それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

言葉の力

2017-11-28 22:48:06 | 教育

 

 国語教育に携わるものとしては、言葉の持つ力を100パーセント信頼したいと思い、またせざるを得ないのであるが、このところ問題になっている力士による暴力事件を巡る情報、国会での質疑、産業界の不正などを見ると、どうも言葉の力が信じがたいもののように思えてならない。
 言葉は人間のみが有するものかどうかについては、いろいろな見方があろうが、鯨やイルカ、類人、小鳥に至るまで、ある種のコミュニケーションを成立させる音声による手段があるようで、これも広い意味で「言葉」と言えなくもないであろう。ただ、人間の有する言葉のように緻密、精密でないだけであろう。ところが、緻密、精密であるはずの言葉は、その特性故に、恣意的になったり、虚偽的仕様を可能にしたり、すり替えによる責任転嫁を可能にしたりすることが可能になる。
 例えば、今日の国会での質疑を見ると、「金額についてはやりとりがあったが、価格については言及していない」という担当責任者の言葉があったり、過去の答弁との明らかな矛盾を追及されると「あのときは、あのように答えるのが適当だった」などの、小、中学生でも「?」と反応するような悪質な言葉遣いがなされている。また、首相の「真摯に対応する」や「丁寧」の言葉の意味は、全く実行を伴わない.小、中学生に見せてはならない事例である。力士の暴力事件については、多種多様な情報が乱れ飛び、情報なるものの信頼性が揺らいでいる。その情報は、ほとんどすべてが言語情報であってみれば、言葉の教育に関与する者としては、残念ながら、単純に言語を信頼していてはならないと自戒する。こういう事態に対応するためには、今は勢力を失った「一般意味論」の復権を考えなくてはならないかもしれない。
 動物の言葉は、人間のそれに比して、不完全ではあっても、不誠実ではないであろうし、虚偽を伝え合うものでもなかろう。人間の言葉は、果たして人間に何をもたらしたのか。


「事実」の研究:日馬富士問題に学ぶ

2017-11-22 21:50:31 | 教育

 国語教育の教材に、「説明的文章」なるものがある.「文学」の対極にあって、論理的思考力の育成に資すると考えられている。この文章は、事実に基づくものであり、客観的文章であるとも、長い間考えられてきた。客観的文章だから、誰が書いても同じになるという風にも、安易に考えられてきた。従って、教科書の単元構成で、説明的文章教材を読んで、その後に、児童自身に似たような題材に関する説明文を書いてみようなどというびっくりするような活動が平然と位置づけられており、見るに堪えない児童作の説明文群が出現し、児童共々がっかりするという結果を招く。もっともがっかりするという反応は望ましいのであり、満足していては学習とも指導とも言いがたくなる。
 言うまでもなく、読み物教材としての説明的文章は、児童が作成できるレベルのものではない.多くの文章は専門家の手によるもので、工夫を重ねているが、それでもいくつかの欠陥を抱えているのが普通である。とても児童にも書けるというレベルのものではない。 さて本筋の問題に返ろう。
 説明的文章は、「事実」に基づくものであると言った.「事実」に基づくのであれば、誰が書いても同じものになるという錯覚に陥りがちである.それほど「事実」の概念は強固なのである。
 ところが、「事実」とは、誰が見ても同じになるほどに客観的なものだろうか。
 教科書教材には同じ題材で書かれた出版社の異なるものが存在するが、筆者が異なれば、全く別物である。これは、題材・素材・事象が同じでも、見る人によってえとらえ方もその結果できあがる文章も異なるということである。つまり「個性的」なものなのである。
 元・朝日新聞記者の本田勝一は、次のように言っている。
 「いわゆる事実というものは存在しないということです。真の事実とは主観のことなのです。」 
 時に、偏向報道と批判される朝日新聞の元記者の言葉であってみれば、妙に説得力がある。そして、この言葉は正しい。
 酒の場に同席した多くの関取たちが、その場で生じた「暴行」の事実について、実に様々なことを口にする。同じ事実でも、見る角度、酔いの程度、人間関係、問題の判断能力のあり方等々の違いによって異なるのである。大勢の言うことを集めて見ても事実なるものが明確にならないことも多い。いや、かえってとらえどころがなくなることもあるのであり、今回の報道は、そのことを証明することになった。
 テレビのニュース・ショーは、例によって、素人コメンテーターを揃えて、不確かな情報を披瀝した。多くは、新聞各紙の記事の紹介であるが、新聞の記事が客観的でないことは既に書いた説明的文章の性格から見て明らかであろう。時に、放送局ががんばって独自取材をすることがある。今回は、多くの「また聞き」情報を掘り起こした。モンゴルに電話して、親や元同僚から情報を聞き出した局もあった。これにコメンテーターが素人の意見を披露するから、だんだん事件・事故の内容が分からなくなる。ぶら下がり取材で詳しい事情や客観的な情報が得られるはずもない。 
 今回は、(いや、今回も)雑多な情報、無責任な情報が飛び交うという実態を再確認した。警察による事実解明、相撲協会のしかるべき委員会による公正な調査を待って話題ににすることはできなかったのだろうか。
 


