それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

スポーツと狂乱

2018-07-25 00:15:10 | 教育

 サッカー・ワールドカップ・ロシア大会も、終了してみれば静かなものだが、コロンビア戦の直後は、渋谷交差点は、無政府状態で、見ていて背筋が寒くなるようであった。騒ぎが収まった後の交差点には、バッグ、靴等の忘れ物が散乱し、忘れ物を探す人達が交番に押しかけて、大変な混乱を来したこともテレビで放映していた。2年後のオリンピックについて、マラソンコースが決まり、入場券の価格や、聖火コースが決まる、マスコットが発表されるなど、一気に加熱し始めているのが不気味である。サッカー・ワールドカップで日本が好成績を収めることや、東京オリンピックが成功裏に終わることを期待するという点では、日本人として、私も人後に落ちない。が、しかし、狂乱状態に陥ることと、応援し、期待することと同義ではない。
 ロシア大会の中継放送の視聴率は50%近くなり、これは驚くべき数字のようであるが、翌日の新聞に、老婦人の投書があった。
 「視聴者のうちの半数近くが視聴するというのはすごいことだが、半分は見ていないと いうことでもある。」という趣旨であった。
  言われてみればその通りであり、大狂乱状態をこういう冷静な態度で受け止めることも必要であろう。
 かく言う私も、贔屓の野球チームを我を忘れて応援し、負けた時には冷静さを欠く言動に走り、後で大いに反省することが少なくない。皆で大騒ぎして、気持ちを一つにすることは言うまでもなく楽しいことではある。が、それはたいていの場合、「情緒」の世界のうちのことである。
 スポーツ、音楽、ダンス等には、多くの人間をトランス状態にする力がある。それを助長するのが、テレビ、新聞等のメディアである。民衆が集合して同じ動きをすることは、政治や宗教に利用されると看過できない結果を生み出す。かつての大戦や数々の戦争も、民衆は単なる被害者であったとのみは言えない面がある。被害者であると同時に、被害を生み出す側にもいたことを自覚しないと、また、同じようなことが生じるのではなかろうか。
 私たちは、いつの場合でも、「私」を見失ってしまってはならない.見失ってしまったあげくに生じた結果について、責任転嫁をすることなど、ますますあってはならない。


災害と言葉

2018-07-22 23:41:51 | 教育

 私の住む県は、この度の豪雨で大きな被害を受けた。わが団地は、幸いにライフ・ラインは無事であったし、物資の被災前の状態にちかくなっていて、特別に不自由な思いをすることもなくなっている。しかし、ほんの少し離れた町は、悲惨な状態になったままのところが少なくない.ネットで被災状況の写真を見ると、以前住んでいた町が、あたかも一面の泥田ないし河原のようになっていて、言葉を失う。
 わが町へのJR(山陽本線)の完全復旧は11月頃だという。JRの駅からは、晩秋まで、東にも西にも行けないということで、高速道がなければ、さしずめ陸の孤島状態と言っても大げさではない。引退生活をしているわが身のありがたさを身に染みて感じている。

 ところで、被災者にどう声をかけるかということは、なかなか難しい問題のようである。
かつて東日本大震災の被災者が、「がんばれと言うな」という発言・反応をして話題になったことがある。たとえば「自閉症児」に、「がんばれ」ということは逆効果であることは知られている。言われなくともがんばっているのだから、それ以上にがんばれという押しつけがましい言葉は迷惑、逆効果ということなのであろう。
 こう言われると、被災者にかける言葉がなくなる。震災に関しては、「がんばれ!」と声をかけることが、広く受け入れられているし、「がんばれ日本」は、日本国民共通の激励表現になっている。具体的になすすべもない人間が、被災者にかけることばに、「がんばってください」というより適切な言葉は見つかりそうにない。
 広島市の豪雨被災地を訪問した国交大臣と広島市長が、一部の被災者に詰め寄られていた。「手ぶらで来るなんて」「スコップの一つも持ってこい」「汗を流しせみろ、どんなにつらいかわかるはずだ」という意味の、激しい言葉であった。市長に関しては、4年前の広島豪雨災害の際の対応を批判されるという前科があるので、今回の来訪についても、受け入れ側に先入観があったのかもしれない。市長や大臣がスコップを持参したところで何ほどのこともできないことは分かりきったことであろう。もっと他にすることある。要は、被災者の立場に立てる能力、心情の希薄さに対する批判である。
 今回は被害が広範囲におよび、ボランティアの数が圧倒的に足りないし、必要なところに適切な配置ができない等の問題があるようだが、暑い中をかけつけて、ひたすら復旧活動に取り組む姿には感動する。が、そうしたボランティアに、「俺のうちのものに触るな!」と怒鳴って、若者たちが意気阻喪した事例があったことが、テレビのレポーターによって報告された。被災者の追いこまれた状況を考慮するなら、感情的な発言にも一理あるのかもしれないが、善意の行為に対する反応としては問題がある。少なくとも、ものには言いようがある。もっとも、善意は、時に押しつけがましくなるという欠点もある。被災者に声をかけ、活動の内容について、事前に了解を得ていれば違った結果になったかもしれない。

