ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

「縄文ノート199 『縄文十柱』からの未来」の紹介

2024-07-01 17:12:03 | 日本文明

 はてなブログに「縄文ノート199 『縄文十柱』からの未来」をアップしましたので紹介します。https://hinafkin.hatenablog.com/

 縄文社会論について各論を深めてきましたが、これまでの各氏の提案などをまとめ、「縄文文化・文明から未来への教訓」として「縄文十柱」を今回、まとめました。

 「①共生社会、②共同社会、③健康社会、④和平社会、⑤母系社会、⑥分住社、⑦美楽社会、⑧個性社会、⑨霊継社会、⑩幸福社会」の「縄文十柱」について、ご議論いただければ幸いです。

 本ブログの「スサノオ・大国主建国論」としても、葦原の沖積平野で「五百鍬」の鉄器水利水田稲作を全国に広め、新羅との米鉄交易で建国したスサノオ・大国主7代からの「葦原中国=豊葦原水穂国」(古事記)、「委奴国(ふぃなのくに)」(金印)、「天鄙国(あまのひなのくに)」(霊帝・中常侍の李巡)について、「弥生人(中国人・朝鮮人)征服説」がみられますが、私は1万数千年の縄文文化文明を受け継いだ縄文海人族・山人族の内発的発展・自立自主的発展と考えており、縄文社会からの農耕・食文化や巨木建築文化、神名火山(神那霊山)信仰などスサノオ・大国主建国の探究を出雲から進め、世界遺産登録運動に着手することを期待したいと考えます。 雛元昌弘


スサノオ・大国主ノート159 『太陽を南から登らせる』邪馬台国畿内説

2024-06-27 15:51:45 | 邪馬台国

 わが国の古代史研究は「天皇家建国論」が大勢を占めているように思いますが、私は記紀・風土記と魏書東夷伝倭人条分析を通して、スサノオ・大国主7代による百余国の「葦原中国・豊葦原水穂国」=「委奴国(ふぃなのくに)」の建国からこの国の古代史研究は始めるべきと分析を続けてきました。―『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』等参照

 そして未だに決着がついていない邪馬台国論争については、百余国の「委奴国(ふぃなのくに)」から乱により30国が分離し、この30国は「相攻伐歴年」の後に卑弥呼を共立して「邪馬壹国連合」の「倭人国」となり、70余国の「天鄙国(あまのひなのくに)」と並立状態となり、卑弥呼の後継者争いに敗れた男王派のニニギは薩摩半島南西端の笠沙・阿多に逃げ、その4代目の山人(やまと)族の若御毛沼(ワカミケヌ:8世紀に神武天皇の諱=忌み名)が傭兵隊として宇佐→筑紫→安芸→吉備と16年間仕え、大和(おおわ)に入り、10代かけて崇神天皇の時に権力を奪ったと私は分析しています。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)等参照

 今回は、邪馬台国論争の要となる魏書東夷伝倭人条の「行程論」について、すでにこれまでSeesaaブログ「ヒナフキンの邪馬台国ノート」などに書いてきたことを、「里程日程」、「陸行水行」、「方位」、「津」の解釈から決着を付けたいとまとめました。

 

 昔むかしに流行ったエディット・ピアフ、越路吹雪の歌で有名な『愛の賛歌』のブレンダ・リーの英語歌詞の冒頭の「If the sun should tumble from the skies. If the sea should suddenly run dry. If you love me, really love me, let it happen  I won't care.」(もし太陽が空から落ちても、もし海が突然干上がっても、もしあなたが私を愛して本当に愛してくれるなら、そうなってもかまわない)を思い出します。

 邪馬台国畿内説や近年の邪馬台国吉備説、丹後説、四国説などをみていると、この歌と重なってくるのです。

 「If the sun should rize from the south. If the moon should set in the north. If you love kinaisetu, really love kinaisetu, let it happen  I won't care.」(もし太陽が南から昇っても、もし太陽が北に沈んでも、もしあなたが畿内説を愛して本当に愛してくれるなら、そうなってもかまわない)

 

 邪馬壹国がどこにあるのかは、魏書東夷伝倭人条の行程記録と、後漢・魏皇帝から与えられた金印、金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡(きんぎんさくがんしゅ りゅうもん てっきょう)、ガラス壁などの遺物、さらには記紀の記載や対応する地名、神社伝承などから決まります。ありふれた三角縁神獣鏡や纏向遺跡での各地の土器の集積、木製仮面、大量の桃の種、大型建物からは決ましません。これらは1~3世紀の奈良盆地の開拓者、スサノオ・大国主一族の祭祀の痕跡の可能性が高いからです。―邪馬台国ノート「44 纏向の大型建物は『卑弥呼の宮殿』か『大国主一族の建物』か」「47 『神武東征』について―若御毛沼命の河内湖通過時期「48  纏向遺跡は大国主一族の祭祀拠点」参照 

 問題は、魏志倭人伝(魏書東夷伝倭人条)の行程記をどう読むかですが、不彌国から「南至投馬国水行二十日・・・」「南至邪馬壹国 女王之所都 水行十日陸行一月」の記載の、水行の起点を邪馬台国畿内説は不彌国からとし、放射状読み九州説は伊都国からとしています。

 私はその水行の起点は、九州本土に魏使が到達した末盧国の天然の良港(津)の呼子港からとし、正使は陸行し、副使は水行したと考えています。

 倭人条を読んでみましょう。「王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国 皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯」(王が使を遣はし、京都、帯方郡、諸韓国、及び郡使が倭国に詣るに、皆、津に臨みて捜露す。文書や賜遣の物を伝送し女王に詣らすに、差錯するを得ず)と書かれているのであり、津(天然の良港)から文書・賜遣物を伝送して女王に詣でているのです。

 「里程」でなく「日程」で示した「南至投馬国水行二十日」「南至邪馬壹国 女王之所都 水行十日陸行一月」の起点は、倭国本土の東松浦半島北端の「津」、末盧国の呼子港しかありえません。

 倭国の津から「伝送」したというのは魏の船荷を倭人の船に乗せ換えたのであり、瀬戸内海や日本海を「水行」したのであれば魏の大型船で安全・快適に航行でき、小さな和船で「伝送」する必要はありません。平底の和船に移し替えたのは、水深が浅く、干満差が大きい有明海から筑後川を遡る必要があったからです。

 そして「詣でる」とある以上、その伝送は倭人任せではなく副使が乗り、「太守弓遵 遣建中校尉梯儁等 奉詔書印綬詣倭國 拝假倭王」(太守・弓遵は建中校尉の梯儁等を派遣し、詔書・印綬を捧げて倭国へ行き、倭王に仮拝した)との記載からみても、「拝假(仮)倭王」(倭王の代理に拝した)のです。

 「其地無牛馬」の記載からも、津からの「伝送」は水行しか考えられません。また、「自為王以來少有見者」(王となりて以来、見る者少し)、「唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處」(ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝へ、居所に出入りする)ということからみて、副使は卑弥呼に拝したのではなく辞を伝える「男子一人」に拝したので「拝假(仮)倭王」と書いたのです。

 重要な点は、九州北岸で魏の竜骨船(V字底船)が風と波を避けて長期間停船でき水深が深く、直接接岸できる天然の良港は末盧国の呼子港しかなく、「南至投馬国水行二十日」「南至邪馬壹国 水行十日陸行一月(水行十日=陸行一月)」の起点は呼子港以外にありえません。

 「邪馬壹国博多湾岸説」の古田武彦さんやそれを受け継いだ推理小説家・高木彬光氏の「邪馬台国宇佐説」は、「南至投馬国水行二十日」「南至邪馬壹国 水行十日陸行一月」の起点を帯方郡としましたが、「王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国 皆臨津捜露」の記載からみて、「水行」は倭国の「津」(呼子港)からしかありえません。また「自郡至女王國 萬二千餘里」と書き、帯方郡から末盧国までの「水行」を「里程」で書いている以上、わざわざ「水行二十日」「水行十日陸行一月」の「日程」表記で示す必要はありえません。末盧国の「津」から正使の「陸行里程」表記に対し、副使の伝送を「水行日程」で書き分けたのです。

 さらに図3のように、「周旋可五千餘里」は正使陸行・副使水行(陸行里程・水行日程)で実際に「參問倭地」して「周旋」したことを示しているのです。

 個人的には古田さんにいろいろと教えられ、高砂市の「石の宝殿」(万葉集記載)やその北の加古川市の「天下原古墳」(播磨国風土記に記載)を案内したこともありましたが、この水行起点帯方郡説は文献分析にこだわった古田さんらしからぬ間違いと考えます。

 ここで畿内説に戻りたいと思いますが、なんとなんと「南至投馬国」「南至邪馬壹国」の「南」を「東」の書き間違いとしているのです。

 畿内説を魏使になってタイムワープしてリアルに体験してみましょう。

 魏使の一行は不彌国で朝起き、東に向けて出航した時、太陽は正面から昇ったはずです。それを「南」としたというなら、太陽は「南」から昇ったことになります。投馬国までの「水行二十日」、邪馬壹国までの「水行十日陸行一月」の間、60日間、毎日、太陽が南から昇ったと魏使が体験していたというのが畿内トンデモ説なのです。

 これは瀬戸内航路説ですが、対馬暖流航路説(山陰航路説)はもっと奇妙です。丹後までは太陽は南から昇り、最後の丹後から大和までの「陸行一月」は太陽は東から昇ったことになります。

 いずれにしても、不彌国までは太陽は東から昇っていたのに、不彌国から先は南から昇り、さらに丹後からは東から昇るなど、「魏使方向音痴説」は冗談にもならない大嘘です。「科学」「専門家」など持ち出すまでもない、万人の「常識」問題です。

 邪馬台国畿内説、さらには吉備説、四国説(阿波説、讃岐説、高知説)、出雲説、丹後説の皆さんは、魏使は太陽が昇り、沈む方角もわからない方向音痴であるという明確な証明をしないかぎり、「倭人伝方位誤記説」を撤回すべきです。

 そして畿内説では、記紀に書かれた美和→大和(おおわ=大倭)の紀元1~4世紀の稲作の普及と建国は大物主(スサノオ=大物主大神の御子の大年)・大国主一族であるいう歴史研究へと転換を図るべきです。雛元昌弘

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 帆人の古代史メモ(~115まで)      http://blog.livedoor.jp/hohito/

 帆人の古代史メモ2(116~)      https://hohito2024.blog.jp/

 ヒナフキンの邪馬台国ノート       http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論                 http://hinakoku.blog100.fc2.com/


「縄文ノート197 『縄文アート論』メモ」の紹介

2024-06-23 12:33:51 | 日本文明

 はてなブログに「縄文ノート197 『縄文アート論』メモ」をアップしましたので紹介します。https://hinafkin.hatenablog.com/

 岡本太郎氏紹介の「火焔型土器」の強烈なインパクト、大阪万博の「太陽の塔」(生命の樹)と「黒い太陽」、「縄文に帰れ」「沖縄に本土が復帰するのだ」のメッセージ、猪風来氏の縄文野焼きイベント(2回目は金城実氏も参加)、仕事でよく通った群馬県片品村の金精様と砂糖ツメッコ、群馬県榛東村の耳飾り館、長野県・山梨県の妊娠土偶と女神像など、縄文文化との出合いを振り返りながら、「縄文アート」がどう現代に引き継がれているか、考え続けています。

 本ブログの「スサノオ・大国主建国論」としても、縄文海人族の沖縄から北海道までの対馬暖流にのった交易・交流での出雲の位置、縄文の神名火山(神那霊山)信仰と出雲の関係、縄文巨木建築と出雲大社本殿の関係、縄文のヒスイ文化と勾玉の関係、ソバ食のルーツ、火焔型縄文土器の縁飾り突起(私はトカゲ龍神説)とヤマタノオロチの関係など、出雲の宗教・文化とスサノオ・大国主建国との関係の解明をこれまで追究してきましたが、出雲の地元おいて縄文社会からのスサノオ・大国主建国の探究が進み、さらには人類史の中に位置づけ、八百万神信仰の世界遺産登録を目指すことを期待したいと考えます。 雛元昌弘

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 帆人の古代史メモ          http://blog.livedoor.jp/hohito/

 ヒナフキンの邪馬台国ノート     http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 


158 縄文・古代郷土史のすすめ

2024-06-20 14:44:49 | スサノオ・大国主建国論

 gooブログ「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」で連載を始めた「スサノオ・大国主建国論」は7で中断したままですが、「2 私の古代史遍歴」(221013)で全国各地の郷土史の問題点について次のように書きました。

 全国各地の仕事では市町村史を必ず見てきたが、不思議だったのはどこにでも必ずある縄文・弥生遺跡の次は朝廷支配が及んできた記述となり、各地にあるスサノオ・大国主一族の神社が示す歴史についてほとんど触れていないことであった。祖先霊を祀る宗教施設であるスサノオ・大国主系の神社があり、しかもスサノオ・大国主に関わる伝説がある以上、スサノオ・大国主王朝の影響が及んだに違いないのであるが、大和中心・天皇中心史観の郷土史家たちは無視しているのである。

元:スサノオ・大国主建国論2 私の古代史遍歴 - ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート (goo.ne.jp)

 

 第1の問題点は、「未開の縄文、進んだ弥生」という、縄文時代から弥生時代(土器名による時代区分はすでに破綻)へ大転換がおきたとする縄文・弥生断絶史観です。

 1万数千年の母子主導の「採集栽培・漁労縄文社会」を男主導の「狩猟採集社会」としてとらえるとともに、「縄文農耕(芋豆穀実栽培)」から「水利水田稲作」への自立的・内発的な発展を無視していることです。

 瀬戸内海の淡路島やしまなみ海道、山陰の市町村などにまちづくり計画の仕事で通っている時、夕方になると釣竿とバケツ持って女性や高齢男性などが岸壁で釣りをして夕食の魚を釣っている光景をよく見かけ、各地の市町村での座談会では中高年の人たちが「子どもの頃の遊びは、ほとんど食料調達だった」と懐かしそうに話すのをよく聞きました。

