それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

原作(言語作品)と映画・ドラマの間

2020-02-24 17:29:19 | 教育

 言語作品が映画化、ドラマ化され、それをテレビで観ることが少なくない。(最近は映画館に行くことがないので、すべてテレビによる。)

 既に言語作品(原作)で読んだものを、テレビで観て、鑑賞後、両者の相違に驚くことが少なくない。が、これは、よくよく考えると不思議なことではない。

 鮮やかな映像を主な手段とする映画やドラマは、鑑賞後の印象は鮮烈であるが、原作である言語作品に比して表層的、単純であることが多い。これは、表現媒体の特性や制限・限界によるものである。

 例えば、時代小説、藤沢周平の『蝉しぐれ』は、キャスティングの異なる二つのドラマを見て、いずれも真面目に制作された佳作だと思っていたが、先日、わが家の図書室の書棚で、娘の高校時代の蔵書の中に文庫本があるのを見つけ、冒頭部分を読んでみる機会があって驚いた。ドラマとはほとんど別物である。

 ドラマや映画は、原作の言語を映像化したものをつないで構成される。しかも多くは2時間前後の規模である。原作の文庫本は、464頁もある。丹念に原作をドラマ化することは不可能である。加えて、例えば、情景描写はともかく、心理描写は映像化が難しい。
難しいというより不可能である。

 以下のような部分を、映像化するには、どれほどの時間と労力が必要になろう。胃蛙y、いかに努力しても不可能であろう。

 「……家の裏手に過去を洗えるほどにきれいな流れを所有している普請組の者たちは、こと水にかんするかぎり天与の恵みをうけていると言ってもよかった。組の者はそのことをことさら外にむかって自慢するようなことはないけれども、内心ひそかに天からもらった恩恵なるものを気に入っているのだった。牧文四郎もそう思っている一人である。」

 その昔、原作に忠実に制作したというのが謳い文句のソ連(当時)映画『戦争と平和』を観た。長大な割に、ただただ退屈な駄作であった。本来無理なことをした結果である。

  映像作品は、それ独自の長所と短所をもつものとして楽しめばよいのであろう。ドラマを観たから原作は読まなくてよいというものではない。

  言語と映像の違いを考えているうちに、言語の機能の不思議を改めて認識することになった。無味乾燥ともいえる文字記号が、長い時を経ても、古びることなく鮮烈なイメージ産み出し、深い意味を提示してくれる。物理的な書物は色あせ、古びても、言葉は、いささかも変わることがない。とここまで考えて、いやこの不思議は、言語・言葉の属性というよりも、人間の「頭脳」の不思議なのである。言葉を手がかりにして、一人一人が自分の脳によって表象化し、概念化して、個性的な世界を創り上げているのである。誰か他人の造った読みでなく、自分の創った読みであることが重要である。SNSによって提供される加工された世界(特に映像は、一定の視点や価値観によって特定の他者によって加工されている。言語作品も加工されており、その個性が、読者の創造的、批判的読みを産み出す契機になっているのであるが、映像の固定化、絶対化は言語とは比較できないほどに強力)でなく、よくも悪くも、自分自身の独自の世界を創造できる。このことが脳を更に活性化し、自らを対象化する(見つめる )契機になる。人間は、実は、AIなどの及ばぬ機能を生まれながらに持ち合わせているのである。

  映像を与えられることは、一見、親切で、省エネになるありがたいことのように思いがちであるが、それは私たちの創造、想像の活動と能力を減少・低下させることでもあることに気づかなくてはならない。


新聞投書欄の罪

2020-02-16 22:19:06 | 教育

 購読しているM新聞の投書欄に、「ステンレスストロー普及願う」という女子中学生の投書が載った。

 プラスティックごみの弊害を阻止するために、ステンレス製のストローを使用することを提案している。当初の末尾は、つぎのようになっている。

 「しかし、このストローはまだあまり見かけない。私は早く購入したいし、多くの人が使って環境破壊を少しでも防いでほしいと願っている。」

   この提案はぞっとする。幼児や小中学生の多用する(しかも動き回りながら使用する)ストローに、金属製の筒を使用するなど、安全性からは論外である。かつて、割り箸が幼児の喉に刺さる事故があって大騒ぎになったことがあるのを知っているだろうか。そういう前例がなくとも、危険性は容易に予見できる。

