ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート

「神話探偵団~スサノオ・大国主を捜そう!」を、「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」に変更します。雛元昌弘

スサノオ・大国主建国論5 天神五柱・神世七代の高天原

2022-12-02 10:40:17 | スサノオ・大国主建国論

 古事記は「高天原(たかまがはら)」での「別天神(ことあまつかみ)五柱」「神世七代」から始まり、その最後の伊邪那岐(いやなぎ)・伊邪那美(いやなみ)(以下、イヤナギ・イヤナミと表記)の「天降り」「14の島生み」「35の神生み」に続く。

 「高天原(たかまがはら)」については、天上の国とする本居宣長らの皇国史観(天皇神の国史観)、「高天原」を8世紀の創作神話とする反皇国史観、高天原を地上の場所とする3つの歴史観に分かれ、高天原の「天津神(あまつかみ)=天皇家」、地上の葦原中国の「国津神(くにつかみ)=スサノオ・大国主一族」と区分する皇国史観亜流(天皇の国史観)の歴史家が未だにみられるが、古事記のまっとうな解釈から反論したい。

 高天原地上説では古くは奈良県御所市高天説(金剛山=高天原山)、茨城県説(常陸国多賀郡:新井白石)、宮崎県高原町説(高千穂峰の麓)、宮崎県高千穂町説(高千穂神社等)などの他、朝鮮半島説、壱岐説(古田武彦氏)、甘木説(高天原=邪馬台国王都説:安本美典氏)などがみられるが、私は古事記・日本書紀の王名・地名分析から2つの高天原(壱岐説・甘木説)があったと考えている。

 なお、古事記の読み下し文は倉野憲司校注『古事記』(岩波文庫:以下倉野・古事記と略)をもとに、一部、現代化して示した。

 

⑴ 2つの高天原

 古事記は「天地初発時」から始まり、太安万侶は序文で「根元すでに凝(こ)りて、気象未だ効(あらわ)れず。名も無く為(わざ)も無し。誰かその形を知らむ」と解説し、天地はもともとあったとしている。人類誕生からの事実に即しており、神が天地や人を作ったという旧約聖書のような空想の神話ではない。

 そして、「高天原」に天之御中主(あめのみなかぬし)、高御産巣日(たかみむすひ)(日本書紀:高皇産霊(たかみむすひ))、神御産巣日(かみむすひ)(同:神皇産霊(かみむすひ))(以下、タカミムスヒ・カミムスヒと表記)、宇摩志阿斬訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)、天之常立(あめのとこたち)の別天神(ことあまつかみ)五柱が現れたとしている。

 『新唐書』が「天御中主(あめのみなかぬし)、至彦瀲(ひこなぎさ)、凡(およそ)三十二世・・・居筑紫城」と遣唐使が述べたと書いていることからみても、この高天原が地上の筑紫にあったことは古代人には常識であった。そして、この5神(死者には神をつける)は出雲大社正面に「御客座五神」として祀られていることからみて、スサノオ・大国主一族の始祖神であり、5神が活躍した場所は出雲ではないこと明らかである。「別天神(ことあまつかみ)五柱」と古事記が記しているのは、出雲大社客座に祀られた5柱が他の地域から別れて分祀されたことを示しており、太安万侶はちゃんと真実を伝えているのである。

 古事記は大国主が八十神に殺されたとき、大国主の母は天に参上してカミムスビに助けを求めたところ、赤貝比売と蛤貝比売を派遣して「母の乳汁」を塗って蘇生させたとし、子の少彦名を送って大国主の国づくりを助けたとしていることもまた、対馬暖流をさかのぼって海人(あま)(天)族の拠点の壱岐(天一柱)のカミムスヒ(代々襲名)に治療法を求め、農業や酒造り・医薬の技術者である少彦名の派遣を求めたという伝承を示している。

 この別天神(ことあまつかみ)五柱がいた国は、「天御中主(あめのみなかぬし)」の名前由来の壱岐の「那賀・中野郷」地名や、津馬(対馬)の古名の天狭手依比売(あめのさでよりひめ)、壱岐島の古名の天比登都柱(あめのひとつはしら)などから見て、海人(あま)(天)族の拠点である壱岐以外にありえないが、詳しくは国生みのところで詳述したい。