 私も小学生低学年の頃は播磨の田舎にいくと又従兄弟と毎朝網をもって小川にでかけ、親戚一同は春には必ず潮干狩りに出かけ、又従兄弟たちと海に泳ぎに行くと貝を足で採り、時には伝馬船を借りて釣りに行き、揖保川ではヤスでアユやウナギを突き、投げ網を教えてもらい、山芋を掘ることもありました。岡山市の自宅では、春には町内会できのこ狩りに行き、近所の青年が空気銃で小鳥を撃つのに連れていってもらったこともありました。

 縄文時代から日本列島は豊かな海と山の幸に恵まれており、採集漁撈は子ども戦力であったのです。

 西洋中心史観は男性中心の「狩猟・肉食・戦争進歩史観」であり、日本の多くの歴史家・考古学者も自然条件を無視してその受け売りに終始し、熱帯雨林での「糖質・DHA食」に支えられた人類の頭脳の発達を無視し、母子中心の「採集栽培・漁労進歩史」を認めていません。

 「戦争進歩史観」ですから武器にもなる「石先槍」には興味はあっても、骨製の「銛」や「釣り針」には関心が薄いのです。―縄文ノート「89 1段階進化説から3段階進化説へ」「111 9万年前の骨製銛からの魚介食文明論」「70 縄文人のアフリカの2つのふるさと」「186 『海人族縄文文明』の世界遺産登録へ」「178 『西アフリカ文明』の地からやってきたY染色体D型日本列島人」参照

 人類は何次にもわたってアフリカからアジア・ヨーロッパへ出ていますが、最も大規模な「出アフリカ」は約7万年前とされており、彼らは熱帯雨林で「銛」で魚やワニ、トカゲ、カエルなどを獲っていた文化を持ってアフリカを出て、多くは同じように食料の豊富な熱帯・亜熱帯に拡散したのです。

 日本文化は1万数千年の縄文社会を基底としているのであり、西欧中心の「狩猟・肉食・戦争進歩史観」から離れ、縄文社会をベースにした郷土史を再構築して欲しいものです。

  第2の問題点は、各郷土史が「縄文時代→弥生時代→古代天皇制」の記述になっており、記紀(古事記・日本書紀)や出雲国・播磨国風土記などに書かれたスサノオ・大国主7代の「葦原中国(あしはらのなかつくに)」「豊葦原水穂国(とよあしはらのみずほのくに)」の建国史を無視し、各地にある神社伝承や祭り、民間伝承、地名などをスサノオ・大国主建国と結びつけて検討していないことです。

 私は「石器時代→縄文時代→弥生時代→古墳時代」という分類基準に統一性のないガラパゴス的な時代区分を「イシ・ドキ・ドキ・バカ時代区分」として揶揄し、食生活と採集農耕漁労文化の道具を分類基準として「木骨石器→土器(土器鍋)→鉄器(鉄先鋤)」の時代区分を提案し、「縄文栽培・農耕」(芋豆穀実の焼畑農耕)から沖積平野での「鉄器水利水田稲作」への大転換こそ古代国家形成に関わる時代区分とすべきと考えてきました。

 そして、この後者こそ後漢書、魏書東夷伝倭人条などに登場する紀元1・2世紀の男王の7~80年の「百余国」の「委奴国(ふぃなのくに)」であり、スサノオ・大国主7代の「葦原中国」「豊葦原水穂国」であることを明らかにしてきました。―『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』等参照

 かつて古田武彦氏は「多元的古代」説を掲げましたが、縄文1万数千年の歴史を受け継いだ「委奴国」を構成する「多元的」な旧百余国の研究は進んでおらず、代わりに郷土愛から邪馬台国を九州各地、郷土・大和(おおわ)、吉備、出雲、阿波、丹後などに引っ張ってくる邪馬台国説が乱立しているありさまです。

 「スサノオ・大国主建国史無視・抹殺の郷土史」から、記紀・風土記などの記述と全国各地の豊富な遺跡・遺物、古社の祭神と伝承、民間伝承、地名・人名などを総合的に照合した「縄文・古代郷土史」を確立し、「鉄器王」(鉄先鋤王)スサノオ・大国主一族による「葦原中国・豊葦原水穂国」「委奴国」の全体像を解明したいものです。

 スサノオがヤマタノオロチ王を切った剣は「韓鋤剣(からすきのつるぎ)」で韓の鉄先鋤の刃先を鍛え直した剣であり、大国主が「五百(いほ)つ鉏々(すきすき)猶所取り取らして天下所(あめのした)造らしし大穴持」(出雲国風土記)と呼ばれ、御子に阿遅鉏高日子根(あぢすきたかひこね)がいることからみて、スサノオ・大国主7代は新羅から鉄先鋤を輸入し、寒冷化で収穫量が減った新羅に米を運ぶ「米鉄交易」により、「葦原」の開拓と「水路・水田整備」を進めたのです。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)「邪馬台国ノート49 『卑弥呼王都=高天原』は甘木(天城)高台―地名・人名分析からの邪馬台国論」(2300402)参照

 また、私の妻の実家の裏手にある「高御位山(たかみくらやま)」(播磨富士)の山頂には巨大な磐座(天御柱)があり、その下には石の宝殿の削り石を投げ捨てた「タイジャリ(鯛砂利)」があり、「鯛の形の頭が上を向いていたらここが日本の中心になるはずであった」という伝承(義母談)があり、近くには「大国里」(播磨国風土記)や「天下原(あまがはら:前同)」「天川」などの地名があります。

 高御位山の前の小山には500tの巨石の「石の宝殿」(筆者説は石の方殿)」があり、万葉集には生石村主真人(おいしのすぐりのまひと)の「大汝 小彦名乃 将座 志都乃石室者 幾代将經」(大汝(おおなむち)少彦名のいましけむ志都(しづ)の岩屋は幾世経ぬらむ)の歌があります。なおこの「石の宝殿」の大国主・少彦名を祭神とする「生石(おいしこ)神社」は生石村主真人一族の神社であったとみて間違いありません。―『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』参照

 そして、古事記には、少彦名の死後「いかにしてこの国を造ろう」と思い悩んでいた大国主命のところに、「御諸山(三輪山)に坐す神」の大物主大神(スサノオ)が海を光して来て、「よく我が前を治めれば、共に国作りを行おう」「自分を倭の青垣の東の山の上に奉れ」と言い大国主命の協力者となったとしています。さざ波によって海がキラキラと光り、その中から大物主大神の神意を伝える大物主が船で東から現れたという光景は、まさにこの地の瀬戸内海南岸の光景に外なりません(出雲北岸、四国北岸などでは海は光りません)。

 この石の宝殿のある「竜山石」は仁徳天皇をはじめとした畿内の大王や豪族などの石棺に使われ、紫宸殿に四角い台座の上に八角形の屋形を被せた「高御座(たかみくら)」で皇位継承の儀式をおこなうのは、この播磨の高御位山での大国主・大物主連合の建国儀式を継承したと考えます。

 私は縄文遺跡と記紀神話・神社伝承の繋がりについては諏訪の神名火山(神那霊山)信仰や石棒・金精信仰などある程度分析はできましたが、播磨の地で縄文遺跡と播磨国風土記・記紀や神社伝承などのスサノオ・大国主一族の建国との関係をまだ探究できていません。地元でしか解明できない「記紀、風土記、地名・人名、神社・民間伝承、遺跡・遺物」の5点セットの縄文・古代史の宝庫は全国各地にまだ眠ったままであり、全国各地の郷土史家の研究に期待したところです。

第3の問題点は、「弥生人(中国人・朝鮮人)征服史観」や「弥生人大量渡来史観」とともに、「天皇家弥生人説」や「スサノオ・大国主一族弥生人(朝鮮人)説」が見られることです。

 古事記は薩摩半島南西端の笠沙・阿多のニニギからの阿多天皇家の2代目を「海幸彦(漁師:隼人=はやと)」「山幸彦(猟師:山人=やまと)」兄弟とし、山幸彦・ホオリの妻は龍宮(琉球)の豊玉毘売(とよたまひめ)とし、その子の鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)は豊玉毘売の妹の玉依毘売(たまよりひめ)を妻としたと伝えています。そして、その子の山人(やまと)族の若御毛沼(ワカミケヌ)が大和(おおわ)に入り初代「神武天皇」(8世紀の諱=忌み名)になったとしていることから明らかなように、縄文人の一族とみなしており稲作民の王とはしていません。―「スサノオ・大国主ノート152 『やまと』は『山人』である」(240516)参照 

 また記紀によれば、高天原は「筑紫日向(ひな)橘小門阿波岐原」(地名からみて福岡県旧甘木市蜷城(ひなしろ))にあるとしており、高天原を朝鮮半島とする「天皇家弥生人(朝鮮人)説」が成立する余地などありません。天皇家は薩摩半島南西端の縄文山人(やまと)族なのです。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 さらに「スサノオ・大国主一族弥生人(朝鮮人)説」も見られますが、記紀によればスサノオ・大国主一族のルーツは壱岐・対馬を拠点とした縄文海人族であり、魏書東夷伝倭人条や『三国史記』新羅本紀、記紀のどの史書からみても壱岐・対馬の海人族朝鮮人説など成立しません。最近、出雲人のDNA分析の結果は、出雲の人たちが縄文系であることが明らかとなっています。

 「万世一系」の天皇中心史観の歴史家たちは、天皇家を稲作文化・文明を担った弥生人の建国王とし、新羅と米鉄交易を行い「鉄器水利水田稲作」を全国に広めた縄文海人(あま)族のスサノオ・大国主一族の「葦原(沖積平野)」の「水穂国」づくを無視していますが、縄文1万数千年の文化・文明こそこの国の基底文化・文明であることを隠し、「弥生社会」像を全面に押し立てて「弥生天皇」像を創作しているのです。

 全国的に縄文遺跡の発掘が進み、民俗学の蓄積のあるわが国には、「記紀、風土記、地名・人名、神社・民間伝承、遺跡・遺物」の縄文・古代史の宝庫が全国各地にあるにもかかわらず、バラバラにされて眠ったままなのです。

 「天皇中心史観(新皇国史観)」病にかかっていない若い世代の皆さんにより、1万数千年の縄文時代と紀元1~4世紀のスサノオ・大国主一族の建国史を「食・農耕・倭音倭語・祭り・宗教」などの文化・文明史として繋ぐ新たな縄文・古代郷土史が各地で生まれることを期待したいと思います。

 そしてさらに視野を世界に広げて、この縄文文化・文明こそ侵略神一神教以前にかつて全世界にあった母系制社会の文化・文明であり、縄文・古代郷土史から世界遺産登録に向けた取り組みを各地で開始して欲しいものです。―縄文ノート「11 『日本中央部土器文化』の世界遺産登録をめざして」「49 『日本中央縄文文明』の世界遺産登録をめざして」「59 日本中央縄文文明世界遺産登録への条件づくり」「77 北海道・北東北の縄文世界遺産登録の次へ」「82 縄文文明論の整理から世界遺産登録へ」「160 『日本中央部縄文遺跡群』の世界遺産登録にむけて」「161 『海人族旧石器・縄文遺跡群』の世界遺産登録メモ」「166 日本中央部縄文文明世界遺産登録への研究課題」「186 『海人族縄文文明』の世界遺産登録へ」等参照

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 帆人の古代史メモ(~115まで)         http://blog.livedoor.jp/hohito/

 帆人の古代史メモ2(116~)        https://hohito2024.blog.jp/

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 霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/


157 温羅(うら)は「吉備王・占(うら)」

2024-06-12 15:09:29 | スサノオ・大国主建国論

 「縄文ノート125 播磨・吉備・阿蘇からの製鉄・稲作・古墳の起源論」(220226)において、私は次のように書きました。

 祖母の住んでいた「浦部」集落は揖保川町史によれば「占部」の可能性が指摘されており、五十狭芹彦(大物主の妻で箸墓に葬られた百襲(ももそ)姫の弟。後の吉備津彦)に殺されたと伝わる吉備の「ウラ(温羅)王」も「占王」であり、対馬・壱岐をルーツとした「占部氏」由来の地名・人名ではなかったかなどと考えていました。

 

1 温羅(うら)は「吉備王・占(うら)」

 岡山空襲で焼け出された父母は、吉備津神社の「温羅」の首を埋めたとされる「御竈殿(おかまでん)」の真横の借家に疎開しており、そこで私は小学生になる前まで御釜殿から回廊(スケーターで下るとスリルがある)にかけてよく遊んでいましたが、播磨の「浦部」と吉備の「温羅」、何か因縁を感じずにはおれません。

 この御釜殿で行われる「鳴釜神事(なるかましんじ)」について、ウィキペディアは「釜の上に蒸篭(せいろ)を置いてその中にお米を入れ、蓋を乗せた状態で釜を焚いた時に鳴る音の強弱・長短等で吉凶を占う神事。・・・一般に、強く長く鳴るほど良いとされる。原則的に、音を聞いた者が、各人で判断する。女装した神職が行う場合があるが、盟神探湯・湯立等と同じく、最初は、巫女が行っていた可能性が高い」「吉備津神社には鳴釜神事の起源として以下の伝説が伝えられている。吉備国に、温羅(うら)という名の鬼が悪事を働いたため、大和朝廷から派遣されてきた四道将軍の一人、吉備津彦命に首を刎ねられた。首は死んでもうなり声をあげ続け、犬に食わせて骸骨にしてもうなり続け、御釜殿の下に埋葬してもうなり続けた。これに困った吉備津彦命に、ある日温羅が夢に現れ、温羅の妻である阿曽郷のの娘である阿曽媛に神饌を炊かしめれば、温羅自身が吉備津彦命の使いとなって、吉凶を告げようと答え、神事が始まったという」としています。

 父からこの話を聞いて御釜殿は怖いと思っていましたが、温羅一族は鬼とされ「桃太郎の鬼退治」物語の元となったのです。

 この伝承で重要なのは、岡山市の「黄蕨(きび)の会」代表の丸谷憲二さんから教えられたことで、図1のように妻の阿曽媛の阿蘇地区が古代からの製鉄拠点であったことです。―縄文ノート121 古代製鉄から『水利水田稲作』の解明へ」(220205)参照

