それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

外国語と母国語の間

2017-07-31 22:24:35 | 教育

 (もらい物のズッキーニ)

 昨今は、母国語である日本語は、相対的に外国語特に英語よりも軽く見られている。中等学校レベル(アメリカンスクールにあらず)でも、すべての教科の授業を英語で行うというところもある。公立のスーパー・グローバル・ハイスクールなる珍妙な英語名の学校も設立され、グローバルという、今更はやりもしない視野や思想を持つ人材を世に送り出そうとしている。江戸末期か明治初期のような欧米絶対主義の時代にいるようで、はなはだ落ち着かない。
 明治の時代には、わが国の文部大臣が、まじめに、日本語を止めて英語を採用しようと思いつき(この思いつきは、今日の視点からは滑稽であるが、当時としては必ずしも笑うべきものではなかったようである)、アメリカの言語学者を訪問して相談して、窘められ、断念したというエピソードがある。行き着くところまで行くとこうなるのである。
 英語で言語活動ができれば、グローバル・マインドの人材が生まれるのか?英米の国民は、すべてグローバルな人間か。むしろその言葉(用語)と反対に、グローバルという主義、主張に反対する人たちが多いのではないか。
 日本語を止めて英語をという発想は、わが国を植民地化しようとする発想に近い。せっかく優れた言語を持ちながら、それを否定して、習得に多くのエネルギーを要する外国語を採用する必要があるのか。例えば、日本の政治家がグローバル・マインドを持たないのは語学力が低いからではない。認識能力が低劣であり、日本のことを碌に理解していないからではなかろうか。
 
 もっとも、日本語第一主義にも陥りがちな問題がないわけではない。(「ないわけではない」は、外国人には分かりにくい表現であるが、日本人で、これが分からない人間はいないはずである)
  日本語は、語彙量の点でも第一級の言語である.東南アジア諸国の大学では、母国語で授業をすることは難しいという.特に、語彙の点に問題があると聴いている。日本人は新しい概念にその衣服としての言葉を創造し、新しい語彙を生み出す名人である。漢字は中国由来であるが、漢字で表現される語彙、語句も、すべて中国由来ではない.日本製の語句が多数存在する。不自由を補う才に長けているのは、高度な技術力を生み出し、世界トップクラスの製品作りを可能にしていることにも通じる。
  しかし、一方で、日本語を尊重するために余計な労力を要するものも生み出した。漢文という、外国語なのに「国語」の教科書に収録されている教材の存在は奇妙であるが、その解釈は、さらに奇妙である。返り点、送り仮名などの工夫によって、原文の中の語句の位置を飛び越したり、引き返したり、日本語の論理で外国語を読もうとしているのである。維新の志士の中には、漢文能力の低いことを逆手にとって、原文の順序の通りに読んでいるふりをして、中国人と同じような読み方をしているのだと嘯く者のいたことを、司馬遼太郎の小説で読んだ記憶があるが、細部については自信がない。しかし、原文通りに読むというのは理にかなっている。
 外国語学習に、「意訳」と「直訳」という二種類があるというのも奇妙であるが、「直訳」は、外国語を日常言語とは別の次元で扱う、一種の知的活動ととらえているところがある。世間一般の人間は、その分かりにくさに絶えながら知的活動に参加させられていたのである。英語というものを、日常的な言語である日本語とは別の、ちょっと分かりにくいものととらえ、それを漢文読解のように、日本語でも中国語でもない発想、論理の、しかし、なんとしても日本人独特の言語に置き換える努力の結果なのであろう。通常の日本語とは異なる訳文としての日本語も、実は、日本語の論理に引きずり込んだ外国語であり、日本人が、日本語の論理という枠の中で理解しえた外国語なのである。日本人の、あの長い英語学習の時間に比して、少しも語学力が進歩しないのは、「直訳」主義の日本語化(新言語としての日本語)が原因ではないかと疑っている。近年は、直訳調の訳文の分かりにくさにた得かねる人たちのために、「超訳」なるものが生まれた.中国語の古典を、日本語だえはない、例えば、英語やドイツ語に翻訳されたものを元に、原典によらずに日本語に直す方法である.明らかに、日本人には分かりやすい.ここまでしなくとも、同一の作品でありながら、過去の翻訳本と最近の改訳本を比べると新しいものの方が分かりやすいことが多い。「直訳」の分かりにくさが露わになってきたのであろうか。
 外国語の学習における「訳」は、「意訳」であって当然であろう。意訳によって、「ああ、日常的に日本人である私が口にしたり書いたり、読んだり、聴いたりしている文や語句は、外国語ではそう言うのか!」とその発想の違いに目を開かされるという知的な刺激が得られる。人工言語のような新・日本語である「直訳」には、その手がかりがない.日本語という刀を武器に、外国語を料理して、自分のものにしようとする、しかも料理し過ぎるところから生じた問題であろう。
 かつて、オーストラリア人の友人に招待されて、短期間かの国を訪れたことがある。公的な目的でもないのに、小学校、中学校、大学を訪問して、授業に参加したり、先生方と交流したりの楽しい日々であったが、英語を使用する人たちの「発想」の違いに驚かされることが多かった。そして、それは、直訳したり、単語に分解したのでは理解できない。外国語を外国語としてまるごと受け入れ、自分の母国語の場合(「意訳」としての言語)と比較することで初めて分かる感動であった。他言語を母国語にしている人との相互理解は、単純に同一化、等質化するのではなく、彼我の違いを理解する必要がある。
 学校訪問には、友人の奥さんの車で送迎してもらうことが多かった。あるとき、訪問先からの帰りに、「家まで、あとどのくらいの時間がかかるの?」と訪ねたところ、次のような答えが返ってきた。直ちに理解できた。
 We are almost there.
  この発想に、びっくりし、感動もした。「ああ、この国の人たちは、こういう発想をするのか」と。
 意訳すれば、「もうすぐよ」ということなのである。
 同じ人から、まもなく手術のために入院するというメールが届いたが、その中の一節である。
  Please don,t worry, no amount of worry will change this situation.
  直訳してはいけない。「心配しないでね。いくら心配してもらったって、しょうがないんだから。」である。こういうnoのつく言葉を含む英文にはいつも感動させられる。日本語にはない発想である。

