それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

ロブスターへのスイスの温情

2018-06-26 22:33:41 | 教育

 (登る勇気がなくなる石段)

 以下は、毎日新聞発のネットニュースである。全文を紹介しておこう。
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 [チューリヒ 10日 ロイター] - スイス政府は10日、動物保護規定の見直しを発表し、ロブスターなどの甲殻類を活きたまま熱湯でゆでる調理法を禁止する規則を設けた。
  3月から施行されるこれらの規則では、「ロブスターなどの活きた甲殻類は氷や氷水に漬けて輸送してはならない。水中生物は常に自然と同じ環境で保存しなければならない。甲殻類は失神させてから殺さなければならない」と定めている。
 また、違法な子犬繁殖場の摘発を狙い、吠える犬を罰する装置を禁止したり、病気や負傷した犬を安楽死させる条件について細かく定めるなどした。
 隣国のイタリアでも最高裁が昨年6月、ロブスターを不当に苦しめることになるとして、調理前のロブスターを氷漬けにして保存することを禁ずる判決を下している。
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 德川5代将軍綱吉の「生類憐れみの令」と見紛うような規定である。スイスという国家・国民が生き物の命を尊重する姿勢であることを世界に宣言するものとして、画期的な規定である。
 このような思想の行く手には、「ベジタリアン」が理想型として設定されているのかと推測したが、そうではない。「ロブスターは、失神状態で料理すればよい」というのであるから、釈然としない。「自然の状態で生かし、やさしく殺す(そして食べる)」ことに罪悪感はないのだろうか。イルカや鯨は食べてはいけないが、牛や豚はその限りでないという発想とも似ていて素直に納得しがたい
  かつて、若い同級生が海岸近くの料亭で懇親会を計画した。誰が幹事だったか憶えていないのだが、料理の中に「活け作り」があった。料理が出てきたが、参加者の誰も箸を付けられなかった。生きて(半死半生で)ピクピクしている魚が無残で食べる気にならなかったのである。そのとき以来、活け作りは食べていない。煮魚を食べるときも、生きている時の姿を想像しがちである。できることなら食べないで済ませたい。「白魚の躍り食い」などもってのほかである。
 わが家では20年以上、金魚を飼っている。比較的弱い魚で、代替わり(自然死による)はあるが、今も6匹が元気に泳いでいて、指を入れると、全員が近寄り、つついてくる。中には、頭をこすりつけるだけで、スキンシップを済ませたとばかりに安心の様子を見せるものもいる。こういう魚たちを見ていると、とても「釣り」などする気にはならない。最近は「刺身」からも遠離っている。
 スイスも、生き物(動物)を殺し、食べることを一切認めないという規定を作るのなら、それなりに分かる。私の友人にオーストラリア人のベジタリアン家族がいる。日本で数ヶ月一緒に暮らし、また招かれてかの国を訪れ、食生活をともにする機会があったが、動物を殺傷しなくとも生きていくことはできることを理解した。道中の機内食やレストランにはベジタリアン用のメニューがあった。しかし、日本で生活するのは大変に難しいということも分かった(例えば、鰹節で出汁をとったうどんもだめである)。ベジタリアンが一般的な食生活,食文化として定着していないからであろう。
  スイスでは、ベジタリアンが多数を占めて、不自由をしない程度に菜食の習慣、文化が定着しているのだろうか、そうでなければ、「生類憐れみの令」のような混乱(この法令にもプラスの事例もあったようだが)を招くことにならないか。動物の命と、それに依存する人間の生存との関係を突き詰めて考える機会を提供してくれていると考えたい。
 