 温羅が捕まったとされる鯉喰神社は楯築墳丘墓から700mほどのところにあり、温羅の血で染まったという血吸川・赤浜はこの地が赤土=赤目(あこめ)砂鉄製鉄の拠点であったことを示しており、阿曽地区から血吸川をさらに遡った鬼城山(鬼ノ城は温羅の本拠地)の麓に6世紀中ごろの現在のところ日本最古とされる製鉄遺跡千引カナクロ谷製鉄遺跡(千引=血引であろう)があるのです。―「縄文ノート120 吉備津神社と諏訪大社本宮の『七十五神事』」(220129)参照

  この「温羅王」について、ウィキペディアは「鬼神」「吉備冠者(きびのかじゃ)」という異称があり、「出自についても出雲・九州・朝鮮半島南部など、文献によって異なる」としています。

 私は大国主を国譲りさせて後継王となった穂日と武日照(たけひなてる:天夷鳥、天日名鳥)親子が出雲祝神社(埼玉県入間市)に祀られていることから、大国主の後継者は「祝(いわい)」と呼ばれていた可能性があり、筑紫鳥耳・大国主王朝の子孫である筑紫君磐井もまた「磐井=祝」であったと考えています。そして、同じように吉備王「温羅」もまた「占=卜」で神事を行っていた王の可能性が高いと考えます。

 

2 阿曽族は製鉄部族

 丸谷憲二さんはこの阿曽一族が行っていた製鉄は「阿蘇リモナイト」(褐鉄鉱、沼鉄鉱)を使った阿蘇の製鉄法が伝来したと考えており、広島大学や愛媛大学でもモナイト製鉄再現実験を行っており、調べてみると図2のように阿曽・麻生地名のあるところで製鉄が行われていることから私も丸谷説を支持しています。―縄文ノート121 古代製鉄から『水利水田稲作』の解明へ」(220205)、「縄文ノート119 諏訪への鉄の道」参照

 母の故郷であるたつの市揖保川町の「浦部」の前の山には鉄糞(かなくそ:鉱滓、スラグ)が出ることを又従兄弟から「古代人の糞が出る」と間違って聞いており、図3のように隣の太子町には阿曽地名があり、その近くにはスサノオと共に新羅に渡った御子の五十猛(いたける)を祀る中臣印達神社(なかとみいたてじんじゃ:いたて=いたける)があります。―「縄文ノート127 蛇行剣と阿曽地名からの鉄の伝播ルート考」(220318)参照

 また、近くの雛山の麓の4~7世紀の朝臣古墳群の1号墳からは阿蘇ピンク石の舟型石棺蓋が見つかっていますが、図4のように岡山市の5世紀前半の全国第4位の巨大前方後方墳の造山(つくりやま)古墳の舟型石棺は灰色の阿蘇溶結凝灰岩、瀬戸内市長船町の5世紀後半の築山(つきやま)古墳の家型石棺や香川県観音寺市の5世紀中頃~後半の丸山古墳の舟形石棺、5世紀中頃の帆立貝形の青塚古墳の舟形石棺などは阿蘇ピンク石であり、高槻市の6世紀前半の今城塚(いましろづか)古墳(第26代継体天皇の陵墓説)など5~6世紀の大阪・奈良・滋賀の10の古墳にもまた阿蘇ピンク石は使われており、高砂市の竜山石と同じく古代王たちのルーツを示す最高級の石材であった可能性があります。―「縄文ノート125 播磨・吉備・阿蘇からの製鉄・稲作・古墳の起源論」(220226)

 以上、「温羅」と妻の「阿曽姫」の子孫の「祝(いわい:神主)」の娘の「阿曽姫(襲名)」伝説から、私はこの地の製鉄を行う阿曽族の姫に吉備王の「温羅(占)」が妻問いして夫婦となったと考えます。

 

3 吉備津神社の2つの聖線(レイライン:霊ライン)

 私は公共施設の配置を計画する地域計画や建物の立地を決める建築基本計画の仕事をしてきましたから、吉備津神社の配置が特に気になります。図5~に示すように吉備津神社本殿は神名火山(神那霊山)である「吉備中山」を向いていないのです。

 これに対して、神池(幼児の時、三輪車とともに落ちて溺れそうになったことがあります)の中にある宇賀神社(吉備国最古の稲荷神:スサノオ・神大市比売の娘、大年(大物主)の妹を祀る)から御釜殿(温羅の墓所)、えびす堂(出雲の事代主を祀る)、岩山宮(スサノオの異母弟の吉備児島の建日方別(たけひかたわけ)を祀る)、環状石籬(せきり:列石)などの磐座(いわくら))は、吉備中山へ向かう参拝路となっているのです。―「縄文ノート120 吉備津神社と諏訪大社本宮の『七十五神事』(220129)参照

 この事実は、この地はもともとはスサノオ・大国主一族と同族の建日方別とその子孫である吉備王・温羅を祀る神名火山(神那霊山)信仰の祭祀拠点であり、その権力を奪った7代孝霊天皇の御子の彦五十狭芹彦(ひこいせさりひこのみこと)が温羅を殺して大吉備津彦を名乗り、後にその地に新たに吉備津神社を建てたことを示しています。―図5・6参照

 吉備津神社ホームページ掲載の19世紀の境内図(図6)を見ると、神名火山(神那霊山)である吉備中山に向かう出雲・吉備族の信仰軸と、吉備中山の大吉備津彦の墓所に向かう天皇家の信仰軸の2本の聖線(レイライン:霊線)が見られるのであり、もしも吉備津神社に行かれることがあれば、このスサノオ・大国主建国を示す聖線と天皇家の権力奪取を示す聖線を体感していただきたいと思います。―図6・7参照

 なお、吉備中山の環状石籬(せきり:列石)と楯築墳丘墓上の環状に配置された巨石が縄文時代のストーンサークル・ウッドサークルから続く宗教思想を示すのか、前者はたまたまの自然配置なのか、研究を期待したいところです。

 

4 吉備製鉄の解明を!

 日本書紀によればスサノオは御子の五十猛(イタケル)とともに新羅に渡り、魏書東夷伝辰韓条では「国、鉄を出す、韓・濊(わい)・倭皆従いてこれを取る」と書かれ、さらに三国史記新羅本紀は紀元59年に4代新羅王の倭人の脱解(たれ)が倭国と国交を結んだとしていますから、スサノオ(委奴国王)は米鉄官制交易を軌道に乗せ、新羅で製鉄法を秘かに入手して早々に帰国し、鉄鉱石が採れる山陽側の吉備、播磨で製鉄が古代製鉄がおこなわれていた可能性が高いと私は考えています。

 出雲の金屋子神社などの伝承によれば、出雲のたたら製鉄は金屋子神により図8のように「播磨・宍粟→吉備中山→伯耆・日野→出雲・奥日田」へと伝えられたとされています。―「縄文ノート125 播磨・吉備・阿蘇からの製鉄・稲作・古墳の起源論」(220226)参照

 ヤマタノオロチ王を切ったスサノオの剣を祀る備前国一宮の石上布都魂神社のある赤坂(オロチ王の本拠地であったと私は推理しています)は播磨の宍粟から吉備中山へのルートの途中にあり、赤穂(赤生:筆者説)・明石(赤石)とともに赤鉄鉱のあった場所であり、古代の重要な製鉄拠点であったと考えます。

 そして、この1・2世紀頃の新羅の製鉄技術の後に、阿曽族によるより簡便な縦型円筒炉による製鉄が4世紀頃に導入されたのではないかという仮説を私は考えていますが、いずれ製鉄遺跡発見により解明されることを期待しています。

 なお、図9・表1・2に示すように、私は通説の「製鉄ヒッタイト起源説」「草原の道伝播説・照葉樹林帯伝播説」に対し、「製鉄西アフリカ起源説」「海の道伝播説」ですが、宗教・農耕関係の倭音倭語がドラヴィダ語(タミル語)と類似しているのに対し、製鉄関係の倭音倭語はドラヴィダ語・呉音漢語・漢音漢語にはなく、韓国語を語源とする説もないことから、新羅鉄・阿曽鉄の伝播ルートの解明は今後の研究課題です。―縄文ノート「122 『製鉄アフリカ起源説』と『海の鉄の道』」(220210)、「136 『銕(てつ)』字からみた『夷=倭』の製鉄起源」(220427)、「178 『西アフリカ文明』の地からやってきたY染色体D型日本列島人」(230827・0930)参照


156 始祖神は「天照(あまてる)」か「産霊(むすひ)」夫婦神か?

2024-06-09 18:27:00 | スサノオ・大国主建国論

 アイヌの人たちは自分たちを「カムイ(自然神)」に対して「アイヌ=人間」と呼んでいます。これに対して、倭人は自分たちを霊(ひ)を受け継ぐ「霊人(ひと)」と呼びました。

 古事記序文は「二霊群品の祖」と書き、人々(群品)の始祖神を「産霊(むすひ)夫婦神」とし、出雲大社本殿の正面には「御客座五神」として天之御中主(あめのみなかぬし)と産霊夫婦神は祀られているのです。

 「客座」に祀られていることからみてこの5神は出雲土着の神ではなく、日本書紀一書(第三)がこの3神を「高天原に生まれた神」としていることからみて、そのルーツは壱岐・対馬の「海原(あまのはら)」の海人族と考えます。

 私たちの祖先は、子どもが親や祖父母に似るというDNAの働きを「霊(ひ)」が受け継がれると考え、死者の記憶がいつまでも残り夢にも現れることから、死者の肉体は土に帰ってもその霊(ひ:魂=玉し霊)は残り、自分たちを天から見守ってくれると想像したのです。

 この国の人々の始祖神を「産霊夫婦神」とする神話は、その子どもたちを「産子(むすこ:息子)、産女(むすめ:娘)」「霊子(ひこ:彦、毘古)、霊女(ひめ:姫、媛、比売、毘売)、霊御子(ひみこ:霊巫女、霊皇女)」と呼ぶことから裏付けられます。

 天皇家建国説の皇国史観は、この国の人々の始祖神を「天照大御神」とし、「天照(アマテル)」を「アマテラス」と読ませ、「世界を照らす太陽神」としてアジア侵略の思想的支柱としてきましたが、古事記は人々を産む始祖神を産霊夫婦神とし、日本書紀一書(第三)もまた高天原の始祖神を古事記と同じ3神にしているのです。

 なお、古事記で太安万侶は本文では夫婦2神を「神産日(かみむすひ)・高御産日(たかみむすひ)」と書き、「日神(ひのかみ)」を始祖神として「天照大御神」につなぎ、天皇家を太陽神の一族のように書いていますが、序文では「三神造化の首(三神:天之御中主と産霊夫婦)」「二霊群品の祖」と書き、スサノオ・大国主一族の「霊神(ひのかみ)」一族の歴史をしっかりと書き伝えているのです。

 また別の場所では、太安万侶は醜い石長比売をニニギが選ばなかった呪いにより天皇等の「命不長」と書きながら、阿多天皇家3代目のウガヤフキアエズは「五百八十歳」生きたとし、1~16代の天皇の年齢を倍にしているのですが、このようなミエミエの矛盾した記述は、巧妙に「スサノオ・大国主16代」の真実の歴史を伝え残す高度なテクニックなのです。

 歴史家たちはこのような古事記の矛盾した記述からこれらの神話は信用できないとしましたが、私は史聖・太安万侶は日本で最初の推理小説家・ミステリーライターであり、謎を解く手掛かりはきちんと書き記しており、彼らに任せるのではなく、ミステリー好きの皆さんに太安万侶の暗号の解明に取り組んでいただきたいと考えています。

 推理力などなく、ただただ天皇を太陽神にしたくてたまらない新皇国史観の歴史家などは、その根拠として次の2説を主張しています。

第1は、天皇家の皇位継承の「三種の神器」の鏡を、太陽のシンボルとする主張です。鏡を頭の上に掲げて人々を反射光で照らすイラストが描かれ、今も多くの神社では鏡を正面に祀ってこの説を広めています。

 すでに「154 『アマテラス』から『アマテル』へ」で述べたように、アマテルは「わが御魂」として祀るように命じて鏡を天下りを行うニニギに渡したのであり、鏡はアマテルの「霊(ひ)が宿る神器」なのです。「御魂」が宿る女王愛用の鏡はその死後、壊されて葬られたのです。

 そもそも、肝心の銅鏡、さらには銅鐸、土器などに太陽など描かれておらず、天皇家も太陽を祀る儀式など行っていないのであり、太陽信仰は皇国史観の空想という以外にありません。

 また、アマテルの御霊が宿る鏡を、御間城入彦(ミマキイリヒコ:10代崇神天皇)が皇居に移したところ、民の半数以上がなくなるという恐ろしい祟りを受けたため崇神天皇は鏡を宮中から出し、祀るべき子孫を探して29か所も点々とした後に伊勢神宮に収めたのであり、天皇家はアマテルの子孫ではないことを示しています。

 第2は、アマテルが天岩屋戸に隠れた後、「高天原(たかまがはら)皆暗、葦原中国(あしはらのなかつくに)悉闇」となり、アマテルが岩屋戸から出ると「高天原及葦原中国、自得証明」と書かれていることから、アマテルを太陽神とする主張です。

 この場面を「皆既日食」とし、アマテル=卑弥呼説を唱える人も見られますが、ファンタジーを理解しない困った「タダモノ(唯物)史観」という以外にありません。

 1970年代、鶴田浩二の『傷だらけの人生』が団塊世代に受けましたが、「生まれた土地は荒れ放題、今の世の中、右も左も真っ暗闇じゃあござんせんか」のセリフから「何から何まで真っ暗闇よ」の歌が始まります。だからといって、1970年に皆既日食があった、喜界カルデラ噴火や姶良カルデラ噴火のような破局的噴火があったなどと誰が考えるでしょうか? 

