それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

崩壊する’神話’その2

2018-01-26 17:49:05 | 教育

1 国語辞典: 広辞苑といえば、まずは信頼できる辞典ということになっている。大学生のレポートの中には、言葉の定義として、広辞苑が登場することがあり、また、こともあろうに、専門家の論文や発表の中に、「広辞苑では……と定義している」などということがあり、仰天するが、一般には、広辞苑というのは、黄門様の印籠のような存在であるらしい、その広辞苑が十年ぶりに改訂されたというが、その中に、語義の誤りが発見されて話題になっている。その一つは、しまなみ街道が、周防大島を通過する橋であるという痛快な間違いである。国語辞典は絶対的な存在でないということは、十分に理解しておいた方がよい。三省堂の『新明解国語辞典』などは、かなり主観的、偏向した語義があったり、意味不明の例が登場したりする好例である。国語辞典神話は崩壊して、何ら問題はない。公正、公平ならざる人間のなせるわざなのである。

2 教科書: 検定教科書の「検定」なる語は、これまた「印籠」のような響きをもっているらしい。人間が創り、人間がチェックするのであるから、とんでもない教材が存在しうる。月一回の研究会では、どうしして、こんな教材が存在しうるのかと首をかしげるような文章が少なくない。特に、「説明文」と呼ばれる種類の文章に多い。
 「説明文」(ないしは説明的文章)は、客観的な文章と思われている。しかし、世の中に、客観的文章などというものがあると信じてはならない。客観的な絵人間がいないのと同様である。だれが書いても同じ文章などありはしない。しかし、それが存在するという前提で行われるのが説明文の指導である。出発点も、進行過程も、終着点も間違っている。これが明治以降延々と実施されてきて国民の評価能力を殺いでいる。「基礎・基本はできているのに、主体的読み、批評的な読みができない」と言われる原因であるが、評価する能力は、人間のえ「基礎・基本」であることを忘れている。このことを随所で指摘してきたがあ、言われていることが分からないのだそうである。児童・生徒に分かることが、指導者には分からないというのは重傷であり、罪が重い。国会中継やワイドショウなどに、この問題の重みが現れている。


崩壊する’神話’

2018-01-16 23:20:49 | 教育

 世の中には、何とはなく信じているものがある。その根拠を問われると返答に窮するのであるが……。
 大阪大学は入試の採点ミスを犯し、多数の受験生に迷惑をかけた。その誤りの原因は、入試問題(物理)の解答に関するミスだというから、大学としては致命的で罪が重い。正解に誤りがあったというのである。その過ちの指摘が外部から複数回あったというのに、自分たちの用意した正解にこだわった結果である。こういう場合の大学の心理状態と対応は、自らも入試問題の作成委員の経験がある私としてはよく分かる。しかしあってはならないことである。人間のすることだから間違いはある。プライドを守って押し通すと、結果として大やけどをすることになる。
 どうして、大学、特に国立大学(法人)のわずかなミスをメディアは大騒ぎするかというと、大学に、ミスなどありうるはずがないという誤った信仰によるものとしか考えられない。今回は、大学も大したものではないという事実を世間に知らしめたという意味でも貢献したミスであった。
 ところが、今度は、センター試験の「地理」に出題されたムーミンに関する問題でもめている。ムーミンの知識が入学資格、資質とどういう関係があるのか、全く理解できないが、どうやらムーミンが住んでいるムーミン谷は、フィンランドとは言い切れないというもののようである。その見解、意見をM新聞で述べているのが大阪大学大学院教員である。これで、先頃の同大学のミスが挽回されたかというと、全く関係ないところが悲しい。
 また、同じ日のM新聞には、センター試験の監督をしてした教授が、いびきをかいて寝て、受験生に迷惑をかけたという記事があった。その会場となった大学は、これまた大阪大学というのでは汚名挽回どころではない.気の毒を絵に描いたような事態であった。大学というところが、信頼すべき存在ではないということを周知徹底したという意味で意味があった。