我田引水・牽強付会・自画自賛

2018-06-26 00:27:10 | 教育

 2日前の新聞に、大きな広告があり、その見出しに、「新聞購読で寝坊ふせぐ-7割以上が『寝坊少ない』」という大きな文字の表現があった。広告主体は「新聞科学研究所」だという。いかにも科学的根拠のありそうな構えである。
 もう少し詳しく紹介しておこう。
 「購読者と非購読者合わせて2472人への調査から新聞と朝寝坊に意外な関連性があることがわかった。」(リード)
 『寝坊が少ないか』という質問に対し、新聞購読者は72.9%、日購読者は60.0%が少ないと回答した。その差は12.9ポイント。……(中略)……新聞や目覚ましにつづく、新たな寝坊防止グッズとなれるだろうか。」(本文)
  新聞を読むと朝寝坊が防げると思わせる情報操作を行っている。新聞科学(こういう科学分野があるのかどうか知らないが)研究所なるいかにも権威のありそうな組織名も、重みを付与しているように見える。
 常識的に考えて、「新聞購読」が寝坊防止に直結するとは思えない。朝早く起きる習慣があるから新聞でも読もうかという時間の余裕も生まれるというにすぎないのではなかろうか。明朝は、新聞を読むぞという心構えで就寝し、早起きする人間がいないとは言えまいが、極めて稀であろう。つまり、新聞を読むことが早起きの原因ではなく、結果にすぎないのではないか。従って、ぎりぎりまで寝ている人には、新聞を読む余裕がないのである。
 早起きの原因は、前の晩の晩酌の習慣であるかもしれないし、散歩の習慣に起因する適度な疲労よるのかもしれない。早めに床に就き、ぐっすり眠れば、早起きは可能である。つまり新聞購読が早起きの原因とは限らないのである。例えば、「適度な運動は寝坊をふせぐ」でもいいし、「適量のアルコールは寝坊をふせぐ」とでも言う方が、原因として取り上げる必然性があり、納得しやすい。新聞が目覚ましに替わる機能を果たしているとは言えまい。
 新聞は諸事象を加工して、生み出された情報を掲載する媒体であることは疑う余地がない。今回の情報の生み出し方も、そのことを如実に表現している。新聞に書いてあったなどという理由で、報道される情報を鵜呑みにしてしまってはならないのである。情報発信者は、常に、発信者に都合のいい加工をするものなのである。政治の世界では、あったことをなかったことにするというような大胆な過去がおこなわれているし、公文書の改竄などは珍しくもなくなっているのだから、情報を売り物にする企業が、自分たちに都合のよいような情報の生み出し方をすることは不思議でも何でもない。こういう行為を表題の4文字語のように呼ぶのである。


学校の安全をどう守るのか

2018-06-21 14:52:47 | 教育

 (大きくなった庭のリンゴ)

 先日の大阪府北部地震で、小学校4年生の女児が、自分の小学校のブロック塀の下敷きになって死亡するという、信じがたい事故が発生した。
 児童、生徒を預かる学校が、安全であることは、何よりも重要な条件である。ところが、建物の建築上の不備に起因する事故は、まだまだ発生する可能性が高い。今回の事故を受けて、市町村当局、さらに具体的には教育委員会は、早速守備範囲にある学校のブロック塀のチェックに取り組み、違法な建築物であることが判明した事例が多数存在することが判明した。「地震の時には壁から離れましょう」という注意書きを壁に貼り付ける学校もあり、苦笑するしかなかった。壁から離れるといっそう危険なのではなかろうか、そもそも通学路、児童・生徒用の歩道とは何かが疑わしくなるようなその場しのぎの措置である。 今回のJ小学校の場合、塀には、明るく楽しそうなイラストが描かれており、学校の見識のなさを浮き彫りにした。学校にブロック塀を作るに際しては、少なくとも、以下のような判断や行為があったはずである。
 ・学校のプールをのぞき見されないように、目隠しを作るという企画・立案
  ・素材、構造のプラン、業者の決定
 ・完成した構造物の安全性の点検
  これらに関わった部署や人間には、安全性確認の機会がいくつもあり、責任もあったはずである。(塀の危険性を、色と形で糊塗してしまった、イラストのデザインの検討などは論外である。)
 自治体が、一括して工事を処理するような場合には、個々の塀の特性、安全性にまで目配りができず、いい加減なものを作ってお茶を濁すなどということは、大いにありうることである。発注者の頭は、費用で占められていることが多いからである。
 私の住まいするH県でも、県知事が早速「県内の小・中学校のブロック塀の安全性の点検」を指示したようだ。なぜ、ブロック塀限定か、なぜ小・中学校だけで幼稚園、保育所、高等学校、大学は除外するのか不明である。所詮は、表面上の「対策」なのであろう。
 学校の安全性や危険性に最も責任が重く、事態を細部に渡って認識しているはずの者は、当該施設(学校)の教職員であろう。そのはずであるのに、今回のような事態を予測できなかったのはなぜか。
 教職員には転勤がある。都道府県、自治体による違いはあっても、転勤のない所はないだろう。大雑把に言えば、10年も経てば、全部が入れ替わっているということになろう。勤務校への帰属意識は希薄である。自分の学校という意識の乏しい人たちにとっては、その安全性や危険性の認識、責任感も軽くならざるを得ない。つまり、長期間住み続ける場としての自宅に対するような認識、責任感を維持しにくい仕組みになっているのである。