 古事記によれば、アマテル3(襲名した3番目のアマテル)が亡くなり、同族たちは集まって金山の鉄をとって鉄鏡を作り、八尺の勾玉と五百玉の首飾りを作るなどし、アメノウズメは石棺の岩屋戸(上蓋)の上で裸体を見せて踊る復活儀式を行い、次の女王アマテル4への霊継(ひつぎ)儀式を行ったのであり、魏書東夷伝倭人条に書かれたように「喪十余日」で、参加した他人は「歌舞飲食」を行っていたのです。

 私は太安万侶は日本最初のファンタジー作家であり、アマテル1(スサノオの異母妹)、アマテル2(大国主の筑紫妻・鳥耳)、アマテル3(大霊留女=霊御子=卑弥呼)、アマテル4(壹与)を合体したアマテルを創作して天皇家の始祖とする高天原ファンタジーを書きながら、歴史家としては真実のスサノオ・大国主16代(出雲7代、筑紫鳥耳・大国主10代)の歴史をしっかりと書き伝えているのです。―Gooブログ「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート(旧:神話探偵団)139  史聖・太安万侶の古事記からの建国史」(220729)参照 

 推理力も想像力も乏しい文献史家や、真っ暗闇を「物理現象」としかとらえない考古学者などに頼ることなく、ドキュメンタリー・ミステリー・ファンタジーとして古事記を分析する若い「産子・産女」「霊人・霊子・霊女」たちの世代に期待したいと思います。

 なお、葬儀に携わる神人、神使の猿や犬を飼う猿飼・犬神人、死者を蘇らせて演じる能楽師・人形浄瑠璃師・歌舞伎役者たちは死者の霊(ひ)を祀る「霊人(ひにん)」として尊敬・畏怖されていましたが、「人(霊人)殺し」を職業としていて皇族・貴族たちから差別されていた武士階級の身代わりとして、皇族・貴族・百姓・町人から「非人(ひにん)」として差別される身分に落とされたと考えています。

 

□参考

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

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155 スサノオ・大国主建国論の方法論

2024-06-07 18:35:28 | スサノオ・大国主建国論

 考古学は遺跡・遺物の「物」からの帰納法により古代史を推理し、歴史学は主に「文献」から古代史を解明しますが、私はそれらに加えて現代に継承されている「文化・伝承」から古代史を仮説演繹的に推理してきました。

 前2者は科学的とみなされますが、限られた「発見物」「文献」からの推理という大きな限界があり、「未発見物」への推理を欠くことから、「新発見物」により容易にそれまでの定説がパアになる危険性があります。

 一例をあげると、出雲にめぼしい遺跡がないことから記紀に書かれた出雲神話は8世紀の創作とされてきましたが、荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡でのかつてない大量の銅器(銅槍・銅矛・銅鐸)の発見により、記紀に書かれたスサノオ・大国主一族の建国が物証により裏付けられました。八百万神信仰により「銅槍圏(通説は銅剣圏)・銅矛圏・銅鐸圏の統一」がなされたことが明らかになったのです。

 この「荒神谷・加茂岩倉ショック」により考古学者は自らの方法論の限界を反省し、歴史学者は天皇中心史観の記紀分析をやりなおすべきだったのですが、未だに大勢としては従来の物からの帰納的推理の「ただもの(唯物)史観」がまかり通っています。シュリーマンのように神話から大国主や大霊留女(アマテル;卑弥呼)の墓の発見を目指すような考古学者は現れていません。

 「八百万神」神道のこの国では、死者の霊(ひ)は全て神として子孫や人々に祀られるのであり、「神話=霊話=人話」なのです。記紀神話には天上の「高天原」神話のように一見すると荒唐無稽な内容が見られますが、一方ではその場所を「筑紫日向橘小門阿波岐原」と具体的な地上の地名として書いています。記紀は表面的には天皇家建国の歴史を空想的に書きながら、その裏では巧妙にスサノオ・大国主建国史を書き伝えているのです。

 私が「現代人の生活・文化・DNA」から遡り、「スサノオ・大国主建国史」を演繹的に推理してきた例としては次のようなものがあります。

 私の岡山・兵庫の田舎の両祖父母の家には「大黒柱」があり、柱に添って「神棚」が設けられていました。祖先霊を「仏壇」に「仏」として祀る以前は「神棚」に「神」として祀り、天から大黒柱を通って招き、送り返していた可能性があります。そうすると、そのルーツは出雲大社の「心御柱(しんのみはしら)」の「大国柱」の可能性があり、その「心御柱」のルーツは祖先霊の依り代である「神籬(ひもろぎ:霊洩木)」に遡り、神名火山(神那霊山)信仰から派生してきた可能性があります。

 さらに、そのルーツは東アフリカの万年雪を抱くルウェンゾリ山やケニヤ山、キリマンジェロから死者の魂が天に上るとした「神山天神信仰」にあり、ナイル川を下って平野部では人工の神山として上が白く下が赤いピラミッドとなり、Y染色体D型人により日本列島に運ばれ、諏訪地方の阿久・阿久尻縄文遺跡の石棒から円錐型(神那霊山型)の蓼科山へ向かう2列の石列や、蓼科山へ向いた19の巨木建築が示す蓼科山の「ヒジン(霊人:女神)」信仰へと繋がり、御柱祭は「天神信仰」の「神籬(ひもろぎ:霊洩木)」の可能性がでてきます。

 私の祖父母時代に見られた「大黒柱」や「お山信仰」(神名火山(神那霊山)信仰:女神信仰)などは、紀元1・2世紀のスサノオ・大国主時代に遡り、さらにはY染色体D型の縄文人のルーツであるアフリカに遡る可能性があるのです。

 スサノオ・大国主建国は、これまでもっぱら天皇家の建国との関係で論じられてきましたが、7万年前にアフリカを出たY染色体D型の縄文人からの内発的発展としてまずは検討するとともに、スサノオの御子の大年(大物主を襲名)の美和国、少彦名亡き後の大国主・大物主連合による大和国(おおわのくに)、大国主の筑紫妻の鳥耳の御子の穂日・夷鳥(日名鳥)親子が大国主を国譲りさせて継承した出雲王朝、筑紫の鳥耳から10代の筑紫王朝と邪馬壹国の全体的な関係をまず明らかにすべきと考えます。

 そして、一神教による侵略戦争以前に全世界に普遍的に見られた母系制社会の霊(ひ)信仰(八百万神信仰)は、命(霊(ひ)=DNAのリレー)を何よりも大事にする宗教思想として、今こそ世界遺産登録を目指すべきと考えますが、どう思われるでしょうか? 

 1万数千年の「縄文社会」の文化・文明をベースにしたスサノオ・大国主建国史から、たかだか2千年あまりの農耕・工業・戦争の文化文明の行き詰まりの先を展望すべきと考えます。 雛元昌弘

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

帆人の古代史メモ(~115まで)      http://blog.livedoor.jp/hohito/

 帆人の古代史メモ2(116~)      https://hohito2024.blog.jp/

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 霊(ひ)の国の古事記論                 http://hinakoku.blog100.fc2.com/


154 「アマテラス」から「アマテル」へ

2024-05-30 20:30:25 | アマテラス

 記紀に書かれた「天照大神」「天照大御神」の「天照」は、これまで「アマテラス」と読まれ、本居宣長は「世界を照らすアマテラス太陽神」とし、それを受け継いだ皇国史観は「アマテラス太陽神」神道をアジア侵略の大東亜戦争の思想的支柱としてきました。

 しかしながら、「天照」を「アマテラス」と読む明確な根拠はありません。

 300万人(1/3は民間人)もの死者をだし、それをはるかに超える死者を中国人・アジア諸国民・米国人などに与えた日中戦争・太平洋戦争の真摯な反省にたつならば、皇国史観の「アマテラス」などを使うべきではなく、私は「アマテル」と書いてきました。

 その第1の根拠は、記紀神話で始祖神とされる神皇産霊(かみむすひ)・高御産霊(たかみむすひ)の産霊(むすひ)夫婦の子孫とされる対馬の天日神命(あめのみたまのみこと)を祀る対馬市美津島町の神社が阿麻氐留神社(あまてるじんじゃ)と称していることです。

 記紀や皇国史観に同調した(せざるをえなかった)神社は、「霊(ひ)」を「日(ひ)」に、「海、海人(あま)」を「天(あま)」字に置き換えてきていますが、阿麻氐留神社は祭神を「天日神命」と漢字で表記しながら「あめのみたまのみこと」の読み名を残し、元々は「天(海)の御霊の巫女人」という女神であったことを秘かに伝えているのです。

 この産霊(むすひ)始祖神ゆかりの神社が阿麻氐留神社(あまてるじんじゃ)=天照神社なのですから、「天照」は始祖神神話と神社伝承に従い、「アマテル」と読むべきなのです。

 第2の根拠は、天火明命(アメノホアカリノミコト)の別名「天照国照彦火明命」を祀る奈良県田原本町の鏡作坐天照御魂神社神社(かがみつくりにますあまてるみたまじんじゃ)が「天照国照」を「アマテルクニテル」と読ませていることです。

 このホアカリ(火明)命は『古事記』『日本書紀(一書第6・第8)』ではアマテルの子の忍穂耳(オシホミミ)の子で、邇邇芸(ニニギ)の兄とし、『日本書紀』の本文などではニニギの子としていますが、播磨国風土記は大国主の子としています。

 ニニギの妻となる薩摩半島南西端の阿多のアタツヒメ(阿多都比売)の別名を、しまなみ海道の愛媛県今治市大三島の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)に祀られる大山津見神(大山祇神:イヤナミ・イヤナギの子)の娘の木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤビメ)とするなど、天皇家はスサノオ・大国主一族と血縁があるように見せかけており、ホアカリもまた大国主の御子と私は考えています。

 なお、この「天照国照彦火明命」を太陽神とする説が見られますが、その子孫の尾張氏・津守氏・海部(あまべ)氏が海人族であり、海部系の凡海(おおあま)氏に育てられた「大海人皇子(おおあまのおうじ)」が後に「天武(あまたける:てんむ)天皇」を名乗ることからみても、「天=海(あま)」であり「天照=海照(あまてる)」なのです。

 鏡作坐天照御魂神社の北東約1kmには銅鐸の鋳型などがでた環濠集落の唐古・鍵遺跡があり、その西には岩見地名や牛頭天王=スサノオを祀る杵築神社(出雲大社の古名)があり、今里と鍵の集落では蛇巻き神事が行われるなど、この地は海蛇を神使とする大国主の子の火明命一族の「大倭=大和(おおわ)」への進出拠点と考えます。

 第3の根拠は、「天照大神」「天照大御神」の「天照」は尊称であり、日本書紀がその名前を「大日孁貴(おおひるめのむち)」としていることにあります。「ヒルメ」が「日留女」なのか「霊留女」なのかですが、古事記序文で太安万侶が始祖神を「二霊群品の祖」とし、日本書記が「神皇産霊(かみむすひ)・高御産霊(たかみむすひ)」の産霊(むすひ)夫婦としていることからみて、「ヒルメ=霊留女」であり、始祖王の霊(ひ:祖先霊)を受け継いで祭祀を行う女性、霊御子=霊巫女なのです。大日留女は「日神(ひのかみ)」太陽神を祀る巫女ではありません。

 第4の根拠は、古事記の天照大御神(大霊留米:おおひるめ)の天岩屋戸からの復活神事(実際には墳墓の上の石棺での後継女王への霊継ぎ儀式)において、天香山の眞賢木(まさかき:真榊)の上枝には勾玉と五百の玉を、中枝には八尺鏡を、下枝には白丹寸手・青丹寸手(しろにきて・あおにきて:木綿と麻)をつけた依り代を用意して後継女王を迎えるのですが、この頭部に首飾り、胸に鏡、腰に木綿・麻の布をつけた神籬(霊洩木)は女神を示しており、鏡は頭上に飾って人々を照らす太陽のシンボルではないのです。

 ニニギの天下りに際してアマテルは「わが御魂」として鏡をニニギに渡したと古事記が書いていることからみても、鏡は女王の「霊(ひ)が宿る神器」として胸に飾られたのです。

 なお、「アマテルの御魂」とされる八咫鏡(やたのかがみ:咫(あた)は広げた親指と中指の長さの身体尺)は「三種の神器」として皇位継承のシンボルとされていますが、10代御間城入彦(後に崇神天皇の忌み名)はスサノオ(大物主大神)が持っていたヤマタノオロチ王の大刀と八咫鏡を大物主(代々襲名)から奪い、自らの宮中に移して祀ったところ、民の半数以上がなくなり、百姓は流離し、背く者があったという恐ろしい祟りを受けます。「崇神天皇」は神を崇拝した天皇とされてきましたが、祖先神を偽り「神に祟られた天皇」なのです。

 そこで奪った八咫鏡は宮中から出し、倭の笠縫邑から祀るべきアマテルの子孫を探して丹波、吉備、宇太、伊賀、淡海、近江、美濃、尾張、三河、遠江、桑名など29か所を転々とし、ようやくイヤナミ(伊邪那美)の子の和久産巣日(わくむすび)の子の豊宇気毘売(トヨウケビメ:豊受大神)を祀る一族の伊勢で草薙剣とともに祀られて祀られています。

 この事実は、アマテルの御魂が宿る八咫鏡(やたのかがみ)は血の繋がった子孫に祀られないと祟るのであり、天皇家はアマテルの子孫、スサノオの同族ではないためその後も皇居に祖先の御霊として祀ることができず、明治まで伊勢神宮に参拝することもできなかったのです。この祖先の言い伝えを破り、アマテルの子孫の神として侵略戦争を繰り広げた明治・大正・昭和天皇は、300万人の民を殺すという恐ろしい祟りを招いたのでないでしょうか?(オカルトチックな話で恐縮ですが)

 鏡作坐天照御魂神社神社の案内板は、崇神天皇が「八咫鏡を皇居の内にお祀りするのは畏れ多い」として皇居から出したとしていますが、アマテルが「わが御魂として、吾が前を拝むように、いつき奉れ」と命じたとされる神器の八咫鏡は本来なら皇居の神棚に飾り、毎日、その子孫によって祀らなければならないものなのです。家の中に仏壇と大黒柱(大国柱=心柱)に添っ神棚(仏教が入る前は祖先霊を祀っていました)を置くのと同じように、天皇家は本当にアマテルの子孫なら祖先霊アマテルを祀るべきなのです。

