「新三本の矢」を披露する安倍晋三首相。「戦後最大の経済」「輝かしい未来」といった言葉が並んだ。「言いっぱなし」に終わらなければ良いのだが……=東京・永田町の自民党本部で2015年9月24日、猪飼健史撮影
政治に分かりやすいキャッチフレーズはつきものだ。ただ、内容が伴っているかの検証を怠るなら、単なる「夢物語」になる。安倍晋三首相の「新三本の矢」には「GDP(国内総生産)600兆円」などと景気の良い目標が並ぶが、世間の盛り上がりは今一つ。そもそも「旧三本」はどうなった? 計6本の「矢」は的を貫けるのか。【吉井理記】
◇20年ごろ「GDP600兆円」 目標達成「ありえない」、政治的メッセージでは
まずはおさらいをしておこう。忘れた方も多いかもしれないが、安倍首相が「新三本の矢」なる言葉を披露したのは、自民党両院議員総会で総裁への無投票再選が承認された9月24日の記者会見だ。
これまでの成果として「雇用は100万人以上増え、2年連続で給料が上がった」と切り出す安倍首相。新たに(1)「希望を生み出す強い経済」(2)「夢をつむぐ子育て支援」(3)「安心につながる社会保障」−−の矢を放つ、と胸を張った。矢の中身はといえば(1)GDP600兆円達成(2)希望出生率1・8の実現(3)介護離職ゼロを目指す、とのこと。分かった。では一体何をするの、と問いを繰り返すしかない。具体性がないのだ。
大手証券会社の法人部門の担当者もずっこけた。「あの日、同僚と会見のテレビ中継を見ていたんです。いきなり『新三本の矢』ときたから、おお、と期待しましたが……。周囲から『中身空っぽ』との声が漏れました」
安倍首相はGDP600兆円の達成時期を2020年ごろ、とするが、経済界すら「ありえない。政治的メッセージではないか」(経済同友会の小林喜光代表幹事の9月29日の会見)と、評判は芳しくない。作家でテレビコメンテーターとしておなじみの室井佑月さんは「『熟成とろとろ○○』とか、商品のキャッチコピーと同じレベルよね。あれやこれやときれいな言葉を持ってきて、時間枠の決まっているテレビニュースやワイドショーに、『矢』の中身に深入りさせないようにしたいだけなんじゃ?」。
そんな批判はどこ吹く風、安倍首相は今月7日の会見でも改めて新三本の矢をアピールした。確かに実現すればバラ色の未来、実に喜ばしいのだけれど……。
◇どうなった「旧三本の矢」 雇用増は非正規のみ、成長・物価目標は未達
「旧三本の矢はもう折れちゃっている。アベノミクスは失敗なんです。それをごまかすため、新三本の矢と言い出しているだけですよ」と辛辣(しんらつ)なのは、経済学が専門の慶応大の金子勝教授だ。
旧三本の矢とは▽デフレ脱却のための大胆な金融緩和▽機動的な財政出動▽成長戦略の実施−−の三つの政策を指す。「安倍さんの説明を検証してみましょう。確かに雇用は増えました。でも内実は、正規雇用が減り、身分が不安定で低賃金の非正規雇用が増えただけです」
総務省の労働力調査によると、今年4〜6月期の雇用総数は5267万人で正規は3314万人、非正規は1953万人。民主党政権時の12年4〜6月期は総数5146万人で正規は3370万人、非正規1775万人だ。確かに総数は121万人増えたことになるが、非正規が178万人増え、かわりに正規が56万人減っていた。
さらに「給料が2年連続で上がった」というのも怪しい。今年6月までの2年2カ月間、実質賃金(実際の賃金から物価変動の影響を除いたもの)は下がり続けたからだ。7月にようやく前年同月比0・5%のプラスに転じたが、この傾向が今後も続く好材料は見当たらない。
「最も深刻なのは成長率、物価上昇率の目標達成に失敗したことです」と金子さん。安倍政権は日銀による国債の大量買い取りなどの金融緩和で、市中に出回るお金を増やして景気と物価を刺激し、実質成長率、物価上昇率の「プラス年2%」を達成する、と説明してきた。これがアベノミクスの柱であり、この「理論」が崩れると、アベノミクス全体の信用に関わる。
しかし、実質成長率は13年度こそ2・1%増だが、14年度は0・9%減、今年も4〜6月期は年率1・2%減のマイナス成長である。物価上昇率(生鮮食品を除く)は14年は2・6%にのせたが、原油価格の下落の影響もあって今年は横ばいが続き、8月にはついにマイナス0・1%とデフレ傾向に陥った。
この状況で登場したのが新三本の矢である。政策には、検証と総括が不可欠のはずだ。このままでは、退却を「転進」と強弁した旧日本軍の姿とダブらないか。「GDP600兆円はバブル期以来の年3%成長を達成しなければならず、非現実的。出生率アップも、労働者派遣法改正で若者の労働・経済環境をさらに悪化させておいて、どうやって結婚や子育てをしろというのか。介護離職ゼロに至っては支離滅裂。安倍政権が介護報酬を引き下げたから、今後は介護離職どころか介護職員の離職が深刻になるでしょう」
金子さんはかつて石炭から石油へ、というエネルギー革命で自動車や重化学工業などの新産業が起こったように、例えば省エネや再生エネルギー技術を高めれば、交通インフラや家電製品など広い分野に経済効果が波及する、と見る。「つまり新たな産業革命です。一国の指導者なら、目先の金融緩和や成長率にとらわれず、大胆な産業戦略を描いてほしいのですが……」
◇必要な経済政策とは 「成長幻想」を脱し、教育、人材育成こそ
アベノミクスをある程度、肯定する専門家も、新三本の矢には首をひねる。旧三本の矢の金融緩和には景気浮揚効果があった、とする経済学者、福島清彦さん(元立教大教授)は「豊かさの指標にGDPや成長率を持ち出すのは古すぎます。今やそれをするのは中国と日本ぐらいですな」と苦笑いだ。
「安倍さんが掲げる目標は、とうに成長期の終わった大人が、さらに身長を毎年2センチずつ伸ばそうとシャカリキになるのに似ています。一方、日本同様の人口減社会で経済も成熟した先進諸国では、豊かさの判断基準として国民の福利厚生や暮らしの質、経済の持続可能性を重視するようになっています。欧州連合の10〜20年の長期経済戦略からは、GDP成長率という言葉が姿を消したほどです」
日本の場合、先進国最低レベルの国家の教育支出を増やして優れた人材を育て、競争力や経済の持続性を高めるべきだ、というのが福島さんの考え。「借金だらけだから、欧米並みの消費増税は避けられませんが、成長幻想にとらわれるより、強みである国民の教育水準をさらに伸ばしたほうが未来が開けます」
室井さんが締めくくる。「結局、新三本の矢って、安全保障関連法の成立で厳しくなった国民への目くらまし、ごまかすためなんじゃない? だからこそ中身の検証が必要なのに、あんまりメディアはやらないよねえ……」