それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

ジャズマンの横暴

2017-08-31 22:52:56 | 教育

 東京「せたがやこどもプロジェクト2017《ステージ編》」は、ジャズ・トランペッターである日野皓正が指導する人気企画だというが、成果発表の舞台で、数百人の観客が見守る中、ドラムを担当してい男子中学生のスティックを取り上げ、投げ捨てた上、髪の毛を掴んで前後に振り回した後で、派手に往復びんたを加えた.その様子は、動画に記録され、配信されていた。
 つい先日、言葉と暴力の問題について投稿したばかりであったが、今回は、前回を超える問題が明らかになった。
 今回の企画は、中学生の体験学習だという。ジャズの演奏という、音楽としてはマイナーな企画に大勢の中学生参加しているところをみると、世田谷区教育委員会や学校による参加を促す働きかけがあったであろう。教委は、今回の日野氏の指導のあり方に行き過ぎがあったとコメントしているが、こういう人を、単に有名なジャズ・トランペッターであるという理由で指導者に任命ないしは依頼したということが、不適切な判断、行為であったことが明らかになったわけで、ここでも、任命責任が問われよう.こういうときによく、「今後はこういうことのないようにしたい」というが、それは今後の心構えであって、今回の事態に対する反省、謝罪ではない。ジャズのうまい人間が、指導者として、また人間として好ましい指導者とは言えないという、当たり前のことがはっきりしたに過ぎない.音楽の力量に多少劣るところがあっても、人間的に優れており、指導力がある人間によるセミナーの方が、教育的観点からは好ましかったと言えないか。何しろ相手は、プロではなく、中学生なのである。
 事後、被害者と中学生とは仲直りの握手をし、生徒は、音楽を続けたいと言ったというが、それで、日野氏の暴行が許される訳ではない。中学生の行為に問題があった(中学生に性格的な問題、発達障害のようなものがあったのかもしれない)にしても、大人として、またプロフェッショナルとして対応のしようがあったはずである。

 なお、暴行のはじめから往復びんたの途中まで、観客席から、笑い声が聞こえていた.日野氏に迎合する笑いである。こういう姿勢が、傲慢な態度を容認することになる。いじめを容認する取り巻き連中の態度と同じである。日野氏に劣らず問題である。


情報操作-作り方とできあがった情報の扱い方-

2017-08-29 10:38:22 | 教育

 

○「産経新聞:
 平成29年度の全国学力テストの結果が28日、公表された。初めての国による一斉公表となった政令指定都市別の平均正答率からは、“東高西低”の傾向も浮かんだ。結果が良好だった政令市では、調査結果を学校ごとに検証するなど地道な努力を重ねたことが結実したようだ。」

  今年もお騒がせな全国学力テスト結果の公表時期を迎えた。当地のローカルテレビ局によるニュースでは、「全科目で全国平均を上回った」という県教委の見解を伝えており、なかなかがんばったのだと思っていたら、さにあらずで、今日の朝刊では、上記の新聞のニュースと同じく、今回初めて公表された政令指定都市の成績が振るわなかったようだ。わが広島市は、どの程度に振るわなかったかというと、大阪に並んで、都道府県平均を、すべての科目で下回っているという、極めて不名誉な結果なのである。大阪府が最下位であることは、既に広く知られていたが、そこと肩をならべるレベルである。
 もっとも、全国学力テストという、いわばコンテスト風の成績に、一喜一憂する必要は無い。生徒の学力保障ができていないなら、どこにその原因があったのかを教育科学的に明らかにして、対応策を講じなくてはならない。かつての大阪のように、成績の悪い地域、学校には、ペナルティを科す(予算を削減する)などという非科学的な対策を立てるようでは責任者は失格である。都道府県によっては、「平均点を10点上げるように」というような指示が出されるところがあるという。言語道断である。成績のすべてが教員の責任というストレスを背負うことになり、教育の本道が見失われる結果になろう。