 それが出来なかった天皇家は、この鏡作の地で別の八咫鏡を作らせて宮中に納めさせたのであり、スサノオの韓鋤剣を刃こぼれさせたオロチの鉄の草那藝之大刀(くさなぎのおおたち)の代わりに銅剣の草薙剣(熱田神宮の御神体)に置き換えたのと同じことをしたのです。

 第5の根拠は、新井白石が「人」を「ヒ(霊)のとどまる所」で「霊人(ひと)」とし、角林文雄氏(ニュージーランド・マッセー大学東アジア学科講師)が「人・彦・姫・卑弥呼」は「日人・日子・日女・日御子」ではなく、「霊人・霊子・霊女・霊御子」であるとしたように、この国が産霊夫婦」を始祖神とする、死ねば誰もが神として子孫などに祀られる八百万神の「霊(ひ)信仰の国」であることです。

 そして、この人類のもっとも基本的な信仰である死者・祖先の霊を神(仏教では仏)として祀る宗教がわが国では縄文時代から今にいたるまで続いているのです。

 諏訪の神名火山(神那霊山)の蓼科山の女神は「ヒジン(霊神)様」と呼ばれ、縄文時代の阿久尻遺跡では環状列石の中央広場に置かれた石棒からの2列の石列が蓼科山を向いており、「山の神」=女神がやどる神名火山(神那霊山)信仰は縄文時代から現代に続いており、太陽信仰などどこにも根づいていません。「アマテラス太陽神」など皇国史観の幻であり、その迷信から覚めるべきです。

 なお、私は記紀に登場する「アマテル(天照)」は8世紀の創作ではなく、実在した4人の襲名アマテル(尊称を継承)を合体したものと考えています。記紀・新唐書・魏書東夷伝倭人条を分析すると、アマテル1は出雲生まれのスサノオの筑紫の異母妹、アマテル2はスサノオ7代目の大国主の筑紫妻の鳥耳、アマテル3は筑紫鳥耳・大国主王朝11代目の卑弥呼(大霊留女:霊御子=霊巫女)、アマテル4は壹与(卑弥呼の後継女王)になります。―『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(梓書院)、『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 帆人の古代史メモ(~115まで)     http://blog.livedoor.jp/hohito/

 帆人の古代史メモ2(116~)          https://hohito2024.blog.jp/

 ヒナフキンの邪馬台国ノート       http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/


「「縄文ノート194 十津川村の『けずり花』と『山の神』信仰」の再加筆修正」の紹介

2024-05-28 15:47:42 | 日本文明

 5月25日アップしました「はてなブログ:縄文ノート194 十津川村の『けずり花』と『山の神』信仰」の最後の部分には、「起承転結」の肝心の「転」の部分が欠けており26日に加筆修正しましたが、「結」の部分も欠けていましたので再加筆修正しました。https://hinafkin.hatenablog.com/

 急いだ拙い作業で失礼しましたが、以下、加筆部分をそのまま掲載いたします。

 

<5月26日の加筆修正点>

 古事記によればアマテル(天照大御神:大霊留米(おおひるめ))が天岩屋戸に隠れた後の再生神事(次女王への霊継ぎ儀式)において、天香山の眞賢木(まさかき:真榊)の上枝には勾玉と五百の玉を、中枝には八尺鏡を、下枝には白丹寸手・青丹寸手(しろにきて・あおにきて:木綿と麻)をつけた依り代を用意して次女王を迎えるのですが、この頭部に首飾り、胸に鏡(アマテルの御魂)、腰に木綿・麻の布をつけた神籬(霊洩木)は女神を示しています。

 鏡を太陽のシンボルとする「世界を照らすアマテラス太陽神」信仰の皇国史観の空想が未だにまかり通っていますが、古事記はニニギの天下りに際してアマテルは「わが御魂」として鏡をニニギに渡したと書いており、鏡は女性の「霊(ひ)が宿る神器」として胸に飾られたのです。エジプトのように太陽神のシンボルとして、頭上に掲げたのではありません。

 古事記序文で太安万侶は「二霊群品の祖」としているように、記紀神話は産霊(むすひ)夫婦(神皇産霊・高御産霊)を始祖神としているのであり、この国は「人(霊人)・彦(霊子)・姫(霊女)」とその「御子人(みこと:命、尊)」「霊御子(霊巫女・霊皇子・霊皇女)」の「霊(ひ)の国」であり、神名火山(かんなびやま:神那霊山)や神籬(ひもろぎ:霊洩木)は天に霊(ひ)が昇り、降りてくる神山・神木として崇拝されてきたのです。

 

<5月28日の加筆修正点>

 日本の文化・文明は「縄文文化・文明を起源とする」と言われますが、片品村の女神「山の神」信仰は長野県原村の阿久遺跡の石棒から2列の石列か蓼科山(女神山)に向かう通路を示していることから、縄文時代に遡ることが明らかです。この蓼科山には「ヒジン様」が住むとされていることは、死者の霊(ひ)は「ヒジン=霊神=霊(ひ)の神」となり、環状集団墓地の真ん中の石棒から石列通路を通り、神名火山(神那霊山)である蓼科山から天に昇り、さらに降りてきて蓼科山から石棒に依り付くという神山天神信仰は縄文時代に遡ることが証明されました。それは、男性器型道祖神や金精様に引き継がれ、現代に続いているのです。―縄文ノート「35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」「96 女神調査報告1 金生遺跡・阿久遺跡」「99 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡」「100 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松」「181 縄文石棒と世界の性器信仰」参照

 また、茅野市の中ツ原遺跡のかまどの角におかれた石棒は、妻問婚において男性が石棒を求愛するカマドを守る女性に捧げたことを示しており、かつては妻のことを「山の神」と称していたことに繋がっています。

 これまで、縄文時代が母系制社会であることは、「妊娠土偶・女神像・出産文土器・貝輪」などから説明されてきましたが、私は「石棒」もまた母系制社会を示す重要なシンボルと考えます。今回、十津川村の「けずり花」(男根のシンボル)を「山の神」が宿る神木(神籬(ひもろぎ):霊洩木)に捧げる行事から、縄文時代の神山天神信仰の石棒奉納が片品村だけでなく広く各地に伝わっていることを確認することができました。

 「縄文に帰れ」「日本が沖縄に復帰するのだ」は岡本太郎氏、「縄文を知らずして日本人を名乗るなかれ」は縄文社会研究会を立ち上げた上田篤氏の言葉ですが、「縄文は世界を変える」にしたいものです。

 西アフリカ熱帯雨林で生まれて日本列島にやってきた「霊(ひ:DNA)を継ぐ人(霊人)の国」として世界に縄文文化・文明をアピールし、「命(霊継(ひつぎ))を何よりも大事にする世界」の実現に向かいたいと思います。

 

 本ブログの「スサノオ・大国主建国論」としても、1万数千年の縄文文化・文明の根底にある「死ねば誰もが霊神(ひのかみ)」として祀られる「八百万神信仰」の神名火山(神那霊山)・神籬(霊洩木)崇拝のスサノオ・大国主建国史の解明に続け、一神教以前にかつて全世界にあった霊(ひ)信仰として八百万神信仰の世界遺産登録を目指すべきと考えます。  雛元昌弘

 


「「縄文ノート194 十津川村の『けずり花』と『山の神』信仰」の再加筆修正」の紹介

2024-05-28 15:20:15 | 日本文明

 5月25日アップしました「はてなブログ:縄文ノート194 十津川村の『けずり花』と『山の神』信仰」の最後の部分には、「起承転結」の肝心の「転」の部分が欠けており26日に加筆修正しましたが、「結」の部分も欠けていましたので再加筆修正しました。https://hinafkin.hatenablog.com/

 急いだ拙い作業で失礼しましたが、以下、加筆部分をそのまま掲載いたします。

 

<5月26日の加筆修正点>

 古事記によればアマテル(天照大御神:大霊留米(おおひるめ))が天岩屋戸に隠れた後の再生神事(次女王への霊継ぎ儀式)において、天香山の眞賢木(まさかき:真榊)の上枝には勾玉と五百の玉を、中枝には八尺鏡を、下枝には白丹寸手・青丹寸手(しろにきて・あおにきて:木綿と麻)をつけた依り代を用意して次女王を迎えるのですが、この頭部に首飾り、胸に鏡(アマテルの御魂)、腰に木綿・麻の布をつけた神籬(霊洩木)は女神を示しています。

 鏡を太陽のシンボルとする「世界を照らすアマテラス太陽神」信仰の皇国史観の空想が未だにまかり通っていますが、古事記はニニギの天下りに際してアマテルは「わが御魂」として鏡をニニギに渡したと書いており、鏡は女性の「霊(ひ)が宿る神器」として胸に飾られたのです。エジプトのように太陽神のシンボルとして、頭上に掲げたのではありません。

 古事記序文で太安万侶は「二霊群品の祖」としているように、記紀神話は産霊(むすひ)夫婦(神皇産霊・高御産霊)を始祖神としているのであり、この国は「人(霊人)・彦(霊子)・姫(霊女)」とその「御子人(みこと:命、尊)」「霊御子(霊巫女・霊皇子・霊皇女)」の「霊(ひ)の国」であり、神名火山(かんなびやま:神那霊山)や神籬(ひもろぎ:霊洩木)は天に霊(ひ)が昇り、降りてくる神山・神木として崇拝されてきたのです。

 

<5月28日の加筆修正点>

 日本の文化・文明は「縄文文化・文明を起源とする」と言われますが、片品村の女神「山の神」信仰は長野県原村の阿久遺跡の石棒から2列の石列か蓼科山(女神山)に向かう通路を示していることから、縄文時代に遡ることが明らかです。この蓼科山には「ヒジン様」が住むとされていることは、死者の霊(ひ)は「ヒジン=霊神=霊(ひ)の神」となり、環状集団墓地の真ん中の石棒から石列通路を通り、神名火山(神那霊山)である蓼科山から天に昇り、さらに降りてきて蓼科山から石棒に依り付くという神山天神信仰は縄文時代に遡ることが証明されました。それは、男性器型道祖神や金精様に引き継がれ、現代に続いているのです。―縄文ノート「35 蓼科山を神名火山(神那霊山)とする天神信仰」「96 女神調査報告1 金生遺跡・阿久遺跡」「99 女神調査報告3 女神山(蓼科山)と池ノ平御座岩遺跡」「100 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松」「181 縄文石棒と世界の性器信仰」参照

 また、茅野市の中ツ原遺跡のかまどの角におかれた石棒は、妻問婚において男性が石棒を求愛するカマドを守る女性に捧げたことを示しており、かつては妻のことを「山の神」と称していたことに繋がっています。

 これまで、縄文時代が母系制社会であることは、「妊娠土偶・女神像・出産文土器・貝輪」などから説明されてきましたが、私は「石棒」もまた母系制社会を示す重要なシンボルと考えます。今回、十津川村の「けずり花」(男根のシンボル)を「山の神」が宿る神木(神籬(ひもろぎ):霊洩木)に捧げる行事から、縄文時代の神山天神信仰の石棒奉納が片品村だけでなく広く各地に伝わっていることを確認することができました。

 「縄文に帰れ」「日本が沖縄に復帰するのだ」は岡本太郎氏、「縄文を知らずして日本人を名乗るなかれ」は縄文社会研究会を立ち上げた上田篤氏の言葉ですが、「縄文は世界を変える」にしたいものです。

 西アフリカ熱帯雨林で生まれて日本列島にやってきた「霊(ひ:DNA)を継ぐ人(霊人)の国」として世界に縄文文化・文明をアピールし、「命(霊継(ひつぎ))を何よりも大事にする世界」の実現に向かいたいと思います。

 

 本ブログの「スサノオ・大国主建国論」としても、1万数千年の縄文文化・文明の根底にある「死ねば誰もが霊神(ひのかみ)」として祀られる「八百万神信仰」の神名火山(神那霊山)・神籬(霊洩木)崇拝のスサノオ・大国主建国史の解明に続け、一神教以前にかつて全世界にあった霊(ひ)信仰として八百万神信仰の世界遺産登録を目指すべきと考えます。  雛元昌弘

 


「縄文ノート194 十津川村の『けずり花』と『山の神』信仰」の紹介

2024-05-26 14:44:28 | 女神論

 はてなブログに「縄文ノート194 十津川村の『けずり花』と『山の神』信仰」をアップしましたので紹介します。https://hinafkin.hatenablog.com/

 録画していた5月22日NHK・BSの新日本風土記「十津川村(とつかわむら)」(2019年1月初回放送)を見ましたが、杣師(そまし:きこり)が「けずり花」(男性のシンボル)をつくり、各家や山の大木の近くに宿る「山の神」に供える信仰や、山人(やまびと=やまと)の村の農業・食事・祭りなどたいへん興味深い番組でした。

 私が注目したのは、「山の神」=女神に男性が「男根」に似せた「けずり花」(なんとも奥ゆかしいネーミングです)を供えるという点です。

 この十津川村の「けずり花」を女神「山の神」に捧げる祭りは、単なる自然信仰ではなく、死者の霊(ひ)が山から天にのぼるアフリカ起源で世界に広まった神山天神信仰(神名火山(神那霊山)信仰、ピラミッド神殿、神籬(霊洩木)信仰)であり、縄文石棒やイナウ(アイヌ)、けずり花(十津川村)、金精(全国各地)は霊(ひ)の再生を願って男性が母系制社会の女神に捧げる神器であり、女神の依り代でもあったのです。

 

 なお、「縄文ノート15 自然崇拝、アニミズム、マナイズム、霊(ひ)信仰」において、「私は幣帛(へいはく)・御幣(ごへい)とイナウは、御柱や神籬(ひもろぎ)のミニチュア説とともに、その形状(陰毛らしきものが垂れている)からみて、大地に突き立てる石棒(男根)を受け継いだものではないか、という仮説も考えていますが、今後の検討課題です」と書きましたが、幣帛(へいはく:大麻(おおぬさ))と御幣(ごへい)は神が宿る神籬(ひもろぎ:霊洩木)であり、石棒・イナウ・けずり花・金精とは神器としての役割が異なり、修正いたします。

 