   投稿者の文章の冒頭も紹介しておこう。

 「私は先日、初めて紙ストローを使った。想像以上に紙くさい味がするし、長時間使えないことから、あまりよくない印象をうけた。」

 プラスティック・ストローの代替品としては、紙ストローがよい。投稿者は、紙の皿や紙コップも「臭いから」使用しないのであろうか。紙がだめなら、いっそ原点に回帰して「藁(わら)のストロー」を提案してはどうだったのだろうか。

  15歳の女子中学生に悪意などあろうはずはない。環境保全のために一生懸命考えたことなのであろう。その意図は認めるとして、代替案としての金属製・ストローの危険性や衛生面での問題点への視点が欠けている。 SNSであれば、「炎上」しているかもしれない意見である。

  新聞に寄せられる投書の数々は、投書欄の担当者によって取捨選択されるはずであり、紙面に掲載されるのは、担当者が同意ないしは評価したものとみるべきである。とするなら、ステンレス製のストローは、M新聞も同意の提案だとみることもできる。時々、投書欄に、「異論・反論」も載る。健全なことであるが、そういうケースはまれである。投稿者のためにも、投書論担当者の認識の質の向上を願っている。


言葉を弄ぶ

2020-02-09 22:38:00 | 教育

 言い逃れの多い総理の国会発言、「募集はしておりません。募っただけです。」は有名になったが、一国の首相の国語力がこれではいけない。「弄ぶ」以前の問題である。

  数日前に、梯久美子のノンフィクション、『散るぞ悲しき/硫黄島総指揮官・栗林忠通』(大宅賞受賞作)を読了する。いつもながら、ノンフィクション作家の尋常ならざる努力には頭が下がるが、特にタイトルに関わることがらに感銘を受けた。

 玉砕した硫黄島の総指揮官である栗林の、大本営への訣別電報の末尾に記された辞世の句三首の最初は、次のようになっていた。

 「国の為重きつとめを果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」

   その歌の最後の「散るぞ悲しき」が新聞発表では、「散るぞ口惜し」に改竄されているのである。梯は、栗林の「悲しき」に、「いたずらに将兵を死地に追いやった軍中枢部への、ぎりぎりの抗議ともいうべき」心情を読み取っている。

 原文改竄の背後には、兵士としての心情にそぐわない心情表現として、公表したくないという、軍中枢の姿勢があり、小知恵のきく誰かが忖度して修正したものであろう。近年、「忖度」が流行したが、最近の政治状況が、先の大戦当時と似てきたという印象を持つ人があることと通じるものがある。辞世の句、本人の血を吐くような言葉を軽々しく改竄するような行為は、日本語を裏切るものであり、言葉を支える民族の心情、精神を裏切る行為でもある。


徒然草と批判力

2020-02-07 22:18:46 | 教育

 新聞の第一面、最下段にいつものように書籍の広告がある。今朝は、意訳・徒然草の広告が目についた。その内容は、以下の通り。

 【意訳で楽しむ古典シリーズ徒然草/兼好さんと、お茶をいっぷく】
                          (木村耕一著)
 悪口を言われたら
 「悔しい」「恥ずかしい」と
 思いますが、言った人も、
 聞いた人も、すぐに死んで
 いきますから、気にしなく
  てもいいのです。(第38段)

 『徒然草』は、日本人のすべてが、中・高校時代に学んでいるはずであるが、多くは、兼好のシニカルな批評を感心して受け入れる体のものであったろう。いわば、教訓集、処世知集の類いのものと受け止められていたのではなかろうか。

 この、38段を「自分の頭で」、自由に読んでみよう。w

  確かに、自分の悪口を言った人も、聞いた人も、やがて死んでしまうので、いつまでもくよくよする必要はないように思うかもしれないが、言われた本人も死ぬのであってみれば、それも、言った人、聞いた人よりも先に死んでしまう可能性もあるのであってみれば、実は、何の救いにもなっていないのである。

 もとより、徒然草は、論文ではない。兼好本人も、「心に浮かぶ由なし事」を書き付けたと言うから、気楽な随想として、批評的に読むのがいい。書いていることが前後で矛盾していることも、独りよがりもある。それを発見するのも楽しい。楽しいだけでなく、勤勉で勉強好きなわれわれ日本人に欠けている批判的能力を鍛えるのに役立つ。そこで鍛えた批判力を活かして、国会での与野党の論議を聞き、わが国の政治家のレベルを認識・評価するのも有益かもしれない。