 大相撲初場所は、大賑わいのようである。予想に反してというべきだろうか。神事と関係があり、国技たる大相撲の権威は完全に失墜し、国民から見放されたのかと心配してしたが、全くの杞憂であった。国民は、とっくに国技などとは思っていなかったのであり、今回の一連の騒動は、効果的な宣伝になり、観客たる国民の興味・関心を高めることになったのである。すでに、何年も前から上位力士をモンゴル勢が独占しているのだから、国技などという神話は、とっくに崩壊していたのである。

  わけもなく信仰の対象になっている事物をこの際見直して、ものごとの本質を追求し、問題を掘り起こし、解決する姿勢と能力を養う機会にしたい。


「主張する力」、「議論する力」-日馬富士・事件から-

2018-01-12 20:57:39 | 教育

 日馬富士の傷害事件に関わる騒動が、年末年始の騒ぎを生んだ。結果として、理事会、評議会の決定を経て結論が出たが、今度は、その結論が腑に落ちないという意見もあり、どうもすっきりしない。
 事態紛糾の一つは、理事であり、巡業部長たる貴乃花親方の態度である。だんまりの期間が長く、協会をじりじりさせ、ファンをいらいらさせたという事実は否定できない。その結果、親方への処分の理由の一つが、「礼を欠く」などというアナクロニズムともいえる感情的なものになっている。確かに、協会の幹部が、何度も電話するのに対応しないとか、文書を届けに出向いても門前払いというのでは、礼を失してはいる。
 理事会には、特異なファッションで出席し、意見をを求められても「特に何もない」と答えるなど、基本的なところで問題があり、相撲ファンも気を揉んだはずである。
 親方の、これらの対応には、理由があろう。基本的に、協会に対する不信感があるのだろう。モンゴル勢の相撲に対する基本的な姿勢に疑問を持っていたのかもしれない。思うところが何もなくて、「礼を欠く」ようなことはしないであろうと信じたい。
 このような事態を回避する方途はなかったのだろうか。 
 一つには、協会や力士の抱える問題に気づいているのなら、それを指摘し、改善策を提言・提案すべきであろう。積極的に言えば、自分の意見を主張することである。しかも説得力ある意見にするためには、根拠、事実を明示することである。そうするチャンスを与えられた時に、「何もない」などと言ってはならない。
 その昔、「男は黙って○○ビール」という広告があったが、黙っていては分からない。周囲は「忖度」のしようがないのである。物言えば軽くなるなどというのは古くさい美学・美意識である。現役時代の名横綱のオーラがあれば、忖度もしてくれたであろうが、親方として、部屋、弟子を守るためには、美学に反することも実行しなくてはならない。  処分のもう一つの理由は、協会の理事としての義務を果たしていないということだという。これは、理事会、評議会側の言い分を認めざるを得ないところである。弟子が受けた暴力について、まず警察に届けたのは当然である。ではあるが、巡業中に傷害事件があり、被害者はひどい傷を負っているので、取り急ぎ警察に届けたという事実を、協会に報告することは理事、巡業部長の責務であろう。被害者がよその部屋の力士だったら、巡業部長としてはどういう行動をとっていたのであろうかとも考える。
 この事態、行動について、貴乃花親方不在のままに、いきなり処分が決定したわけではない。親方も出席した理事会の場で議されたのであり、また「聞き取り」の場を設定しようとする協会の要求に応じれば、いくらでも発言(疑問、反論の)の機会もあったはずである。
 偉大な横綱であったという事実はあるにしても、これらの諸行為は、しなくてはならないことであった。それを履行しないで、一方的に、理性を欠くとも受け取られる理由で処分されてしまったことは残念としか言いようがない。
 
 ところで、自分の意見を持つ、根拠を持って主張し、説得する、さらに議論をして問題の解決を図るというのは、国語の力の基本でもある。人間としては、極めて基本的なスキルである。スキルではあるが、単なる技術ではない。ものの見方の基本であり、課題解決によって人間関係の質を上げるための能力、つまり社会的な存在としての基本的能力であり、このような行為を通して、社会の構成員としての個の成長を実現する能力なのである。


