それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

「論理国語」と「文学国語」

2019-02-28 23:52:15 | 教育

 高等学校の新しい学習指導要領の教科目として、「論理国語」なるものが打ち出され、大学進学組は、入試に有利な「論理国語」を選択するに違いない、つまり、「文学国語」を履修する生徒は著しく減少し、高校から「文学」はなくなるのではないかという不安があるようだ。そういう趣旨の論文ないしは記事に出会ったのは、今は廃刊となった雑誌『新潮45』が最初で、その後、『文藝春秋』(月刊)、毎日新聞でも、同様の問題提起がなされた。
 「論理国語」と「文学国語」も、耳慣れない、見慣れない言葉である。学習指導要領史上初めて出現したのではなかろうか。具に調べれば、見つかるのかもしれないが、調べる気も起こらない違和感のある語句である。
 かつてより、「文学」に対置する言葉として、「非文学」なるものがあった。「文学ではないもの」という意味である。それではあまりに失礼ということであろうか、「説明的文章」なる概念が創られた。その内容は、「文学」ほど明確なものでなく、文学以外のすべての文章群を含む幅広さをもっている。すなわち、実用的な文章も、説明・解説の文章も、記録も、報道も、論説も含んでいる。文章論の立場からは、このように広すぎて漠然としており、「非文学」と大差ないように見えるが、小、中学校の国語における説明的文章教材を見ると、小学校段階では、大多数が「説明文」であり、高学年になると「論説文」が取り入れられている。中学校でも「説明文」はあるが、論説系の「主張」「説得」を目的とするものが増える。小、中学校の国語科読むことの分野では、「論理国語」に対するような拒否反応は出にくいのが現状である。
 どうも、PISAの試験問題を念頭に置いて、実用的な文章が中心になるのではないか、そんな低次元の国語を教えて欲しくないというのが反対意見の人達の頭にあるようで、それも文科省による説明、解説のまずさに起因しているようである。「非文学」「説明的文章」の中には、もちろん実用的文章も含まれる。しかし、教科内容として教科書に採用されることは、稀である。雑誌の記事中に、「評論は含まない。」という趣旨の発言が、文科省からなされたそうであるが、「評論」は、内容が文学であろうと、哲学であろうと、説明的文章の一つに数えうる存在である。物事の本質や問題、解決方法等を「論理」によって追求、解明し、主張と説得をする目的の文章は、大学入試にも必ず提出される分野の文章である。「文学」に対するアレルギー反応のようで心許ない。
 私は、長年、説明的文章の研究をしてきているが、実生活においては、文学作品を読むことの方がはるかに多い。説明的文章も文学も、読むという行為の両輪として、バランスを保っているようでありたい。そもそも、論理的思考なしに文学が理解できるのだろうか。文学作品も、論理によって支えられた構造体ではないのか。論理的思考力を欠いた読者に文学作品が読めるのか。両輪という観点からは、「文学」が最重要で、説明的文章や論理的文章は不要である、低俗であるなどと拒否する、国語教師にありがちな態度も問題である。文学青年だけが理想的な人間でないことを考えれば分かる。
 「論理」を教えるなどというと物々しいが、小、中学校の国語科における説明的文章の授業では、形式論理学などではなく、広く、「ものごととものごとの関係」を「論理」と考えるという程度の認識で十二分である。このような「関係」=「論理」を解明したり、説明したり、主張したりする力を、論理的思考力、認識力と考えておきたい。今の日本の児童、生徒には、この種の能力が欠落しているか、低水準であることも事実であるが、それは、論理的思考力・認識力の指導の場や教材の不在によるのではなく、あるべき姿としての説明的文章教育がなされていないからである。材料は目の前にあるのに、調理方法が分からずに右往左往している料理人のようなものである。新しい材料を物色するのでなく、今、目の前にある材料、これまでに蓄積されてきた材料を効果的に活用するための基礎理論の創造、実践力の訓練に目を向けることなく、PISAに対応するのは無理である。「論理国語」は、いろいろな意味で、不可解な存在である。

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桜田大臣、3分遅刻と野党の対応

2019-02-21 22:10:52 | 教育

 2月21日の衆院予算委員会に、例の桜田大臣が、出席を求められた時間に遅れ、野党が反発して、審議ストップになったという。
 また、あの大臣かと思いつつ、どれほどの遅刻かを確認すると、3分だそうだ。反発した野党が審議に応じるまでに5時間を費やし、2019年度予算案の通過は、予定よりも遅れることになった。
 大事な委員会に遅刻などもってのほかだが、桜田大臣ならやりかねない。が、しかし、審議の内容の重要性と3分の遅刻の問題の軽重を勘案するとき、野党は、5時間もの審議拒否をするべきではなかった。審議開始の最初に、議長による注意と、質問者による皮肉の一つ、二つという大人の対応でよかったのではないか。大臣を貶める効果というよりも、野党の対応の拙さが浮き彫りになってしまったのではなかろうか。

 「悪夢」問題でもめたり、今回の審議拒否等、どうも野党の対応の稚拙さ、国会議員としての責務(というより常識)の認識レベルに問題のある事例が続く。与党が目を覚ますためにも野党に、まずは覚醒してもらいたい。


