海軍大将コルシンカの航海日誌

ロシアの作曲家リムスキー=コルサコフについてあれこれ

《神の人アレクセイの詩》その2~歌になった聖人伝説

2022年01月19日 | カンタータ
神の人アレクセイ(アレクシス)とは、4世紀頃にローマで生まれたとされるキリスト教の聖人です。
私は今まで知りませんでしたが、「神の人アレクセイ」の話は仏文学史上わりと有名なものらしく、学術的な研究対象にもなっているようです。
以下にご紹介する書籍では、その伝説の成立過程にも踏み込んで解き明かしています。

「東方の苦行僧、聖アレクシスの変貌」~松原秀一著『異教としてのキリスト教』(平凡社ライブラリー・2001年)


同様の内容はこちらにも掲載されていました。

聖アレクシウスの妻(松原秀一・1967年)慶應義塾大学学術情報リポジトリ(KOARA)

残念ながらリムスキー=コルサコフの音楽作品としての《神の人アレクセイの詩》に関する日本語文献は見たことがありませんが、聖アレクセイに関してはいろいろなところで言及されているようです。

そのひとつ、江川卓著「謎とき『カラマーゾフの兄弟』」(新潮選書・1991年)では、「Ⅳ 巡礼歌の旋律」としてまるまる一章を、小説と「神の人アレクセイ」(と「ラザロの歌」)という巡礼歌との関連の考察に充てており、ロシアにおける巡礼や巡礼歌を知るうえで大変参考になります。

それによると、ロシアの貧しい巡礼たちは生活の糧を得るために日本で言う「門付け」のようなことをしていたとのこと。
ロシアで人気のある「神の人アレクセイ」のエピソードを、巡礼たちが屋敷や市場で哀愁を帯びた節回しで語ったのは、聞き手に受け入れやすい(つまり施しを得られやすい)という「実用的な面」もあったのでしょうが、それ以上に彼らは自らをアレクセイになぞらえたいという気持ちも強かったからなのではないでしょうか。

つまり、自分が貧困にあえいでいたり、生まれつきの不具であったとしても、それは「たまたま」であり、むしろ神の試練であって、不幸を嘆くのではなく、すべてを捨てて神に人生をささげた聖アレクセイと同じく信仰の道を歩むべきだという思いです。
彼らは巡礼歌として神の人アレクセイの生涯を歌いながら、そうした思いをかみしめていたとしても不思議ではありませんね。

Русский паломник XIX века(19世紀のロシアの巡礼)
http://palomnic.org/journal/37/istoria/1/
(ロシア語サイトですが写真多数あり)


さて「神の人アレクセイ」の歌の内容ですが、例によって多種多様であって、これも民俗学的な研究対象になるようなもののようですが、ここではリムスキー=コルサコフの作品で用いられている歌詞を訳しておきましょう。
(セゾン・リュスのCDのブックレットの英訳からです)

リムスキー=コルサコフ《神の人アレクセイの詩》作品20

栄えある皇帝ホノリウスの統べる栄光の都ローマに
子のいない貴族ユーフェミアヌスが住んでいた
そして栄えある貴族ユーフェミアヌスは神の教会に入り
涙と公明正大な献身をもって神に祈りをささげた
「主よ、天の王よ、私に子供を、一人の子をお授けください!」
貴族の祈りを神は聞き入れた
そして妻は息子を産んだ、息子を産んだのだ
おさなごは聖なる名前アレクシスで洗礼を受けた
アレクシスが成年になると、親は彼に結婚するよう求めた
親はアレクシスのために若い姫を選び、そして両者を神の教会へと導いた
親が神の教会を立ち去ると、アレクシスは石造りの宮殿に戻った
泣きながら彼は神に祈った「神よ!私に罪をおきせにならないでください」
夜の2時、アレクシスはベッドから起き上がった
「姫よ、私と一緒に起きて、神に祈りましょう」
姫は返事をしなかった、彼の言葉に返事をしなかった
アレクシスは、トルコの土地に向けて、エフレムの街に向けて旅立った
彼はエフレムの街で苦難の道を歩み、主に祈りをささげた


このブックレットの注釈にもありますが、この歌詞はアレクセイが俗世間を捨てて異国で祈りの生活を始めるまでの部分です。
巡礼歌では、この後も延々と話が続いていくのですが、さすがに全部を作品としてまとめるわけにもいかないので、切りのいいところまでとしたのでしょう。

リムスキー=コルサコフの作品とはメロディーも歌詞も違いますが、古儀式派の(?)「神の人アレクセイ」がありましたので、リンクを貼っておきます。これはこれで素朴な感じでいいですね。

Стих об Алексее Человеке Божием "Я родился в граде Риме"
- староверы Орегона

https://www.youtube.com/watch?v=_PDaNxHJfZo