  日本語を母国語とする人間にとって、日本語は他の言語と置き換えられる存在ではない。英語よりも価値の低い言語などでないことはいうまでもない。また日本語が、他の言語に比してとりわけ優れているという訳でもない。優れている面もあろうが、そうでない面もあるというのが正しいであろう。ただ、優劣の判定ではなく、母国語と外国語の特徴の違いを知ることは重要である。その特徴は、その言語を使用する人たちのどのような発想や論理の違いを反映しているのかを知ることが大切である。


教育・国語教育におけるいくつかの誤解-その3

2017-07-25 03:30:10 | 教育

(散歩の途中、公園で見かけた「栃の木」.マロニエの親戚。)

3 「引用」について:
 論文やレポートを書く際に、他者の論文や作品の引用をすることは少なくないであろう。学生のレポートなどは、ほぼ90パーセントが引用の産物ということもあり、特に、ネットからの引用の是非が問題になっている。ネットからの引用がある場合は、即座に不可という措置をとることもあるというが、私は、書籍はよいがネットはダメという立場は取らない。内容の質次第である。誰でも本を書ける時代にあっては、ろくでもない本(書籍)も多いからである。
 引用を巡っては、困惑した事例が自分自身にもあって、考えるところが多かったので、まずそのことを書いておきたい。
 数年前に、『「評価読み」による説明的文章の教育』なる本を出版した。国語科教育の専門書には、教材研究をはじめとして、教科書教材に触れることが多いが、肝心の教材文が掲載されておらず、検定教科書が手元にない場合には、専門書中の記述が正しいのかどうか理解しにくいということが多い。こういう不自由なことのないようにと考慮して、私の本の巻末には、書中で扱った教科書教材全文を収録することにした。教科書の教材を収録するについては、「著作権」を考慮しなくてはならない。従来の専門書に教材本文が収録されなかったのは、この「著作権」の問題が原因ではなかろうかと推測している。
 教材文収録については、教科書会社に了解をとらなくてはならない。出版者の責任者に相談して、教科書会社への交渉は、その責任者が行うことになった。教科書会社の了解が得られない場合には、残念ながら、教材本文の収録は断念するというのが、私の意向であった。書物が完成した時点で、念のために教科書会社との交渉が済んでいるかどうかを確認すると、驚いたことに「失念」していたという。昨今の政治家の「記憶にない」を想起するような事態である。すでに完成した本には、教材文が収められている。したがって、出版、販売するには、教科書会社の了解が必須になる。
 出版社の責任者は大慌てで交渉を開始したが、やっかいなことに、教科書会社は、著作権の処理については、別組織に移管しているとのことで、問題は複雑を極めたようで、多くの時間を無駄にした。出版前なら、「教材文は削除」で、簡単に解決したものを。
 出版社による案内では、「森田氏の著書は、著作権の問題で、出版が遅れます。」という無神経な説明がなされた。あたかも著者が著作権に抵触するような行為をしているかのような内容である。
