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尾崎健一 さん証言 - YouTube
www.youtube.com/watch?v=Lw4Zgn7GlOI -
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・幼少期〜通信兵志願まで 15歳で両親の反対を押し切って志願。高知から上京し兵学校へ
・1年繰り上げ卒業。すぐに戦地へ 卒業式の翌日に出陣式が行われフィリピン・ルソン島へ出発
・北九州門司港から19隻の大輸送船団でフィリピンへ出航 米潜の魚雷攻撃を受け3隻が撃沈するも無事
・フィリピンルソン島上陸 アメリカ軍の猛攻撃の中、通信業務に就く。
・日本軍による略奪 ゲリラ討伐を目的としながらも現地フィリピン人からの対日感情を悪化させる
・アメリカ軍の猛攻撃で部隊崩壊 生き残った者は敗残兵となりジャングルへ逃避
・ジャングルでの厳しい逃避生活 飢餓地獄。友軍同士で食料の奪い合い
・終戦。投降して捕虜となる アメリカ軍の巻いたビラで敗戦を知る
・18歳で復員 故郷に戻っても「金ない仕事ない学歴ない」途方にくれる
・太平洋戦争を振り返って 集団的自衛権について思うこと
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昭和3年(1928年)2月8日高知県高知市で生まれた。家族構成は4人。両親と兄がいた。
家があまり裕福でなかった尾崎少年は旧制中学4年生(15歳)のときに、「学費はタダで通信技術を身に付けられて、なによりお国のために尽くしたい」と東京陸軍少年通信兵学校へ入学を志願。しかし高知からはるか離れた東京へ送り出すことに両親は猛反対した。
この頃、昭和18年11月は戦況も悪化し、近所の家でも戦死者が出てきていた。20歳未満の少年に兵役の義務はなく、何も自ら戦場へ向かうことはないのにと、親の立場にすれば相当な心配だったにちがいない。親を説得の末、東京陸軍少年通信兵学校入学。本来は2年で卒業だが、さらなる戦況の悪化に1年で繰り上げ卒業させられ戦地に送り出された。
向かった先はフィリピン・ルソン島。尾崎さんの知る限りでは16歳で海外の戦地へ出されたのは最年少だったという。しかしそこで待っていたのは、アメリカ軍の戦闘機は飛んでいるが日本軍の飛行機は姿形も見えない、ほとんど負け戦の戦場だった。アメリカ軍の猛攻撃に通信業務を開始してわずか2ヶ月あまりで部隊は崩壊。
生き残った者は敗残兵となりジャングルの奥地へ散り散りに逃げた。華々しく戦死した者など1割にも満たなかったという。ほとんどが病気・餓死・現地フィリピン人によるゲリラ攻撃で亡くなった。靴はすぐにダメになり裸足で逃げながら、食料の雑草を探す毎日が約8ヶ月続いた。
極限状況に同じ日本人同士が殺し合う場面も見た。食料用に頬や太ももを切り取られた新しい死体も目にしたという。アメリカ軍が巻いたビラで敗戦を知り投降。捕虜生活を経て復員した。部隊の9割が亡くなった中、何度も奇跡が起きて日本へ生きて帰ることができたという尾崎さんは、亡くなった戦友たちへの、自分だけ生き残った申し訳ない気持ちが消えることはない。あそこで何があったのかを伝えることがせめて反戦の教訓にすることがせめともの供養ですと話してくれた。
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多くの方を取材していると、【志願】した方と【招集】された方で、太平洋戦争への思いが大きく違う傾向にあることがわかる。
【招集】された方は、世間からかけ離れた理不尽な軍隊の常識を受け入れることは容易くないが、15歳で志願した尾崎さんは多くの理不尽を「そういうもの、仕方がない」と受け入れてきた。
取材の間中「理不尽」という言葉が付いて回る程、壮絶で悲惨な体験を話されたのだが(具体的にどんな体験だったのか、言葉にできるほど簡単なものではないので是非インタビュー映像をご覧いただきたい)、一番の理不尽は戦後にあったと言えるのではないだろうか。
終戦後、捕虜生活を経て帰国。復員する際に1ヶ月くらせる程度の給金をもらい実家へ戻ったのが18歳。級友たちは未成年だったので、志願した尾崎さん以外は戦地へ赴くことはなかったから、
【ある者は大学へいき、ある者は就職し、ある者は家庭を持ち】、普通に暮らしていたという。それに比べお国のために命をかけた尾崎さんは
、【お金がない・学歴がない・仕事がない】という境遇だった。1人取り残された気持ちだったに違いない。それでも「あのジャングルでの悲惨さに比べれば何も恐くない」と逆境をハネのけてきたという。
そんな、数々の理不尽も乗り越えてきた尾崎さんに最後、「もしタイムマシンがあって15歳の自分に会えたとしたら、志願することを止めますよね?」と聞いてみたところ、「言わないでよ。後悔してるんだからさ」と、はにかんだ笑顔が印象的だった。当時のことを大げさに表現せず淡々と話す証言はとても貴重です。