 ところで、今回の事実を、報道はどのように扱ったか。地方のテレビ局は、県教委に都合のよいもののみを報道し、広島市に不都合なものは報道しなかった。嘘を報道したのではない。不都合な部分を覆い隠したのである。しかし、これは虚偽報道と同じである。
 新聞はどうか。我が家で購読しているM新聞の全国版(地方面・県内面を除く)では、政令指定都市のうち、特別に成績が悪かったのは大阪と広島であることを明示する記事がある。数字もあげて客観的に示している。
 一方で、県内面では、県レベルでは、ごく一部の科目を除いて全国平均を上回る好成績であったことを報じている。県内面の貧弱さは、夙に感じ、批判的であったが、今回も報道機関にあるまじき扱いであるあ。広島県内版は、情報量が少ないだけでなく、偏っている。毎日書道展関係、高校、社会人野球関係の記事は自社広告に近いので、できるだけ大きく、他はできるだけ小さく、あるいは取り上げないというポリシーのようだ。何をニュースとして拾い上げるかは、新聞社の個性であり、自由であるが、そのことが、何を取り上げないのか、どういうバイアスを生み出すのかについての責任を帯びるということも認識してもらいたい。こういうことに深いところで関わっているのが試験科目の「国語B」である。全国平均も低いが、特に当地の政令指定都市が低いのであれば、新聞社ともども反省し、方策をたてなくてはならないだろう。


言葉と暴力

2017-08-28 23:38:05 | 教育

 

 教員による暴力的言語使用については、一つの例を、既に取り上げたところであるが、今日の報道で、中学校の非常勤講師で野球部の監督をしている男が、懲罰のため、暑い中を長距離のランニングさせ、途中で上乗せまでしたことによって、生徒は重度の熱中症になり、集中治療室に運び込まれるという事態を招いたという。
  この非常勤講師の男は、教員としての基本が分かっていない。また、校長には任命責任がある。同僚も、監督の指導方法については、うすうす気づいていたに違いない.他人への口出しをしないというのも、教員の世界の知恵の一つであろうが、このような知恵の横行する学校および責任を個人になすりつけて終わる学校は、必ず荒れるか崩壊することになる。生徒たちは予想外に、人間としての教員を、シビアに見ているのである。
 つい先日は、支援学校の生徒が、やはり懲罰的ランニングで事故を起こしたばかりであった。
  私立の、あまり向学心のない学生のいる大学での授業は、私語、居眠り、果てはゲーム、お化粧という想像を絶する姿を見せる.15分に一回は笑わせる授業をしてくれという要求さえする学生も居るという.まじめに授業に参加しないのは、おもしろくないからといいたいらしい。早晩、こういう学校は、無くなると思うが、現在は、いやになるほどたくさんある。
 このような授業に辟易してきた身には、体育会系のクラブ活動の実態は、羨ましい.封建的、閉鎖的といわれがちな活動ではあるが、授業中の受講生の、死んだような姿に比して、クラブ活動中の生徒、学生は、必死の姿を見せる。多くの場合は、自ら進んで、茨の道を歩んでいるのである。仮に授業中に、このような姿を見せてくれていたなら、授業者は、感動して、受講生の成長のために、全精力を費やしても後悔することはなかろう。
 体育会系のクラブの監督は、基本的に、この希有な意欲をもつ生徒や学生の指導にあたたっているのである。懲罰的な行為をする理由が見当たらない.何を思い上がっているのであろうか.少々、野球の経験が多いとか、個人的に好成績を残しているとかいうことが何だというのであろう。軍隊やプロ集団ではなく、学校教育の一環として行われるクラブ活動は、人間教育を原理とすべきであり、さらに愛情、思いやりに基づくものでなくてはならない。
  高校野球は、春、夏の全国大会に見るように、次第に、代表校は私学に限定される方向にある。また、技量のプロ並みになってきている。が、試合の中継を見る限り、監督のありようは、厳しさ一辺倒ではない。人間性のありようは多様であるから、鍛え抜かれたチームがすべて、厳しい、非人間的な鍛錬の結果とは言えないのである。 
 プロの場合でも、一部の野球チームの横暴な監督の言動を見聞きすると不愉快である。シンクロナイズドスイミングの練習に際して発せられる女性監督の怒声も耳障りである。にこにこしていたり、優しく声を掛けることで成果が上がらないとするなら、それは、指導者の能力のレベルを示すことにならないか。プロの選手は、基本的に、人生のすべてをかけて鍛錬しているのである。ましてや、未熟かつ主体的な生徒、学生の指導に当たる者の教育的配慮は、時代錯誤や疑似(しかも模範にならぬ種類の)プロ仕様のものであってはならない。
  厳しい指導も穏健な指導も、「言葉」を伴う。伴うというよりも主たる手段であろう。国会議員の罵声のように、一度、指導の全体を記録して、視聴してみてはどうであろうか。こんなはずではなかった、ここまでとは思わなかったと反省する者には、まだ救いがある。そうでないものは、早々に手を引くべきである。教員の負担減のために、学校のクラブ活動の指導を、社会体育的観点から、部外者に委ねようという動きがあるようだ。教員の負担の重さは世界一であるから、負担軽減には賛成であるが、非教育的な指導が、学校に持ち込まれるのではなかろうかと危惧もしている。


