言語作品が映画化、ドラマ化され、それをテレビで観ることが少なくない。(最近は映画館に行くことがないので、すべてテレビによる。)
既に言語作品(原作)で読んだものを、テレビで観て、鑑賞後、両者の相違に驚くことが少なくない。が、これは、よくよく考えると不思議なことではない。
鮮やかな映像を主な手段とする映画やドラマは、鑑賞後の印象は鮮烈であるが、原作である言語作品に比して表層的、単純であることが多い。これは、表現媒体の特性や制限・限界によるものである。
例えば、時代小説、藤沢周平の『蝉しぐれ』は、キャスティングの異なる二つのドラマを見て、いずれも真面目に制作された佳作だと思っていたが、先日、わが家の図書室の書棚で、娘の高校時代の蔵書の中に文庫本があるのを見つけ、冒頭部分を読んでみる機会があって驚いた。ドラマとはほとんど別物である。
ドラマや映画は、原作の言語を映像化したものをつないで構成される。しかも多くは2時間前後の規模である。原作の文庫本は、464頁もある。丹念に原作をドラマ化することは不可能である。加えて、例えば、情景描写はともかく、心理描写は映像化が難しい。
難しいというより不可能である。
以下のような部分を、映像化するには、どれほどの時間と労力が必要になろう。胃蛙y、いかに努力しても不可能であろう。
「……家の裏手に過去を洗えるほどにきれいな流れを所有している普請組の者たちは、こと水にかんするかぎり天与の恵みをうけていると言ってもよかった。組の者はそのことをことさら外にむかって自慢するようなことはないけれども、内心ひそかに天からもらった恩恵なるものを気に入っているのだった。牧文四郎もそう思っている一人である。」
その昔、原作に忠実に制作したというのが謳い文句のソ連(当時)映画『戦争と平和』を観た。長大な割に、ただただ退屈な駄作であった。本来無理なことをした結果である。
映像作品は、それ独自の長所と短所をもつものとして楽しめばよいのであろう。ドラマを観たから原作は読まなくてよいというものではない。
言語と映像の違いを考えているうちに、言語の機能の不思議を改めて認識することになった。無味乾燥ともいえる文字記号が、長い時を経ても、古びることなく鮮烈なイメージ産み出し、深い意味を提示してくれる。物理的な書物は色あせ、古びても、言葉は、いささかも変わることがない。とここまで考えて、いやこの不思議は、言語・言葉の属性というよりも、人間の「頭脳」の不思議なのである。言葉を手がかりにして、一人一人が自分の脳によって表象化し、概念化して、個性的な世界を創り上げているのである。誰か他人の造った読みでなく、自分の創った読みであることが重要である。SNSによって提供される加工された世界(特に映像は、一定の視点や価値観によって特定の他者によって加工されている。言語作品も加工されており、その個性が、読者の創造的、批判的読みを産み出す契機になっているのであるが、映像の固定化、絶対化は言語とは比較できないほどに強力)でなく、よくも悪くも、自分自身の独自の世界を創造できる。このことが脳を更に活性化し、自らを対象化する(見つめる )契機になる。人間は、実は、AIなどの及ばぬ機能を生まれながらに持ち合わせているのである。
映像を与えられることは、一見、親切で、省エネになるありがたいことのように思いがちであるが、それは私たちの創造、想像の活動と能力を減少・低下させることでもあることに気づかなくてはならない。