ドローンの安全性に疑問

2017-11-16 21:50:06 | 教育

 

 ドローンの便利さについての報道が目立つ。しかし、私は、ドローンの画像を見るたびに恐怖を感じる。
 多くの場合、ドローンは、4つ(あるいはそれ以上の)のプロベラを持っている。しかも、それらはむき出しである.扇風機でもファンは、金属の金網状どこにのカバーでガードされている。不用意に指を突っ込んでけがをしないように配慮しているのである。
 ドローンを宅配用に使用するという取り組みが行われているが、仮に、配達のためにドローンが住宅の敷地内に着陸したとしよう。その家の誰かが安易にドローンに触れ、プロペラでけがをしないという保障がどこにあろうか。特に幼児がおもしろ半分にプロペラを触ろうものなら指を切断するほどの負傷をすることになるのではないか。先日は、実験中に墜落している。 
 そもそも、なぜドローンのプロペラはガードの金網等で覆われることのないむき出し状態なのであろうか。私には、その理由が一向に分からない。
 そのうちに、きっと、負傷する人間が出てくるであろう。その際の保障を考えれば、早急に安全対策を講じるのがよい。くれぐれも、不用意に、学校でドローンの実験などしないことを願ってやまない。


新聞の休刊日

2017-11-14 22:14:09 | 教育

 

 昨日は、購読している新聞の休刊日であった。前日の知事選挙の結果をどう報じているのか気になったが、概略はネットニュースで分かっていた。テレビが競争で速報を出すことに疑問を呈し、批判的でもあるので、特に新聞が遅れても不都合はないのだが、休刊日という仕組みにいくつかの問題があるように思う。私の誤解があるかもしれないが、敢えて書き記しておこう。
 休刊日の根拠は、新聞配達に従事する人たちの慰労、休養のためのようであり、それに加えて、制作担当者の休養のためのようであるが、おそらくは後者が第一義であろう。
 私たちは、新聞という「紙」を購入しているのではなく、その紙を媒体とする情報を買っているのである。
 同じ情報産業であるテレビ、ラジオに放送を休む日がないのに、なぜ新聞だけが休みの日をせっていしているのだろうか。配達員を慰労するためなら、単に従業員の労働日程を調整する、従業員を増やすという措置を採ればよい。人手不足は、他の職種でも同じであり、コンビニ等は、休みなく営業している。コンビニはブラック化しているというが、ブラックでない企業もあるはずで、そこに知恵を絞った企業のみが評価され、生き残るのだろう。
 人材不足が、労働条件の低劣さのためであるのなら、きちんと根拠を示して、購読料の値上げを提案し、読者を説得すべきである。
 ところで、休刊日という、商品の提供をストップする日が、年間10数日もあるが、その分の新聞の代金は割引になっているんだろうか。普通そんな些末なことは気にしないで購読しているが、どうなのであろうか。駅の売店等では、1部いくらで売っている。商品に価格がついているのは当然であるが、商品を提供しないのなら、その分、代金を請求しないのも当然である。朝、読、毎は、全く同一の購読料というのも胡散臭いが、それはともかく、購読料と1部当たりに、統一の料金が存在するのは確かである。
 このところ、ネットで新聞のニュースを読むことも可能になっている。しかし、その提供の仕方が潔くない。一部だけを紹介し、その後の記事は、読者登録をしないと読めなくなっているのである。見出しだけを紹介する方が気持ちがいい。こういう新聞社の姿勢は、ある意味では合理的なのであろうが、心情的には支持し難い.思わせぶりで思い切りが悪いのである。
  消費税について、新聞は対象外にというような主張があった。時に、社会の窓、社会の木鐸を装う新聞であってみれば、すべてにおいて分かりやすく、道義的であってほしい。