 古事記によればアマテル(天照大御神)が天岩屋戸に隠れた後の再生神事(次女王への霊継ぎ儀式)において、天香山の眞賢木(まさかき:榊)の上枝には勾玉と五百の玉を、中枝には八尺鏡を、下枝には白丹寸手・青丹寸手(しろにきて・あおにきて:木綿と麻)をつけた依り代を用意して次女王を迎えるのですが、この頭部に首飾り、胸に鏡(アマテルの御魂)、腰に木綿・麻の布をつけた神籬(霊洩木)は女神を示しています。

 鏡を太陽のシンボルとする「世界を照らすアマテラス太陽神」信仰の皇国史観の空想が未だにまかり通っていますが、古事記はニニギの天下りに際してアマテルは「わが御魂」として鏡をニニギに渡したとしているのであり、鏡は女性の「霊(ひ)が宿る神器」として胸に飾られたのです。エジプトの太陽神のように、頭上に掲げたのではありません。

 古事記序文で太安万侶は「二霊群品の祖」としているように、記紀神話は産霊(むすひ)夫婦(神皇産霊・高御産霊)を始祖神としており、この国は「人(霊人)・彦(霊子)・姫(霊女)」とその「御子人(みこと:命、尊)」「霊御子(霊巫女・霊皇子・霊皇女)」の「霊(ひ)の国」であり、神名火山(かんなびやま:神那霊山)や神籬(ひもろぎ:霊洩木)は天に霊(ひ)が昇り、降りてくる神山・神木として崇拝されてきたのです。

 本ブログの「スサノオ・大国主建国論」としても、死ねば誰もが霊神(ひのかみ)として祀られる八百万神信仰の神名火山(神那霊山)・神籬(霊洩木)崇拝を縄文文化・文明論に遡って位置づけて世界の神山天神信仰とピラミッド型神殿の解明に役立て、八百万神信仰の世界遺産登録を目指すべきと考えます。 

 また、古事記・日本書紀の神話を荒唐無稽な8世紀の創作と見るのではなく、歴史上の人物で死後に「神」と呼ばれたスサノオ・大国主一族の歴史として分析する若い考古学者の出現を期待したと思います。

 古事記は単なる「歴史書(ドキュメンタリー)」ではなく、虚構の天皇家建国史の裏に真実のスサノオ・大国主一族の建国史を巧妙に書き記した「ミステリー」であり、真実の歴史を空想的な物語として表現した「ファンタジー」の3層構造からなっているのであり、史聖・太安万侶のこの高度に知的な作業に敬意を払うべきです。

 私が学生時代の1960年代中頃には「聖書は後世の創作」「キリストはいなかった」などの説が見られ、それを真似したのか「記紀神話は後世の創作」「スサノオ・大国主・アマテルなどは創作された人物」などの説がまかり通っていましたが、「化石頭」の学者たちに任せず、若いドキュメンタリー・ミステリー・ファンタジー好きの人たちによる分析を期待したいと思います。 雛元昌弘

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 帆人の古代史メモ          http://blog.livedoor.jp/hohito/

 ヒナフキンの邪馬台国ノート     http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/


153 『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)』の修正点

2024-05-23 14:50:54 | スサノオ・大国主建国論

 2009年3月の日向勤(ひなつとむ)ペンネームの『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに) ―霊(ひ)の国の古代史―』の出版後、私は邪馬台国論、縄文社会論とともに、スサノオ・大国主建国論についてブログなどで書き続けてきました。

・YAHOOブログ(廃止)「霊の国:スサノオ・大国主命の研究」

・Gooブログ          「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート(神話探偵団から名称変更)」

・ライブドアブログ     「帆人の古代史メモ」(アドレス変更により5月8日から更新できなくなっています)

・FC2ブログ     「霊(ひ)の国の古事記論」

・『季刊日本主義』(廃刊)

 「『古事記』が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(18号2012夏)

 「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(26号2014夏)

 「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(40号2017冬)

 「言語構造から見た日本民族の起源」(42号2018夏)

 「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(43号2018秋)

 「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(44号 2018冬)

・『季刊山陰』(休刊) 

 「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(2017冬38号)

 「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(39号2018夏)

 「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(40号2018夏)

・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 

 その結果、『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)』には誤りと不十分な点がでてきましたが、ここに誤りについてのみ修正し、読者のみなさまに報告いたします。

 主な修正点は「邪馬臺国(邪馬台国)から邪馬壹国へ」「ヤマタノオロチの草薙大刀」「大物主大神=スサノオ」「4人の襲名アマテルを合体した記紀の天照大御神」」「卑弥呼の王都・高天原の範囲」「邇岐志国生まれのニニギ」「箸墓=大物主・モモソヒメ夫婦墓」「大国主一族の祭祀拠点・纏向」です。

1.全体 「邪馬臺国」(やまだい国、やまだ国)

→『邪馬臺国』(やまだい、やまだ)ではなく、海(あま:あめ)の「一大国(いのおおくに):天比登都柱(あめのひとはしら:天一柱)=壱岐)」に対し、山の「邪馬壹国(やまのいのくに)」説に変わりました。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

2.59頁 「『倭』を『わ』と読むようになったのは、わが国が唐と戦争を行った中大兄皇子の時代以降の事と考えられる」

→紀元前後の硯石が筑紫・出雲で発掘されており、後漢に使者を送った「委奴(ふぃな)国王」は通訳を付けて国書を持参したからこそ破格の金印を与えれたのであり、「委奴国(ふぃなのくに)」「倭国(ふぃのくに)」は自称と考えます。

 そして「委=禾/女」「倭=人+禾/女」であり、霊(ひ:祖先霊)・人に「稲を捧げる女」を表しており、貴字とみるべきです。また「奴=女+又」は中国が春秋戦国時代をへて、母系制社会から男系社会に変わった時に「女奴隷」を表すようになったのであり、元々は卑字ではないと考えます。

 姓(女+生)、始(女+台)、嫁(女+家)、婿(女+疋(足)/月)、娠(女+辰(龍))などの女偏の文字を見ても漢字は母系制社会で生れた字であり、「委」「倭」「奴」は自称であり、漢・魏が付けた卑字ではないと考えます。

3.62頁 「鉄剣製造の見本として韓から伝わった十握剣(一書では韓鋤剣)」

→「南北市糴(してき:糴=入+米+羽+隹))」の米鉄交易によりスサノオは韓(新羅)から木鍬の鉄先を輸入しており、その鉄を鍛えなおした鉄剣です。―Gooブログ「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート151 鉄刀・鉄剣からみた建国史―アフリカ・インド鉄と新羅鉄・阿曽鉄、草薙大刀・草薙剣・蛇行剣」参照

4.63頁 「草薙剣(銅剣)」

→スサノオの鉄剣がヤマタノオロチの「大刀」に当たって欠けたとされることからみて、熱田神宮に伝わる「銅剣」の草薙剣はヤマタノオロチ王の都牟刈大刀(つむがりのおおたち:草薙大刀)ではありえません。オロチ王の大刀は吉備の石上布都魂神社から熱田神宮の禁足地に埋められ、発見された大刀と考えます。

5.68頁 「大物主大神は・・・大歳神の別名である」

→古事記にはスサノオを出雲のイヤナミから生まれた大兄(長兄)とする記述がある一方、筑紫日向(ちくしのひな)生まれの異母妹アマテルの弟にするなど、スサノオ隠しを系統的に行い、大物主大神=大国主などが見られますが、大神神社の神名火山(神那霊山)の三輪山祭祀からみて、大物主大神=スサノオ、大物主(代々襲名)=大歳(大年)です。

6.73頁 「後漢との交易・外交に便利な交易・外交拠点の後継王に金印を託して置く、これが妥当な行動であったと考えられる」

→古事記によればスサノオは「汝命は、海原を知らせ」とイヤナギから命じられ、イヤナギが筑紫で妻問いしてもうけた筒之男(つつのお)3兄弟(住吉族)や綿津見(わたつみ)3兄弟(金印が発見された志賀島を拠点とする安曇族)、宗像族(多紀理毘売(たきりびめ)、市寸島比売(いちきしまひめ)、多岐都比売(たきつひめ)をもうける)を統率し、新羅~対馬~壱岐~博多、新羅~対馬~沖ノ島~宗像・長門~出雲の海上ルートで米鉄交易を行っており、志賀島を拠点とする異母弟の綿津見3兄弟に金印を預けたと考えます。

7.116頁 八百八十の神々が航海してきた時の目印とするため」

→三方を山に囲まれた奥まった現在の出雲大社本殿は西の海からは見えません、元の本殿の位置は、現在地より南東の八雲山と琴引山を結ぶ線上にあり、海から見えたと考えます。―スサノオ・大国主ノート「145 岡野眞氏論文と『引橋長一町』『出雲大社故地』(230110)」「149 NHK『出雲大社 八雲たつ神々の里』から古出雲大社復元と世界遺産登録を考える(231216)」参照

8.139・140頁 「卑弥呼=天照大御神説は成立しない」「卑弥呼=天照大御神説が成立しないばかりか、記紀は天照大御神が天皇家の祖先ではなく、創作された神であることを示している」

→スサノオの異母妹の天照大御神(アマテル1)と、スサノオ7代目の大国主に国譲りさせた筑紫妻の鳥耳(アマテル2)、筑紫鳥耳・大国主王朝11代目の卑弥呼(霊御子=大霊留女=アマテル3)、卑弥呼死後に霊継(ひつぎ)儀式により後継女王となった壹与(アマテル4)は、筑紫日向(ちくしのひな)に実在し、尊称を襲名した4人のアマテルを記紀は「スサノオの姉・アマテル」として合体して天皇家の始祖神としています。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

9. 143頁 「『高天原』は荷原(いないばる)・美奈宜神社の背後の喰那尾(くいなお)山(栗尾山)一帯の高台であると確信した。・・・現在の地名は『矢野竹(やんたけ)』『美奈宜の杜』といい・・・この地こそが『天城』や『日向城(ひなぎ)』を一望する『高天原』の地名に相応しい場所であり、霊巫女(ひみこ)=卑弥呼の宮殿が置かれ、霊巫女(ひみこ)が鬼道(大国主神の霊を祀る宗教)を行った地であり」 

→アマテル(大霊留女=霊御子=卑弥呼)の死後に神集(かみつどい)が行われ、壹与への霊継(ひつぎ)儀式(アマテルの復活とされた)が行われたのが「天安之河原(あまのやすのかわら)」とされていることからみて、古くは安川と呼ばれた山見川のほとりの現在の安川地区、羽白熊鷲王が殺された荷持田村(日本書紀は「のとり」としているが「仁鳥(にとり)村」であろう)にアマテル(卑弥呼)の墓「天岩屋」はあった可能性が高いと考えます。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 卑弥呼の王都(宮室)と墓所は甘木高台の「矢野竹(やんたけ)」からさらに奥に進んだ「安川地区」にかけてであったと考えます。―Seesaaブログ「邪馬台国ノート49 『卑弥呼王都=高天原』は甘木(天城)高台―地名・人名分析からの邪馬台国論」参照

10. 148~150頁 「この前半部分(注:クジフル岳までの天下り)は筑紫でのニニギ命の天降りを伝え、後半の薩摩半島での出来事は、別の人物(仮に、ニニギ命2とする)の伝承を伝えていると考えている」

→日本書紀の「膂宍之空國」の「宍之」を「膂:そ、蘇、襲、曽」の「宍野」と解釈しましたが、通説の「背中の骨のまわりの肉のない国」と解釈し、国のない九州山地を「頓丘(毗陀烏:ひたを)」=「日田丘」から薩摩半島の阿多の笠沙に同一人物のニニギが敗走したと解釈を変更します。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

11. 148~150頁 「笠沙三代の天皇家の祖先の物語は、素朴な漁村の一族の物語である。邪馬臺国の王族の歴史とは繋がらない」 

→古事記によれば、ニニギ(邇邇芸命)はアマテルの子のオシホミミ(天忍穂耳尊)の御子で、天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命とされており、その名前からみると「天邇岐志国邇岐志」の生まれの「天津日高日子番」(海人族の津(港)の日高霊子婆)の子の「邇邇芸命」と考えられ、高天原の生まれとは考えられません。

 「邇岐志」=「にきし:瓊岸」であり、この「瓊」は三種の神器の「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」にも登場する赤メノウであり、安曇族の拠点である宗像市の南の福津市の津屋崎海岸で採れ、天邇岐志国邇岐志はこの地を指しています。ニニギは壹与と王位を争って敗北した男王派の宗像族の若者の可能性が高いと考えます。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 前述のように、スサノオの異母妹アマテル1、大国主の筑紫妻・鳥耳(アマテル2)、筑紫大国主・鳥耳王朝11代目・卑弥呼(大霊留女:アマテル3)、12代目壹与(アマテル4)を記紀は合体していますが、鳥耳(アマテル2)と大国主の御子のオシホミミ・ホヒ(菩卑:穂日)兄弟のうち、ホヒが大国主に国譲りさせて後継者となるのに対し、兄のオシホミミの子を薩摩半島南西端の阿多に天降りさせるなどありえません。

 また古事記は天火明命をニニギの兄としていますが、播磨国風土記は大国主の御子とし、その一族は尾張氏・津守氏・海部氏・丹波氏などの始祖神とされており、ニニギはその名前や阿多を拠点とした境遇、時代からみて鳥耳・大国主一族のオシホミミの子ではないことが明らかです。

13. 181~184頁 「箸墓の被葬者は倭(やまと)迹迹日(ととひ)百襲(ももそ)姫か」

→本著の一番大きな誤りであり、箸墓はスサノオ(大物主大神)・大歳(大物主)の後継者である「太田田根子(意富多多泥古:大物主を襲名)と百襲姫(7代孝霊天皇の娘)の夫婦墓」と訂正します。―gooブログ「スサノオ・大国主ノート143  纏向遺跡は大国主一族の祭祀拠点(221116)」参照

 その第1の理由は、全長278mの箸墓に対し、9代開化天皇陵(春日率川宮陵に比定)は約100m、10代崇神天皇陵(行燈山古墳)は242m、11代垂仁天皇陵(宝来山古墳に比定)は227m、12代景行天皇陵は300mであり、箸墓に葬られた人物はこれらの大王墓よりも上位であり、民の半数以上が死に絶えた疫病を退散させたとされる大田田根子(大物主)と妻のモモソヒメの夫婦墓と考えます。同時代の崇神・垂仁天皇よりも上位の人物であり、モモソヒメではありえず、それは記紀に書かれた太田田根子しか考えられません。