 「引用」にかかる文章では、ついでに触れておこうとした事例が、ついつい長くなってしまったが、「引用」とは、まじめに考えれば、かくもやっかいなことなのである。TPPはアメリカによって、困ったことになったようだが、著作権にかかる措置が厳しくなり、本の執筆は、難しくなると言われていたので、それはそれでよかったのかもしれない。少なくとも、検定教科書の教材文を、専門書に収録することなどを規制する必要はないと思われる。大体、専門書で儲かることなど、ほとんどないのであり、教育活動の一環であると考えれば、小さなことに拘泥する必要はなかろうと考えるのであるが、どうであろう。第一、私の著書からの引用に際して、著作権関係の相談や了解の申し入れなど一度もなかった。すべて無断引用であるが、それを問題に使用などとは思わない。(時に引用文献名も明らかにせず、私の著書とまったく同じ表現の論文を書き、また講演している事例があったが、一瞬怒りを感じたものの、こういうこともあり得ると考え直した。)わが国の国語科教育研究の過去の事例では、著作権を厳密に保護しようとするなら、ほとんどの専門書は出版不可となる。出版を萎縮させることになりかねない著作権問題をどう考えるべきだろうか。私としては、専門書については、出典を明記し、利益追求でない場合は、「悪意なし」として、あまり厳しい措置をとらないことが適切であると思うのだが……。
  ところで、「引用」の問題(本題)に戻ろう。
 私たちが引用するのは、どういうばあいであろう。
 ①自分自身の意見、見解等がない場合
 ②自分と同じ意見、見解等の場合
 ③自分とは異なる意見、見解を問題にする場合
 このうち、①は、学生のレポートや、強制された報告書、論文などに見られる行為で、論外であるが、時に研究者の場合にも見られ、出典を明示しない悪質な物もあるので注意したい。
 特に問題にしたいのは、②の場合である。自分の意見の権威付けのために、先人や、著名な人間の著書論文から、該当する部分を引用するのである。だれもが、一度や二度は手を染めている(犯罪のような言い方であるが)に違いない。 
 しかし、考えてみれば、すでに自分以外の人間が、主張したり解明したりしていることなら、敢えて、自分が言う必要はないのである。二番煎じや三番煎じになるはずだからである。権威付けのつもりが、自分のダメさ加減を暴露することになっているのである。しかも、時には、権威をたくさん引用して、内容を豊かにしている(つもり)の人もいる。いろいろな論文や書物を読んでいることは分かっても、本人が創造的で主体的であることの証明にはならない。
 ③の場合は、引用は必須である。偏りのないように、恣意的にならないように、正確かつ誠実に引用しなくてはならない。引用もなく、あってもつまみ食いのような扱いをして独善的な解釈や批評をしてはならない。むりやりに主張をしなくてはならない立場に追いこまれた人間(研究授業の構想に新機軸を打ち立てなくてはならないとか、修士論文等で批評的論考を書かなくてはならない人など)が、問題のある引用に走ることが多い。私も迷惑をこうむったことがある。しかも、問題のある引用を含む論文の写しを送りつけてくる剛の者もある。
 このように見てくると、「引用」とは多くの問題を含む怖いものであることが分かる。オリンピックの広告デザインが問題になったが、これも他人ごとではない。
 これまで、安易に、他者の意見を自分のもののようにしていたかもしれないことや、アンフェアな扱いをして他者の評価や批判をしてこなかったかを反省してみたい。


教育・国語教育におけるいくつかの誤解-その2-

2017-07-21 14:10:10 | 教育

 (実のたくさんついたリンゴの木を購入)

2 「言葉」の重さ:

 「言葉」「ことば」「コトバ」を重く見る立場、場合と軽く見る場合、状況とがある。
 このところの、政治家の言葉は、限りなく軽い。軽いだけでなく、虚偽であることさえ少なくない。謝罪会見における当事者の言葉は、その場を言い繕い、逃れる姿勢に基づくことばであって、真実の響きが欠落しており、私たちは、言葉を信じることができなくて、憤るか、失笑するかしかない。
 教育の場においてはどうか。「言葉」と「経験」が対置される場合、経験、実体験が、リアリティの有無の観点から、相対的に「言葉」は分が悪い。言葉は、中身のない形式にすぎないことが多いと思われるのである。これは、理論と実践の関係にも近い。「理屈ではそうだけど……」「理論倒れ」などに象徴されるような場合がないわけではない。
 verbalismという言葉がある。多様な語義のうちに、内容の軽い表現、内容よりも形式を重視するなどがある。言葉が、このように扱われることがあり、しかも現実、世間などといういかにもリアリティのあるものを持ち出されるので、言葉の立場は弱くなるが、果たしてそうなのか。
 言葉は、形骸化してしまっていることもあり、虚偽のものもあるが、人間しか持ち得ないこの「道具」は、人間にとっていかなる意義を持つのか。
 言葉は、経験を対象化し、抽象化し、意義づけたり分析・批評の対象に据えるための手段となる。経験、体験は、そのリアリティには特筆すべきものがあるにせよ、個別性を有し、一過性のものでもある。そのような経験の意味や問題を問い、価値付け、関連づけ、整理、統合を可能にするのは言葉の機能による。また、人間の知見の多くは、文字言語の形で表現され、記録され、共有される。言葉なくして、人間は、人間たり得ないのである。私たちは、自分以外に読者を想定できない場合でも、自己に向けて、生活の事象や認識、思考、行動のあれこれを言葉にする。言葉にすることによって、表現されたものを対象化することができるのである。
 軽い言葉も多いことは事実である。もてあそばれ、玩具にようになっている言葉も多い。「ヤバイ」などという言葉は、厳格な意味規定を拒否して、あらゆる場に適用された結果、本来の意味を失ってしまった.便利な言葉は不便を生む。
 日本語は、様々な文字によって表記される。ひらがな、カタカナ、漢字、ローマ字と外国人が驚嘆し、落胆するほどに多彩である。せっかくの豊かな表記方式を無視して、KYなどという語が、女子高生によって拡散した。気の利いたようなこの手の操作は、日本語をダメにする。先日は、塾のちらしに、「YDK」とあって、何事かとおもったら、「ヤレバデキルコ」(yareba dekiru ko) なのだという。では、ヤッテモデキナイコはどういうのか。「空気が読める」はどう言うのか。私たちの用いるコミュニケーション手段のうち、その精密性の点で最上位に位置するのは「言葉」であるが、これらは、その精密性を台無しにしている。
  言葉の重要性を再認識するためには、言葉のない世界を想像し、言葉を用いない生活に挑戦してみることである。ものの半日も言葉を使わないではいられない。まず独り言という内言が発生する。これは自己内で行われ得る思考言語の活動である。こういう言葉があるから、私が人間であり、私が私であり得ること、また、私とあなたが交流できることを体験してみよう。


教育・国語教育におけるいくつかの誤解-その1-

2017-07-19 10:34:14 | 教育

 (道の辺の花) 

1 知識、技能の位置づけ: 私たち、教育に関与している者は、知識中心とか技能中心主義などということを否定しがちである。知識中心、詰め込み型教育は古くさい教育の典型であり、大学入試も、ずいぶん多様かつ柔軟になった。
 一見客観的に見える学力評価、しかもその評価の結果が数値化される知識を主体とした設問と回答が主流になることにはやむを得ない事情があることは理解できる。多種多様な知識を溜め込んで、それを復元することは、学力の一部であることは否定できないが、最も重要なことであり、人生の方向を規定するほどの存在ではないことも自明のことである。
 入試では、いろいろな改善策が講じられ、例えば、選択肢型を超える長文解答、小論文、面接などを重視する大学が数多く見られるようになった。AO入試なる、学力をほとんど問うことにない試験も、私大では必須の存在になって来ている。これなどは、学力を評価することなどは投げ捨てて、入学学生数の確保という事情によるもとと考えられ、論外である。企業の採用試験などの内容も、大学入試に近い問題があり、おおよそその曖昧さを否定できない。そこで、所属大学が重く見られることにもなる。根拠の希薄な採用は、退職、転職する若者が大量に生まれるという現象の原因でもあろう。
 断言するなら、大学教職員に、面接で受験生の質を判定する能力はないと思ったほうがよい。また、小論文を分析、評価する能力も、ごく一部の専門家以外には期待できない。結局、知識、記憶を問う試験を廃止するというよりは、多様な方法で学力、能力という複合的で分かりにくいものを手探りし、多様な方法によって評価した結果を総合して判断するというしかないであろう。

