(東広島:吾妻子の滝)
学校教育において、「論理」(平たく言えば「理屈」)を、どこで、誰が教えるべきかを考えてみたい。
というのは、現在のわが国の政治の世界には、理屈の通らぬ、非論理的な事象がまかり通っているからであり、そのことを実感する人間が、あまりに非力な存在だからである。もともと非力な国民が、せめて身につけるべき武器としての「論理」の力を育成することは、教育の責務ではないかと考えられるからである。
教育の世界で、「論理」という言葉を探してみると、「論理的思考力」「論理的文章」などに行き当たる。これらは、国語科教育の内容に含まれる。かつては、もっと生の形で「論理学」(記号論理学)に関する教材が、国語科の教材として教科書に取り上げられることがあったが、一時の流行として、今日では、ほとんど(全く)姿を消してしまっている。
東京都では知事選の真っ最中である。古くなった築地市場から、新しい市場に移転するかどうかでもめており、知事が結論を出さないので、業者はやきもきしていた.新市場である「豊洲」は、ガス工場の跡地で、汚染されており、除染の工事が不徹底、建物ができた後も、地下水からは有害物質が湧出して、食料を扱う場としては不適当だという。専門委員会によると科学的には「安全」という結論を得ているが、知事は、「安全」に加えて「安心」という心理的要因を満足させる状況でない限り、新市場として不適当であり、築地という現在の市場を改築するという意向を示し、いっそう混乱していた。ところが、その築地は、アスベストを使用していること、ネズミの大群がいるなどの理由で、その存続は難しいということに加えて、地下水を検査したら、ここからも有害物質を検出されてしまった。つまり新市場と同じ問題を抱えていることが判明したのである。
こういう事態に陥ると、知事という責任者、都議会によって決定された規定路線を否定した知事としてはお手上げ(論理的に破綻した状態)のはずであるが、そこは、政治家である。「両方を使用する」と言い始めた.論理的に考えれば、築地、豊洲が、ほぼ同じ理由で不適格なら、第三の土地を探すのが当然であろうが、現実問題としては、すでに多額の税金を使用しており、移転実施が遅れると、さらに多くの赤字を抱えることになる。
さすがに、ただただ反対を表明して、事態を混乱させた知事による曖昧な結論に、業者も怒りを隠せないようであるが、この結論も、都議会による決定を受けたものではない。都民ファースト、情報公開と言いつつ、どこで誰がきめたのか判りにくいプロセスを経て、独断的にことを決するという独裁政治型の言動を、通常は、「わがまま」という。いずれ矛盾する結果になることを見越して、その解決方法を、アオフヘーベンだの、鳥の目だの、総合的観点などという言葉で逃げを打っていたのであろう。
一方、都議選で、都民ファーストの会と対立する自民党についても、様々な非論理的問題状況が浮上してきている。特に、自民党の領袖である総理の言動が非論理的であって、周辺を慌てさせている。
今治市の大学に、獣医学部を新設するという一件について、かねて、これは、この地域(特区)に限定するものであって、他の地域に適用しないと言い通し、他の大学の申請を諦めさせたという経緯がある。この新設について、総理の意向が反映されているのではないか、その意向を示す文書が文科省から多数発見されているというので、野党は大騒ぎをしている。
岩盤規制と言われる従来の規制を緩和するために設置された特区であってみれば、首相がリーダーシップを取って、現実に合致した新学部を設置すること自体に問題はなかろう。この間の経緯を「丁寧に説明」すれば、多くの人の了解を得られるはずのものではなかろうか。それを、総理の権限など働きようがないなどと突っぱねるから野党を元気づけ、文書の有無というレベルの低い小学生のような(いや、小学生に失礼)騒ぎを招いている。問題の本質が見えない。
ところが、ここに来て、総理は、地域を限定せず、二つでも三つでも、新規に獣医学部を新設すればよいなどと言い出している。明らかに、これまで言ってきたことと整合性がない。つまり非論理的である。唐突に持論を表明する癖のある総理ではあるが、さすがに、今回の変節は、周辺を慌てさせている。このあたりのしたい放題は、知事のわがままにひけを取らない。
学校で、論理学を体系的に指導する必要があるのかないのかは、検討の要があろうが、そんな回りくどいことよりも、日常生活レベルで、理屈にあっているかいないかを見抜く能力(生活的論理能力とでも呼んでおこう)を育成することは、国や自治体の義務、責務ではなかろうか。論理的文章の読解能力、表現能力を指導する場は、今のところ国語科であるが、ものの役に立つような教育がなされてはいない。騒ぎの渦中にある文科省の教育理念にこの問題がきちんと受け止められているなどとはとうてい考えられない。
とするなら、せめて「論理的能力」育成の場たりうる国語科担当教員が、生活に役立ち、自分の身を守るための教育を保障しなくてはならないと決意し、実行する必要はないか。