「美談」と「事件」

2018-01-11 11:31:09 | 教育

 「闘将」と呼ばれるプロ野球監督が亡くなった。選手たちに対しても、シビアで激しいことで知られていた。負け試合では、選手のほとんど全員が殴られ、中には口を切って血だらけになっている者もいた。が、人情味のある人柄で愛されていたという。関係者がインタビューで語っていた内容である。
 どこかで聴いた話のようだ。あの日馬富士の暴行事件と本質はあまり変わらない。被害者とされる貴の岩は、日頃から日馬富士に可愛がられていた(相撲用語でなく、文字通り)という。負傷したのちに、両者は握手して、一件落着かと思われたらしい。
 しかし、結果は、一方は「美談」、他方は「事件」である。こういうのをダブルスタンダードという。
 一般に、運動系の集団では、暴力に対する警戒感が希薄のようである。いや、運動系と限定するわけにはいかない。文化系でも同じことが生じる。監督、先輩は、未熟な者もの弱い者を、物理的なああああああ「力」で導いて当然という空気が生まれがちである。時々、テレビに、鬼のような顔で怒鳴りつける監督が放映されて不愉快な思いをすることがある。その顔と態度は醜い。大抵は、好きで、自主的に参加して鍛錬している部員や生徒を怒鳴りつけたり、暴行を加えたりする権利を持つ人間が存在してよいのであろうか。恐怖や痛みで躾けるのは動物に対する行為以下である。高校野球などで、負けていてもニコニコしている監督がいることを知る。そして、チームは必ずしも弱くない。なんともさわやかではないか。
 一般に、怒りを発する指導者は、スキルが未熟なのではなかろうか。教員が兼務する学校のクラブ活動の監督でも、低レベルの資質の指導者は、ついつい暴力的になるように思う。このような指導者の姿勢は、部員にも感染する。授業中には見せない真摯な態度の部員たちを、暴力的に支配する権利などは誰も有していない。時に部活での厳しい指導やいじめが原因で命を絶つ者が出る。さっさとそんな組織からは離れよう。


学校は「文書」で動く?

2018-01-11 02:14:18 | 教育

 S県の研修会で、県教委の講師が、学校は何で動いていると思うか?と問うたという。毎日新聞コラムの投稿者である新任教頭は、「教職員か、児童・生徒か、情熱とかやる気か」と至極まともなことを考えた.しかし、講師の答えは、、「それは文書です」であったという。投稿者は、「確かにそうだ」と納得する。
 この確かにそうだという納得の仕方が、いかにも教頭先生風で納得できない.「文書である」という答えは、受け狙いのようで、感じが悪い。コミュニケーションや伝達の手段として文書を利用するのは当然である。いかに伝達手段が発達したとしても、文書はなくならないであろうし、記録性のある手段として、極めて有効なのである。
 国会で、文書による記録がないことがずいぶん問題になったことは記憶に新しい。「モリ・カケ」という蕎麦のような怪事件も、土地価格決定の記録が文書として残っていないことが分かり紛糾した。また自衛隊の月報が廃棄されて残っていないことも大問題で、大臣辞任につながっている。
 主として言葉で書かれる文書は、内容の正確な伝達の面でも、記録性の面でも有効であり、貴重であることはいうまでもないが、文書が有効であるか否かは、その内容によることも、またいうを俟たない。内容=情報が誤っていないかどうか、偏っていないかどうか、良識的であるか、的確であるか、緊急性があるか、有用性があるのか等が問われなくてはならない。これらの基準に照らして、納得したりしなかったりすべきものである。表面的に「納得した」ということでは、組織の一員としても、独立した一人の教育者としても問題があろう。
 教育は、その方向性や政策が、「文書」の形でもたらされることはあっても、結局は、教員一人一人の見識やスキル、組織のありよう、情熱、そして何よりも、重要な存在である児童・生徒との関係を築き上げることによって可能になる。文書は、連絡、意思疎通の一媒体に過ぎない。教育研究、研修の場では、しばしば、講師や指導主事、さらには来賓などによって、意表を突くような発言がある。個性表現のためのよくないテクニックであろうが、いたずらに混乱を招くような発言をすべきではない。またもって回ったり、斜に構えた発言に惑わされることも避けたい。
  最後に、もう一度、「教育は文書で動いているのではない。良識と責任を有する組織、情熱と高い専門性のある教員、児童・生徒を人間として尊重する覚悟によって動いている」のである。