それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

ノーサイド

2019-09-29 10:20:43 | 教育

 たまたまつけたテレビで、ラグビー・ワールドカップ、日本対アイルランド戦を中継している。ついつい見入って最後まで楽しんだ。少し前、南アフリカで奇跡の勝利をあげて以来、人気上昇のスポーツであるが、今回、まさか世界ランキング第二位のアイルランドに勝利するとは、多くの人の予想を裏切る快挙であった。

 いかつい、むさ苦しい、汗臭い選手たちの死にものぐるいの戦いは、スポーツの中で最も過酷なものであることを実感した。

 試合終了後は、「ノーサイド」というラグビー独自の世界があり、敵味方がなくなる。まさかの負けを喫したアイルランドの選手やサポーター、国民の反応は実にさわやかで、昨年来スポーツ界を賑わせているわが国界の忌まわしい不祥事を忘れさせてくれるような、心洗われる出来事であった。

 争いごとの絶えない世界であるがスポーツという争いを超える世界があることを教えてくれた。スポーツマン・シップはいささか非現実な感もあるが、世界の不幸を乗り越える力を持っているのかもしれないとも思わせ、昨今の、スポーツに「政治」を持ち込む風潮をたしなめる力もあったように思う。

 まもなく東京オリンピックである。開催を巡って疑惑もあったがクーベルタンの「非現実的」とも言える理想の言葉が実は「現実」であるという世界もあることを実証されることを願っている。


学生選抜は大学自身で-センター試験への疑問-

2019-09-26 00:49:17 | 教育

 英語外部検定利用入試なるものの導入の是非でもめているようだ。いわば入試問題作成と実施の「外注」である。かつて、入試問題作成の能力を欠く大学が、予備校に問題作成依頼をすることがあって話題になったが、本質的には大して変わらない。

 センター試験も似たり寄ったりで、多種多様な試験がある中で、センター試験がどれほどに重視されているのか判然としない。センター試験を受験しないでも合格する道がないわけではない(私学の場合はさらにセンター試験の存在感は希薄)ということになると、あの厳寒の中で、大学も受験生も怯えながら対応した、ものものしい儀式は何だったのかということになりかねない。 

 そもそも、大学入学者の選抜は、受験する大学が独自に作成する試験によってなされるべきであろう。大学には、それぞれ個性がある。定員割れで悩んでいる大学にも、見学の理想がり、本来は、どんな学生でも入学してくれればよいというわけではないであろう。独自の入学試験問題が作成できないような大学などあってはならない。例えば、私学の理工系大学や芸術系大学などは、人文、社会系教科の試験問題の作成ができないのではと思われがちであるが、大学には、「教養的教育」ないしは「一般教育」という分野があり、必修科目を用意している。専任の教員がいれば、入学試験作成が不可能などという事態には陥らないはずである。大事な教育を非常勤講師にたよっていることに問題があり、これは、多くの非常勤講師という不安定な立場の教員を生み出していることと関係がある。専任教員を増やし、大学の責任を明確にすべきである。ついでに言えば、昨今めだっている「任期制教員」という非人間的な採用方式も止めるべきである。

 話を、「各大学は、入学志望者の選抜試験くらいは自前で用意すべきであるというのが本筋」という単純なことに戻そう。そもそも、何のために「共通一次」「センター試験」などという異物が生まれたのか。全国統一の大学入学志望者の資格認定を行うというのなら、まだ話は分かる。また、学生の選抜を、センター試験利用の多い、低レベルの国公立の大学になど任せてはおけないという文科省の認識があるのなら、センターで作成する入試問題のみで選抜を行い、大学は全面的に手を引くということを認めればよい。かつて長期にわたる問題作成の労力を経験した者としては、立派な問題が専門の機関によって生み出されるのなら、全面的にお任せしたい。しかし、センター試験が特別に高品質というわけでもなく、大量処理のために選択肢方式が多く、近年志向されている「長文」解答形式も、大学独自の記述式に遠く及ばないことを考えるなら、適当な時期に廃止するのがよい。大学の自覚、結果としての「精選にもつながるであろう。不測の事態に備えるためには予備問題も大量に用意しておかねばならないことまで考えると、経費の削減、資源の節約にもなる。


情報発信とその責任

2019-09-24 01:40:29 | 教育

 毎日、ほとんどのTV局では、ワイドショー(これは和製英語のようだが)を提供しているが、そこで発信される情報は、局の独自性と言えるものはごく稀で、申し合わせたように同じである。無論、レポーターは、それぞれの局が派遣しているから別人であるが、独自取材といえるようなものは少ない。