読書と想像力

2017-11-13 22:54:32 | 教育

 

 出無精の私は、一日のうち半分は読書をしている。現役の頃には仕事に追われて、途切れ途切れの時間が読書の時間であったから、引退後は、心ゆくまで本を読もうと楽しみにし、今、それを実行している。
 家内は出不精ではないので、家にジッとしていられない。毎日、長時間、長距離の散歩に出かけ、またしばしば遠方へのバス旅行にも出かける。週の半分は、俳句やパソコンやビーズなどの趣味の会に出かけており、私の理解を超える行動をしている。家内からみれば、私の行動は、やはり理解を超えていることであろう。
  読書は、想像力をかき立てる行為であり、文字を手がかりに様々なイメージを描き、推理力、論理力を活性化する格好の行為である。歴史文学を読みながら、戦国時代に生き、未来小説を読んで先の世界を体験する。外国文学は、見も知らぬ土地に誘い込み、そこでの生活を体験させてくれる。自分の実体験を超える世界はテレビも提供してくれるが、書物は、さらに生き生きとした世界に生きることを可能にしてくれる。さながらタイムマシンに乗ったように、時間軸を遡り、先に進み、瞬間移動のように、空間を跳び越えることができる。つまり、仮想的な「旅」をしているのであり、私に「バス旅行」は必要ないのである。
 読書による想像の世界は、現実ではない。従って、現実逃避や現実感の喪失の畏れがあるように見えるが、私の想像は、私の全経験、体験を基盤にして活性化されるものであると言う意味で、私の現実を反映している。ロシアの心理学者ヴィゴツキーは、どんな突飛な想像であっても、すべてその人の経験に根ざしているという趣旨のことを述べているが、読書という行為の場合も同じであろう。なぜ、こんな想像をするのだろうと振り返れば、自分の現実(現実の自分)に出会うことができよう。
 作品中の様々な人物は、世間の人物の典型であり、彼らとの出会いが、人間観を多様に、豊かにしてくれる。また、実際に世間で遭遇することのない人物には、特別なジャンルの作品を除けば、あまり存在しない。つまり、多くの作中人物によって、私たちの実際に触れる人間というものの特性、本質を再認識する手がかりを与えてくれるのである。リアリティがある(嘘くさくない)作品とは、実世界をうまく取り込み、反映している作品であろう。
  最近の若者は、本を読まないと思われている。読書調査からは必ずしもそう言い切れない面もあるが、スマホでゲームに夢中になっている青少年を見ると、彼らに活字は似合わないのも事実である。(日本の小学生の読書量は大したものであることも付記しておく。)
 多読児という子供たちがいるという。本を読みすぎて現実感を喪失してしまっている子供たちのことのようだ。しかし、上記のような想像と現実の関係からは、多少現実から逸脱することはあっても、現実という引力から完全に切り離される危険は少ないであろう。逆に、読書療法なるものもあることを考えると、読むこと自体を危険視することはあるまい。