話し合いの作法

2017-08-25 03:38:32 | 教育

  昨年度は、自治会の役員を務め、何十回もの会合に出席した。その会合では、当然のことながら,話し合い、討議、討論が行われたのであるが,常に合理的に問題・課題解決がなされたとは言いがたい。それは、たまに,例外的にというよりも,大抵の場合、時間がかかる割に未消化の部分ののこる話し合いになっていると言ってよい。
 スピーチや話し合いは、国語の基本であるから,義務教育を終えた時点で、だれもが習熟していてよいはずのものであるのに、わが国の国語教育では、話し言葉は、教科内容の主要部分に位置づけられてはいないのである。話し言葉は放置しておいてもいずれ習得できる。なぜなら、話し言葉は,外言(コミュニケーション用の言葉)であり,そのような言葉は実の場で、自然に習得していくものであるから,国語教育は、内言(思考言語=書き言葉)に限定するのがよいという,専門家による論文まで発表されたのである。 
 その結果はどうか。日本人は、話し言葉に関しては、単に経験にたよる知見しか持ち得ない,幼稚な話し言葉の使い手になってしまい、問題解決のための論理的話し合いなど全く不得手な民族になってしまった。時に、ディベートなどが流行することはあっても、それは一時のはやりであって,まじめな母国語の行為ではない。
 日常生活における話し合いの基本技能について触れておきたい。
 以下の心得は、前回のブログで紹介した倉澤栄吉氏が、だれかの考えを紹介したものだったと思い起こして,氏の著作集を当たってみたが見当たらない。記憶違いかもしれないが、学術論文ではないので、出典に拘ることは止めておこう。内容が問題なのだから。

 話し合いには、通常、司会者を立てる。その司会者の心得として,以下の三つを挙げる。

 1)流す
 2)止める
 3)変える
  これは,司会者のみならず出席者・当事者すべてが念頭に置いて,話し合いに参加すべき心得である。
○「流す」とは:
 教員採用試験などで、グループディスカッションを課せられることが普通であるが、その際,司会者を希望する受験生が多い(私の印象に過ぎないかもしれないが)。その理由は分かる。司会者になれば、問題そのものに入り込む苦労が少なく,メンバーから,意見・発言を引き出せばよいという、「流す」ことだけを考えるからである。さらには、発言なしという最悪な事態を避けることにもなるからである。
 しかし、話し合いが、具体的な何かの問題を解決するためのものであるのなら,司会者の任務は,複雑、かつ重いものになるはずである。
○「止める」とは:
 話し合いが進み、予想できる意見が出た(出尽くした)時点では、それまでの話し合いの内容を整理し,結論を確認しておきたい。これが、確認のための立ち止まりである。一区切りである。
○「変える」とは:
 話し合いの過程と結果を確認した上で,これまでの話し合いが無謬の課題解決方法であったのか,他に取り残したことがらや,切り込み方はなかったのかということを評価意識を持ちながら探って見る行為である。少数意見の見直しの必要が出てくる場合もあろうし、発言をしないでいた人の意見を聞いてみることによって,新しい問題が浮上することもあろう。