 第2の理由は、箸墓と同時代の崇神天皇陵(アマテルとスサノオの祭祀権を御間城姫の一族から奪い、2神の神霊を宮中に移したため疫病蔓延を招いた祟られた天皇)、纏向(間城向)の大型建物が、穴師山を向いていることです。穴師山には穴師坐兵主神社があり、兵主神(大国主)を祭神としており、大国主一族の大和(おおわ)の神名火山(神那霊山)なのです。

 なお、モモソヒメの母は「意富夜麻登玖邇阿禮比賣(おおやまとくにあれひめ)」であり、大和神社(おおやまとじんじゃ)の祭神が日本大国魂大神(通説は大国主、筆者説はスサノオ)、八千戈大神(大国主)、御年大神(大歳)であることからみてても、大国主一族と考えます。

 第3の理由は、箸墓はその建造方法から大国主を国譲りさせた天穂日の子孫の野見宿禰がその建造を指揮したことを示しており、垂仁天皇の時、殉死に代わる埴輪を提案して土師氏と呼ばれており、元々は土師墓と呼ばれていたことと符合します。

 その建造にあたっては「大坂山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに、人民(おほみたから)相踵(あひつ)ぎて、手逓伝(たごし)にして運ぶ」作業を担ったのが生駒の大坂山(逢坂山)の大阪山口神社から馬見山古墳群にかけてを拠点とするスサノオの妻の神大市姫命の一族であったことから、「大市墓」とも呼ばれたと考えます。

 第4の理由は、図8・9に示すように帆立貝形型の発生期の前方後円墳である纏向勝山古墳(3世紀前半)・纏向石塚古墳(同)・纏向矢塚古墳(同中頃)から穴師坐兵主神社へ向かう参道に沿って大型建物、11代垂仁天皇・12代景行天皇の宮、野見宿禰が当麻蹴速と角力(相撲)をとった場所に相撲神社があるように、纏向の地は大国主一族が大物主と交わした約束を守り、三諸山(三輪山)のスサノオ(大物主大神)を祀る祭祀拠点なのです。

 邪馬台国畿内説は纏向で発掘された大型建物を卑弥呼の宮室であり、太陽信仰の神殿としてアマテルと結びつけていますが、記紀や魏書東夷伝倭人条、さらには神名火山(神那霊山)信仰や神社信仰を無視した新皇国史観の空想という以外にありません。

14. 187頁 「死者を封じ込める宗教的な力となると、須佐之男大神かその後継者の三輪山に祀られた大物主大神(大歳神)、大国主神の霊力などが考えられる」

→前述のように、「スサノオ=大物主大神=日本大国魂大神」を日本書紀は隠しているために間違ってしまいましたが、「死者を封じ込める宗教的な力となると、祖先霊である須佐之男大神(大物主大神)の霊力が考えられる」に修正します。

15. 201頁 「ヤマトタケル命は、東国行きを命じられ、伊勢神宮で叔母の倭比売から、須佐之男大神がヤマタノオロチを討った時の戦利品の「天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)(後に、草薙剣と言われる)」を受け取り、尾張に向かったとされている」 

→前述のように、古事記によればオロチ王の刀は「都牟刈大刀(つむがり大刀:頭刈大刀)」「草薙大刀」であり、天皇家に伝わる銅剣の「天叢雲剣:草薙剣」はオロチ王の鋭い鉄の大刀ではありません。

16. 203頁 「出雲国風土記によれば、出雲伊波比神(出雲祝神)は、天照大神が須佐之男大神と受霊(うけひ)で産んだとされる天穂日神の子で、大国主神に国譲りさせた天日名鳥命(天夷鳥命=武日照命=建比良鳥命)の別名である」

→前述のように、記紀や出雲国風土記はスサノオの異母妹アマテル1とスサノオ7代目の大国主の筑紫妻・鳥耳(アマテル2)を一人に合体しており、「記紀等によれば、出雲伊波比神(出雲祝神)は、天照大神が須佐之男大神と受霊(うけひ)で産んだとされる天穂日神とされていますが、大国主神に国譲りさせた鳥耳の子の天穂日神であり、その子が天日名鳥命(天夷鳥命=武日照命=建比良鳥命)である」に修正します。

17. 210頁 「奈良県田原本町の磯城の近くには、大物主大神(大歳神)を祀る三輪山の麓に広がる弥生の巨大な環濠都市、唐古・鍵遺跡があり、銅鐸の鋳型がでるなど銅鐸文化の拠点の一つであり、須佐之男大神の子の大歳神の進出拠点である」 

→「奈良県田原本町の磯城には、天照国照彦火明命を祀る鏡作坐天照御魂神社の北東約1kmのところに銅鐸の鋳型がでた環濠集落の唐古・鍵遺跡があり、その西には岩見地名や杵築神社があり、今里と鍵では蛇巻き神事が行われるなど、大国主の子の火明命一族の進出拠点である」に修正します。

 

 今後、以上の修正点などを盛り込むとともに、縄文社会から連続する霊(ひ)・霊継(ひつぎ)宗教である八百万神神道と海人族の海洋交易によるスサノオ・大国主建国の全体像を明らかにし、日本文明を世界史の中に位置づけ、「戦争なき21世紀」へ向けた提案としてまとめたいと考えています。

 


151 「やまと」は「山人」である

2024-05-16 10:51:06 | 日本文明

 海人族(天族)であるスサノオ・大国主建国論からスタートした私は、縄文人の貝やヒスイ・黒曜石などの海洋広域交易から縄文海人(あま)族から縄文社会分析を進め、さらに日本列島人起源論においても「海の道」の分析を進めてきましたが、長野県や福島県の黒曜石産地での神名火山(神那霊山)信仰や温帯ジャポニカ・芋もちソバ食などの照葉樹林帯文化から縄文山人(やまと)族の分析に進み、海人族と山人族が共同して日本列島にやってきたとの視点が必要と考えるようになり、縄文ノート186 『海人族縄文文明』の世界遺産登録へ」(240301)をまとめるに至っています。

 この縄文時代から続く海人族・山人族の文化は、スサノオ・大国主建国をへて、海の「一大国(いのおおくに:天一柱:壱岐(一城)」と筑後川上流の甘木(天城)高台(高天原)の「邪馬壹国(やまのいのくに)」、さらには天皇家のルーツである薩摩半島西南端の「山幸彦」と兄の「海幸彦」に引き継がれ、その後「大和(おおわ)」を「やまと」と読むことに繋がったことについて考えてみたいと思います。

 ずいぶん前にFC2ブログ「霊(ひ)の国の古事記論35 『ヤマト』は『山人』」(100505)を書きましたが、いくつか補足します。http://hinakoku.blog100.fc2.com/blog-date-201005-2.html参照

 小学生の時ですが、「大和」を「やまと」と読むと教わり、「嘘だろう!『だいわ』『おおわ』ではないか」と思い、稲作が始まって「米を入れるために軽い弥生式土器が生まれた」という説明には「米は米俵や木の米櫃に入れるもんだ」と反発するなど、私は教師を信用しないへそ曲りの子供でした。

 その後、若いころの私の高知の友人に「山戸」君がいましたが、彼の名字は「やまと」読みでした

 諏訪湖畔には「大和(おわ)」地名があります。連続母音の省略で「おおわ」から「おわ」になったのです。―ヒナフキンの縄文ノート「100 女神調査報告4 諏訪大社下社秋宮・性器型道祖神・尾掛松」参照

 また大和(だいわ)書房の社長で多数の古代史本を執筆された有名な大和岩雄(おおわ いわお)氏は高遠町(現伊那市)出身です。

 さらに信州出身者に連れられて飲んだ新橋駅南の新橋駅前ビル1号館2Fの「正味亭 尾和」は東大卒で電通から転職した尾和正登さんの店で、上田出身の氏の名字の「おわ=尾和」は元々は「大和(おおわ)」だったと思います。

 「やまと」については、「山戸、山門、山都」「夜麻登、山跡」など地名由来の名前とする説が見られますが、そもそも奈良盆地には「やまと」地名がありません。

 記紀の記述によれば、薩摩半島西南端の阿多に天下りしたニニギが阿多都比売に妻問いしてもうけた「ホデリ:海幸彦(漁師)」が「隼人(はやと)」と呼ばれたことからみて、その弟の「ホオリ:山幸彦(猟師)」は「山人(やまと)」なのです。

 広辞苑によれば「山人」は「①(関西・四国地方で)山で働く人。きこり。②(九州地方で)狩人」とされており、まさに古事記に書かれた「毛のあら物、毛の柔(にこ)物」を取る猟師なのです。「御子人(みこと=命、尊)」「旅人(たびと)」「商人(あきんど)」「素人(しろうと)」「玄人(くろうと)」「助(すけ)っ人(と)」「盗人(ぬすっと)」など、「ひと」を「と」と読む例からみても、「山人」=「やまと」であり、「海人(あま)」は「あまと」の「と」が略されたと考えます。

 これを裏付ける傍証があります。それは、沖縄では自分達(沖縄人)を「ウチナンチュウ」と呼び、本土の日本人を「ヤマトンチュウ」と呼んでいるのですが、沖縄には「ヤマト」は侵攻しておらず、沖縄を支配下に入れたのはハヤト(薩摩隼人)なのです。

 ここで思いだされるのは、ヤマト朝廷による720年の「隼人の乱」の鎮圧であり、この時、阿多の栫ノ原遺跡(丸ノミ石斧・曽畑式土器出土)などを拠点とした隼人(ハヤト:南風人)を縄文時代から深い交流があった琉球の海人(ウミンチュウ)は応援したと考えられます。この対立の記憶は現代まで残り、「ウチナンチュウ」対「ヤマトンチュウ(山人)」の対言葉となって続いた可能性が高いと考えます。

 阿多天皇家2代目の山幸彦・ホオリは琉球(龍宮)に渡り、海神の娘・豊玉毘売(とよたまひめ、古事記では鰐、日本書紀では龍)を妻として帰り、海辺の産小屋でトヨタマヒメは鵜葺草葺不合(うがやふきあえず)を産みます。このウガヤフキアエズは、トヨタマヒメの妹の玉依毘売(たまよりひめ)に育てられて妻とし、このタマヨリヒメは若御毛沼(わかみけぬ:後に神武天皇の忌み名)ら4兄弟を産んでいます。大和天皇家の初代神武天皇の祖母と母は琉球(龍宮)人なのです。―「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(2018秋 季刊日本主義43号)参照 

 若御毛沼らは、傭兵隊として宮崎県北部の美々津、豊国の宇佐に立ち寄り、筑紫国に1年、安芸国に7年、吉備国に8年滞在し、生駒山脈の麓の白肩津(日下)で敗退し、南に下って熊野をへて奈良盆地の大物主(スサノオの子の大年一族)とスサノオ7代目の大国主一族が支配する「美和(みわ:三輪)→大和(おおわ)」の国に入り、天皇家10代目の御間城入彦(後に崇神天皇の忌み名)の時にその権力を奪い、「大和(おおわ)国」を「やまとの国」と読み変えさせたと考えます。―『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』参照

 天皇家のルーツを朝鮮半島の高天原からやってきた弥生人にしたい皆さんや、邪馬臺国を「やまだこく」と読み「大和国(やまとのくに)」に当てはめたい邪馬台国畿内説のみなさん、女山(ぞやま)のある「山門郡」(福岡県みやま市瀬高町)にあてたい九州説のみなさんにはショックかも知れませんが、縄文時代からの「海人族(隼人族)」と「山人族」の歴史を古事記はきちんと伝え、天皇家の母方ルーツが薩摩半島の縄文山人族と龍宮(琉球)の海人族であることを隠していなのです。

 昭和天皇は記紀に書かれたこの先祖の歴史を無視し、琉球の民衆に多くの犠牲を強いた玉砕戦を容認し、敗北後には沖縄を基地としてマッカーサーに差し出したのです。私は憲法9条の戦争放棄の発案は統帥権を持った昭和天皇以外にありえないと分析しましたが、琉球をその枠外に置いたのです。―「建国史からみた象徴天皇制と戦後憲法」(2016秋『季刊 日本主義』35号)参照

 人間天皇家は、記紀に書かれた「阿多」「龍宮(琉球)」の山人族のルーツを公表し、「大和(おおわ)」を「やまと」と呼ばせるようになった経緯を明らかにすべきです。

 スサノオ・大国主建国論では、縄文文化・文明の延長上に八百万神崇拝の神名火山(神那霊山)信仰や48mの出雲大社があり、さらにはそのルーツがアジア・アフリカに遡るなど、歴史軸・空間軸を広げて検討し、世界遺産登録をめざすことを考えていただければ幸いです。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 帆人の古代史メモ          http://blog.livedoor.jp/hohito/

 ヒナフキンの邪馬台国ノート     http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/


「縄文ノート192 ピラミッドは神山天神信仰の人工神山」の紹介

2024-05-08 16:37:44 | ピラミッド

 はてなブログに「縄文ノート192 ピラミッドは神山天神信仰の人工神山」をアップしましたので紹介します。https://hinafkin.hatenablog.com/

 昨年の12月14日のTBSの「ピラミッドの真実!5000年の封印を破る鍵は太陽の船と科学とツタンカーメン」を見て、私は「縄文ノート158 ピラミッド人工神山説:吉村作治氏のピラミッド太陽塔説批判」(230118)を書き、「果敢にエジプトで発掘を続けた吉村作治早大名誉教授は昔から大好きな学者ですが、氏のピラミッド説には『半分賛成、半分批判』」と書きました。

 賛成なのは「ピラミッドは王の墓ではない」「ナイル川中流の『王家の谷』は、ピラミッドに近いような富士山型の山があり、人工のピラミッドを作る力がなくなった王家が集団墓地として選んだ」という点であり、批判点は「ピラミッドが太陽のエネルギーを集め、周辺の墓を守る役割をしていた」という太陽信仰説、ピラミッドパワー説です。

 私は白いクフ王のピラミッドや上が白く下が赤いメンカウラ―王のピラミッドは「母なるナイル」の源流域の万年雪を抱く「月の山」ルウェンゾリ山や「神の山」ケニヤ山、「神の家」キリマンジャロを模した人工の山と考えていたからです。

 今回、連休に4月10日の「NHK:古代王国バラエティー なんだフル!? ピラミッドとミステリーサークル」を見ましたが、吉村さんはピラミッドが王の墓ではないことを再度、詳しく解説しています(NHKオンデマンドで見ることが可能)。

 ただ、「ピラミッド・パワー塔」から「ピラミッドが寺院の五重塔のような宗教施設」との説に変えている点は、「半分賛成、半分異議あり」です。

 わが国には天皇家が仏教を国教とする以前に、スサノオ・大国主一族の全ての死者の霊(ひ)を祀る「八百万神信仰」があり、死者の霊(ひ)は神名火山(神那霊山)や神籬(霊洩木)、神社や住宅の心御柱(心柱:大黒柱=大国柱)から天に昇り、降りてくるという宗教思想が縄文時代からあり、ピラミッド=神名火山(神那霊山)説をまず考えるべきではないでしょうか?