 なお、八百万神信仰の古代人は人は死ぬと肉体から霊(ひ)が分離して天に昇り、神になると考えており、亡くなった歴史上の人物を語る時には「神」を付けている。倭人にとっての神はユダヤ・キリスト・イスラム教の天地人創造した空想のゴッドとは異なり、霊(ひ)=スピリットの意味である。

 中国人にとっては「神=示(高杯にものを乗せる)+申(稲妻の象形文字)」「霊=雨+巫」「魂=云(雲・湯気)+鬼」「鬼=甶(頭蓋骨)+人+ム(跪く姿)」であり、いずれも天に昇った祖先霊が雷・雨・雲となることを指している。

 第2の「高天原」はイヤナギが筑紫日向橘小門阿波岐原(ちくしのひなのたちばなのおどのあわきばる)の安河で禊ぎを行い、天照大御神(以下アマテルと表記)らを生んだ地上の「天原(あまばる)」の高台である。記紀に書かれたこの高天原に関係する地名は筑後川上流の旧甘木市(天城由来の地名)にワンセット残っており、「5W1H」を満たした地上に実在した高天原の伝承である。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照 

 ただ、安本美典氏は「邪馬台国」を「やまだ国」と読み、平地の馬田を卑弥呼=アマテルの王都としているが、甘木(天城)の平野部の馬田なら「天原(あまばる)」になるはずである。「高天原(たかあまばる→あたかまがはら)」は「筑紫日向(ちくしのひな)」の地名を現代に残す甘木(天城)の「蜷城(ひなしろ)」の背後の高台を指していると見なければならない。

 スサノオが高天原に参上したときに「山川悉動、国土皆震」としているのは、軍勢が足音を立てて坂を登った様子をリアルに表現しており、スサノオ・大国主建国論4で述べたようにこの伝承は邪馬台国・卑弥呼姉弟の後継者争いの伝承を16代遡らせてスサノオと義妹アマテルの神話に置き換えたものである。

 以上、古事記をまともに読めば、天上の「高天原神話」は皇国史観(天皇神国史観)の空想であり、地上の高天原は壱岐と甘木に実在したのである。

 

⑵ 「参神造化之首」「二霊群品之祖」とは

 古事記序文で太安万侶は「乾坤初めて分かれて、参神造化の首となり、陰陽ここに開けて二霊群品の祖となりき」と書いている。

 倉野注は「参神」を天之御中主(あめのみなかぬし)、高御産巣日(たかみむすひ)、神御産巣日(かみむすひ)とし、「二霊」をイヤナギ・イヤナミとしているが、タカミムスヒ・カミムスヒを日本書紀が高皇産霊(たかみむすひ)・神皇産霊(かみむすひ)と書いていることからみて、「二霊」は霊(ひ)を産む「産霊(むすひ)夫婦」以外にありえない。

 太安万侶は本文では別天神(ことあまつかみ)五柱を「独神(ひとりがみ)」としながら、序文では「二霊群品の祖」としてタカミムスヒ・カミムスヒを人々を生んだ神として真実を伝えている。太安万侶の巧妙な表裏二重表現である。

 始祖神のアメノミナカヌシについて、倉野・古事記の注は「高天の原の中心の主宰神」としているが、博徒・香具師の「手前生国と発しまするは○○にござんす」と述べる初対面の仁義や戦国武将の「やあやあ我こそは△△の住人、〇〇なり」の名乗りと同じで、古代人にも「地名+名前」の命名が多いことから解釈すべきである。

 アメノミナカヌシは前述のように海人(あま)族の壱岐の「那賀・中野郷」の王であり、この中野郷には壱岐国分寺があり、未発見であるが国府が置かれていた可能性も高く、近くには鬼の岩屋古墳があり、壱岐の中心地であった。

    

⑶ 宇摩志阿斬訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)と天之常立(あめのとこたち)