このような仕組みは、教育機関を管理する自治体、教育委員会でも同様であろう。学校全体に対して、長期にわたる、全体的な責任体制を築きにくくなる。前任者の責任、私の責任ではないという逃げを打つことができるからである。
 昨今、国内外で多発する、銃を持って学内に侵入し、無差別に襲撃したり、刃物を振り回して児童という弱者を襲うような加害者に対応するには、家族のいる自宅のような帰属意識が大前提ではないだろうか。かつて、秋葉原の交差点での傷害事件の際に、長い旗棹を持つ若者が逃げ惑っているのを観て、なんと不甲斐ないと怒りを感じたものであるが、希薄な帰属意識は、同様の行動の原因になる。
 試験的に、小規模の私立学校や多くの大学のように、転勤のない職場を作ってみてはどうだろうか。そこでは、教職員は、勤務校の安全性についてあらゆる責任を帯びる。組織としての緊張感を担保できるはずである。組織としての健全なあり方も模索せざるを得なくなり、管理職の自覚、同僚間のコミュニケーションのあり方も真剣に考えなくてはならなくなるだろう。組織が固定すると問題が生じる(これがあの転勤制度の大きな根拠であろうが)というのなら、その種の問題は、転勤があっても生じる可能性がある。どの職場にも問題を抱えたり、発生させたりする人間は存在するのである。転勤とは別問題である。


”シルバーシート”方式教育の否定

2018-06-19 01:25:06 | 教育

 幼児の虐待、殺人とか闇サイトによる誘拐、殺人とか、小学生の拉致殺人、だれでもよかった殺人とか、安易に人の命を奪う事件が続いていて、呆然とする。犯人の多くは、「命」というとき、自分の命のことは、それなりに大事に思っているらしいのが皮肉である。
  「命が大切である」ことは、人格異常者でないかぎり、だれでも分かっているはずである。が、多くの場合、「頭で分かっている」状態のようである。「悪いことをしてはいけない」という教訓のレベルであって、身に染みて、リアルな問題として認識できているわけではなさそうだ。
 話題になっている道徳教育の教科化は、このような問題状況の解決に貢献できるだろうか。おそらく、徳目についての知識は増えるであろうし、寓意、教訓を内包した作品にふれて、それなりに感銘も受けるかもしれない。しかし、それは、「シルバーシート」方式の教育であり、対症療法的な対策の域をでない。
 特別に人格、性格に問題がない限り、「悪いこと」がどのようなことであり、「してはいけない」ということについての知識は持ち合わせているだろう。にもかかわらず、悪いことに手を染めるのはなぜか。それは、知識を超えて、実感として、身に染みて理解できていないからであろう。週に1時間や2時間の特設の時間に教育を受けたからといって、実感をと伴う、いわば生活感覚として、人間として、考えるまでもなく当然のこととして身につく教育が実現するであろうか。人権教育や平和教育についても同様である。後ろ指を指されないように、一応、指導はしましたといういいわけはできる。電車やバスに弱者向けの、わずかな席が用意されているように、無視してはいないのである。大事なことを教育しているという態度表明であり、「免罪符」なのである。そのシルバーシートに、学校でもっともらしい授業を受けた、しかも学割の定期券を持った若者たちが、堂々と座ってはいないか。人権教育を受けた学校にいじめはないか、自殺者は出ていないか。
 学校は、授業を含めたすべての学校生活の中で、人権意識について学習できていなくてはならない。平和についての授業を受け、講演を聴くことも無駄ではなかろうが、生活の中で、他者の人格、文化を尊重し、命を守るということを実感できる連続的な場面が存在しないことには、頭では分かるという限定的な理解に終わる。シルバーシートも一定の意味はあろうが、すべての席がシルバーシートになることなしに、弱者への配慮は限定的である。その意味で、学校は、命の教育をする場として、学校生活のすべてが、命の尊厳を実感する理想的な場でなくてはならない。つまり、特設の、わずかな時間配分をされる細切れ授業では不十分なのである。学校は、世間離れしているといわれようが、大人の世界とは異質であるといわれようが、人間が生きていく上で理想的な生活の実践の場でなくてはならない。悪いことを憎み、何の前提もなくよいことが実践できている場でなくてはならない。こういう場の構築、こういう場で生きることは大変なことである。教育が専門的な資格を有する者によって行われるのは、こうした難事業を実現するためには当然のことである。気の重くなるような職業であるし、しばしば失敗もするであろうし、投げ出したくもなろう、こういう仕事を選んだことを呪いたくなることもあろう。他の職業にも似たようなところはあろうが、教育は、専門的な訓練を受け、資格を取得した者によってのみ行われる営為である。教育の道を選んだ限りは、嘘くさくとも、人間の理想の実現のために力を尽くさなくてはならないのだろう。しばしば耳にする、教師によるいじめ、暴行等は、教育という世界における異物であることはいうまでもない。

