高等学校の新しい学習指導要領の教科目として、「論理国語」なるものが打ち出され、大学進学組は、入試に有利な「論理国語」を選択するに違いない、つまり、「文学国語」を履修する生徒は著しく減少し、高校から「文学」はなくなるのではないかという不安があるようだ。そういう趣旨の論文ないしは記事に出会ったのは、今は廃刊となった雑誌『新潮45』が最初で、その後、『文藝春秋』(月刊)、毎日新聞でも、同様の問題提起がなされた。
「論理国語」と「文学国語」も、耳慣れない、見慣れない言葉である。学習指導要領史上初めて出現したのではなかろうか。具に調べれば、見つかるのかもしれないが、調べる気も起こらない違和感のある語句である。
かつてより、「文学」に対置する言葉として、「非文学」なるものがあった。「文学ではないもの」という意味である。それではあまりに失礼ということであろうか、「説明的文章」なる概念が創られた。その内容は、「文学」ほど明確なものでなく、文学以外のすべての文章群を含む幅広さをもっている。すなわち、実用的な文章も、説明・解説の文章も、記録も、報道も、論説も含んでいる。文章論の立場からは、このように広すぎて漠然としており、「非文学」と大差ないように見えるが、小、中学校の国語における説明的文章教材を見ると、小学校段階では、大多数が「説明文」であり、高学年になると「論説文」が取り入れられている。中学校でも「説明文」はあるが、論説系の「主張」「説得」を目的とするものが増える。小、中学校の国語科読むことの分野では、「論理国語」に対するような拒否反応は出にくいのが現状である。
どうも、PISAの試験問題を念頭に置いて、実用的な文章が中心になるのではないか、そんな低次元の国語を教えて欲しくないというのが反対意見の人達の頭にあるようで、それも文科省による説明、解説のまずさに起因しているようである。「非文学」「説明的文章」の中には、もちろん実用的文章も含まれる。しかし、教科内容として教科書に採用されることは、稀である。雑誌の記事中に、「評論は含まない。」という趣旨の発言が、文科省からなされたそうであるが、「評論」は、内容が文学であろうと、哲学であろうと、説明的文章の一つに数えうる存在である。物事の本質や問題、解決方法等を「論理」によって追求、解明し、主張と説得をする目的の文章は、大学入試にも必ず提出される分野の文章である。「文学」に対するアレルギー反応のようで心許ない。
私は、長年、説明的文章の研究をしてきているが、実生活においては、文学作品を読むことの方がはるかに多い。説明的文章も文学も、読むという行為の両輪として、バランスを保っているようでありたい。そもそも、論理的思考なしに文学が理解できるのだろうか。文学作品も、論理によって支えられた構造体ではないのか。論理的思考力を欠いた読者に文学作品が読めるのか。両輪という観点からは、「文学」が最重要で、説明的文章や論理的文章は不要である、低俗であるなどと拒否する、国語教師にありがちな態度も問題である。文学青年だけが理想的な人間でないことを考えれば分かる。
「論理」を教えるなどというと物々しいが、小、中学校の国語科における説明的文章の授業では、形式論理学などではなく、広く、「ものごととものごとの関係」を「論理」と考えるという程度の認識で十二分である。このような「関係」=「論理」を解明したり、説明したり、主張したりする力を、論理的思考力、認識力と考えておきたい。今の日本の児童、生徒には、この種の能力が欠落しているか、低水準であることも事実であるが、それは、論理的思考力・認識力の指導の場や教材の不在によるのではなく、あるべき姿としての説明的文章教育がなされていないからである。材料は目の前にあるのに、調理方法が分からずに右往左往している料理人のようなものである。新しい材料を物色するのでなく、今、目の前にある材料、これまでに蓄積されてきた材料を効果的に活用するための基礎理論の創造、実践力の訓練に目を向けることなく、PISAに対応するのは無理である。「論理国語」は、いろいろな意味で、不可解な存在である。
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