大型ペット キリンも値上げへ

2019-02-21 00:30:29 | 教育

 ネットニュースの見出し一覧を見て、ぎょっとした。次のようなニュース・タイトルがあったからである。
 「大型ペット キリンも値上げへ」
 犬や猫のように、とうとうキリンもペットの仲間になり、その価格が上昇してきているというのだろう。どんな人達が、どんな所で飼育しているのだろう。そもそも現在の相場とはいくらくらいなのだろうかなどと、様々に想像してしまった。
 ところが、ニュースの詳しい内容を見ると、「キリンも『大型ペットボトル値上げへ 『生茶』『午後の紅茶』など」という飲料の値上げニュースの見出しであった。ネットのニュース一覧は、表示スペースも貧弱であるから、短縮する必要があるのだろうが、短縮にも作法というものがある。こういうことは、最近の新聞の見出しにも少なくない.記事本文を読まないと意味不明の見出しがしばしば存在し、いらいらする。
  テレビドラマのタイトルなども、平気で短縮する。「わたおに」「逃げ恥」など平気で短縮する。(NHNの朝の連続ドラマは、不思議なことにタイトルの短いものが多く、短縮不要であるが)短縮の法則がありそうであって、出たとこ勝負のようである。
 「けいたい」なども「電話」はカットされている。「携帯ラジオ」などは、歴史があるのに、部外者的扱いである。他にも携帯品は数多いが、今や、携帯(ケイタイ・ケータイ)=携帯電話である。
  外国の地名も、平気で、でたらめに短縮する。ロサンゼルスを「ロス」などというべきではなかろう。東京を「東(トウ)」というようなものではないか。
 そもそも、なぜ、我々は、長い表現を短縮しようとするのだろうか。短くても他者に通じるものなら、短いほどよい、時間やエネルギーの節約になるという面はある。しかし、それなら、なぜ最初から簡潔な表現法を用いなかったのだろうか。ドラマ名などは、意図的に長大なものにしている例も少なくない。こういう場合は、せっかく長いタイトルを付けるという工夫をしたのに、短縮されてしまっては元も子もない、つまり命名者にとっては不本意なことであろう。
  私たちは、何を急いでいるのだろう。SNS(こういう横文字の短縮表示もできれば避けたい)は、コミュニケーションを、容易かつ多様にした。しかし、表現したり、やりとりしたりする情報量も、大急ぎで、早口で表現したり受け取ったりしなくてはならない状況になっているのだろうか。ゆっくりと正確にコミュニケーションをする余裕のない社会に生きているのだろうか。
  だれだったか忘れたが、「今日は忙しいので、短い手紙は書けません」という表現をしていた作家がいたが、それは正しい姿勢だと思う。短い表現は難しいのである。すぐにできそうなことは、ゆっくりと、正確に表現し、理解するということだろう。


「キング」という存在-巨額詐欺事件-

2019-02-17 22:33:06 | 教育

 「キング」という名の詐欺師は、中高年女性を中心に460億円もだまし取っていたという。手口を見ると、ネズミ講そのものであり、いつの世も、同じ手口でだまされる人達が存在するものと感心する。
 キングは、しばしばコンサートを開いて歌手もどきの熱唱をしている。驚くべきことに、その公演に大勢の女性(投資者)が詰めかけ、まるで人気タレントの公演と見まごう活況を呈していた。キングの手口が判明し、逮捕された今でも、キングを悪く言わない女性投資家がいるようで、第三者の立場からは、理解不能である。まるで新興宗教の信者となり洗脳されているかのようである。そう言えば、神主の装束で、いかがわしい神事を行ってもいるところを見ると、洗脳の可能性もある。もっとも、キングは広告塔に過ぎないので、他に主犯なる者が存在するのかもしれない。
  年利36%という信じられない投資をした人達も、騙されていないと考えている限りは、キングは詐欺師ではないのだろう。取り巻きとなり、大騒ぎをしていた投資者は、自分自身の行為を、今、どのように考えているのであろうか。今後、同じ事件が発生しないためにも、しっかり解明してもらいたいものである。


「ノーベル平和賞」にトランプ氏を推薦?

2019-02-16 19:02:19 | 教育

 このほどトランプ大統領は、安倍首相から、ノーベル平和賞に推薦したとの書簡を受け取ったと喜ばしげに語ったという。その書簡には、「日本を代表して」ともあったという。
 かねてより、「平和賞」には、首をかしげるものが多い.政治色が濃厚で、本質的な意味で平和構築に貢献していると言えるのかどうか疑わしい(率直に言えば「いかがわしい」)ものが少なくないのである。
 特に気になるのは、「日本を代表して」という文言である。言葉の軽い首相ではあるが、今回も羽毛のように軽い。日本国民の多くには、非常に意外な言動だったのではないか。 この推薦行為を、北朝鮮との二度目の会談を前に、「自重」を促すためのしかけだというように考えるのは「深読み」に過ぎるであろう。これは「忖度」ではなく、「おべっか」というしかなく、はずかしい。