 4600年前頃のクフ王のピラミッドより古い4700~3600年前頃の長野県原村の阿久遺跡の環状列石の中心部の立石からの2列の石列はコニーデ火山の蓼科山を向いており、隣りのさらに古い6000~5500年前頃の茅野市の阿久尻遺跡の巨木方形柱列の建物もまた蓼科山を向いています。この縄文時代からの神名火山(神那霊山)信仰は紀元1・2世紀に百余国を統合したスサノオ・大国主の葦原中国(あしはらのなかつくに:筆者説「委奴国:ふぃなのくに」)に引き継がれ、現代に続いているのです。

 この阿久・阿久尻遺跡にみられる神山天神信仰はエジプトだけでなく、全世界の古代文明に共通しており、ピラミッドはこの神山を人工の神山として築いたのです。

 そして重要な点は、この神山天神信仰はアフリカ東部湖水地方の母なるナイルの源流域にある万年雪を抱く「月の山」ルウェンゾリ山・「神の山」ケニヤ山・「神の家」キリマンジャロをルーツとしているのです。エジプト文明に水と肥沃な土壌をもたらした「母なるナイル」はこれらの神山を水源としているだけでなく、彼らの祖先霊が宿る神山から流れ下っていたのです。

 古代の全世界の神山天神信仰と神山を模したピラミッドは「東アフリカ湖水地方の神山天神信仰」をルーツとしていたのです。縄文文化・文明研究から「神山天神信仰・ピラミッド東アフリカ湖水地方起源説」を世界に向けて明らかにすべきと考えます。

 本ブログの「スサノオ・大国主建国論」としても、八百万神の霊(ひ)信仰の神名火山(神那霊山)崇拝を縄文文化・文明論に遡って位置づけるととも、世界の神山天神信仰とピラミッド信仰の解明に役立て、八百万神信仰の世界遺産登録を目指すべきではないでしょうか? 

 また、若い考古学者にはクフ王墓の発掘に情熱を燃やす吉村作治氏に習い、スサノオ・大国主一族の王墓の発見・発掘を進めることを期待したいと思います。私はスサノオ王墓の場所は解明できませんでしたが、大国主王墓は文献と遺跡からその場所をほぼ絞り込むことができたと自負しています。 雛元昌弘

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

 ・『奥の奥読み奥の細道』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2017冬「スサノオ・大国主建国論1 記紀に書かれた建国者」(『季刊山陰』38号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論2 「八百万の神々」の時代」(『季刊山陰』39号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(『季刊 日本主義』42号)

 2018夏「スサノオ・大国主建国論3 航海王・スサノオ」(『季刊山陰』40号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(『季刊 日本主義』43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 帆人の古代史メモ          http://blog.livedoor.jp/hohito/

 ヒナフキンの邪馬台国ノート      http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論       http://hinakoku.blog100.fc2.com/

 


「縄文ノート191加筆 4.鳥居や棟木の「カラス止まり」の烏(からす)」の紹介

2024-04-30 10:47:05 | 日本文明

 はてなブログの「縄文ノート191 カラス信仰のルーツはメソポタミアかアフリカか?」に「4.鳥居や棟木の『カラス止まり』の烏(からす)」を追加しましたので紹介します。https://hinafkin.hatenablog.com/

 私はアフリカからの縄文人の全歴史を解明しようと、DNA分析だけでなく、言語やヒョウタン、糖質・DHA食、宗教などの文化を持ってアフリカからこの日本列島にやってきたという仮説検証に取りつかれています。アフリカ・アジア中心の世界史再構築と、縄文社会・文化・文明の解明はこの気候変動と戦争の世紀に終止符を打つのに役立つと考えるからです。

 男子正装の烏帽子(えぼし:カラス帽子)を宮崎駿監督は「もののけ姫」においてたたら製鉄の女性リーダーの名前としましたが、カラス信仰のルーツが南インドのドラヴィダ族からメソポタミア、さらにはアフリカにまで遡れないか、検討を進めました。

 今回、追加したのは鳥居の鳥は何なのか、です。

 ヒントは茅葺屋根の棟木の笠木の上に「カラス止まり」が置かれており、雲南・ミャンマー・タイの山岳地域のチベット系のアカ族(イ族(夷族・倭族)、烏蛮族、ロロ族とも呼ばれる)の「カラス止まり」と同じであることから、鳥居に止まる鳥はカラスであることが明らかになりました。

 吉野ヶ里遺跡では入口の鳥居と大型建物(主祭殿?)の棟木の上に鳥を「水鳥」で「穀霊信仰のシンボル」として説明しているようですが、根拠のない空想という以外にありません。

 そもそも水鳥は「穀物」とは関係ありませんし、警戒心の強い水鳥が鳥居や棟木の上に止まるなどありえませんし、稲作の季節には北に帰っていないでしょう。また、茅葺屋根の棟木の千木組の上に今も「カラス止まり」が置かれている伝統や、烏帽子を正装とする文化を無視しています。

 日本人にとって、カラスは死者の霊(ひ)を天に運ぶ「霊(ひ)の鳥」「神使の聖鳥」だったのです。

 本ブログの「スサノオ・大国主建国論」としても、スサノオ・大国主一族の神使である「三足烏(さんそくう)」と天皇家が担ぐ「八咫烏(やたがらす)」の歴史とともに、出雲にもある古い茅葺屋根の棟木の上の「カラス止まり」からカラス信仰のルーツを考えてみませんか?

 以下、引用しておきたいと思います。 雛元昌弘

 

4.鳥居や棟木の「カラス止まり」の烏(からす)

 吉野ヶ里遺跡に行き、入口の鳥居と大型建物(主祭殿?)の棟木の上に鳥が乗っている写真を撮り、死者の霊(ひ)を鳥が天に運ぶ霊(ひ)信仰として紹介してきましたが、なんと、吉野ヶ里遺跡では鳥の木製品は出土していないというのです。

 ブログ「吉野ヶ里遺跡の木製鳥形 - クロムの備忘録的ダイアリー (goo.ne.jp)」によると、「他の遺跡からは鳥形は出土しており鳥にはシンボル的意味合いがある」「中国や東南アジアでは入り口に鳥形が飾られる集落がある」「弥生時代には穀物の霊に対する穀霊信仰があり、穀霊を運ぶ鳥を崇拝する観念が生まれた」「鳥への信仰は穀霊信仰の強い東南アジアに残っている」「鳥には結界を示すような意味合いがある」「ここでいう鳥は水鳥である」という説明を受けたそうですが、かなり偏った推測というほかありません。

 確かに、大阪府和泉市の2300~1800年前の池上曽根遺跡からは鳥型木製品が出土しており、奈良県北葛城郡河合町の4~6世紀の馬見古墳群の佐味田宝塚古墳(30面の銅鏡出土)の家屋文鏡の建物上には鳥が描かれています。なお、この馬見古墳群は「『卑弥呼王都=アマテル高天原』は甘木(天城)高台」(200206→0416)で触れましたが、スサノオの娘(産女)の宇迦之御魂(うかのみたま:おいなりさん)と大国主の息子(産子)の阿遅志貴高日子根(あぢすきたかひこね:迦毛之大御神)の一族の拠点と私は考えています。 

 鳥越健三郎大阪教育大名誉教授の『雲南からの道』は、アカ族は村の門の上に木彫りの鳥を置いており、日本の鳥居のルーツとしています。

 ウィキペディアによれば、雲南省のハニ族はミャンマー、ラオス、ミャンマー、ベトナムではアカ族と呼ばれ、焼畑を中心とした農耕生活を営み、ラオスに住むアカ族の村の入り口には木で作った門を置き、鳥居の風習は四川省涼山に棲むイ族(夷族・倭族:チベット系の烏蛮族、ロロ族)とも共通しているとされています。

 この鳥の種類ですが、アカ族の鳥居の鳥と、池上曽根遺跡の鳥型木製品の鳥の1つは下向きにエサを啄んでいる姿であり、集落の周りにいる身近な鳥であり、イ族(夷族・倭族)が古くは「烏蛮族」と言われていたことをみても、カラスと見られます。年にある期間だけやってくる渡り鳥では、何の役割も期待できません。

 吉野ヶ里遺跡では「弥生時代には穀物の霊に対する穀霊信仰があり、穀霊を運ぶ鳥を崇拝する観念が生まれた」「鳥への信仰は穀霊信仰の強い東南アジアに残っている」「ここでいう鳥は水鳥である」と空想していますが、鳥越氏は「鳥は神の乗り物である」としています。記紀に書かれた始祖神の「産霊(むすひ)夫婦」の霊(ひ:祖先霊)信仰の歴史からみても、穀霊信仰説はいただけません。

 さらに、鳥越氏は日本の民家でも棟木の千木組の上に1本の竹を通し「カラス止まり」と呼ぶとして写真を載せ、烏は神使なので止まり木を置くことで神が屋根の上に降りていることを示したのであろうとし、ラフ族の「カラス止まり」がルーツとしています。

 茅葺き・藁葺きの民家については前から興味を持っていましたが、「カラス止まり」については意識したことがなく、ざっとネットで検索してみると、次の写真に一部を示しますが今も伝統として各地に残っていました。

 私の両親の祖父母の家では、大黒柱(大国柱=心御柱=心柱と考えます)にそって神棚が祀られており、人(ほと=霊人)は死ぬと「神」になるという八百万神信仰により、「神棚→大黒柱→棟木→カラス止まり」からカラスによって死者の霊(ひ=玉し霊=魂)は天に運ばれ、また天から帰ってくると考えられていたのです。天皇家による仏教の国教化により、死者は「仏」になり仏壇に祀られるようになっても、神棚は維持されており初孫であった私は田舎に行くと毎朝、ご飯を神棚と仏壇に供えさせられましたが、どちらにご先祖の霊がいるのか、祖母に問いただした経験があります。

 そもそも、季節性の「水鳥」に使者の霊(ひ)を託すわけにはいかず、人を警戒する「水鳥」が鴨居や屋根の上の「カラス止まり」に止まるなど絶対にありえません。吉野ヶ里遺跡の「水鳥説」は理解不能です。鴨鍋や鴨南蛮が大好きな学芸員ばかりなのでしょうか?

 縄文ノート「38 『霊(ひ)』とタミル語peeとタイのピー信仰』「128 チベットの『ピャー』信仰」「132 ピュー人(ミャンマー)とピー・ヒ信仰」「149 『委奴国』をどう読むか?」において、私は南インドから南・東南アジア山岳地帯、台湾の卑南族、匈奴(ヒュンナ)などは、祖先霊を「ピー、ピュー、ピャー、ぴー・ひー・ひ」とし、神山から天に昇り、降りてくると信じていたのです。

 そして、祖先霊を運ぶ神使として、カラス(熊野大社・厳島神社・住吉大社)・鶏(石上神宮・穂高神社・伊勢神宮)・白鷺(大山祇神社)や、神山(神名火山:神那霊山)からの神使として狐(稲荷大社)・猿(日枝大社・武尊神社)・鹿(厳島神社・春日大社)・兎(住吉大社)・狼(三峰神社)などを祀ってきたのです。

 吉野ヶ里遺跡の「水鳥説」は、日本とアジアの霊(ひ:祖先霊)信仰の伝統を無視したトンデモ説というほかありません。

 ユダヤ・キリスト教の影響を受けカラスを聖鳥・霊鳥から悪役(ビラン)に陥れてハトを聖鳥と崇める拝外主義の風潮が見られますが、「霊(ひ)から生まれ、霊(ひ)を信仰するひと(人=霊人)」である日本人が、「霊(ひ)の鳥=カラス」を忘れていたのでは洒落にもなりません。なお、古代人はDNAが親から子へと受け継がれるのを「霊(ひ)」が受け継がれると考え、霊継(ひつぎ)を重要視し、霊継(ひつぎ)が断たれた霊(ひ)は怨霊(おんりょう)となって迫害者に祟ると考えたのです。

 

5.鳥耳、鳥鳴海、日名鳥、鳥船、烏越の名前は?

 古事記神話の大国主一族では、筑紫妻の「鳥耳」一族の「鳥鳴海」、「日名鳥(夷鳥・比良鳥・日照)」「鳥船(筆者説は日名鳥の別名)」、「布忍富鳥鳴海」が登場し、魏書東夷伝倭人条には倭の使者の「載斯烏越」(載斯は祭司か?)が見られます。

 吉野ヶ里遺跡や原の辻遺跡などの鳥居のルーツやうきは市吉井町の6世紀後半の珍敷塚(めずらしづか)古墳の装飾壁画の船の舳先の鳥の種類と合わせて、検討する必要があると考えます。

 Y染色体D型の縄文人からの伝統と考えられる赤米を炊いてカラスに与える「ポンガ」の神事と、スサノオ・大国主一族の神使の「三足烏」と合わせて、時間軸とアフリカからの伝播ルートの空間軸の2次元の解明が求められます。

 「悪役カラス」「害鳥カラス」から「霊(ひ)の鳥カラス」「神使の聖鳥カラス」「ナビゲーターカラス」への復権が求められます。