 ムスヒ夫婦の次の宇摩志阿斬訶備比古遅(うましあしかびひこぢ)と天之常立(あめのとこたち)については、倉野・古事記の注は「葦の芽を神格化して成長力を現わしたもの」「天の根元神」として空想上の神と解釈している。

 しかしながら「うましあしかびひこぢ」は「美味い葦の若芽の霊子児(ひこじ)」であり、葦原が広がる国を名前にしており、壱岐の「芦辺」地名の地域の王と考えられる。

 「あめのとこたち」は壱岐の別名が「天比登柱(あめにひとつばしら)」であることからみて、縄文時代からの立石(石棒)にちなんだ地名由来の王名の可能性が高く、壱岐の「立石」の王と考えられる。

 諏訪の阿久遺跡の環状列石の中央に置かれた神名火山(神那霊山)の蓼科山に向かう「立石・列石」のような縄文遺跡は壱岐ではまだ見つかっていないが、壱岐には郷ノ浦町の名切遺跡など縄文遺跡が23か所も確認されており、「立石」の地名からみていずれ同様の遺跡が見つかる可能性は高いのではなかろうか。

      

 なお、天下原遺跡からは「セジョウ神」と呼ばれている石の祠の下から中広型銅矛3本が発掘されているが、天ケ原(海人原か)地名の起源がどこまで遡るのかは確認できていない。何らかの伝承が残ってはいないのであろうか?

          

⑷ 神世七代

 別天神(ことあまつかみ)柱に続く神世七代は、国之常立(くにのとこたち)神と豊雲野(とよくもの)神は独神であるが、角杙(つのぐひ)神・妹活杙(いもいきぐひ)神、宇比地邇(うひぢに)神・妹須比智邇(いもすひぢに)神、意富斗能地(おほとのぢ)神・妹大斗之辨(いもおほとのべ)神、於母陀流(おもだる)神・妹阿夜訶志古泥(いもあやかしこね)神、伊邪那岐(いやなぎ)神・妹伊邪那美(いもいやなみ)神は夫婦神となり、母系制社会の祭祀を司る女王と漁撈・交易に従事する男王の共同統治の時代に入り、部族から選出されたリーダーとしての王から、世襲王への転換が起きていた可能性がある。

 表1に整理したように、王名も「国之常立(くにのとこたち)(立石地名からか)」や「宇比地邇(うひぢに)・須比智邇(すひぢに)(霊地地名からか)」などの地名由来名から、「豊雲野(とよくもの)=豊の久米(くも=くめ)」のような地名部族名や「角杙(つのぐひ)・活杙(いきぐひ)」の「城柵の杙づくりの技術者名」、「意富斗能地(おほとのぢ)・大斗之辨(おほとのべ)」の「大殿」という尊称名、「於母陀流(おもだる)・阿夜訶志古泥(あやかしこね)」のような「面足(整った顔)・あや賢児根(ああ賢い児)」という形容個人名に変わってきている。

 なお最後の伊邪那岐(いやなぎ)・伊邪那美(いやなみ)であるが、日本書紀は伊弉諾・伊弉諾と表記し、通説は「イザナギ・イザナがミ」と読ませているが、邪馬台国を「ざまたいこく」ではなく「やまたいこく」と読みたい人は「イヤナギ・イヤナミ」とよむべきであろう。延喜式神名帳に登場する「伊耶那岐神社」など各地に「伊耶那岐神社」「伊耶那美神社」や「揖夜神社」があることからみても「イヤナギ・イヤナミ」と呼ばれていたのである。

 古事記はイヤナミを埋葬した黄泉国からイヤナギが地上に出てきた場所を黄泉比良坂(よもつひらさか)とし、その場所を出雲国の伊賦夜坂(いふやざか)と書き、東出雲町揖屋町にはイヤナミを祀る揖夜神社(古くは伊布夜社)があることからみても、イヤナミは「揖屋のナミ」という名前であったのである。ここでも太安万侶は表裏二重表現(ダブルミーニング)により、真実の歴史を巧妙に伝え残しているのである。

 このイヤナギの時代から、壱岐から離れた海人族の活動が始まった可能性が高く、次回に「6 海人族の『国生み神話』」として分析したい。

 

