害したことにならないか。

 いつ終わるか判らないコロナ禍を見て、初動段階で、もっと厳格な措置をとっていれば良かったのではないかと思うのは後出しじゃんけんのたぐいであろうか。罹患して2週間ほどで発症すると判っていたのだから,全国民に20日程度の外出禁止ないし自粛を求め、企業にも休業を求める等していれば、コロナを制御できたはずであり、経済への影響も一時的被害で終わっていたのではなかろうか。

 国は,一所帯あたり2枚のマスクを配布するとのことだ。ありがたいことではあるが、これは「町内会レベル」の行為であり、早速「アベノマスク」と揶揄されている。政治家は、もっとハイレベルなことを考えるべきである。

 ついでながら、使い捨てマスクの再利用の方法について,私自身の工夫を紹介しておこう。
 1.マスクは,できるだけ清潔に使う。女性の場合は口紅、ファンデーションなどで汚れがちであるが、命に関わる自体なので使用を我慢する。
 
 2.洗面器、洗面台に、形を整えて(重ねても可)置く。その上から熱湯をかけ,マスク全体を浸し、冷めるまで放置する。冷めてから水を切り,乾燥する(洗濯物と同じ扱い。)不織布のマスクは,すぐに乾くし,型崩れもしない。布目が粗くなる等の劣化が心配されようが、もともと使い捨てマスクの編み目は粗いので,ウイルスの侵入を防ぐ能力は低い。それよりも熱湯の殺菌作用によるマスク表面の清浄化を信じたい。テレビやネットでの情報に、熱湯による殺菌が皆無なので,私の方法を書いておいた。