それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

「論理」を、どこで教えるか

2017-06-29 01:28:11 | 教育

  (東広島:吾妻子の滝)

 学校教育において、「論理」(平たく言えば「理屈」)を、どこで、誰が教えるべきかを考えてみたい。
 というのは、現在のわが国の政治の世界には、理屈の通らぬ、非論理的な事象がまかり通っているからであり、そのことを実感する人間が、あまりに非力な存在だからである。もともと非力な国民が、せめて身につけるべき武器としての「論理」の力を育成することは、教育の責務ではないかと考えられるからである。
 教育の世界で、「論理」という言葉を探してみると、「論理的思考力」「論理的文章」などに行き当たる。これらは、国語科教育の内容に含まれる。かつては、もっと生の形で「論理学」(記号論理学)に関する教材が、国語科の教材として教科書に取り上げられることがあったが、一時の流行として、今日では、ほとんど(全く)姿を消してしまっている。

  東京都では知事選の真っ最中である。古くなった築地市場から、新しい市場に移転するかどうかでもめており、知事が結論を出さないので、業者はやきもきしていた.新市場である「豊洲」は、ガス工場の跡地で、汚染されており、除染の工事が不徹底、建物ができた後も、地下水からは有害物質が湧出して、食料を扱う場としては不適当だという。専門委員会によると科学的には「安全」という結論を得ているが、知事は、「安全」に加えて「安心」という心理的要因を満足させる状況でない限り、新市場として不適当であり、築地という現在の市場を改築するという意向を示し、いっそう混乱していた。ところが、その築地は、アスベストを使用していること、ネズミの大群がいるなどの理由で、その存続は難しいということに加えて、地下水を検査したら、ここからも有害物質を検出されてしまった。つまり新市場と同じ問題を抱えていることが判明したのである。
 こういう事態に陥ると、知事という責任者、都議会によって決定された規定路線を否定した知事としてはお手上げ(論理的に破綻した状態)のはずであるが、そこは、政治家である。「両方を使用する」と言い始めた.論理的に考えれば、築地、豊洲が、ほぼ同じ理由で不適格なら、第三の土地を探すのが当然であろうが、現実問題としては、すでに多額の税金を使用しており、移転実施が遅れると、さらに多くの赤字を抱えることになる。
 さすがに、ただただ反対を表明して、事態を混乱させた知事による曖昧な結論に、業者も怒りを隠せないようであるが、この結論も、都議会による決定を受けたものではない。都民ファースト、情報公開と言いつつ、どこで誰がきめたのか判りにくいプロセスを経て、独断的にことを決するという独裁政治型の言動を、通常は、「わがまま」という。いずれ矛盾する結果になることを見越して、その解決方法を、アオフヘーベンだの、鳥の目だの、総合的観点などという言葉で逃げを打っていたのであろう。

 一方、都議選で、都民ファーストの会と対立する自民党についても、様々な非論理的問題状況が浮上してきている。特に、自民党の領袖である総理の言動が非論理的であって、周辺を慌てさせている。
 今治市の大学に、獣医学部を新設するという一件について、かねて、これは、この地域(特区)に限定するものであって、他の地域に適用しないと言い通し、他の大学の申請を諦めさせたという経緯がある。この新設について、総理の意向が反映されているのではないか、その意向を示す文書が文科省から多数発見されているというので、野党は大騒ぎをしている。
 岩盤規制と言われる従来の規制を緩和するために設置された特区であってみれば、首相がリーダーシップを取って、現実に合致した新学部を設置すること自体に問題はなかろう。この間の経緯を「丁寧に説明」すれば、多くの人の了解を得られるはずのものではなかろうか。それを、総理の権限など働きようがないなどと突っぱねるから野党を元気づけ、文書の有無というレベルの低い小学生のような(いや、小学生に失礼)騒ぎを招いている。問題の本質が見えない。
 ところが、ここに来て、総理は、地域を限定せず、二つでも三つでも、新規に獣医学部を新設すればよいなどと言い出している。明らかに、これまで言ってきたことと整合性がない。つまり非論理的である。唐突に持論を表明する癖のある総理ではあるが、さすがに、今回の変節は、周辺を慌てさせている。このあたりのしたい放題は、知事のわがままにひけを取らない。 
 

   学校で、論理学を体系的に指導する必要があるのかないのかは、検討の要があろうが、そんな回りくどいことよりも、日常生活レベルで、理屈にあっているかいないかを見抜く能力(生活的論理能力とでも呼んでおこう)を育成することは、国や自治体の義務、責務ではなかろうか。論理的文章の読解能力、表現能力を指導する場は、今のところ国語科であるが、ものの役に立つような教育がなされてはいない。騒ぎの渦中にある文科省の教育理念にこの問題がきちんと受け止められているなどとはとうてい考えられない。
 とするなら、せめて「論理的能力」育成の場たりうる国語科担当教員が、生活に役立ち、自分の身を守るための教育を保障しなくてはならないと決意し、実行する必要はないか。


AI(人工知能)と人間

2017-06-24 21:33:09 | 教育

 (三原・三景園のあじさい)