 ニュースの報道には、コメンテーターなるものが発するコメント(意見や批評)がつきものである。そのコメンテーターには、なぜか芸人、元スポーツ選手、歌手、作家など、俎上にあげられているニュースや話題に対する専門的知識や経験もなく、井戸端会議並みの発言に終始することがほとんどで、個人による節操のない情報発信と似たり寄ったりである。公共の電波を使ってなされる情報発信が、個人による情報発信よりも影響が大きく、責任も重大であることはいうまでもない。であるなら、視聴者に的確な情報と解説、批評・コメントを提供する仕組みを構築すべきであろう。新聞の場合も似たり寄ったりである。こんなに、質も量も多種多様な情報の溢れる時代にあっても、「テレビで言っていた」とか「新聞に書いてあった」という人間も多いのである。テレビや新聞、さらには雑誌に、このような視聴者、読者に対する責任を引き受ける覚悟と態勢はできているのだろうか。

 不確かな情報を発信して無関係の人間の人権を侵害するという行為がしばしば起こり、誰でも容易に、時には匿名で、どんな情報でも発信でき、瞬時に拡散するということは、一見便利なようであるが、よほど慎重でなければ、思わぬ災厄を生み出すことになる。     発信者が、自分の提供する情報価値を過大に評価するのも滑稽である。パソコンや携帯電話・スマートホンなどで提供されるネットニュースの中には、少なからず「有料ニュース」なるものがあって、見出しだけでなく、相当な分量の導入記事を提示し、肝心な部分は、「これから先は有料です」と、出し惜しみする。発信元が、購読している新聞(これも近年、広告ばかりで、記事の内容も、文章も劣化しているが)と同一である場合は、愉快ではない。このようなさもしい情報の出し方をするくらいなら、はじめから出さぬがよいと思ってしまう。

  ワイドショーには、各社の新聞記事を紹介するものがある。自らの取材によらぬものを情報として切り取って発信することは、報道人の倫理を破壊する行為ではなかろうか。安易な態度である。学術論文における「盗作」「剽窃」に近い。

  情報は、ニュースや記事の形で、その辺に転がっているのではない。それは、報道人によって創られるものであり、個性的なものである。発信者の個性に彩られたものであると同時に、発信者が、その存在、影響について、全責任を負うべき存在である。メディアの安易な姿勢と節操のないSNSは無関係ではないという気がしてならない。


最近の「?」

2019-09-05 22:14:42 | 教育

1 第161回芥川賞受賞作品を読んだ。  話者(視点人物)が定位できずに困惑する作品であった。選評では、その点も魅力、技倆とするものもあったが納得できるものではなかった。  選者のうちには、ときどき、選考作品に違和感を強く感じて、選者であることをやめることがあるが、なるほどと思う。  総合評価=「!?」

2 体育祭の練習の内容   中学校(だったと思う)の体育祭の練習として、火のついた棒をぐるぐる回している最中に、一人の生徒が、腕に流れてきた灯油によって大やけどを負った。さらに腕の火を消すために教員が靴で踏みつけたことも問題になった。火のついた棒をぐるぐる回すという曲技団のような種目の必要性がどこにああろうか。  学校の行事の一環として行われる訓練を、生徒が拒否することは容易ではない。軍隊における訓練のような強制的な性格を帯びる。異常な嗜好による種目選定の結果である。訓練方法非常識になるはずである。

3 指導者の威厳とは?  中学、高校、大学のスポーツの中継が毎日のようにTV放映される。監督・指導者も画面に出る。苦虫をかみつぶしたような顔が多い。時に、生徒・学生を殴って問題になることもある。  概して、実力のない指導者は、威圧的な態度に走ることが多い。尊敬されるための工夫であるが、尊敬でなく、威圧的になり、恐怖をあおる存在になる。真に力のある指導者は、威圧的になる必要がないので、穏やかである。指導者は人格者でなくてはならず、同時に、専門家でなくてはならない。    教員の働き方改革の一つとして、クラブ活動の指導者を外部に頼ろうとしているが、不適格な人間が、教育の場に入り込む危険性がある。教育は、専門家によってなされるべきである。教員に過大な負担を求めることのないように、教員の数を増やすか、それが無理なような過酷なクラブ活動は、社会体育等、学校から切り離して受講者の自由意思に基づいて行えばよい。

4 短ければよいわけではない。  新聞の大見出しは、極限まで絞り込んだ言葉で端的に記事の内容を示すと言う意味では、なかなか大変な仕事である。  ところで、以下の見出しで、内容が想定できるか。   子に異変「あなたのままで」/大人も抱えず相談場所を(毎日新聞 2019年8月24日)   わざと分かりにくい見出しを付けて、記事本体に誘引しようという試みでもないようである。最近の見出しは安易に短くしているようで、読者はいらいらする。  欧米の作家のだれかが、「今日は忙しいので長い手紙しか書けません」と言い訳したというが、端的な表現とは難しいものであり、プロの記者の腕の見せ所のはずである。