 ところで、本稿で主張したいのは上記のようなことではない。
 果たして、知識や記憶は存在悪なのかどうかということである。
 私たちが物事を認識したり、創造したりという高度に複合的な活動をする場合に、知識や記憶はどのように貢献しているであろうか。 
 知識や記憶は、それのみでは、クイズ学力と同じような性格のものに終わり、生きていく上で大した役割を果たさない.一方で知識中心、記憶型能力が批判されながら、クイズ番組がもてはやされるのはなぜだろう.単に、量的に多くのことを溜め込んでいること自体は、善いとも悪いともいえない。多くを知っているものがよりよい生き方をしていることの保障にはならないということである。
 が、知識(何かを知っていること、想起できること)は、金銭になぞらえて言えば、「預貯金」のようなものであり、人間の活動の基本的な部分で貢献していると考えたい。私たちが知的活動のみならず、情動的な反応をする場合にも、何らかの基準、基本、タイプというものがある。その基準等を形成しているのが知識と言えなくはない。気ままに、その場に応じて、直感的に行動、反応することもあろうが、それだけで人生を歩むことは危険である。
 外国語を学習する場合には、文法知識がある方がよい。通販の宣伝文句に、「文法は必要ない。ただ聴くだけ」などというものもあるが、安易に真に受けることはできない。私たちが母国語を習得する時には文法など必要としないことを根拠にすることが多いが、それは獲得語の自由が許されている母国語(第一言語)の場合であって、外国語学習には適用できないのではないか。母国語の知識、学習している外国語の文法知識などが障害になるはずはない。母国語についても、「ラ抜き」言葉の何が、どのように問題があって違和感を覚えるのか走っておいた方がよい。飛躍を承知で言えば、スポーツ観戦においても、当該スポーツのルール等についての知識がある方がより深く、正確に、楽しいのではなかろうか。

 わが国では、二者択一という単純な思考方法が強固である。すっきりして、いいことはいい。しかし、ものによりけりで、教育のように複雑な事象について、二者択一は危険であり、不合理でもある。
 AかBかではなく、AもBもであり、AとBがどのような関係で同居することが望ましいのかを考えるべきである。
 必要な知識は、臆せずに要求しよう。不要な分野や良の知識は排除しよう。知識は、積極的に、より高次の思考活動や創造的、批判的な行為に活かしていこう。預貯金は、溜め込むこと自体ではなく、どう有効に活用するかが必要であるのと同じである。


「単元」について考える(「単元」とは何か、今日の「単元」観の問題)

2017-07-17 16:11:27 | 教育

  (やや時期遅れの合歓の花)

 教科書は、原則的に、「単元」によって構成されているが、ややもすると、「単元」という意識は希薄になりがちである。
 そもそも単元とは何か。19世紀に出現したという「単元」は、わが国には第二次大戦後にアメリカによってもたらされた「Unit」という語によって、一般化し、戦後のわが国の教科書構成の単位となっている。
 現行教科書を参照してみよう。
 例えば、光村図書第5学年用は、以下のような単元から始まっている。
  ①人物のかかわり合いを読み、感想を書こう(読む)
       のどがかわいた(ウーリー= オルレブ作 母袋夏生訳)  この一群の語句のうち、単元名は、「人物のかかわり合いを読み、感想を書こう」である。しかし、一般に、指導者側の意識としては、「のどがかわいた」という作品名の方を意識することが多い。つまり、「単元」は、その存在が形骸化してしまっているのである。 ちなみに、この単元は、種類としては、「技能単元」といわれるものである。