⑸ 「天津神・国津神」が示す母系制社会

 古事記はなぜか天之常立(あめのとこたち)神を「別天神(ことあまつかみ)五神」とし、「国之常立(くにのとこたち)神」からを「神世七代」と書き分けている。連続して「天之常立神・国之常立神」と書けば夫婦神であったに違いないのであるが、奇妙である。

 皇国史観とその亜流の歴史家たちは、高天原のアマテル系を「天津神」として天皇家の祖先とし、アマテルに国譲りしたスサノオ・大国主の「豊葦原中国」系を「国津神」として分類しているが、そもそも古事記・日本書紀には天津神の表記はみられない。国津神にしても、日本書紀でずっと後の日本武尊のところに「蝦夷」として書かれているだけである。

 スサノオ・大国主一族の始祖神が「天御中主(あめのみなかぬし)」で、スサノオ6代目は「天之冬衣(あめのふゆぎぬ)」でその子が大国主であり、さらに筑紫大国主9代目は「天日腹大科度美(あめのひばらおおしなどみ)」であることからみても、スサノオ・大国主一族は天神族なのである。

 この皇国史観・亜流の批判はさておき、「天津神・国津神」(「の」=「つ」)、「天神(あまつかみ)・国神(くにつかみ)」の表記は、この「天之常立神・国之常立神」が最初で唯一なのである。

 ここからは、太安万侶が残した暗号についての私の推理である。

 大海人皇子(おおあまのみこ)が「天武天皇(てんむ=あまたける)」と呼ばれたように、「天=海人」であることからみて、天之常立神は漁撈・交易に従事する海人族である。一方、国之常立神は定住して農耕に従事する一族であり、母系制社会の女神であったと私は推理している。

 漁村集落では危険な海にでる男に対し、女性が家計や子育てを担い、市で魚を売り、加工販売していた。古代においても同様で、大国主が「島の埼埼、磯の埼ごと」に「若草の妻」を持180人の御子をもうけることができたのは、妻問夫招婚の母系制社会であったことを示している。卑弥呼(霊御子)をはじめ、各地に女王がいたことが記紀に書かれていることからみても、「天之常立神・国之常立神」は夫婦神であり、国之常立神のもとに海人族の天之常立神が妻問いしていたと考えられる。

 太安万侶が「天之常立神・国之常立神」を連続して書いて夫婦神としなかったのは、その名前から母系制社会であることを隠したのではないか、と私は推理している。

 魏書東夷伝倭人条には対馬国について「良田なく、海物を食べて自活し、乗船して南北市糴(してき)す」とし、「壱岐国(一大国(いのおおくに): 天比登柱(あめにひとつばしら))については「やや田地あるも、田を耕すなお食べるに不足し、また南北市糴(してき)す」と書かれており、「糴=入+米+羽+隹(鳥)」字は「鳥船(帆が鳥の羽の形状)に乗って米を市に入れる」交易を示しており、壱岐の海人族の男たちは朝鮮半島と米鉄交易を行い、女たちは海物を獲り、少ない田を耕して一族を守っていたと考えられる。漁撈・交易は父系制、家族制度は母系制の母族社会であったのである。―『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)参照

 図2にみられるように12代景行天皇が滅ぼすまで九州には多くの女王がいたのである。そして図3のように現在も女王たちは祭神として多くの神社に祀られており、母族社会の伝統は引き継がれているのである。この図には載せていないが、スサノオの御子の宇迦之御魂(うかのみたま)を祀る稲荷神社は各地にみられる。

     

 

 壱岐から縄文土偶や貝輪、さらには1~3世紀の「好物(魏書東夷伝倭人条)」の鏡や絹織物・真珠・鉛丹を副葬品とし、「天比登柱(あめにひとつばしら)」に対応した立柱をともなう女王墓が発見されることを期待したい。

 

⑹ 壱岐・対馬の海人族のルーツ

 この壱岐・対馬の海人族のルーツについては、稲作の起源を長江流域や朝鮮半島に求める弥生人(中国人・朝鮮人)とする説がみられるが、私は海の道を通った南方起源であることを総合的に明らかにしてきた。―はてなブログ「ヒナフキンの縄文ノート」、Gooブログ「ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート」参照

