剣豪・宮本武蔵が豊前小倉に滞在していた時に、一人の兵法修行者が面会を求めてきた。
武蔵は会って、話を聞き、骨柄を見て「なかなかのお腕前の様で、これならどの諸侯に仕えて、指南しても良いでしょう」と誉めた。
ところが、ふと相手が自分の木刀を見せて「これは諸国を廻って、試合を望まれた時に使います」と言うのを聞くと、武蔵は「その程度の腕で試合をするなどと、バカな事を言ってはいけない」と、その家の主人の小姓をそこに座らせ、その前髪に一つの飯粒を付け、大刀を抜いた。
そして「見よ」と振り下ろすと、その飯粒だけが見事に真っ二つに切れていた。
それをその兵法者に見せて、「これが出来るか」と聞くと、もちろん「出来ません」と言う。
すると武蔵は「これ程の腕が有っても、なかなか敵には勝てないものだ。試合など滅多にするものではない。
試合を望む者があれば、早々にその所を立ち去るのが、真に兵法の真髄を知った者と言えるのだ」と戒めたと言うのてある。
宮本武蔵と言えば、生涯に六十有余の勝負をして、一度も後れを取らなかったと言う剣の名人である。
その武蔵がそう言うことを、言っているのは興味深いことだと思う。
結局、武蔵という人はいわゆる「怖さ」を知っていたのではないだろうか。
怖さを知ることは、人間にとって極めて大切なことだと思う。
人間がより良く生きて行くには、常に自分を律し、自分を正して行く事が大事だが、それにはやはり何らかの形で、怖さを知る、言い換えれば、怖い人、怖い物を持つことが必要であろう。
子供は親が怖い、生徒は先生が怖い、社員は社長が怖いというように、人間は怖さを知ることによって、自分の身を正しく保って行ける訳である。
怖いもの知らずという人は、往々にして行きすぎて失敗したり、他を傷つけたりすることにもなる。
ところが、指導者、最高責任者になると、直接叱ったり注意してくれる人がいないから、つい怖さを忘れがちになる。
しかし、よく考えてみれば、社長とか総理大臣といった最高責任者でも、直接には誰も叱ってくれないが、過ちがあれば必ず世間大衆というか、国民のいわば罰が返ってくる。
だから、総理大臣であっても国民に怖さを感じ、政治に誤りなきを期さなくではならない。
そういう怖さを知ることが、指導者にとって極めて大切だと思う。