リムスキー=コルサコフの管弦楽伴奏の合唱曲(カンタータ)《神の人アレクセイの詩》作品20は、長らく「文献上のみ登場」する作品だったのですが、セゾン・リュスというレーベルから彼の「世俗カンタータ集」がCDでリリースされた折に、《ホメロスより》《賢者オレーグ公》《スヴィテジャンカ》とともに収録され、ようやく日の目を見ることとなったものです。
《神の人アレクセイの詩》は、もともとは出版されずじまいになった歌劇《プスコフの娘》の第2稿に含まれていたものです。
リムスキー=コルサコフは、《アンタール》などの初期の作品と同様に、自身の処女作となる歌劇も未熟だと考えて改訂を思い立ち、初稿では省略した、ヒロインのオリガの出生の秘密を明かす一節をプロローグとして付け加えるなどの手を施したりしましたが、《神の人アレクセイの詩》もまた、この改訂時に巡礼者の合唱として追加されたものです。
この《プスコフの娘》の改訂に関する一連の経緯については、リムスキー=コルサコフは自伝で詳しく記述しています(1875年ー1876年の章)。
その自伝によれば、巡礼の合唱を付け加える考えはバラキレフによるものだったとのこと。
バラキレフは言い出したら聞かない「困ったちゃん」だったようで、リムスキー=コルサコフは素直にそれに従ったようですが、バラキレフが巡礼の合唱の追加を主張したのは、その場面が修道院の付近での出来事との設定だったこと以外に理由らしい理由もなく、単に彼が宗教的なものを好んだからだろうと冷静に振り返っています。
結局、第2稿となる《プスコフの娘》にも満足しなかったリムスキー=コルサコフは、最終版となった第3稿への改訂の際に付け加えたプロローグも巡礼者の合唱の場面も削除してしまったのですが、巡礼の合唱は《神の人アレクセイの詩》として、母体からスピンオフした作品として生き残ることとなったのです(ちなみにプロローグは歌劇《貴族夫人ヴェラ・シェロガ》となりました)。
歌劇の第2稿からのスピンオフということでは、劇付随音楽としての《プスコフの娘》(序曲と間奏曲)があり、《神の人アレクセイの詩》の旋律は第5曲目の「第4幕への前奏曲」に使用されています。
ついでにですが、歌劇《セルヴィリア》の最後の感動的な合唱曲(クレド)もまた第2稿から採られたものです。
人々がヒロインの死を弔うという点で《プスコフの娘》と共通する要素になっていますね。
リムスキー=コルサコフ:カンタータ集(モスクワ・アカデミー・オブ・コラール・アート)
https://ml.naxos.jp/album/BC94495
(現在は「ブリリアント・クラッシク」から発売)
https://ml.naxos.jp/album/BC94495
(現在は「ブリリアント・クラッシク」から発売)
《神の人アレクセイの詩》は、もともとは出版されずじまいになった歌劇《プスコフの娘》の第2稿に含まれていたものです。
リムスキー=コルサコフは、《アンタール》などの初期の作品と同様に、自身の処女作となる歌劇も未熟だと考えて改訂を思い立ち、初稿では省略した、ヒロインのオリガの出生の秘密を明かす一節をプロローグとして付け加えるなどの手を施したりしましたが、《神の人アレクセイの詩》もまた、この改訂時に巡礼者の合唱として追加されたものです。
この《プスコフの娘》の改訂に関する一連の経緯については、リムスキー=コルサコフは自伝で詳しく記述しています(1875年ー1876年の章)。
その自伝によれば、巡礼の合唱を付け加える考えはバラキレフによるものだったとのこと。
バラキレフは言い出したら聞かない「困ったちゃん」だったようで、リムスキー=コルサコフは素直にそれに従ったようですが、バラキレフが巡礼の合唱の追加を主張したのは、その場面が修道院の付近での出来事との設定だったこと以外に理由らしい理由もなく、単に彼が宗教的なものを好んだからだろうと冷静に振り返っています。
結局、第2稿となる《プスコフの娘》にも満足しなかったリムスキー=コルサコフは、最終版となった第3稿への改訂の際に付け加えたプロローグも巡礼者の合唱の場面も削除してしまったのですが、巡礼の合唱は《神の人アレクセイの詩》として、母体からスピンオフした作品として生き残ることとなったのです(ちなみにプロローグは歌劇《貴族夫人ヴェラ・シェロガ》となりました)。
歌劇の第2稿からのスピンオフということでは、劇付随音楽としての《プスコフの娘》(序曲と間奏曲)があり、《神の人アレクセイの詩》の旋律は第5曲目の「第4幕への前奏曲」に使用されています。
ついでにですが、歌劇《セルヴィリア》の最後の感動的な合唱曲(クレド)もまた第2稿から採られたものです。
人々がヒロインの死を弔うという点で《プスコフの娘》と共通する要素になっていますね。