 ひょいと点けたテレビで、人工知能の開発を行っている女性研究者の言葉が耳に入った。AIは、東大に合格できるかというプロジェクトがあることはかねて聴いていたが、それに関係する話である。どうやら地方大学の70%二は、合格可能らしい。地方大学というものの実体が判らないが、人間の受験生の情意レベルに達しているらしいことをしめしている。
 ところが、AIにも弱点あって、例えば、国語の文章読解問題には歯が立たないということであった。さらにおもしろいことに,AIの不得意分野は、人間の受験生(高校生)も不得意(成績が悪い)ということが明らかになった。
 研究者のことば、「AIどころではなく、まず人間を何とかしなくちゃ.」は、深刻な事実を指しているのであろうが、滑稽に聞こえた。本当に安心してはいられない。
 果たして、人間は、AIよりも優れているのか、劣っているのか。AI将棋ソフトだけがAIではない。また、人間とAIを比較するには、ゲームの能力だけでは不十分で、少なくとも、人間の脳もAIに匹敵するか、それを凌駕する分野があるという、わずかばかりの光を見いだしたような気がする。


言葉と人と(「エリート」議員の言動)

2017-06-24 01:44:13 | 教育

  (菖蒲のつぼみに止まったトンボ)

 言葉と言葉を使用する主体との関係を問い直す事例が、また発生した。自民党議員(二期目)の豊田某が、秘書である年長の男性に対して、聴くに堪えぬ悪口雑言を吐いたあげくに(吐きながら)暴行をしていた。しかも秘書は運転中であった。一部始終は録音されており、秘書は、告訴するようである。
 同女史は、東大を卒業し、中央官庁に勤めながら、ハーバード大学を修了したそうで、いわゆる「超エリート」であると、ワイドショウの司会者は、紹介していた。同席していた女性弁護士は、自らも東大出身であることを意識、意図していたかどうか、「超エリートではなく、準エリート程度」と解説したというから、「エリート」という概念のうちには含めているようで、後味が悪い。
 東大、ハーバード大という、知的面での教育においては、恵まれた道を歩みながら、いったい、人間としての教育は、一切なされなかったのか、あるいは根本的に間違った育てられ方をしたのか、そちらの方に関心がある。受験学力、IQ重視そのものは、あながち否定されるべきものではあるまいが、学力の行使に際しては、行使すべき人間のありようが問題になる。問題になるというよりも、人間のありようによって、身につけた能力は、生きも死にもするのである。悪口雑言は、その言葉の品位のなさ、暴力性以上に、それを口にする人間の品性を貶めるものであり、人間としてのエリートなどではなく、最底辺以下の存在である。いったい、自分を何様と思って生きてきたのであろうか。だれもそれを指摘し、諫めるということはなかったのだろうか。人間としての過去のお粗末さを思うとき、将来も閉ざされてしかるべき存在である。
 言葉は、ニュートラルな存在である。どのような人間の口からも発することが可能である。と同時に、言葉は人間のありようの証明書であり、また人間性向上の栄養源でもある。人を傷つけることができるとともに、人を励まし、自分を鍛え育てる手段ともなる。過程や学校における言葉の教育を考え直すための「反面教師」として、今回の暴言、暴行議員の事例をとらえたい。
 それにしても、自民党の二回生議員に問題が続発するのはなぜであろう。立候補者の多くが当選してしまったことが原因の一つであるようだが、そういう人間を候補に挙げること自体が無責任である。離党させて済む問題でもない。
 また、それにしても、東大卒という経歴の政治家のお粗末な言動が続くことも理解しがたい。他の大学ならよいというのでもない.高等教育無償化の動きがある中で、高等教育とは何か、国民のどのような付託に応えられるのか、再考が必要である。 

   ノンフィクション作家の梯久美子が、編集者として働いた折の編集長であったやなせたかしの言葉を紹介している。
 「天才であるより、いい人であるほうがずっといい」(月刊「文藝春秋」7月号、p.261) (このところ月刊文藝春秋誌からの引用が多いが、たまたまそうなている。)
 やなせは、地元高知県で愛されている。学校訪問で数度、高知県の南国市を訪れたが、道中の特急車両の天井絵が、大きなアンパンマンであることにびっくりした。遊園地の乗り物のような車両の中で、きっとやなせは、アンパンマンのようなひとだったのだろうと想像した。そして、アンパンマン=いい人だったのだろうと納得した。