 アフリカ西海岸ニジェール川原産のヒョウタンや中東原産のウリの縄文遺跡での発見、アフリカ西海岸のY染色体E型人(コンゴイド)と別れたY染色体D型の縄文人、イモやジャポニカ米・ソバ・モチ食の起源、宗教語・農耕語のドラヴィダ語起源、アフリカからの神山天神信仰伝播、南インド・東南アジアのピー信仰伝播、琉球(龍宮)の「あいういぇうぉ」5母音や性器語「ピー・ヒー→ヒナ」の伝播、ドラヴィダ族のカラス信仰とポンガの祭りの伝播、東南アジアの龍神(トカゲ龍)信仰の伝播、貝輪・ヒスイ・黒曜石の交易などから、縄文人は海の道をとおり、琉球から対馬暖流にのって壱岐・対馬を拠点とし、さらに各地へ交易・交流を進めたのである。

 壱岐・対馬を拠点とした海人(あま)族は、琉球開びゃくの祖が「アマミキヨ」であり、琉球列島に「天城町」や「奄美大島」が、九州には「天草」「甘木」「天瀬」「天久保」「天ケ原」があり、さらに隠岐には「海士(あま)(古くは海部)」などの地名があることからみて、「対馬暖流海道」を行き来していたことを示している。―図4参照

    

 この海の道の交易・交流が旧石器時代から縄文時代に遡ることは、図5~7に示すように、イモガイやヒスイ・黒曜石、丸木舟づくりに使う丸ノミ石斧、曽畑式土器などによって裏付けられている。

        

 魏書東夷伝倭人条によれば、邪馬壹国と狗奴国との争いで卑弥呼・壱与を助けるために、247年に帯方郡から張政らが派遣され、260年まで13年間も滞在し、その報告をもとに魏書東夷伝倭人条が書かれていることが明らかであるが、そこには弥生人(中国人・朝鮮人)による縄文人征服や言語・文化・墓制などの類似性は一切書かれていない。邪馬台国を論じる以上、この事実を無視してはならない。

 海人族(天族)は、天上から降りてきたのでも、中国・朝鮮半島からきたのでもないことは、古事記や魏書東夷伝倭人条の記載からだけでも明白であり、それは縄文時代からの物証や遺伝子・言語・宗教などにより裏付けられている。

 高天原を天上の国としたり、朝鮮半島や金剛山・高千穂峰とする説などの空想から覚め、海人族(天族)の地上の国づくりから考えなければならない。

 

□参考□

<本>

 ・『スサノオ・大国主の日国(ひなのくに)―霊(ひ)の国の古代史―』(日向勤ペンネーム)

 ・『邪馬台国探偵団~卑弥呼の墓を掘ろう~』(アマゾンキンドル本)

<雑誌掲載文>

 2012夏「古事記」が指し示すスサノオ・大国主建国王朝(『季刊 日本主義』18号)

 2014夏「古事記・播磨国風土記が明かす『弥生史観』の虚構」(前同26号)

 2015秋「北東北縄文遺跡群にみる地母神信仰と霊信仰」(前同31号)

 2017冬「ヒョウタンが教える古代アジア”海洋民族像”」(前同40号)

 2018夏「言語構造から見た日本民族の起源」(前同42号)

 2018秋「『龍宮』神話が示す大和政権のルーツ」(前同43号)

 2018冬「海洋交易の民として東アジアに向き合う」(前同44号)

 2019春「漂流日本」から「汎日本主義」へ(前同45号)

<ブログ>

 ヒナフキンのスサノオ・大国主ノート https://blog.goo.ne.jp/konanhina

 ヒナフキンの縄文ノート https://hinafkin.hatenablog.com/

 帆人の古代史メモ    http://blog.livedoor.jp/hohito/

 邪馬台国探偵団    http://yamataikokutanteidan.seesaa.net/

 霊(ひ)の国の古事記論 http://hinakoku.blog100.fc2.com/