絵のなかの時間を取り戻したい。
子供の頃は、意味もなく絵を楽しんで描いていました。
絵(西洋絵画)を学ぶうちに、瞬間を描く方向性へと自然になっていきました。
そして、西洋画家が瞬間ではない絵をどう描くかに苦心していることを知り、
それは、ながい時間を描く東洋と真逆だと感じたのが、ある程度西洋的に描けるようになってからでした。
最近の子供たちは、自身の絵を説明しなければいけないように強いられています。私自身も、絵を説明しなければいけない機会があるのかもしれません。それは、あいまいである作品をあいまいのままはっきりと説明できる文章力が必要になってきます。そのような圧のある空気を感じて絵を描いていると、文章にするかのように、概念を細分化して再構成して絵にしていくようになる、それは自身の絵に時間軸が生まれてしまい、それが段々と短くなり、瞬間の絵になっていってしまって、全く望んでいない(その主義を否定する訳ではないですが)スーパーリアリズムのゴールに誘導されているような絵になってしまい、さらにその主義から同じ方向性へと動かされ、絵である必要がない絵、「描く」のではなく「書く」作品になってしまう、言葉の作品になってしまう怖さを感じています。
おそらく真似をすると確実に間違っている方法なのですが、「形が甘い」「ヌルい」「ユルい」などに思えるなかに、それを描く側が目指してもそうはならないのですが、そのように思える絵のなかに、瞬間ではない時間、私が想い描いている瞬間ではない、語弊を生むかもしれませんが「季節があるような」、四つに別れていながらもつながっているような、今であるのに過去でもあり、絵を見終わったあとに、未来があるような、あるいは未来の人間が直面する課題が明確になるような、グラフでいうと、点線を想像できる何かがある絵が生まれていくのだと思います。
私自身の感覚で言うと、伝えるという描き手意志の厳しさから生まれる、骨格を学んだ人の観る側の目に映る「ユルさ」なのではないかと思っています。
最初の季節は誰でも虹色、あるいは灰色なのかもしれませんが、絵の中にちょっとした季節を取り入れ、時間を取り戻せればと思ったりしています。点線の絵は、文字言語で感じるとハダンであり、絵を見ないで読む人や読み解く人にとって不吉に思えるかもしれないので、否定され続けるのかもしれません。
子供の頃は、意味もなく絵を楽しんで描いていました。
絵(西洋絵画)を学ぶうちに、瞬間を描く方向性へと自然になっていきました。
そして、西洋画家が瞬間ではない絵をどう描くかに苦心していることを知り、
それは、ながい時間を描く東洋と真逆だと感じたのが、ある程度西洋的に描けるようになってからでした。
最近の子供たちは、自身の絵を説明しなければいけないように強いられています。私自身も、絵を説明しなければいけない機会があるのかもしれません。それは、あいまいである作品をあいまいのままはっきりと説明できる文章力が必要になってきます。そのような圧のある空気を感じて絵を描いていると、文章にするかのように、概念を細分化して再構成して絵にしていくようになる、それは自身の絵に時間軸が生まれてしまい、それが段々と短くなり、瞬間の絵になっていってしまって、全く望んでいない(その主義を否定する訳ではないですが)スーパーリアリズムのゴールに誘導されているような絵になってしまい、さらにその主義から同じ方向性へと動かされ、絵である必要がない絵、「描く」のではなく「書く」作品になってしまう、言葉の作品になってしまう怖さを感じています。
おそらく真似をすると確実に間違っている方法なのですが、「形が甘い」「ヌルい」「ユルい」などに思えるなかに、それを描く側が目指してもそうはならないのですが、そのように思える絵のなかに、瞬間ではない時間、私が想い描いている瞬間ではない、語弊を生むかもしれませんが「季節があるような」、四つに別れていながらもつながっているような、今であるのに過去でもあり、絵を見終わったあとに、未来があるような、あるいは未来の人間が直面する課題が明確になるような、グラフでいうと、点線を想像できる何かがある絵が生まれていくのだと思います。
私自身の感覚で言うと、伝えるという描き手意志の厳しさから生まれる、骨格を学んだ人の観る側の目に映る「ユルさ」なのではないかと思っています。
最初の季節は誰でも虹色、あるいは灰色なのかもしれませんが、絵の中にちょっとした季節を取り入れ、時間を取り戻せればと思ったりしています。点線の絵は、文字言語で感じるとハダンであり、絵を見ないで読む人や読み解く人にとって不吉に思えるかもしれないので、否定され続けるのかもしれません。