 Unitという英語が示すように、それは何かのまとまり、単位、組み合わせを意味しsている。「何か」とは、学習内容・指導内容のまとまり、単位である。
 戦後にもたらされた単元は、もっぱら「経験単元」であり、アメリカの経験主義教育の成果であった.知識や技能を指導するという過去のあり方に大して、経験を教えるということの曖昧さ、難しさのために、指導内容が不明確になり、系統性も欠くという欠点が露わになり、「這い回るわ経験主義」などと呼ばれた。
 アメリカには、経験主知教育の蓄積の元に、例えば『国語の経験カリキュラム』(An Experience Curriculum in English 1935)というような優れた報告書、カリキュラムの原型が存在するが、そのような基準を持たないわが国においては、行き当たりばったりで、それこそ行政や指導者の経験に頼るしかない経験主義的な指導が展開され、学力の低下を招くことになった。
 一つの生活経験をさせるためには、1群の知識・技能が必要になる。つまり、経験とその経験を支え・実現するための能力群が明確になっていなくてはならないのであるが、わが国の場合、まったく対応できなかった。教育学、教育実践の積み上げの差と言うしかない。このような「経験」に係る成果の乏しさは、その後も災いを及ぼし続け、経験重視の「ゆとり教育」、「生活科」等による教科内容の不明確化、低学力化を招くことになった。わが国の教育政策は、「人間は歴史に学ばないということを歴史から学んだ」という皮肉な言い方が当てはまる状況下にある。

 ところで、前掲の単元①は、技能単元であると言った。児童は決して喜ばないであろう、「技能単元」が、指導者に喜ばれる理由は、学力の中で比較的明確に提示されるのは知識・や技能であり、特に、技能は、学習指導要領の「指導事項」として提示されており、何を指導すべきかがつかみやすいということによる。しかし、これは、教科内容を原理とする単元であり、児童の経験や活動を原理とする経験単元の対極に位置するものである。


  今日の実践現場では、、「単元」を意識しない実践が多い。単元を意識するのは、せいぜい目標設定の段階であり、その後の単元の展開などは、さして単元意識が要求される訳でもない。要するに、教材を単位にした「教材単元」風になるのである。しかも、その教材は、技能指導という枠組みの中にある。教材中心、技能中心で学習者の論理から離れた教育は、主体的な学習者を育成することにならないであろうが、逆に、曖昧な学習者中心、経験尊重の教育も学習者の学力を保障することにならない。

 例えば、「読む」という読者の主体的な働きかけを前提とする活動の指導は、教材中心、技能中心、知識中心の指導によっては実現不可能なことが多い.何が、どう書いてある化をなぞるような教育は、指導者にとっては便利であろうが、児童の多様な読み、読解を超える反応を活かすことになりにくい。児童の多様性を踏まえ、多様な児童の反応を深め、広げ、人間としての自立を実現するような読みの指導は、国語科の主要な指導になりにくい。現行の教科書では、「読解」と「読書」は、別の存在であるという前提があるようである。これにも苦い歴史があり、学習指導要領に「読書指導事項」が独立して設定され、「読解中心主義」を克服しようとしていた。ところが、例によって、AかBかの二者択一の発想をしたために、その後の学習指導要領改定の結果、元も木阿弥になり、読解主義に長勝り、読書は、補助、補足的な単元扱い(正式な単元ではない)となってしまった。「読む」という行為は、すべて「読書」であるという立場からすれば、教室の読みから読みの楽しみを得られず、本質を求め、見定める能力をもつ主体的な人間も生まれない。国民の教育として本質的な欠陥を持つ教育になっているのではないかという心配がある。
  望ましい読書の単元としては、例えば、能力、学力のうち、ものの見方・考え方を軸に、単元を創造して見る必要はないかというのが筆者の提案である。
  前掲の光村図書に、以下の単元がある。
 ①筆者の考えをとらえ、自分の考えを発表しよう。
        見立てる   野口廣
        生き物は円柱形 本川達雄  一見して、望ましい読書単元風であるが、これは技能単元として構造化されている。
  教材に不満があるが、せっかく「見立てる」という認識方法を軸にする教材二つであるから、「見立てる力」「見立てるということ」などの枠組みで、二教材を関連的に指導すると、従来の単元にはない、新しい視野が開けるのではなかろうか。