 (それにしても、時々出現して、世間を震撼させる「誰でもいいから殺したかった」という異常かつ無法な人間をどうとらえればよいのか。正常な精神状態でないと判定されれば、法的責任を問われることなく(措置入院等を経て)、いずれ社会に帰り、「また人を殺したくなる」と嘯くような人間をどう捉えればよいのか、そういう人間と隣り合わせた場合に、自らや大切な人をどう守るのか、守れるのか、私には答えが見つからない。)


「根拠」「わけ」を疑う

2018-06-06 12:07:51 | 教育

 (バラ園にて)

 小学校では、体操服の下に肌着を着ることを禁止している校則があるそうで、保護者間に不評の場合があるとの報道があった。
  肌着着用不可の根拠は、「肌着を着たまま汗をかくと体が冷えるため」なのだという。「汗臭くなるから」という理由を挙げる場合もあるというが、根拠として妥当といえるか。そもそも体の冷えや汗の臭い防止にまで気を遣う「きまり」(校則)が必要か。過剰な親切心ではなく、執拗なプライバシーの侵害であり、気持ちが悪い。かつて、女子児童、生徒の下着の色やスカートの丈、シューズの色、形状まで規制する校則があり、話題になった。その後どういうことになったのか知らないが、生き残っている可能性もある。髪の色、形状に関する規則は生き続け、赤毛や縮れ毛で遺伝性のものは、それが生まれつきのものであることの証明を要し、髪を染めた、ミニスカートの教員がチェックするというような滑稽な事態を生み出すこともある。しばしば教育研究のために小学校を訪問したが、髪を金髪に染めた教員を見ることもあった。規制を受ける児童や保護者の目にはどううつっていたのだろうか。
 かつて、関係する大学の附属中学校教員による作文指導の一貫として意見文を書かせるという活動があり、制帽着用の規定は不要、不適切ではないかという生徒による反発が明らかになった。学校側による校則設定の根拠は、「本校の生徒としての誇りの象徴」であり、「頭部の保護、安全確保」など、いかにもとってつけた事柄を持ち出したが、生徒を納得させるに足るものではなかった。
  規制には、すべて根拠があるはずである。初めから根拠、理由のない規制、規則はつくらないであろう。問題は、その根拠に合理性があるかどうかである。10年以上も前に、四方八方見通しのきく田んぼの中の交差点で、一時停止違反の切符を切られたことがある.確かに停止線はある。止まらないことは規則違反であることは分かるが、四方八方、数百メートルも見通しがきく田んぼの中の交差点で「止まれ」という規則の根拠は、今だに分からない。パトカーの二人組のうちの若い警官は、切符を切る先輩の行為を恥じているようで、運転席でうつむいたままであった。規則通りの行為を、後輩に見せつけることの不合理、いかがわしさを感じていたのであろう。善良な市民の私は反則金を支払ったが、その後、警官による交通違反、そのもみ消し等の不祥事報道に接すると頭に血が上る。
  九州の大きな都市に住んでいたとき、市の中心部にある県庁の近くで火災が発生した.消防隊が、県庁の防火用栓を利用しようとしたところ、警備の人間が、「上司の許可をとらねばならない」と使用を阻止したことが話題になり批判された。警備員の行動には「根拠」がある。しかし、その言動は、妥当とは言えない。緊急の場合の柔軟な対応が欠落しているのである。おそらく、事後に上司から叱責されたであろうが、その意味が分からずに不満だったに違いない.「校則」は、これに似たような性格を持つものが多いのである。 
 根拠の妥当性を問題にせず、規則を押しつけることは、児童、生徒の自ら思考、判断し、行動する能力を奪うことになる.最近話題のアメフトの優れた指導者は、闇雲に命令するのでなく、選手たちに考えるきっかけを与えるのだという。昔、サッカーチームの監督がサッカー上達の鍵は、選手たちの話し合い技術である、つまり言語技術であると言って話題になったが、これは無意味でお節介な校則の対極にある「正論」である。(ただ、「正論」と言われるものには、多くの場合いかがわしさもつきまとうので警戒したい。「正」という言葉そのものが検討無用の根拠のように聞こえるからである。「正」と言われるものも、その正否を自らの頭で判断しよう。)