 すでに言ったように、これらは,第一義的には司会者の心得である。しかし、参加者すべてが意識、認識しておくことが,無理のない課題・問題解決に導き、後になって後悔することのない結論に到達する安全な方法である。感情に走ったり,大きな声の人間に引きずられたりすることのないようにするための安全装置でもある。

 このようなことが、なぜわが国の学校の国語教育で指導されないのであろうか。グローバル化を追求するあまりに、大事な国語を軽く見て,英語に走ることが妥当であるのかどうかを、きちんと「話し合って」みてはどうだろうか。


全ての教師が国語の教師

2017-08-24 22:11:16 | 教育

 故・倉澤栄吉博士(国語教育学の専門家)には、下記の著作がある。
 『国語の指導 だれでもどこでもできる すべての教師は国語の教師でなければならない』教育図書研究会 1951
 この言葉は、アメリカの国語教育界に流布していた言葉ではなかったかと思うが、それは、今はどうでもよい。この根本思想が大切なのである。
  折も折、九州の島部の小学校で、聴くに堪えない事件が起こった。沖縄タイムズによれば、以下の通りである。
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 沖縄県石垣市内の小学校で1年生担任の女性教諭が「赤ちゃん」「脳みそ使えよ」などと複数の児童に暴言を発していたことが23日、分かった。教室でけがをしたという児童からは「先生に無理やり引きずられた」などと体罰を疑わせるような証言もあり、一部保護者が法務局に訴える動きもある。
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 一年生という段階の児童が、どれほど幼く、頼りないかは、学校を訪問する機会に恵まれた者の目には一目瞭然である。小学校では、一人の教員が、すべての教科を指導するという非現実的なことがまかり通っている。しかも、このところ教員不足で、はっきり言えば、教員の質が、相対的に低下している。長い間、小学校の現場に出かけて授業研究を続けたり、国立大、私大を通して40年近くも教員養成に従事してきた身には、教員の質の変化もよく見える。私は、小学校の教員は、特別優秀な、心優しきスーパーマン(スーパーウーマン)でなければならないと考え続けてきたが、実態は異なることが多い
 「すべての教師は、国語の教師でなければならない」と同時に、「すべての教師は人間の教師でなければならない」とも思う。中学校、高等学校以降では遅すぎる。小学校では、是非、そのようであって欲しい。
 自分自身のことを振り返ってみよう.小学校から大学院まで21年間、児童、生徒、学生として過ごしたが、教員から人間としてとあり方について感化を受けたことは、極めてまれ、というよりほとんどなかった。期待もしていなかったことに気づいた。親が教育関係者であり、親戚にも教員が多かったことが、評価を下げていたのかもしれないが、実像をみていたのかもしれない。また、自分自身が、人間の教師であったとも思わない。
 秘書を面罵して有名になった女性国会議員は、東京大学法学部、ハーバード大学を、卒業、修了していた。国内第一級,米国第一級の大学でも人間教育には、全く手つかずだったことがよく分かる。大学以降の教育(高等教育)段階での人間教育は、ほとんど不可能である.その意味では,小学校における教員の存在は大きい。その人間的影響力も大きい。今回のような不良教員の事例を見聞すると大きな怒りを覚える。彼女は、教員としてよりも人間として不適格なのである。この教員によって傷ついた児童が,一日も早く,不幸な経験を乗り越えてくれることを祈るばかりである。