言葉、言葉……

2017-06-21 02:38:28 | 教育


アウフヘーベン
鳥の目
三次元で考える
ワイズ・スペンディング
総合的観点
「……ファースト」

 ここにあげた言葉は、すべて都知事の発言のキーワードである。
 いずれも、曖昧でどっちつかず、つまりどのようにでも想像できるという言葉である。かねてより、マスコミ受けの効果を考えて、ワイドショーが飛びつきそうな言動に走り、それなりに成果を見せてはいたのであるが、ここに来て、いろいろと破綻を来しているようである。
 私たちは、言葉によって考え、言葉で問題解決をし、言葉で説明し、主張し、言葉で理解する。つまり、言動のほとんどは、言葉に集約される(象徴される)とも言える。
 就任以来、あれもこれもダメと否定的な言動を続けてきた知事が、では、あなたはどうするのかという問いかけをされた場合に困ることになるぞと想像していたが、案の定、にっちもさっちもいかなくなって、上記のような具体性のない言葉、意味不明の言葉をハッせざるを得なくなったのであろう。AがいいかBがいいかという問題に、AもBもという妥協案はなかなか通用しない。そこで、意味不明の哲学用語である弁証法の「止揚」を意味するアオフヘーベンというドイツ語を持ち出したのであろう.折も折、本日、知事は、築地に出向き、業者に大して市場の将来の説明をしたが、これがAもBもという矛盾に満ちた結論であった。具体的に業者の取るべき道を考えれば、非現実的であるが、今となっては、矛盾を業者に丸投げするしかなくなっているのであろう。問題を、二次元ではなく、三次元でとらえなくてはならないという珍説を披露していたが、目くらましの用語であった。
 「ファースト」という言葉も、流行した。トランプの「アメリカ・ファースト」には、その自閉症的な姿勢に呆れかえる人も多かったであろうが、わが国にも、それに負けない「ファースト」が存在している。都民ファーストも、詰まるところ、自分ファーストの、独裁主義的な姿勢に過ぎないことが判ってきた。この数代の問題の多い知事と同類であった。
 作家、研究者の塩野七生が、六月号の「文藝春秋」に、「がんばり過ぎる女たちへ」というエッセイを書いている。まさに都知事の言動、問題と重なっていて、興味があり、教訓に富んでいる。その中に、次のような一節げある。
 「マスコミとは、やるべき仕事を淡々とやっているだけでは報道してくれない。やるべき事柄は放棄しておきながら、やらなくてもよい事柄にしつこくこだわっているとニュースにしえくれる。」

  げに、言葉とは恐ろしいもので、言語行動主体の特性、問題を、すべて露呈するものである。なみの国語教育では、太刀打ちできないことがよく分かる。母国語によってなされる言語活動を読み抜く力、主張する力、論議する力は、学習指導要領の内容では根本的に不足していることを認識しておこう。このところの政治的な問題では、文科省は、無残な姿を国民の前にさらけ出したのである。教育を語り、指針を提示するにははずかしすぎよう。


文科省文書の怪-情報リテラシー

2017-06-16 14:22:44 | 教育

 前文部科学次官が提示した文書について、それが文科省に存在するのか否かが問題になっているという.何という低次元な問題処理であろう。情報リテラシーの育成は、文科省が推進すべき課題の一つではないか。
 ハードディスク内に、「○○」という名称の文書があるかどうかは、検索すれば瞬時に明らかになることである。検索語は、「総理」「意向」である。「意向」は、は変換ミスで「威光」となるかもしれないが、意味としては間違っていない。
 存在しては困る文書の場合は、①文書の存在を確認する作業をしないか、あるいは、②存在しそうにない部署のPCや職員を対象に調査する、あるいは、③あったけれども箝口令をしいて、なかったように振る舞うなどの対応策が考えられる。今回は、これらが複合的に使用された可能性がある。
 副大臣は、公務員の守秘義務まで持ち出して、不都合な文書が外部に漏れることを法的に防衛する趣旨の発言をして批判されている。一般論として逃げているが、彼の経歴から見ると、いかにも官僚的に堕落していて男らしくない。(男らしくないは、セクハラだろうかと思いつつ、最近は、生きのいい女性を称して「男前」と言い、特に問題になってもいないようである。)守秘義務を楯に、一切の情報を閉じ込めれば、官僚、政治家はしたい放題であろう。守秘と、一見矛盾する、情報公開、公益性などをどう考えるのか。
 官房長官に至っては、当初、前次官の提示した文書は、「出所の分からない怪文書」と言っていたのに、文書の存在が確認されて以降は、「事実を真摯に受け止める」、「『怪文書』という言葉が一人歩きした。」などと、さすがは政治家というほどに意味不明で不敵な責任逃れをして、取り巻く記者を圧倒していた。
  19文書のうち、14文書の所在が明らかになったというが、残る5つの文書は何だったのか。また、調査対象以外の文書も出てきたというが、それは何だったのか。そもそも19文書というのは、誰が確定した数字であるのか。
 分からないことだらけであるが、問題は、文書があるかないかではない。出てきた文書の内容が、特定人間や団体等への利益供与という、公平性を欠く行為になっていないのか、総理の権力の不当行使になっていないかどうかであろう。似たような問題としての森友学園問題も、解可決済みのこととは言えない.野党も追及の姿勢、方法が不徹底で能がない。(ある評論家は、「死なばモリトモ」などと揶揄しているが、庶民はこの程度の反抗しかできないのである。選ばれて助成金や給与をもらっている政治家は、もっとがんばってもらいたい。もっともこういう政治状況を招いたのは、選挙権を持つ国民、つまり我々であってみれは天に唾する行為でもあるが……。