 あれこれ考えている最中、大型台風が近づく沖縄からのテレビ中継があった。このところ例のないような規模に発達するであろう巨大台風が直撃する直前の沖縄からの報告である。

 「この台風は、できれば本土の方に行かないでほしい.今は、豪雨被害で大変なときだ から。」
 なんという優しいことばであろうか。私たち本土の人間は、沖縄の人達に、ここに見られるような思いと行動をしてきたと胸を張っていえるだろうかと自問自答する。人の心を動かすのは、声高な言動ではなく、こうした優しさである。もやもやしていた気持ちの整理ができたことのありがたさと、無作為な自分の存在の申し訳なさを同時に、深く考えることになった。


気になる言葉

2018-07-19 10:48:38 | 教育

 うだるような,肌を刺すような暑さが続く。地球の温度調節機能が壊れているのではないかと心配になる。
 豪雨災害の後、いきなりこの暑さでは,被災者の苦労はたいへんなものであろう。昔、同じような状況下にあった者として、同情を禁じ得ない。特に高齢者にとっては過酷、残酷というしかない。この国で老後を生きること自体が、大きな不安の種であるのに,最も基本的な生活の場である住居まで失った人が少なくないのである。
 わが町の主要交通機関であるJRは,不通のままで、復旧は10月とか11月とか、現実とは思えない暗い見通しである。暗い,つらい状況を報じるメディアの言葉の中に、このところ,毎日のように、耳にするのが、「炎天下の中で……」という表現である。被災地報告のレポーターは、ほぼ例外なく,この表現を用いる。こういうものだと思い込み、普及してしまったもののようであるが、「下」は、「の元で」の意味を含んでいるはずなので、単に,「炎天下で」で十分である。 かねてより、「……とは思う」が流行し,今では,ほとんどの人間が、「……とは思います。」と表現しているようだ。早く「……と思う」が勢いを回復して欲しい「と思う」。
 このたびの水害の構造について、例によって,専門家の解説に触れることが少なくなかった。その中に、「バック・ウオーター」なる専門用語風のものがあり、またかと思わせた。「名付け」とは不思議なもので、なんと表現してよいか分からないものが存在することは不安である。そこでなんらかの名前を付けることになるのだが、「なんと呼んでよいか分からない」物を、そのまま名前にしてしまうこともある。「UFO」は、そうした存在である。河川の予期せぬ氾濫の原因について、専門家が、もっともらしい顔と声で、英語による「バック・ウオーター現象です。」と言えば,なんだか納得できたような気になる。「バック・ウオータ-」とは、わが日本語では「逆流」という。専門家に聞くまでもない。こういう馬鹿げた名付けは、気象の世界以外でも、心理学や脳科学の世界によくあるようで、一種の「目くらまし」である。『徒然草』の「しろうるり」を思い出して,苦笑している。
  このところ、日本語の箍(たが)が緩んできているようで、こんな中、「英語習得」に躍起になっている国の将来は危うい。


「与える」、「呼ぶ」

2018-07-13 04:31:56 | 教育

 スポーツ選手の言葉に、「ファンに感動を与えるようなプレイをしたい。」という言い回しがある。これは、歌手やタレントにも共通することばである。悪意のかけらもないはずの口から出る言葉であってみれば、少々残念である。
 一方で、料理番組などで、「○○にお砂糖を加えてあげる」というような言い方もあり、こちらも違和感がある。
 前者の場合、選手がファンを下に見ている、つまり「上から目線」(この言葉も問題ありだが)でいるわけではなさそうである。それなら、「ファンに感動してもらえるようなプレイをしたい」と言えばよいのである。
 後者については、ペットや無生物、料理の素材などに「……してあげる」などと丁寧な言葉を用いる必要はない。丁寧すぎて悪いわけではないが、それは、言葉の意味が十二分に分かっていて、その上で使用している場合や、ペットや無生物に、人間、しかも自分にとって愛すべき、かけがえのない存在の人間と同等の愛情や敬意を持っている場合に、「他人の介入することではないから放っておいて!」と言いうるのであって、そうでない場合は、やはり違和感がある。「……砂糖を入れます」で事足りるのである。

