孔子の言葉の中で、もっとも好まれている「温故知新」だ。
古くから今日まで伝わっている、思想や生き方を謙虚に学ぶ。
軽率な批判などをせずに、古典を正しく深く理解する。
その上で現実の社会をよく観察して、混乱や苦悩を収める新しい考えを、発見して行かなくてはならない。
孔子は「礼記」や「易経」に学んだ。
老子はこう言っていた。
孟子はこう言っていた。
吉田兼好はこう言っていた。
利休はこう言っている。
芭蕉はこう言っていると、そこにばかり停滞していたのでは、ほとんど意味がない。
過去の思想を十分に究めると共に、現代に即応した新しい物の見方や考え方を発見してこそ、学問という物の意義かある。
素晴らしい文化と伝統を持った国民は、それだけで何かに付けて心丈夫な筈である。
私の知友のアメリカ人は、いつもこう言っていた。
「日本は良いなあ、京都や奈良だけではなく、どこの県に行っても、江戸時代から続いている、寺や文化遺産が沢山ある。田舎の田んぼの畦道に立っているお地蔵さんでさえ、そこに天保十年などと刻んであるのを見ると、何故かホッとするんですよ。
アメリカには、新しいゴージャスな建物はいくらもあるが、古いと言っても百年かせいぜい二百年前の教会か、牧場の跡しかないんだよ。
日本人はもっともっと日本の文化・伝統をしっかり学んで、その尊さを自覚しないといけないんじゃない?」と。
確かに今日、日本人くらい自国の文化や伝統、培われてきた生活的思想に、無知な国民はいない。
古きに学ばず、テレビやインターネットだけが、物を見る窓であると。