 時々、テレビ番組の司会者が、ゲストについて、「それでは、○○さんをお呼びしましょう。」ということがある(「ある」というより、同じような状況下では、常態ともいえるが)。「呼ぶ」という言葉には敬意を含まない。「お」を付けたところで、ゲストに対する敬意は感じられない。表現者の意図に反して失礼なことになっている。どうして「では、○○さんをお招きしましょう。」とでも言えないのだろうかと不審でならない。

  アナウンサーの読み上げるニュースを聞いていても、首を傾げたり、吹き出したりする表現が少なくない。アナウンサーが悪いのか、原稿の書き手が悪いのか、原因は分からないが、聞き流せないで、記憶に残ることがある。「人間だもの……」といって聞き流して「あげればよい」というべきか。


危機管理について

2018-07-09 11:05:54 | 教育

 折しも、過去50年遭遇したことのない豪雨の被害があり、当地(広島県)の被害は甚大である。当市(東広島市)は、ここに至る道路が流失、陥没、埋没する等で、あたかも陸の孤島風らしい。当団地は高台にあり、河川からも離れているので被害はないようだが、ぎっくり腰で横になっている私には分からない。テレビで、被害の悲惨さを目撃するだけである。経験したことのない危機に対しては、身構えること、回避することは難しい。60年近く前の大洪水の被災者であり、水位が二階で1メートルを超え、二階から船で脱出したことや、水が退いた後の惨状、友人、知人の死亡などを思い起こし、「なすすべのない危機だった」とため息をつくばかりである。
 テレビで、タイの洞窟に入り込み脱出できなくなった13人の少年たちと20代のコーチのニュースを伝えている。なんと入り口から5キロメートルも奥に入り込んで身動きできなくなったというのである。
 何故に、こんな行動をしたのか。コーチまで付いていて、危険は予知できなかったのか。これは、いわば、回避できる危機であったと言うほかない。救出作業に当たっていたベテラン・ダイバーが死亡したことまで考え合わせると、この不用意な行動に関する責任は軽くない。現状では、責任の所在を問題にする余裕はなかろうが、再発防止のためにも、事態が終結したあとには、きちんとした総括が必要である。

 このところ、山での事故、遭難が多い。先日は、父と子二人で山に登り、遭難、死亡するという事故が起こった。山の事故は、まず自然を畏れる気持ちを持ち、対策を怠らないという姿勢があれば、予防できることが多いであろう。身の回りには「山の会」の会員も多く、大抵は、不用意、無理、安易な行動をしている。風雨の中を敢然と出発し、風邪で長い間苦しんだ人間がわが家にもいる。ずいぶん前から、好天を期待して立てた計画は、いつでも撤回、中止するという柔軟さが必要であろうし、集団で緩みがちな気持ちを引き締めて、万全の装備で出かけるということになれば、事故も大いに減少するはずであるが、こんな当然のことができない。一人で行動して重大な事故に遭遇することも、当然避けるべきである。二人で行動していても、一人が負傷したら大変なことになると想像して心配になることが多い。

 車の事故も多い。特に老人の事故は、高齢になれば、免許を返上して運転をやめることにすれば激減するであろう。自損事故なら、悲惨ではあっても自業自得ともいえるが、加害者になる可能性があるから怖い。公共交通機関がないので、免許は必要という意見を耳にして、なるほどとも思うが、多くの人間が自家用車に頼る結果、電車もバスも経営不振が進行するという面もある。団地内を走る、ほとんど客のいない循環バスを見ながら先行き不安になる。かくいう私は次の免許更新を機に、返上を考えているので、そのときにバスが運行を続けているように願っている。

 学校の運動会での「組み体操」の危険が指摘され、取りやめが続いた、当然である。危険なことが分かっていることを児童に強制するのは、すでに「犯罪」である。組み体操擁護論もあるようであるが、その論理は破綻している。命がけの行為が教育の現場で強制されてよいわけはない。小学校の教員(非常勤講師)が、水泳の指導時に、泳げない女児の頭を無理矢理水中に押さえつけ、聴覚障害を引き起こしたということで訴えられたが、教員に非があることは歴然としている。こういう教員が、人を育てる現場に存在していてはいけない。

 身の回りには、ちょっと注意すれば回避できる危機が少なくない。たぶん大丈夫などという根拠のない自信を捨てて、最悪の場合を想定、予想しながら行動することで身の安全を守りたい。想定を超える事態という言い訳もあるので、想定の範囲も可能な限り広範、長期的になされるべきであろう。それでも事故に遭遇する場合は、「宿命」として諦めるしかないが、そういうことはあまり多くはない